父とは血が繋がっていなかった。
独りで生きていかなければならないおれを、憐んだ故に引き取ったのだと聞いている。嫁をもらいそびれた五十路も超えた独り身が何をやっているのだと、誰かになじられているのを聞いたことがあったが、父は少しも気にしていないようであった。独り身なのは自分のせいだがみなしごなのは自分のせいではない。その時おれは、父も拾われた身なのだと知った。さらに後に知るのだが、父は自身の弟とも血が繋がっていないらしかった。
父はよい父親ではなかった。
俺がお前の父親たりえるかを決めるのは俺ではない、お前自身だ。おれが望まないなら父と呼ばなくとも構わないとすら言われた時は、しばらく眠れなかった。顔色の悪さが隠せなくなってきた頃に、謝罪とともに実父母を忘れる必要はないという意味だと伝えられた。言葉足らずであったり融通がきかないところがあったりと、手放しで褒められる人間ではなかった。
それでも、父は誠実だった。
おれに対しても誰に対しても、言葉を変えることはあれど態度を変えることはなかった。引き取ったからといっておれを特別扱いしてくれたことはなく、血がつながらないからと差別したこともなかった。もっとも、父には実子もいなければ生涯を供にする伴侶もいなかったので、区別されていたとしてもおれに判断はつかなかったかもしれないが。主観として、父はおれをただの個人として見ていたと感じたに過ぎない。そういう意味で、おれは正しく尊重されていたように思う。
父は、必要なものは全て与えてくれた。
父はいわゆる高給取りで、貧しいと感じたことは一度もない。ただ、裕福と感じたこともなかった。父は物欲が薄く名誉にも興味がなかったので、分相応には程遠い生活をしていた。城に部屋を与えると言われても、両家の娘を嫁にやると言われても、何一つとして受け取らなかった。
父の執着は、この世でただ一人に向けられていた。
そしてそれはもちろん、おれではなかった。
それを憎んだことはない。少しだけ羨ましくて悔しいような気はしたものの、おれが父を父と呼べないことと同じなのだと納得した。だが興味はわくもので、近づきたいという好奇心は抑えられず、おれはついに父と同じ道に進んだ。従軍すると伝えたときの父の顔はよく覚えていないが、記憶に残らない程度の反応しかなかったということなのだろう。
父は基本的に、おれが決めたことに反対はしない。好きなように生きればいい、援助が必要ならきちんとする。それすらも不要となったその時には、一人で生きていくのも不自由なくなっているだろう。その時どうするかは自分で決めろ。そう言われて育てられ、おれは兵士となったと同時に育った家を出た。
以降、父と接したことはほとんどない。父はこの国の中枢を担う将軍の一人で、とても多忙な人なのだと家を出てから知った。優先的におれに時間を割いてくれていたのだと、知ってしまった。父の誠実さを目のあたりにして、おれはようやく自分にはまだ家族がいるのだと安堵して、泣いた。まだ涙が出るのは、紛れもなく父のおかげだった。
父はよい父親ではなかった。だが、おれもよい子どもではなかったのだ。
結局のところ、おれは父になんの孝行も返すことなく、父の死に目に立ち会うこととなった。実年齢を考えればはるかに若く見える父ではあったが、人は老いに勝てぬもので、老いは病の無慈悲さを増長させた。父はもう、助からない。そうなった父の心残りは、やはりたった一人のことだった。
「おれが、とうさんの代わりをするよ」
掠れ震えた情けない声ではあったものの、父の耳には届いたようだった。普段からは考えられないほどに目を見開いて、返ってきたのは拒絶だった。
「俺はお前に好きに生きろと言ったはずだ」
父と呼ぶことに全ての気力を使い切ってしまったおれは、もう言葉を返すことができなかった。初めて明確に告げられた否定の言葉に、逃げ出したくなったほどである。それでも、もうおれにできることは言葉にした意思を貫くことしかない。ほどなく、父は死んでしまうのだ。拭いきれない後悔を残して、この世を去る。よい子ではないおれは、せめて少しでもそれを和らげてあげることしか思いつかない。
おれは、父が好きだった。大切だった。だから、父が大切にしたいものを守りたかった。折れたのは、父だった。
「それがお前のしたいことなら、好きにしろ」
おれに求められた条件は二つ。無理だと感じたらきっぱりと諦め、軍を離れること。そして、必要以上に踏み込んだ話をおれの方から聞かないこと。おれは復唱し、了承した。父は見たことがないほどに不機嫌そうに、笑った。
「心残りを増やしやがって。そんなとこだけ俺に似るんじゃねえよ」
それが、父と交わした最後の言葉だった。おれは生涯、父の想いを忘れない。
父の葬儀を簡素に済ませたあと、おれは父の住んでいた家に──実家に住まいを戻した。おおよそにして十年ぶりの実家は記憶以上に最低限のものしか置いていない、生活感の欠けた家だった。なんならうすらと積もった埃の方が存在感を放っている。改めて、父には私生活というものがなかったのだと悟った。間違いなく望んでそうしていただろうから、否定も非難もしないが。
荒れようもないほどに伽藍堂な家を、ただ黙々と片していく。大して広くもない家屋には、父の生きた痕跡はない。唯一残っていたものといえば、かつてのおれの部屋くらいだった。時たま手入れをしてくれていたのだろう。捨ててくれても構わないからと置き去りにされた僅かな私物は、埃をかぶることもなく残されていた。
この家を残すことにさほど意味はない。父は、寝に帰ることすらまばらだった住居に思い入れはないだろうし、今後おれが目指す先に有用な物も残してなどいないだろう。だから、これはただの感傷だ。父の何かを遺したいというおれのエゴ。父もきっと、それくらいなら許してくれるだろう。
おれは帰ってきた。父と過ごしたこの家に。そして、ここで生きていく。
✳︎✳︎✳︎
父の代わりを務める。言葉にすると簡素だが、これはおれの努力如何で為せることではない。父は国軍の中枢を担う人間の一人であり、一朝一夕で代わりが見つかるような立場ではなかったからだ。
現に父の没後、新たな将軍の擁立に関して議論が交わされ続けており、未だに決着の兆しはない。反対賛成、二派に分かれているだけならばまだよかったのだが、現実はそう簡単にはいかなかった。
誰が、どのような形で、穴を埋めるのか。要するに、最適解が見つからないままずるずると引きずっているということだった。そうでありながら目立った実害が出ていないのは、国が平和である証拠であり、父の努力の賜物だ。
自分が居なくなったところで大した支障はない。引き取られたばかりの頃に言われた台詞の正しさを、このような形で知ることになるとは。それを誇らしく思える程度には、おれも落ち着いてきていた。
「お初お目にかかります。本日よりホメロス隊への配属となりました、ご挨拶申し上げます」
「ああ」
父の執着をこの目で見て、おれが一番最初に抱いた感想は外見に関するものだった。美しいと形容する以外は陳腐な響きになりそうな整った顔立ちに、どこかのご令嬢が持ちそうな滑らかな薄黄色の長髪。何より、父より十も上とは思えないその相貌。全てが、ただただ見とれるほどのものだった。
間接的におれも執着を抱くことになったその人に、どれほど複雑な感情を湧き上がらせるのだろう。そう思っていたのに。
「あいつの養子と聞いている」
「はい」
「親のことは気にするな、お前の最大限でつとめろ。私からは以上だ」
おれがこうして父の執着にたどり着けているのは、他でもない父の計らいだ。認めてくれた以上、父は出来る限りのお膳立てをして逝った。
要するに、コネや七光りというものを使っている。だというのに。
「……はい、心血を注ぎ、務めることを誓います」
それを関係ないと言う。ありがたいことなのだろう。不正を見逃し、今後の働きのみを評価してくれるという宣言に近い。わかっている、それくらいのことならば、青二才のおれでもわかることなのだ。
それでも、父の名に恥じぬようにと、そんなことを言ってほしいと思ってしまうのは、所詮おれのエゴなのだ。
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永い時が過ぎた。忠誠を誓った王はとうに崩御し、王位を継いだその娘からさらに王位は受け継がれ、国を共に守ろうと誓った友も大樹に還り、後ろや隣や正面をちょろちょろと移っていった部下もいなくなった。
こうなることは理解していたし、納得もしていた。人とは違う時間を生きること。それはかつての己が犯した過ちに対する罰だった。
嘆くつもりはない、恨むなどもってのほか。そうなるしかないというのなら、それに殉じることだけが今からでもできることなのだと、そう決めた。
全てが周りからなくなっても、それは一度捨てると決めたにもかかわらず、代わりに拾ってくれた者がいるだけの幸運だったのだと、私だけが知っている。告げたほんの一握りは、等しく御霊が眠りについている。
知っていた。そうなるべきだ。全ては自身が撒いた種で、なんとも正しく実っただけなのだ。だというのに。
すっかり痩せていかにもといった風貌に成り果てた男が、ただの一度もまともな自身への褒美など請うたことのない男が、私の大切な物を拾い上げてくれた、あのお節介が。
『お願い申し上げます、ホメロス様』
死に行く半身がそう望むというのなら。
いつか必ず、どれほど遠くになろうとも私も地獄にたどり着く。大樹に還ることはないかもしれないが、冥府には落ちるだろう。はるかのどこかで私も死ぬ。人でなくとも一つの命だ。終わりは来る。たとえ、永遠と見紛うほど悠久の時がかかるとしても。それまで己の使命を全うする、それだけだ。
『聞いてやろう。貸しにしてやる、あの世で返せ』
叶えてやろう、他でもないお前の望みだ。だからもう、ゆっくり眠れ。私のことなど気にするな。お前に拾ってもらったこの命だ、必ずお前に報いてやる。
決して本人には伝えない誓いを、もう一度だけ頭の中で繰り返す。失う苦痛よりも、遺される侘しさよりも、ただ持ち得ただけの幸運と幸福があることを知らぬだろうお前に代わって。私はお前の忘れ形見に返すと誓う。
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所属が替わったところで、おれにできることなどたかが知れていた。所詮ただの一兵卒、権限も無ければ特別な才があるわけでもない。階級に相応しい鍛錬、座学、見回り、そして更なる鍛錬。基本に忠実な作業だけがおれにできる唯一だった。
こればかりは仕方がないことだ。軍属になった時に、いわゆるエリートのような道を選ばなかったから。
血が繋がらないとはいえ、おれは将軍の唯一の子だった。望めばきっと、もっと優遇されたのだろう。しかし、おれは選ばなかった。いや、選べなかったという方が正しい。
おれは、父の名に傷がつくことを恐れたのだ。
血の繋がらないもらい子が、養父の名を盾に厚かましい要望をあげている。一体どのような教育をしてきたのか、だから子を引き取るなど反対したのに。軍人としての才能しかないのでは。そんな風評被害をおれは恐れた。
今考えれば、むしろその考えこそ厚かましい。父の築き上げてきたものを、おれは何一つ信じていなかったのだから。
父は立派な人だったのだと、軍人として改めて実績を積まねばと意識し始めた今、ようやく気付く。
「おーい! 見回りの時間だぞ、行こう」
「はい、今行きます」
新しく配属することになった小隊の誰一人として、おれの父のことには触れなかった。小隊長のみ、かつて父が直属の上司であったことを教えてくれ、簡素な悔やみの言葉とそれを父が望まぬことを伝えてくれた。嘆くよりやることがあるだろうと、父の声が聞こえてくるようだとも。ぼんやりと、この人の方が父の多くを知っているのだろうなと悟った。
父を慕う人は多く、比例して疎ましく思う者も少なくはなかった。しかし、それを気にして振る舞う必要はない。おれの功績が父に反映することがないように、父の威光もおれにはなんの関係もないのだと。つまりは、おれが自分でどうにかするしかない、特別扱いは許されない。そういうことだった。
「先輩、向こうで喧嘩が」
「ん……? あ、あれか! お前目がいいなあ」
「恐れ入ります」
「こらこらやめろー!」
がしゃがしゃと金属が擦れる音をまき散らしながら、殴り合いを始めた男二人のもとへ駆ける。少し前を行く先輩兵士は、少しも深刻さの滲まない声で注意を繰り返し近づいて行く。彼もまた、父を知るがおれに何も言わない一人だ。
目に映る風景を思う。まだ日は高く空は青い。そよ風が心地よく緑は鮮やかで、気温はほどよく肺に流れる空気は清らかだ。穏やかで、穏やかで。おれは日に日にわからなくなる。
父は、いったい何に怯えていたのだろう。
✳︎✳︎✳︎
平穏な日々を繰り返しながら、いくらか時が流れた。それはおれの立場も役割も変わらない、平和と呼ぶに相応しい日常の中のことだった。デルカダール軍に、新たな称号が二つ作られた。
一つは最も武勇を誇る将軍に、一つは最も智勇を携える将軍に贈られるものとなるとのことだ。それぞれ名称をグレイグ、ホメロスとし、このデルカダールからうまれた偉大な将軍二人を称える意味を併せ持つ。
初代のグレイグは、すでに身罷られた同名の将軍の直属の部下としてそのまま地位を引き継いだ将軍に、ホメロスは由来でありながらもまだ現役であるその人に、贈られることが決まった。双頭の鷲として国を守った彼らになぞらえて、黒白の揃いの鎧も称号と共に後世まで伝えていくことになったらしい。
因みに、初代グレイグを襲名する方は全くサイズが合わないそうなので早速作り直すそうだ。持ち主を正式に失った鎧は、デルカダールの城の目立つところに飾る予定で、今は場所を検討している。
今回の処置は、かつての争乱を忘れないために、王が直々に発案なさったことだと聞く。既に亡くなっている方はともかく、生きている方はなんとも微妙な気分なのではなかろうか。名前が称号になり、のちの歴史まで続いていくのだ。
「悪い意味ではないんだけどさ、自分の名前と同じ称号を賜わるって変な気分だろうになあ」
ほとんど同じことを思ったらしい先輩が、語弊を招くであろう物言いのまま言葉を発した。目線だけで周りを見回し、ほかに誰もいないことを把握した上で同意と忠告を口にする。口は災いの元である。会話能力が人並み以下しかないおれから言われたくはないだろうが。
「趣旨には概ね同意しますが、言葉は選んだ方がよろしいかと」
「大丈夫、お前の口が堅いのは知ってる」
そういう問題ではないのだが。言っても聞かないだろうと判断して口外しないことを約束した。満足したらしい先輩は、なおも言葉を続けた。
続く彼の言い分はこうだった。同時期に功績を残した二人を平等に讃えたいのだということはわかる。死者を貶める意味はないが、片方を早くに亡くさなければよかったのに。
まだまだお若い片方の、その時を待つというのはあまりにも不謹慎なのだろう。
おれは、それが耳に引っ掛かった。
「もちろん、ホメロス様が永く将軍の地位に就いていてくださるに越したことはないけどな」
「それはもちろん、そうなのですが」
おれは話に割り込んで、疑問をそのまま口にした。先輩は詳しいことは聞いたこともないからわからないと前置きをした上で、主観と自身が知り得る情報の上で答えをくれた。
父が出した条件を思い出す。あの時のおれは、それを忠告として受け取り了承したつもりだった。けれど、実際は違うのではないか。この穏やかな国と世界で、父が先立つ不安を言葉以上に遺していった意味の片鱗を、おれは掴んだ。掴んでしまった。
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藁にもすがる思いで手紙を書いた。なんの肩書も持たないおれが、唯一誇れる父の名を使うのは、どうかこれで最後でありたいとそう思う。これではいったい、なんの為に早い内から父のもとを離れたのかわからない。
迷惑をかけたくない、負担になりたくない。今でもその気持ちは変わらない。しかし、それ以上におれは父の願いを叶えたかった。恩義の届かない父のもとへ、なにか良い知らせを贈りたい。
これは意味のない行為だと、それこそ父は望まないのだろうと、過ぎる軍の中での日々でおれは既に自覚していた。だいたい、父から直接言われているのだ。好きに生きろと。だというのに、おれはどうにも頑固であるらしかった。
そしてそれは、父に似てしまったかららしい。
「一度口にしたら譲らないからね、僕も人のことは言えないけど」
血筋以外でもつながりってあるんだなって思うよ。穏やかに微笑んだ男性は、おれの血の繋がらない叔父だった。ユグノア王国の先代王というその人が父の弟だと聞いた時は半信半疑であったのだが、遠く離れたところからこちらを窺う気配が途切れないことを思えば本当なのだろう。なんとなく危ないことにはならないだろうと察しはつくものの、軍人とはいえ実戦らしいそれらに不慣れなおれは、胃が痛い。
叔父は手紙を送った数日後に、すぐに返事を寄越してくれた。直接聞きたいことがある、どうか会ってほしいという突拍子のない要望に、日時を指定して応じてくれた。余談だが、返事を受け取った時点のおれはまだ叔父の素性を信じていなかった。先代とはいえ一国の王と、簡単に会えるわけがないと思ったからだ。
実際に会ってみて、別の意味でおれはまた疑うことになる。均整の取れた顔ではあるが、身なりは綺麗でも服は質素で、護衛を側に連れているわけでもない。重鎮中の重鎮が取っていい振る舞いではないだろう。
「それで、自己紹介もしたところだし、僕に聞きたいことっていうのはなにか、聞いてもいいかな?」
なによりこの言葉の柔らかさが、叔父を権威などの重苦しい象徴から遠ざけた。遠くから襲ってくる視線の緊張感から、守られているような錯覚を起こす。なんだか、親しい人とお茶でも飲んでいるような気分だ。そんな人、おれには一人もいないのだが。
「父が、いつ頃から軍属だったかご存知ですか?」
「君と同じだと思うよ」
「……え」
「成人して、すぐに家を出たんでしょう? 兄も全く同じことしてたから、近況報告の手紙もらった時に僕、笑っちゃったよ」
「ちちが」
おれのことを、手紙に書いていた。引き取った時から定期的に、何かあったら後を頼むと何度も書き添えて。家を出たあとも人伝いにおれのことを聞いており、なにもなくともやはり叔父には万が一のことを託して。病に伏せったあとは特に顕著に。
父が、おれのことを。
「きっと君は自分から助けを乞えないからって。そういうところもそっくりだけど、繊細さはまるで似てないね」
叔父は笑っていて、おれの急な要望を全て許してくれているように見えた。呼びつけたことも縋りつくことも認められるような、甘い目眩を覚えた。けどそれはまやかしだと、おれはもうとっくに気付いていた。
「ホメロス様のことで、お聞きしたいことがあります」
目の奥が熱かった。父の意向に添えない自分が恨めしい。共に来ればいいとあたたかな提案をしてくれる叔父を拒絶するしかできない自分がみっともない。どうしておれは、こんなにも上手く生きられないのだろう。頼りたい人は、もう土の下に眠っている。
✳︎✳︎✳︎
外はとうに日が暮れており、月明かりがいっとう美しい夜だった。目の前に注がれた香りのよい紅茶から立ち上る湯気の、その白さが嫌に目立って仕方がなかった。窓から差し込む月光は、テーブルとその周りだけを視認できるよう助けてくれる。湯気の向こう側には、寒気がするほど闇夜の似合う美しいひとが座っている。
その人は優雅にカップを傾けて、真昼のティータイムのように過ごしている。人を呼びつけたとは思えないその態度に、おれは静かに理解した。席を設けてくれたのだと。今のおれは許されているのだろうか、はたまた試されているのだろうか。判別がつかないまま、揺れない水面をただ見つめた。
「お前の父は話を聞くなと言い残したそうだが」
通りの良い声は、あたりが静まり返っている分かえってうるさいほどに聞こえた。言うなとは言われていないだろう。意味を解すのに、数秒かかった。
それは父の遺言で、おれが遺された数少ないものだった。おれだけに遺されたものだと勝手に思っていたそれは、どうやら違っていたらしい。
羞恥心と虚無感で、息が詰まる。視線がカップからさらに下、自分の膝まで後退したが、そこには光が差していなかった。暗くてよかったと心の底から安堵した。きっと今、おれは全身が震えていることだろう。この人は、おれの父への傲慢を認識しているのだから。
浅い呼吸を繰り返す間、部屋にはおれの情けない吐息だけが響いていた。逃げ出したいと強く思った。皮肉なことに、父と最後に話したあの日に似ていた。そして、なにをするでもなく硬直しているだけのおれも、あの日と同じだ。おれは、なにも変わっていない。
よく通る声は、まるでおれを諫めるように静かに語った。
「娘を頼む」
それが父の遺言だと、父が執着した人は言った。おれが、たった一人のそれだと決めつけていた人だった。父の心残りは、おれだったのだ。
✳︎✳︎✳︎
女の子を養子に迎えた。
ショックでろくに口もきかず、食事も水も摂らずにその内衰弱死してしまうと教会の者が言っていた子だ。すっかり国として落ち着いていたデルカダールでは、ずいぶんと珍しくなった孤児だった。
育てられる自信があったから引き取ったわけではなかった。使命感があったわけでもない。同情は間違いなくあったが、その延長というわけでもなかった。教会で甲斐甲斐しくされるのが不慣れなのではと考えて、一人の時間が持てる俺の自宅に居住まいを移したことがきっかけだった。
その子は、感情を発露させることが苦手であるようだった。物心つくなどという時期をとっくに過ぎて、目の前で両親を亡くしたのも原因の一つだろう。常に何かに怯えているようでありながら、それでも恐怖を表に出さないように取り繕うことに必死だった。
教育上よくないことだと理解しつつも、俺はただシンプルに死なないことを重点的に配慮することにした。繊細なタイプが苦手であるという自身の逃げでもあったが、加減を誤れば壊れてしまうことを短くない人生の経験上知っていた。いっそ開き直ってしまうが、俺にその類の感傷は乏しいのだ。得意であるわけがなかった。
時に俺はその加減を間違えながら、それでもできる限りの配慮してきたつもりだった。娘であることを鑑みて、時折教会のシスターに面倒を頼んだりもした。とても父と呼べるような振る舞いや距離感ではなかったが、それでも娘が健やかに生きていけるならそれでいいと割り切っていた。
誰だって、等しく幸福を享受する権利がある。その踏み台になれるくらいで、俺はよかった。
思いがけない形で公私の私の部分を得ることとなった俺は、四方八方から茶々を入れられた。野次だったり嫌味だったり激励だったりかたちは様々だが、俺が養子を取ったことは周知の事実となった。先々で必要以上に構わないよう牽制したり、過剰な特別扱いをしないように警告したり、しばらくはずいぶんと面倒であったことを覚えている。
だがそれも、ほんの短い間のことだった。瞬きする間に娘は大きくなり、女らしくはならなかったが成人して家を出た。そのまま軍人になった時はなにごとかと震えたが、本人がそれを選ぶのなら俺がとやかく言うことではない。
暫くはクセで早めの帰宅をしてしまったが、不要になったのですぐに辞めた。週に一度帰れば充分になったが、荒れるほど自宅を使わなくなったのでなんら支障はなかった。
最低限の役目を果たせた気になっていた。考えつく限りのつてに娘のことは頼んであったし、娘にも一番真っ当である弟のことは伝えていた。深くは聞いていないが、適宜様子を見に来てはこっそり帰る役を信頼できる相手に頼んでいるとかいないとか。深く聞くのはやめた。信頼できる相手が俺の知る彼であるか、それに匹敵する真人間であることを祈るしかない。
手に入れた私の部分を手放して、俺はもとの生活に戻っていた。将軍として国の為に尽くすこと。どうしてそんな愛国者になってしまったのか自分でも不明だが、もしかしたら長年仕えた上官に洗脳でもされているのかもしれない。そんな冗談を笑って流せるくらいには世界は平和で、彼は穏やかだった。俺だけが、すっかり老けていた。
先々代の王が、彼の友が。一人、また一人と大樹に導かれるほどに、彼は穏やかになっていくようだった。それが俺は少しだけ、怖かった。もう、彼の真相を知る者はほとんどいない。先代女王と俺、あとは現国王が知らされている可能性を考えて、国の中でたったの三人。その全てがいなくなった時、いったいどうするのだろうか。
悶々と考えを巡らせている時だった、自分が病に侵されていると気付いたのは。呆気ないほどに手遅れで、あとは死を待つだけだと医者は言う。それはもうどうしようもないことであり、喚くほどの若さももうなかった。すんなりと受け入れることができた。受け入れられなかったのは、娘の言葉だった。
「おれが、とうさんの代わりをするよ」
俺は俺の自惚れを、最悪のタイミングで自覚した。
俺は親としての役目をなに一つとして果たせておらず、娘は俺の死後にそれに殉じるのだという。一介の兵士である娘には、すぐさま将軍の席に座ることはできない。それくらいはわかっていることだろう。つまり娘が代わるというのは、別の心残りの方だった。
どうやって知ったのかはわからないが、娘は少なからず彼のことを理解しているようだった。どの程度把握しているかもわからない今、それを容易に頼むわけにはいかない。
むしろ、全容を理解しているといたら断固として反対しなければならないほどの機密事項だ。俺は否定するしかなかった。しかし、俯き震える肩は、娘が本気であることを物語っている。初めて父と呼ばれた喜びも消え失せて、俺は必死に頭を回した。
娘は全身を震わせながら、それでも言葉を撤回しようとはせず、場を離れて話を有耶無耶にしようともしなかった。俺の尻拭いを、娘にさせるわけにはいかない。しかし退いてくれる気配もなければ、あの口下手な娘が力を振り絞り形にした宣誓を反故にしてくれるようにも見えなかった。
そうして俺は、最低な選択をした。嫌なところだけ似てしまったたった一人の娘に、俺はきちんと笑えていたのだろうか。苦悩の末に出した了承の言葉に、嬉しそうに顔が緩んだ姿が脳裏に焼き付いて離れない。
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あれが己に固執していたのだと自覚したのは、随分と最近のことであった。永く苦楽を共にしたが、本当にただの意地であると信じていた。身近にいる人間が、誰も彼も顔や態度や言葉に心情が表れていた弊害のように思う。裏を読む必要がないのだと、私にしては珍しく安心しきっていた。
しかしそれも、時の流れとともに和らいでいたのだと、併せて知った。
あれはとっくに私の部下ではなく、我々はあくまで対等であるのだとその在り方をもって告げていた。結婚もせずに娘を迎えたりと、なかなかに奇天烈な人生を歩んでいるようではあったものの、無自覚に娘のことを自慢する姿は一端の父親のようで、無闇に牽制する姿などは立派な親馬鹿だった。
時間をかけて絆されていったのは、私も同じだった。
君主を失い、友を失い。喪失感からかつてのように己に翳りができるのではと、僅かに畏れを抱いたが徒労に終わった。大切な者の死を静かに見送ることができる己に愕然とし、老いぬ我が身に微かに嘆いたが、それだけだった。例えなくしても残るものはあるのだと、私はよく知っている。
王が愛した国を、友が守った民を、部下が誇った己を、守ればいい。この命が尽きる時まで。仰ぎ見る誰かが移り変ろうとも、隣に誰もいなくとも、背を誰に預けられずとも。それでも私はここにいるのだから。なかなか死なぬ命になってしまったが、それならそれで都合がいい。私は永く、この国と共に在ることができる。
そんな風に、割り切ってしまえた直後だった。あれが病に倒れてしまったのは。やはり侘しさは湧き上がったが、私にできることといえば安らかに眠れるように手を尽くしてやることくらいのものである。不安や心残りがあるのならば、そのしこりを取り除いてやる。まあおそらく、あったところで娘のことなのだろうと、最期に対面するまでの私は至極呑気なものであった。
あれは私に泣いて縋った。先に死ぬことに不安があったこと、それを娘に悟られたこと、娘が自分の代わりを果たすと言ったこと。そうして、認めるしかなかったことと、私になんとかしてほしいと頼むしかない、己の力のなさを。それはまさしく死ぬ間際の弱った人間の姿そのもので、私は少しだけ面食らった。親馬鹿が想像以上だったことも、馬鹿の娘がそのまま馬鹿であることも。私が一人遺されて、それを憂いていることも。
微かに昔の記憶が蘇った。イシの村で、焚き木を囲んで無言で過ごした日々のことを。全て捨ててしまった私のもとに、たった一人残ることを決めてしまった愚かな、直向きな、私の誇り。
「大の男がぴいぴいと喚くな、見苦しい」
「死にそうな、遺言託してるかつての部下に、発する言葉が、それか!!」
「全く死にそうに見えんが、まあいい。それが人にものを頼む態度か?」
「うう……、あなたに一番言われたくねえ……」
過剰な反応を見せる程度には気力が回復したらしいその姿に、もう一度だけ頼みを口に出すように促す。なんでも言ってみろなどと言った暁には、近い内に死ぬことを含めてあれこれ頼んできそうなので、その辺りを抜かってはならない。局所的に弱っているだけで、根が強かなことは嫌というほど知っている。
「お願い申し上げます、ホメロス様」
娘をよろしく頼みます。その一言だけだった。あれの願いは、もう娘の中にしかなかった。それを最上であると私自身が誇れることが、何よりだった。私もあれも、短くない時の中で変わっていったのだと、知れたことで充分だった。それは、私が唯一ひとである部分だったのだ。
「聞いてやろう。貸しにしてやる、あの世で返せ」
遠い遠い、もしかするといっそ死にたくなるほどの時を私はこれから生きるのだろう。見えぬ終わりの道を、真実、孤独に歩いていくことになる。それで構わない。そうしている間の私は、疑いようもなくひとなのだから。
✳︎✳︎✳︎
私は一日だけ休暇をもらい、元の生活に戻った。平和で、何もない、兵士という職を危ぶむ日常に。叔父には改めて手紙で感謝とその旨を伝えたが、返事はわかりやすく落ち込んでいることが書かれていた。あわよくばこっそり経営している鍛冶屋を手伝ってもらおうとしていたとかなんとか。近い内に訪問することを約束し、来月の休暇の予定に組み込んだ。
父と住んでいた家はすっかり生活感に溢れてしまって、ある意味見る影もない状態になった。今くらいが標準だと私は考えているのだが、城のメイドが遊びに来た際にこれでもかとダメ出しをくらい、どうやら私の感性もだいぶ世間一般からかけ離れていることを知ってしまった。今では親譲りと開き直っている。
軍人としての進展は、全くと言っていいほどなかった。それは平和な証拠なので一向に構わないのだが、何故か城の方から文官に転向しないかというお誘いがあり──これもまた構わないのだが──そこと小隊長との間でいささか火花が散っているらしい。
あまり自覚はないのだが、文字を読み取る速度が人より随分早く、このまま武官にするには勿体無いと声高に叫んだことが原因のようだ。私をそっちのけで、週一で揉めていると聞いた。
「当人のくせに、曖昧なことしか知らんのか」
「全て噂好きのメイドからの又聞きなものでして」
隊員総出で接触妨害をしてくる件は、職務怠慢と取られかねないと思い伏せておいた。その間滞った仕事は私でも処理できる分だけ一人で進めている。そして皆が顔を覆って感謝と謝罪を述べる。さらにこれは手放せないぞと過剰反応で、以下略。
そろそろ誰かに鎮めてほしいが、そのあてがないので放置するしかないのが現状だ。私が困っていないので、無視しているとも言える。これはとても言えない。
事実、私も自分が文官の方が向いていることは理解している。黙々と文字を読み解き、必要な対応をし、なんなら喋らなくていい時間が多い。個人の向き不向きだけでかたがつくなら転職一択だ。そうしないのは外的要因が私にとって重要であるからで、それが変動しない限り私は軍人であり続けるだろう。
「城の人間に理由をつけて直接断ればいいだろう」
「断りましたが、むしろ引き下がられてしまって」
「……なんと言った?」
「こちらの方が給金がいいのでと」
色をつけるからと、むしろ火種を撒いてしまったことはさすがに反省している。以降、下手なことを言わないようにと口をつぐみ、諍いから一歩下がっているようにと命令された。人との会話が下手くそな面が、ここに来て足を引っ張るとは思っていなかった。気をつけよう。
「ふっ」
「どうかされましたか?」
「いや、思い出し笑いだ。気にするな」
それっきり、会話はなくなった。外では聞き慣れた怒号と金切り声が響いていたが、書類に目を落とせばその声も遠くなっていくようだった。毎日平和で、それでも父や同じような立場の方は忙しいのだから、出世できないのもありだと思った。
前話までのオリ主の養子(女性)のお話でした。これにて三部作は完結です。
魔物になったホメロスの人間性を救いたくなったのでこれを書きました。孤独を罰と捉えながらも、心の奥底に幸せを抱いて歩いて行ってほしいです。そんなことにならないのが一番なのですが、この親子ではそこまではできません。
お前に言ってるんだぞグレイグ(10000000000回目)(包丁を構える)
全文書き直していつか本にしたいな〜ぐらいの気持ちがあるのですが、進捗ダメです状態が続き過ぎて三年以内にできればいいか……という気持ちで生きています。