【ウマ娘×タフ】押して忍べど――指圧と武人と片想い【ヤエノ&キー坊】 作:木下望太郎
テーブルに山と積まれた菓子やジュースを前にして――お詫びだと言って、青年が売店に走って両手一杯に買ってきた――、私は椅子に座っていた。青年、宮沢熹一の父親がいる病室で。
窓は大きく、レースのカーテンごしに豊かな光がベッドに注がれている。
「いやー、なんやホンマ、スマンかったの。むさ苦しいとこで悪いけどゆっくりして、好きに食うたってくれや」
言いながらも彼は、ベッドに横たわる大柄な男――彼の父親――の体の下に腕を滑らせ、抱えて身を起こさせる。
父親は、どこか怪我があるというわけではなさそうだった。青年以上にたくましい腕にも脚にも、包帯の一つも巻いてはいない。病か、と言えばそれもどうだろう。血色は悪くはなく、胸板も首も手足同様分厚い筋肉を備えている。衰弱しているという印象はなかった。
それでも。薄く開かれた目は
父親の体の向きを変え、うつ伏せに横たえながら青年が言う。
「ああ、紹介してなかったの……ワシのおとんや。世界最強の、な」
何度か瞬きした、私の視線に気づいたのか。疑問に応えるように続けた。
「こないに入院しとんは……まあ、おとんも武術家やからの」
その先を語りはしなかったが。おそらく、武術家としての何らかの試合。その結果としての負傷――外傷に留まらない、身体の内側への。あるいはさらに奥、精神にすら――。
そこまで考えて、背筋が震える。彼ほどの者が世界最強と称える人物、それがこうも破壊されるのか。だとすれば、それを為したのは何者なのか。最強を越えた最強――怪物を越えた怪物、理解を越えた次元。
想像しようとしただけで。宇宙の果てを見せつけられるような、体温を根こそぎ奪われるような寒気を覚える。
だが、彼が再び口を開いてくれたお陰で、そんな私の思考はさえぎられた。
「ああ、ワシは宮沢熹一。呼びにくかったら、キー坊っちゅうて呼んでくれ。灘神影流……一応武術家の端っくれや」
聞いて、私の顔がわずかにこわばる。――貴方ほどの人が端くれなら、私はいったい何だというのか――。
それでも、どうにか表情を崩さず礼をした。
「金剛八重垣流門下生、ヤエノムテキと申します」
「へえ……あれやな、ウマ娘も武術やるもんなんやな。走るばっかりかと思いよったけど――」
言いながら、うつ伏せにした父親の肩を、背を、ゆっくりとマッサージしていく。
「――ま、走りの方も、忙しゅうてテレビ見んからよう知らんけどな。知っとるウマ娘いうたら――」
そこで私の胸が、嫌な感触に脈を打つ。今誰もが知っているウマ娘といえば、一人しかいまい。
「――えーと何や、ミスター……ルドルフ? が、めっちゃ強かったんやっけ? ジイちゃんが前に言うとったわ」
よく知る怪物の名が出てこなかったので、私は息をつき。すぐに唇を噛んだ――卑しい、何を安堵しているんだそんなことで――。
そんな話をしている間にも、彼は父親の体をマッサージしていく。首を、腕を、脚を。つい今しがた、あれほどの武威を振るった男が。掌も指も、足の指さえ一本一本、ゆっくりと、丁寧に。
それはまるで。肉食獣の母親が、我が子を
「
胸の内から溢れたように、そんな言葉が私の口からこぼれた。
「えっ」
目を見開き、弾かれたように青年がこちらを見る。
独り言を聞かれたことに頬が熱を帯びるのを覚えて。うつむきながら私は言った。
「いえ、その。あれほど強くて、なのに……それほど穏やかで、優しくて、だから貴方が――」
青年は穏やかに――しかし顔中で――笑った。
「静かなる虎……宮沢
顔を上げ、私も笑った。
「宮沢、先輩は……大好きなのですね。お父さんのことが」
げえっ、と喉の奥から声を上げ、先輩は顔をしかめてみせる。
「何言うとんのや、んなワケあるかい。大体このおとんはのぉ、昔ワシの前に脇差突き出して、負けたら腹を切れっ! とかムチャクチャ言い出しよったんやぞっ! 来る日も来る日もワシを鍛えてはドツき、鍛え方が足らんっちゅうてはシバき……そんで、それ以上に厳しく己を鍛えて……スーツ着て務めに出て、家計まで一人で……家事やって……」
先輩はまた、穏やかに笑う。
「やから。大好きなおとんや」
私は密かに息を呑んだ。
正直。美しいと、そう思った。彼の鮮やかな立ち回りよりも、鍛え上げられた肉体よりも、洗練され尽くした技よりも。父のことを慈しみ、はにかむその姿が。
そう思った後、私は大きくかぶりを振った――何が美しいだ、そんなことにうつつを抜かしている場合か、そうだそんな暇があるなら先輩のトレーニング法でも聞いたらどうだ、彼を見習って鍛え上げてみろ――。
そのとき、脚に小さく痛みが走る――そうだ、鍛えるよりまずは、これをどうにかしなければ――。
思うように鍛えることさえできないのか、私は。鍛えることしかしていないこの私が。
そう思い、奥歯を噛んだ。
そのとき。先輩が一つ手を叩き、私は椅子の上で小さく跳びあがった。
「っしゃあ! 景気もついたとこで一丁やるで、おとん! 灘神影流活殺術、活法の時間やっ!」
先輩はベッドに上がると父親に向き直る。父親の広い背の上に、首のつけ根から親指で何本か分の距離を測り。両手の親指を、背の上で左右対称な二点に押し当て。
ぐ、と押し込んだ。垂直に体重をかけて、体の芯で相手の芯を押すように。そのまま何秒か押して、離し。また何秒か、ぐ、と押し込む。
う、あ、と、父親の口から、吐息と声の中間のような音が漏れる。
「気持ちええか、おとん」
言って、先輩はまた指を押し込む。
そうしてまた、別の箇所を――骨や筋を基点に指で位置を測り、ときには傍らに開いた本と見比べながら――押す。
「指圧、ですか」
「ああ、ツボ押しや。殺法すなわち活法……おとんがよう言うとったわ。残念やけど、ワシは活法の方はあんまりやっとらんかった。やから、こんなもん頼みや」
あごで示したのは傍らに開いた本、由緒あるものであろう、古びた
「やけど……いつかは、おとんを復活させたる」
そのために神戸から越してきたんや、こっちのでかい病院にの――そうつぶやいて、先輩はまたツボを押す。突き通すように、自分の生気を父親に注ぎ込もうとするように。
「あの」
「ああ、すまんかったの今日は。悪いけど、時間かかるんでもうこれで――」
「あの。何か、手伝えることは」
「え? いや、悪いわ――」
「その代わりに、と言うのも厚かましいのですが。教えていただけませんか、活法を」
負傷を病院で診てもらうことはあっても、そうした東洋的な施術は試したことがなかった。金剛八重垣流にもいくらか、活法に相当するものはあるらしいのだが。闘法と走法にのみ傾倒し、そちらはほとんど学んでいなかった。
指圧を続けながら先輩は言った。
「ええけど……ワシも専門家やない。どっか悪いとこがあんなら、ちゃんとした整骨院に行った方がええ。何ならワシにも紹介してほしいぐらいや」
私は首を横に振った。
「いえ。先輩から教わりたいのです。貴方のように、強くなるために」
先輩は小さく笑う。
「ふぅん……ヤエノちゃんって奴は結構ヨイショが上手いんやな。ええで、こっち来て見とき」
父親への施術を例にして教えてくれるということか。そう思い、私はベッドの傍らに寄った。
先輩はベッドから降り、私の横に立つ。そこから父親の方へ手を伸ばした。
「まず、ツボを押す前にはマッサージとかで血行を良くしとくと効果が高いんや。他には蒸しタオルで温めるとか、入浴後でもええな。まずは色んな症状に効く、基本的なツボから教えてこか」
うつ伏せになった父親の首に手を添える。そのほぼ中央を上へ走る、二本の筋肉の筋。それが髪の生え際と重なったところで親指を止めた。ぐ、と押し込みながら言う。
「ここが
そこまで言って父親から手を離した――次の瞬間。先輩の姿が消えた。
気づけば。取られていた、一瞬にして私の背後を。
「な……」
私が身構えるより早く。先輩の手は捉えていた。私の首――の後ろを。
「――どこかっちゅうと、ここや」
押し込まれていた。先輩の太い指を、私の天柱に。
「ぁ……、~~っっ!?」
声が漏れた。その指に押し出されたみたいに、否応なく。
「そうここ、自分でやられたら分かるやろ? ツボっちゅうのは慣れたら触って分かるんやけどな、コリコリっ、て、しこりというか
こりり、と先輩の固い指が突き立つ。私のツボへと真っ直ぐに。
「や……ぁ……っ」
私の声にも構わず、先輩は手を離すと、片手で父親の腕を取った。
空いた片腕は私の背中へ、がしり、と抱くように回された。たくましい手が私の腕をつかむ、父親と同じ側の腕を。それはまるで、社交ダンスでエスコートされるみたいな格好。
「次っ、
二人の腕をもろともに、先輩はツボを突く。
ぐ、と親指がめり込み、私の芯を先輩が突く。
「ぅっ……ふぅ……っ」
「腕の痛みだけでなく胃痛・下痢など消化器系、口内炎・頭痛・目まい……これも多くの症状に効くんやっ」
絞り出される私の声を気にした風もなく解説すると、先輩は手を離し。
今度は二人の手首をつかんだ。
「しゃあっ、
まさにその隙間を、固いものが押し割って入る。
「……ぁっ! ん……」
「うつ症状や不安なんかのメンタルならここやな! さらには胸痛・動悸。だるさや発熱などの全身症状にも効果があるで」
私はなんとか手を振り払おうとしたが。ひらりとその手をひるがえし、先輩は握手するように私の手を包んだ。厚く、熱い手。
その甲側から親指が、
「万能ツボ、
何度もそこを突く、先輩の熱い指が。こぼれる声と共に、講釈の内容を頭の外へ押し出していく。
「ぃっ……ぁっ……」
「お次は
「ひぎ……っ!」
みりり、と軋むような感触さえ伴って。真っ直ぐに私にめり込んでくる。先輩の、脈打つような熱い生気が。
もうやめてもらおう、そう思っても言葉にならず。わたしはただ、火照るような熱を持った頭を何度も横に振った。
が。
先輩の手は握りを変え、二つのツボをがっちりと押してくる。
「しゃあっ、灘神影流、労宮・合谷固め! どやっ、こいつは! さっさとギブアップせんと、どんどん健康になってまうぞ!」
「なっ? え、あ……う あ あ あ あ あ あ っ!?」
さすがに耐えかねて。私は力の限り、その手を振りほどいた。肩が上下するほどに呼吸が荒くなっていた。
まだ体に先輩の体温が、たくましい腕の感触が、熱い指の感覚が。私を抱き締めるように残っている。内から内から顔が火照る。
先輩が頭をかき、きまり悪げな笑みを浮かべる。
「あ……あ~、スマンかった、痛かった……わな? なんかだんだん試合中のクセで、関節技合戦みたいなノリに……。そうそう、ツボ押しは別に痛いほどやるんやなくて、痛気持ちいいぐらいがええんやけど……力入れ過ぎてしもうた、かな」
「…………っ」
私は身をかがめて片手を膝につき、未だ荒く息をつく。もう片方の手で額の汗と、口の端のよだれを拭った。
それから姿勢を正し、深呼吸をし。両の手で自分の頬を叩き、もう一度叩き。それから声を張り上げた。
「押忍っ!!」
急な大声に、先輩は、びくり、と身を震わす。ベッドの上の父親も震える。
「押忍……その……今の……痛くて、いえ、……そう、痛かったです」
構えを取り、無理やり言葉を続ける。
「だから! ここから先は痛みをお返しさせて下さい……殺法の方、一手ご教示願います」
もうムチャクチャだな、それは自分で言っていてよく分かったが。もはやこれしかなかった、いつもの自分に戻るには。いつも自分がやってきていた、闘うことと走ること。
逃走は性に合わない、ならば。もう、闘うしかできなかった。
先輩は目を瞬かせていたが。やがて音を立てて手を合わせ、頭を下げる。
「スマン。けどのぉ、女の子どつくんは――」
「怖いのですね」
私の口はそう喋っていた。
「ウマ娘と人の筋力はまったく違う。この差は努力や根性では埋まらない差異です。……怖いのですね」