ナリタブライアンという3冠ウマ娘になった子のトレーナーになって2年と少し。
その女トレーナーであるアタシは悩んでいた。
それは自分の自信が足りなくなっているということに。
サブトレとしての経験はあるものの、新人トレーナーで初のウマ娘がブライアンなのは少しばかり重い。
なにせ次々と勝ってしまうからだ。
勝つほどに指導内容が正しいのか自問自答をして酒を飲む日が増えてしまう。
そういう時はストレス発散か自分に自信を持てる趣味を持てばいいのだけど、あいにくない。
10代の頃は声優養成校に通っていたが、努力と根性が足りなくてプロにはなれなかった。
その代わりと言ってはなんだけど、兄に連れられてレース場で走るウマ娘を見てから惚れこんでトレーナーになれた。
そしてナリタブライアンには惚れに惚れている。
彼女が男だったら、結婚を申し込むほどに。いや、女のままでも将来ずっといい親友関係でいたいと思っている。
だからこそ、このストレスをなんとかしたい。
このままだと弱気になりすぎて、なんか変なことをしそうだ。
こういうダメダメな時は新しいのをやるチャンスだと誰かが言っていたような記憶がする。
なら新しい趣味を始めようとした。
成功するかはわからないが、自分の声を使いたいと考える。
そう、ウマ娘向けASMR作品で!
多くは男性向け女性向けというのはあるが、ウマ娘向けというのは数が少ない。
まぁ、人との違いといってもウマ耳があるかないかぐらいのもので、人とは違い演出が少し違うだけだ。
あとは需要が少ないだけ。
だからこそ狙い目だ。アタシの声で人気が出れば狭い市場ゆえに圧倒できるし、失敗したらしたで苦情が少ないから精神的に楽だ。
と、いうわけで学生時代から親友で現役声優の子に電話をした。
「動画投稿サイトでASMRやりたいから技術を教えて欲しい! それとノイマンのKU-100ウマ娘仕様を貸してくれ!!」
電話で姿は見えないというのに、自室で土下座をするほどにアタシは親友に頼るしかねぇ。
最高級の録音機材であるダミーヘッドマイクのKU-100は100万円を超えるし、買えても注文してから何か月かは待たないといけないからな。
そして彼女から了承の代わりとしてウマ娘グッズをあげることに同意した。
ブライアンの使用済みゼッケン、蹄鉄、ぬいぐるみを始めとしたタオルやキーホルダーのグッズなどを。
あげる時にはもちろんブライアンの許可を得てからになるけど。
編集のほうはエアグルーヴのトレーナーが以前できると言っていたので、ご飯をおごることで協力を取り付けた。
ここまで来たら、あとは作るだけだ。
ウマ娘向けに作る内容は決まっている。
レースでプレッシャーやストレスが溜まったウマ娘、それも自身の担当ウマ娘であるナリタブライアンを想定し、環境音とアタシのささやき声に耳かきで癒していくというものだ。
休みの日になった時は声よりも先に環境音と効果音の収録が先だ。
ブライアンから遊びに行こうと声をかけられるも、遊びに行く先を野山に変えてもらう。
そこでやることは決まっている
そう、素材の音を録音するフィールドレコーディングというのを!!
◇◇◇
ASMRというのを知っているだろうか。
この略称の元を日本語訳にすると『自律感覚絶頂反応』とエアグルーヴが言っていた。
つまりは耳に音という刺激を与えて、癒しや快感を得ることだそうだ。
自然音以外にも牛の足音や電車の音。特に人のささやき声や耳かきの音というのが人気らしい。
らしいというのは、私が1度も聞いたことがないからだ。
私は今まで走りに関連する物にしか興味がなかった。
だが、今は違う。
私のトレーナーが動画投稿サイトで、ASMRという音声作品というのを出しているというのをエアグルーヴのトレーナーから聞いたためだ。
私が遊びや外食に行こうと誘っても時々来て来れず、一緒に行くときはなぜか川や山、海に行くことがあって少し不満だった。
その理由は音声作品をこれを作っていたせいか。私との時間を削ってまで作る価値はあるのかと興味を持っている。
だからASMRについて詳しいことを聞いたら、エアグルーヴは「ブライアン、お前は癒しを求めていたのか」と驚かれていたが興味を持った部分が違う。
私のトレーナーがそういう趣味があると知ったからだ。
あの見た目がレディースをやってそうで口と態度が悪く、放任主義で背が低い27歳の女性だ。
一見してトレーナーとしては失格そうに思えるが、私はその放任主義的なところが気に入っている。
そして今日はあいつが仕事の出張でいないため、このトレーナー室は今日1日だけ使い放題だ。
レースをする気分でもなく、あいつが人を癒す作品を出しているというのは興味があるためトレーニングはしない。
スマホを用意し、DL販売サイトを巡って作品を見つけた。
作品は全年齢で『1時間でウマ娘の耳を幸せにしたい』というタイトルだ。
トレーナーの名前は、作品内ではかわいらしい名前で投稿していて、それが浅見ミカとあって、なんだか普段のあいつの様子と違ってかわいらしい名前なのに声を出して小さく笑ってしまった。
いったいどんな声をしているのか実に楽しみだ。
あいつの発音は綺麗ではあるが、いつも口悪く罵倒しているのが多い。だから、癒しとは違う方向性なんじゃないかと思う。
動画にお気に入り数があるものの、ASMRというものをまったく知らないため、これが多いのかが全然わからない。
感想欄では褒めているのが多いから、悪いものではないと思うが。
作品内容の説明を見てから聞くためにソファーに寝転がると、スマホにイヤホンを刺して両耳につける。
そうしてから再生ボタンを押し、目をつむる。
はじめに聞こえてきたのは川の音だ。次は風が木々の葉っぱにあたってなびき、人が歩いて砂利がこすれる音。それから人の声だ。
『普段はコースしか走らないけど、たまにはこういう場所もいいでしょ?』
それはよく聴いたことがあるトレーナーの声で、だけれど知らない声。
甘く優しい音。それが初めてこの声を聞いた感想だ。
耳のイヤホンからは自分に直接向けられているようで、聞き取りやすくて実にいい。
『森に囲まれていて、朝日と共に渓流沿いに歩いていく山道。楽しいよね。 ……楽しくない? 私は君と一緒に歩くのはとても楽しいんだけど?』
最初はトレーナーが喋っている、と思っていたが段々と語りかけられているうちに、私の知らない、でもよく知っていて仲のいい人に親しく話しかけてきてくれるのは気分がいい。
私と君しかいない、ふたりだけの場所。
音や喋りが、素敵な場所をとてもリアルに想像させてくれる。
これがASMRか。確かに耳が心地いいが、自然音と会話だけで終わるんだろうか?
もう少し聞いて話の展開に代わりがなかったらやめて練習でもするかと決める。
続きを聞いていくと、砂利道から葉っぱを踏みしめる音へと代わっていく。
それを楽しそうにする主人公の声。
聞いていると、聞いている私側がウマ娘で、声の主である主人公がトレーナーという設定だ。
『この感触、気持ちいいね。こんなに深く重なっていると、落ち葉だけだっていうのに面白くて―――えいっ!』
かけごえと共に、ばさばさ! と葉っぱが散らばるような音がする。
『あははっ! カサカサっていう音もいいけど、こう、ぶわって広がるのも楽しいね! 遊歩道なのに全然踏みしめられていないのは、ここ何日か人が来てないんだろうねぇ』
楽しそうな声を聞くと、純真無垢な様子でつい笑みを浮かべてしまう。
リアルだとこういう遊びとは縁がない私としては新鮮だ。
もし姉貴と一緒に同じ状況になったとしても、何がどうなって音が鳴るとか、人が来ない理由を延々と喋るだけに違いない。
『前も後ろも人が来ない……。今、この瞬間はあたしこそが森の女王! この山と道を支配するのはあたしとあなただけ! 落ち葉と音を支配する森の女王!』
一瞬ぽかんとしてしまう。優しく声をかけてくれた主人公が唐突に女王宣言。そのあとに恥ずかしそうにする声は、心が少しときめいてしまう。
声が左から右、とぐるりと移動していくのは自分の周りをくるくると回っているようで、主人公がかわいく思えてくる。
一緒に散歩をしているのを想像しながら聞き、私は止めようと思っていた気持ちをなくす。
どうせなら、最後まで聞いてしまおうと。
聞いていくと、目的地である滝へとたどり着く。
ごぅごぅ、と勢いのある水の音。
『わぁ……こんな間近で見るのって、子供以来だよ! あなたはどう? 滝なんて見る機会がないでしょ?
普段はダートや芝、ウッドチップのコースばかり。後は筋トレだけやっているから、こういう自然を感じるのは気持ちいい?』
親しい女性と遊びに行く。そんなのが間接的に味わえるのは、とてもいい。
もうトレーナーの声とかそんなのはどうでもよくなっていた。
はじめは私と遊びに行かないことに不満を抱いていたが、こういうのを作っているのなら趣味として認めてやろうと思っていた。
落ち着いた気分で聞いていくと、滝のシーンのあとは、ながらく使われていない東屋に来た。
森の中にあるため、葉っぱがベンチやテーブルに積もっているのを主人公が元気よく手ではたき落としていく。
『ちょっと、ここ座ってちょうだい。そして、私の太ももに頭を置いて? そう、膝枕。え? どうして、膝枕をする必要があるかだって?』
いったい何をするのかわからないでいると、耳へと息を優しく吹きかけられて背筋が気持ちよさでぞくぞくする。
膝枕をされている設定だから、右の耳だけがゾクゾクとくる。
それに釣られて実際には息を吹きかけられていないのに、音だけで私の耳は息をかわそうとぐるりと動く。
だが、イヤホンから音が鳴っているため、どう耳を動かしても回避することはできない。
ただ体をビクビクと小さく震わせながら、耐えることしかない。
『うん、やっぱり耳がよくないね。綿棒で耳かきをしようか。ほら、誰もいないから見られることはないし、自然に囲まれながらは気持ちいいよ?』
そうして耳かきが始まった。普段は自分か姉貴がやってくれるものだが、これは違った。
実際にやるのよりもゆっくりで、耳の奥まで丁寧にやってくれている音だ。
耳の中を、綿棒でごしごしと耳かきされる音は恐ろしい。この世界にここまで気持ちのいい音があったのかと驚いてしまう。
レースをした時は勝った時の大歓声が気持ちいいが、小さい音でも充分に気持ちいい。
『どう? んー……あとは奥のおっきなのを取ればいいかなぁ。じゃあ、やるね?』
呼吸音と共に耳かきをされていると、そんなことを言われて、より快感が強い耳かきへ。
「あっ、耳かきされているだけ、なのにっ、この、気持ちよさは、んっ!!」
誰もいない部屋で、ASMR作品を聞いている。その状況で自然と声が出てしまう。
顔を赤くなってくるし、なんだか興奮してきてしまう。でも同時に落ち着くという、わけの分からない心境だ。
右耳の耳かきが終わると、今度は左の耳かきだ。
それは先ほどと同じかと思ったが、語り掛けてくる内容が違った。
さっきまでは主人公がウマ娘に耳かきの話だったが、今度は普段の練習やレースでの話だ。
話を要約すると、3冠ウマ娘であるトレーナーの自信がなくなってきているという。
今まではそれを目指してこれたが、これからは新人トレーナーである主人公でなく、ベテランの人にに代わったほうがいいんじゃないかというものだ。
私はこんな大事に思ってくれるトレーナーがいるなら、違う人に変えるウマ娘なんていないだろうと思い、自信を持って欲しいと思った。
だが、途中でこれは音声作品。実際にこのトレーナーがいるわけじゃないと気づき、つい励ましの声を出してしまいそうになって恥ずかしくなる。
その後、私は寝てしまった。
耳かきのあとにささやき声と子守歌があったら寝て当然じゃないか。
でも、いつもよりも充実した気持ちで寝ることができ、起きたあとはトレーナーの指示書どおりのトレーニングが気持ちよくできた。
トレーナーが出張から帰ってきたあとは、あの音声作品の声の主と、目の前にいるトレーナーが同一人物とは信じられなかった。
だが声の質は同じであり、それからはトレーナーの声を注意深く聞くようになった。
なお、初めてトレーナーのASMR作品を聞いてから、他に投稿していた2作品も充分に満足するものだった。
それからはトレーナーがASMRをやっているのをさりげなく知っているといい、黙っていたのと私をないがしろにしていたことを許す条件として時々耳元でささやくのをお願いしている。
ASMRはいいぞ。