【ウマ娘×タフ】押して忍べど――指圧と武人と片想い【ヤエノ&キー坊】 作:木下望太郎
先輩は口を開けていたが。やがて、ふ、と鼻で息をつく。
「そこまで言うんなら。灘神影流は逃げも隠れもせん……相手がウマでも鬼でも、龍でもの。見せたるわ、超絶の技巧を」
そう言ってわずかに腰を落とし、手を浅く前に出す。無構えに近い構え。手加減しようというのか、それともこれが自然体に近い構えなのか。
私は左の拳と脚を前に、右手を腰の辺りに引き絞る。そのままの構えでじりじりと、すり足でにじり寄る。
対して先輩はその場を動かず、わずかに足をずらすのみ。
剣術で言う一足一刀の間合い――あと一歩で互いの打撃が届く距離――、それを私がにじり越えた、瞬間。
闘気に反応したかのように、ベッドの父親の手が震えた。
「やあああっ!」
それが合図だったかのように、二人は同時に動いていた。
私は前に出、刻み突き――ボクシングで言うジャブに近い――を連続で放つ。
先輩は半歩下がって間合いを取りつつ、パ、パン、と音を立てて、腕で私の拳を弾く。
私は踏み込み、溜めていた右の逆突き――ストレート――を放った。
が。それは先輩の手にいなされ。逆にその腕をなぞるように、先輩の手が――私の拳をいなした手がその動きの延長として――、私に向かって駆け上る。
身をかわす暇もなく。刃物のように鋭い
「一つ」
先輩は低くつぶやくと身を離す。
「く……やああ!」
私は歯を食いしばり、さらに拳を繰り出した。先輩はそれに付き合うように、足を止めて腕を繰り出し、私の拳を弾き続ける。
が。防御に徹していたその拳が、ゆらり、と繰り出される。
私は反射的に両の手を掲げ、防御した――はずが。
その手の隙間をすり抜けて、先輩の拳が目の前にあった。ねじ込むようなひねりを加えた縦拳が。顔の寸前、風圧を感じる位置で止められて。
「二つ……灘神影流、
「く……!」
さすがに私の顔が歪む。
いったん跳び退き、構えを取り直す。荒い呼吸も、意識して整える。
強い、さすがに。私より遥かに。それでも――、一矢は報いてみせる。
ここまで追い込まれたからには、ウマ娘特有のパワーを活かした蹴りで決める。そう思うはずだ、ウマ娘なら誰でも。
――と、先輩はそう読んでいるはず。
そこを拳で決める。ただし蹴りを主体に闘っていく、それ自体を布石にするために。
「せぇあっ!」
踏み込み、下段を狙う蹴り。足を上げて防がれるも、続けて逆の足で前蹴り。
――下段中段の蹴りで押して、注意をそちらへ向けた後。上段からの、拳の奥義で仕留める。
金剛八重垣流奥義の一つ、
頚動脈は完全に絞めれば、わずか数秒で失神する箇所。それを拳槌で攻める――いわば、打撃による一瞬の絞め技。
それが決まれば衝撃による血流の停止で、数瞬だけ相手の意識を奪う。そこへ身を寄せ、
下段の蹴りをさらに放ち、先輩が腕を振るっていなす。そこへ。
踏み込み、金剛槌を。
放とうとして、できなかった。
読まれていた、振り下ろす拳槌はその根元の腕から、踏み込んだ先輩の手で押さえられていた。そして逆の手、私の下段蹴りを防いだその手は。そのまま伸ばして私の腰を、軽々と抱え上げていた、タックルの要領で。
「三つ。……この後、本来ならぶん投げられるか、マウント取られてボコられる、っちゅうんは分かるな。――三回、勝負ついたぞ」
先輩は優しく私の腰を床へと下ろす。
「……っ、くぅ……っ!」
私は床に手を突いた。唇を噛み締めた、ついた両手が拳を握った。震える。
腹いせ気味に――自分を見失ったことだけではない、怪物に級友に走りで負けたこと、さらには脚をも傷めた
それすらかなわず、こうしている。
「ああ……あああっっ!!」
叩きつけた、額を床に。何度も、何度も。
先輩は止めなかった。ただ、見守っていた。
涙と鼻水に濡れたまま、私はつぶやく。
「私は……弱い」
そうだ、弱い。どれほど鍛えて、耐えてきても。弱い、だからこんなに――
「そやな、弱い」
肯定の言葉が頭上から降った、かと思うと。
先輩はしゃがみ込み、私の手を取った。厚く、熱い手。
「弱いってことは。もっと強くなれるってことやん」
私は顔を上げ、瞬きする。
先輩は言葉を続けた。
「強いと思ってもうたらそこで終わりや、満足してもうてその先はない。……弱いと知っとるからこそ、強くなろうとできるんや。それが弱者の特権や……ヤエノちゃんも、ワシも」
「え……」
先輩も。これほどの強さを持つ人が、自分を弱いと。
先輩はベッドの上の父親に目を向ける。
「ワシはおとんに負けとうない、けど……今はまだまだや。おとんを、倒した奴にも」
これほどの力を持つ人が。それでも、それ以上に。鍛えて、耐えようというのか。
「ふ……」
笑えた。涙はもうなかった。
「私は、弱い」
うなずいた先輩の顔へ。床に座り込んだまま拳を振るう。
もちろんそれは軽々とかわされ、しかし合図にはなった。再戦の。
二人とも立ち上がり、構える。
「もう一手。ご教示願います」
踏み込み、拳。前蹴り。中段への回し蹴り。もちろんそれらは防がれたが。先ほどより無駄のない動き、力み過ぎず固くならず、全ての力を十全に活かした打撃。
「ええで、良くなっ――」
防御を続ける先輩の言葉がそこで途切れた。無言のまま、パ、パ、パン、と、拳の触れ合う音だけが響く。
私はさらに打撃の手を速める。ただ脚は無理ができない、下段と中段のみに留める。それでも、速める。
「……!」
防御だけではこらえ切れなくなったか、先輩が突き飛ばすような前蹴りを放つ――
――それが、私には、見えていた。
――読みどおり、真っ直ぐの蹴り、だが今度は寸止めではない。受けられるかこれを、攻められるかこれを越えて。
――いや。無理だ、この脚でそれはできない、私は弱い。
――だから。受けるな。攻めるな。
――舞え。
ふわり、と跳ねた、浮かぶように。
繰り出される前蹴り、それを踏み台にさらに跳ねた。
すでに先輩の背を越えた、空中に私の体はあった。
「なにっ」
先輩が声を漏らすと同時。私もまた声を上げていた。
「しゃあっ!」
それは横殴りを越えて、膝蹴りを体ごと、斜め上からこめかみへ叩きつける形。先輩の見せたコブラ・ソード、その変形。
膝頭が真っ直ぐに、断頭台の刃のように。先輩の頭へ向かう。
――宮沢熹一は腕を掲げた。防御のため、だが間に合わない、それは分かっていた。それでも反射的に腕を掲げた。
けれど。いつまで経っても、膝蹴りの衝撃は彼を襲ってはこなかった。
「……ん?」
見れば。彼女は空中で無理に体勢を変え、制服のスカートごと自らの膝を押さえ。打撃を放たずに着地していた。
「…………」
そのまま、無言のまま。深く一礼だけして、彼女は走り去っていた。
「なん、や……?」
宮沢熹一は目を瞬かせる。
いったい彼女が当てなかったのは、自分が寸止めしたことへの意趣返しか。あるいは、わずかに脚を傷めていた様子だった、それをかばったか。それとも、神武不殺の精神によるものか――人間を遥かに上回るウマ娘の脚力、食らっていればただでは済まなかったはず――。
それでも、とにかく。あの一瞬、自分は彼女に負けていた。
「……やるやん、ヤエノちゃん」
苦く笑い、
「ったく。当分ハシも持てんなこりゃ……」
再び苦く笑う。ベッドに横たわる父に向き直り、頭を下げた。
「すまん。ワシは弱いの、おとん」
父の、その口の端は。笑うように、わずかに吊り上がっていた。
走っていた、いや逃げていた。私はとにかく逃げ出したかった。真っ赤に火照る顔を隠して、ただひたすらに逃げていた。
思い出したのだ、あの一瞬。膝蹴りを放つあの一瞬。今日は練習の予定のない、通院するだけの日。だから。
履いていなかった。制服のスカートの下、練習用のスパッツを。
それまでは上段の蹴りは出さなかった、まず心配はないだろうが。あの一撃、空中からの膝蹴りのときだけは。思い切りまくれ上がったはずだ、スカートが。
「……っ、~~~~っっ!」
思い出しても顔から火が出るようで。それでとにかく、あのときは必死にスカートを押さえていた。
それでとにかく、今。その場から逃げ出している。
日の落ちかけた廊下の、影の長く伸びる中。リノリウムの床を踏む音だけが、辺りに響いていた。
――後日、レースの日。
控え室へと向かう前に、私はレース場正門前にいた。試合前のルーティーンとして、正々堂々の勝負を誓い、レース場へ深く一礼。
そのとき、聞き覚えのある声がした。
「ヤエノちゃん!」
頭を上げると。宮沢先輩が手を振って駆けてくるのが見えた。
私は目をそらし、うつむいた。先日のことが思い出され、顔がひどく熱を帯びる。
「応援に来たで! まさか会えるとは思わんかったけど……いやしかし、すごい人おるんやの」
先輩は周りの人の出を物珍しげに眺める。
先輩の顔をまともに見られないまま、私は深く頭を下げた。
「その、先輩。先日はまことにお見苦しいものを……どうか、あれは、忘れて下さい……」
「んっ?」
先輩は首をかしげる。
それから何か納得したようにうなずいて、笑った。
「忘れるわけにはいかんやろ、けど。本当にワシでええんやったら……責任は全部、取ったる」
そして、分厚い胸板を叩いた。
息を飲んで目を見開くヤエノムテキを前に。
宮沢熹一は考えていた。
――忘れるわけにはいかん、あのときは少し脚を傷めとった様子やし。あの組手でケガが悪化したんだったら、ワシのせいや。
そのときは、責任持って治したる。ワシみたいな下手くそな活法でええんやったら、なんぼでも教えたるし――。
微笑む先輩を目の前に、私の意識はぐるぐると回る。
――責任を? 取る? 男が女に責任を取るそれはつまり私を嫁にもらうすなわち私と結婚すると、なんでそんな急な話にいやそうか当然かだってあの人はあんなに強引に私を抱いて(※注・ツボを押すときに腕で)、初めてだったのに激しくて(※注・ツボ押しが)それに、私の大切なところ(※注・パンツ)を見られてしまって、ああだからそう凄く自然、責任を取って下さいもうよそにはお嫁にいけない貴方しかいないのだからどうか私をさらってしまって、そうだ結婚しよう明日、今日、いや今すぐ――
「……っ!」
私は無理やり、両の手で頬を叩いた。思い切り、跡が赤く残るほどに。
それでどうにか。混乱する思考を停止できた。
大きく空気を吸い、腹の奥から息を吐く。それを何度か繰り返して、ようやく先輩に向き直ることができた。
「どうも、ありがとうございます。ですが。未熟の身とはいえ私も、一人の武術家であり競技者……今、その申し出に頼るわけにはゆきません」
――けれど競技人生をまっとうして、走り尽くして引退したなら、そのときはきっと――
湧き出る思考を払いのけるようにかぶりを振り、私は続ける。
「今はとにかく。目の前のレースに全てをぶつけます」
先輩はうなずいた。また胸を叩く。
「そうかい。けどなんかあったら、いつでも頼ってくれてええんやで。この大胸筋でなんぼでも受け止めたる……ワシ、めっちゃタフやし」
私は微笑んで、うなずいて。つぶやくように言った。
「はい……そのときは、きっと。ですが今は――」
姿勢を正し、歯を噛み締め。
胸の前で両手を交差させ、勢いよく腰へと引く。
「押忍! ヤエノムテキ……参ります!」
――強くなります、もっと。貴方のように――。
心の内で誓って、レース場へと駆けていく。
(了)