東京レース場第9R天皇賞・秋。私は今そのレースを走っている。勝負は向こう正面に入った辺り。前にはボーイちゃんの他に後3人いる。だが、私の目にはボーイちゃんしか映っていなかった。
このレース、特に警戒すべき相手として私はボーイちゃんを選んだ。バ場の状態や長距離への不安という点を考慮しても、出走するメンバーの中ではボーイちゃん以上の子はいないと思ったから。それに、私にとって絶対に負けれない相手だ。だからこそ、ボーイちゃんへと意識を集中する。
(抜け出したら、私も一気に仕掛ける……ッ!)
向こうの隙を見逃さないようにマークする。このレースに絶対勝つために。
そして向こう正面に入って中間を過ぎた頃、ボーイちゃんがハナを取るためにスピードを上げたのを私は確認する。
(……ッ!仕掛けた!だったら私も!)
確認するのと同時に、私も仕掛けた。団子状態になっていた集団から抜け出して一気に先頭を走るボーイちゃんに並ぶように追走する。
向こうは私が来たことに驚いたような表情を浮かべていた。だが、そんなことはどうでもいい。後はボーイちゃんを競り落とすだけだ。私はペースを上げる。
「私が勝たせてもらうよ、ボーイちゃん!」
しかし、私がペースを上げるのと同時、ボーイちゃんもペースを上げる。
「へっ、グラスが来たのはちょっと予想外だったけど、競り合いだったら負けねぇ!」
相変わらずそのスピードは一級品だ。だが、すでに坂を登り終えて下りに入っている。スピードも乗っている今の状態だったら、私も負けていない。先頭でボーイちゃんと私が競り合う状況になった。
その状態のまま、最後の直線へと私たちは先頭で駆け抜けていった。
「もう限界なんじゃない!?」
「冗談!オレはまだまだいけるぜ!」
しかし、ボーイちゃんは思った以上にスタミナを残していたのか全然競り落とせない。私は思わずムキになる。
(ここで競り勝てないんじゃ……、テンちゃんにだって勝てない!だから……ッ!)
「絶対に、勝つんだぁぁぁぁぁ!」
ここまで意地になっているのには理由がある。それはテンちゃんのオープンレースでの走りを見たからだ。
正直言って、圧巻の走りだった。着差こそ開いていないが、レースの展開を見ていればすぐに分かる。2着の子をまるで赤子扱いするかのような大楽勝だったのだから。
そのレースで2着だった子は決して弱いウマ娘ではなかった。むしろ、G1にこそ手は届いていないが重賞をいくつも勝利しているような子だったはずだ。そんな相手を、テンちゃんは完封したのである。
私も現地でそのレースを見ていた。すごかった、称賛の言葉は出てきたが最初に覚えた感情は嫉妬だった。
(私も、身体が丈夫だったら……ッ!)
そう思わずにはいられなかった。だが、嘆いても仕方がない。私は私のできることをやるしかない。
それだけじゃない。テンちゃんの走りもすごかったがボーイちゃんもすごかった。オープンレースといえどもレコードタイムでの勝利。私も日経賞をレコードで勝ったが、向こうは宝塚記念からの3連勝ということもあり、話題を呼んでいた。そのことにも、私は嫉妬した。
今回の秋の天皇賞はいつも以上に気合を入れて臨んでいた。沖野トレーナーは何か言いたげだったが、特に何も言わないでくれた。迷惑を掛けて申し訳ないとは思っている。だから、なんとしてでも勝ってみせると意気込んでボーイちゃんと競り合う。
だが、残り400mを越えたあたりで私の脚は限界を迎えた。先程までの走りとは打って変わって思うように力が入らない。脚が棒のようだ。自分の思った通りに動いてくれない。
(お願いだから……もうちょっと持ってよ……ッ!)
そんなことを考えている間にも、突き放したはずの後続がどんどん追いついてきていた。私は追いつかれないように必死に脚を動かすが、無情にもその差は縮まっていく。それは隣のボーイちゃんも同じだった。
結果として、秋の天皇賞は何とか掲示板には入れたものの5着。私と競り合ったボーイちゃんは7着なので結果だけ見ればボーイちゃんには勝ったと言えるだろう。けれど、
(自分の得意距離で戦ってこの様……ッ!全然嬉しくない!)
私の気分は晴れなかった。
息を整えてふとスタンド席を見ると、テンちゃんと神藤さんの姿が目に映った。どうやらこのレースを観戦しに来ていたらしい。
だが、2人が視界に入った瞬間、私の中に生まれたのは、やってしまった、という感情だった。
(情けないレース見せちゃったな……)
展開だけ見れば、私がボーイちゃんに執拗に絡んだ結果自滅してしまったのだから情けないことこの上ないレースだった。穴があったら入りたい。
息が完全に整ったので、私は逃げるように地下バ道を通って帰っていった。控室で休憩していると、沖野トレーナーが入ってくる。
そして、開口一番今回のレースについて話してきた。
「これで分かったんじゃないか?お前がトウショウボーイやテンポイントの土俵で戦っても勝てないってことが」
「……負けた担当に、最初にかける言葉がそれ~?」
「そいつは悪かったな。だが、今回はレース前からどこかおかしかったからな、お前。気合が空回りしていたぞ?」
沖野トレーナーの言葉に、私は謝る。
「……ゴメン」
「頭は冷えたか?」
「……こんだけ清々しい負けっぷりだと、ね。やっぱ、似合わない戦法は取るもんじゃないね~」
レース中はあれだけ意地になっていたのに、いざ負けてみるとどうしてあんなことをしたのだろうと後悔が押し寄せてきた。我ながら恥ずかしい。
沖野トレーナーは最初から分かっていたのだろう。このレースは負けることを。だが、あえてそれを口に出さず私に対していつも通り作戦を提示して見送ってくれた。それはどうしてか?答えは簡単だ。
私に気づかせるため。競り合いになってもあの2人には勝てないということを。言葉には出さずともそう伝えるためにわざと口を出さなかった。
沖野トレーナーは溜息をついて告げる。
「お前が気合を入れていた原因もなんとなく分かる。テンポイントのオープンレースを見たからだな?正確に言えば、京都大賞典以降のテンポイントのレースを見てからだ」
「……よくお分かりで~」
「確かに、あの時のテンポイントはヤバかった。重賞ウマ娘に対してあの勝ち方。化け物っぷりを再認識したよ」
「……でも、私は負けたくない。どんなに強くても関係ない。テンちゃんに、ボーイちゃんに。他の誰にも負けたくない!」
私はそう宣言する。すると、沖野トレーナーは満足げな表情で私に告げる。
「その気持ちがありゃあ大丈夫だ。でも、これだけは覚えておいてくれグラス。お前が本当に戦うべきなのはテンポイントでも、トウショウボーイでもない。お前自身だ」
「……私自身~?」
「そうだ。お前は他のウマ娘に比べて特別身体が弱い関係で無茶ができない。だからこそ、お前に必要なのは自分を自制する心を身に着けることだ」
「自制する、心」
「そうだ。それさえ身に着ければ、お前はトウショウボーイにもテンポイントにも勝てる!」
戦うべきなのは自分自身。自制する心を身に着ける。私は頭の中でその言葉を反芻する。
一呼吸置いた後、トレーナーが私に諭すように話しかける。
「いいか?グラス。相手の土俵で戦っても勝てない。特に、あの2人は自分の土俵で戦えばだれにも負けないってぐらいには強い」
「そうだね~」
「だが、無理に競り合う必要はないんだ。菊花賞での勝ちを思い出せグラス。あの時、お前はどんな風に勝った?」
沖野トレーナーに言われて、私は菊花賞を思い出す。私たちが最初に戦ったあの舞台。あの時は確か……。
「……警戒が無くなったのを逆手にとって、内から抜け出して勝ったね~」
「そうだ。そして、それがお前さんがあの2人に勝つための最良の手段だ」
沖野トレーナーは言葉を続ける。
「それに、今回は休養明けって面も大きい。前走の日経賞から4ヵ月、その間に発熱と脚部不安を抱えて完全に調整ができなかった。特にお前はレースで走らないと本領を発揮できない。だから、この敗戦はあくまで次の布石と考えろ」
「次の布石……。ということは、次のレースはもう決まってるんだね~?」
私の言葉にトレーナーは頷いた。そして、次に出走する予定のレースの名前を発表する。
「次のレースは有マ記念。テンポイントとトウショウボーイはここに確実に出走してくる。だからこそ、今回の敗戦を糧にしてここで勝つぞ!グラス!」
グランプリレース有マ記念。前回はそもそも登録すらしていなかったから出走しなかったが、今回はしっかりと登録してある。後はファン投票で選ばれるかなのだが……、
「お前は自分が思っている以上に人気が高い。必ず出走できる。だからしっかりと調整するぞ」
「分かった。もう負けたくないからね~。頼んだよ~?おきの~ん」
「はいよ」
その後は沖野トレーナーが退室したのを確認してからウイニングライブの準備をする。その最中も私の心は燃え上がっていた。
(ボーイちゃん、テンちゃん。もう、絶対に負けない!)
自制する心が大事なのは頭では理解していた。だが、この気持ちを抑えるのは無理だった。有マ記念で絶対に勝つ。そして、あの2人だけじゃないってことを証明する。そう心に誓った。
秋の天皇賞が終わってオレは控室で休んでいる。しかし、今日のレースは散々だった。おハナさんにどやされること間違いなしの内容である。
「バ場と距離はともかく……絶対あの展開についてなんか言われるってー!自分でも悪いと思ってるけどさー!」
向こう正面の中間ほどを過ぎたあたりだっただろうか?先頭を取って走っていたらグラスがオレに執拗に絡んできた。絶対に負けないという気迫とともに。
別に無理に競り合う必要はなかったのだが、オレの中の闘志を抑えることができずついグラスと競り合ってしまった。それも向こう正面中ほどから。言葉にして確認してみるととんでもないロングスパートである。
結果として、オレのスタミナは最後の直線に入る頃にはガス欠寸前。気合で何とか走っていたが、レースで初となる掲示板外である。
絶対に叱られる。そう考えているとおハナさんが控室に入ってきた。表情を窺う。
「……ッ」
(やっぱスッゲェ怒ってるよ!?どうする?今から土下座でもするか?)
かなり難しい顔をしていた。多分だが、怒っている。なら、怒られる前に謝っておくかと考える。
ただ、オレが謝ろうとするよりも先におハナさんが口を開く。
「……トウショウボーイ、あの展開は何かしら?」
「うぇ!?ええっと~……」
「今は怒らないから、正直に言いなさい」
「……グラスが競り合ってきたから、オレも負けねぇぞー!って思って競り合っちゃいました……」
「……ハァ。まあ、あなたはそういう子よね」
正直に話すと本当に怒らなかった。どちらかというと呆れているが。ただ、お叱りの言葉が飛んでこなかったことにひとまずオレは安堵する。
だが、おハナさんの次の言葉でオレは地獄に叩き落された。
「今回の反省会は、明日の放課後みっちりやりましょう」
「えっ、それって……」
「今回のレース、言いたいことは沢山あるわよ?覚悟しておきなさい」
「嫌だー!絶対怒るやつじゃん!」
怒られないだろう。そんな甘いことを考えていたがそんなことはなかった。といっても、オレが悪いので反論もできない。
明日が来ないといいのに、なんて思っているとおハナさんが今度は寂しげな表情でオレを見る。その表情のままオレに話しかけてきた。
「それにしてもトウショウボーイ。本当にいいのかしら?」
「?何がだよおハナさん?」
「年内でトゥインクルシリーズを引退することよ」
「あ~そのことか」
おハナさんの言葉にオレは思い出した。年内でトゥインクルシリーズを引退してドリームトロフィーリーグに移籍しようと考えていたことを。招待自体は来ているので問題はない。
なぜ、トゥインクルシリーズを引退しようと考えているのか。その答えはいたって単純だ。
「おハナさん、オレの気持ちは変わらない。トゥインクルシリーズで走ってる子たちよりも、ドリームトロフィーリーグの先輩たちと戦ってみたいって気持ちが今は強いんだ!まあテンさんたちと競い合えなくなるのはちょっと残念だけど……」
正直な話、前々からドリームトロフィーリーグ自体に興味があったからだ。トゥインクルシリーズで華々しい成績を修めたウマ娘のみが出走できるレース。興味が湧かないわけがない。
……まあ、この話自体は宝塚記念が終わった辺りからおハナさんに話していたので、せっかくだからドリームトロフィーリーグに移籍するまで全勝して華々しくトゥインクルシリーズを引退してやろうと考えていた。だが、現実は秋の天皇賞で惨敗してしまった。オレの計画は頓挫したのである。
まあ計画自体は頓挫したが、ドリームトロフィーリーグに移籍するという気持ちは変わらない。オレはおハナさんにそう告げる。すると、向こうも納得したのか、それ以上は何も言ってこなかった。
おハナさんは次のレース、つまりはオレがトゥインクルシリーズで最後に走るレースを発表する。とは言っても、大体予想はついているが。
「あなたの引退レースは有マ記念を予定しているわ。ファン投票もあなたなら問題なく突破できるでしょう」
「だよな。やっぱ有マだよな」
予想通り、引退レースは有マ記念を予定していると告げられた。予想が合っていたことに喜びつつもオレは考える。
(テンさんもグラスも出走は確定だろうな。マルとカイザーは……ちょっと分かんねぇけど)
あの2人、特にテンさんは有マ記念に照準を絞って調整している。ならば確実に出走してくるだろう。オレは心が震えた。
(トゥインクルシリーズ最後の年を全勝してドリームトロフィーリーグに移籍するって計画は散ったけど、最後にテンさんに勝って移籍してやる!)
それに、今回勝てばスピードシンボリ先輩以来となる有マ記念二連覇となる。俄然燃えてきた。思わず叫ぶ。
「よっしゃー!最後にテンさんに勝って、移籍するぞー!」
テンさんは京都大賞典以降、すごい走りを見せている。だからこそ、早く競いたいっていう気持ちを抑えるのにここ最近は必死だった。……実のところ、グラスと競り合ったのも、テンさんと早く競いたいっていう気持ちが抑えきれなかったからだったりするのだが。それは言わないでおこうと思った。
有マ記念が今から楽しみである。オレは気合を入れた。
ユキノビジンも欲しいけど、他に欲しい子がいるので我慢……我慢じゃ……