しばらく休憩を取っての、ダート5周2セット目。
運動音痴をこじらせた俺の頭の中では正直な話、ウォーミングアップなんてものは疲れるだけで逆効果なんじゃないか、と思っていたのだけれど。
こうして負荷のかかる運動をしてみるとよくわかる。
筋肉が温まっていると、走り出しから脚が軽く回る感じがする。
バイクのエンジンも暖機運転をしないといきなり高回転まで回そうとしてもぐずるもんな。
トレーナーはカメラの横に立って走る俺を目で追っている。
まだ記録を続けているらしい。
それならと、ホームストレッチに入ったところで足がもつれる寸前まで脚の回転を上げて直線部分を駆け抜ける。
さすがに1セット目の疲労があるせいか、最高速付近まで持って行くと脚にだるさを感じてくるけれど、呼吸は死ぬほど苦しいわけじゃないし、だるさは根性で押し切ればなんとかなる。
ヒトだった時みたいに、走れば誰よりも遅く周回遅れにされているのに、呼吸は追い付かない、身体はオーバーヒート状態、心臓が脈打つごとに視界が白く染まって死にそうになりながら走るのに比べればこんなのは苦しいうちにも入らない。
2セット目あと1周、と言ったところで、ホームストレッチの埒外で、三脚ごとビデオカメラを担いだトレーナーが、じゃぁな、というように俺に向かって手を振って踵を返した。
何やらウマホで会話しながら、車の置いてある体育館の方へ去っていく。
本当に忙しいんだな。
ちょっと変態なところは仕方ないとして、プライベート時間を割いて俺をウマ娘のあるべき走りに戻そうとしてくれているんだ、感謝はしておこう。
トレーナーと別れて、与えられた指示通り3セット目のダート走行をもうすぐ走り終えようか、という時に、遠くから救急車の音が聞こえてきた。
ちょうど、5周目のゴールであるホームストレッチの入り口に差し掛かると、前方の通用門から救急車がゆっくりと入ってくる。
誰か怪我でもしたのだろうかと考えながら走り終えて、脚を止めて息を整えていると、救急車はそのままグラウンドを通り過ぎ、校舎の方に消えていった。
外埒をくぐって、トラック外の原っぱに放置したままの自分のボストンバッグを拾って、原っぱの一角にある天幕の元へ向かう。
埒外に設置された休憩所みたいなものだ。
二本の鉄柱から白い幌布が張られたひさしが何もない原っぱにわずかな日陰を作ってくれている。
ひさしの下にはベンチが置かれ、今ダートトラックで走り回っている他のチームの荷物が足元にごろごろ転がっていた。
ここには水道もあるので、トレーニングで乾いた喉を潤すと、身に着けていたプロテクターを外して洗い、トレーニングシューズを脱いで火照った脚やら腕やらを冷たい水で流す。
さすがに、負荷のかかる運動をして大汗をかいたせいか、トレーニングシューズも靴下も汗でぐっちょり濡れて、そのまま放置したら悪臭を放って大惨事になりそうな様子だ。
部屋に戻ったら、シューズの湿り気を拭きとって乾燥機にかけないと。
脚を洗ったと言っても石鹸があるわけではなかったし、顔を拭くタオルでその脚を拭くのもちょっと嫌だったので、脚を振って水を切ったらベンチに座って足の指をにぎにぎしながら自然乾燥する。
時折地響きを立てながら陽炎の立つ目の前のホームストレッチを駆け抜ける学園生を眺めつつ、背中から脇下にかけて汗で湿って食い込んで付け心地の悪くなったブラ紐なんかを直しながらクールダウン。
・・・体育館でワイヤーにぶら下がりながら脚を回していた時は、胴体がほぼ固定されていたから気にならなかったけれど、実際にダートトラックを走ってみたら、俺のそんなに大きくない胸もゆっさゆっさ揺れて結構邪魔だ。
揺れる度にブラ紐が前に前にと引っ張られて、汗をかくとブラ紐が湿って滑りが悪くなるのか、背中から脇にかけて食い込んだままになる。
紐じゃなく、帯状に胴体を包んでくれるスポブラの方がやっぱりいいんだろうか。
その時は上下揃えないとやはりおかしいのか?
男として30年以上生きてきて、ブラの付け心地と組み合わせに悩む時が来るとは思わなかったよ。
身体の火照りが少し収まったところで、荷物をまとめて校舎の方に向かう。
午前中着ていた制服は更衣室のロッカーの中だ。
大汗をかいたこの身体で着替えるわけじゃないけれど、寮に持って帰らないとならない。
まだ出てくる汗をタオルに吸わせながら、校舎の方へとてくてく歩いていると、救急車が屋内プールの建屋に横付けされているのが目に入った。
救急車の後方には、数名の水着姿の学園生と、見慣れたあの緑の服は・・・たづなさんか。
「・・・では、生徒の方はよろしく頼む。
傾注!トレーナーはこれより病院への付き添いで不在ッ!
よって本日のプールでのトレーニングはこれで終了だッ!」
俺のウマ耳が拾った声を聞くに、理事長も救急車のそばにいるらしい。
トレーナーは理事長室に顔を出すと言っていたけれど、もう帰ったのかな?
しかし、プールでのトレーニング中の事故か。
理事長もたづなさんも慌てた様子はなさそうだし、大事には至らずに済んだのだろう。
そういえば、ウマ娘は水に浮かないと聞いているけれど、このウマ娘の身体になってからまともに泳いだことがない。
俺はヒトだった時も平泳ぎでかろうじて25メートル泳ぎ切れるかどうか、ってところで、ただでさえ息継ぎが苦手だったのに身体が浮かないとなると、へたしたら全く泳げないのと一緒なんじゃないだろうか。
一度この身体で泳いでみたいところではあるけれど、今のところ中等部2年の合同教練に水泳が入っていないところを見ると、1年の間に集中してやるものなのかもしれない。
理事長がトレーナーがいなくなるからトレーニング中止を指示しているあたり、今の時間帯だとチームごとにプールを借り切ってトレーニングしていたのかな。
屋内プールがあそこにあるのは知っていても、中に入って見たことはないのでちょっと覗いてみたい気持ちもあったけど、救急車が来ている横から中を覗きに行くのも野次ウマみたいでなんだしな・・・
さっさと制服を回収して寮に戻ろう。
更衣室に入ると、いつものようにむわっと蒸れた空気が漏れ出してきた。
まだ普通はトレーニングを切り上げる時間帯じゃないのもあって、更衣室のひと気は少ない。
西日になりつつある陽射しが蒸し暑さに拍車をかける中、更衣室の四隅に設置された背の高い扇風機が無意味に部屋の空気を掻きまわしているだけだ。
制服を入れたロッカーの列に行くと、椅子の上に乗ってその扇風機の風をお腹をまくり上げて体操服の中に送り込んでいる学園生がいた。
俺と同じで今トレーニングを切り上げてきたばかりなんだろうけど、年頃のウマ娘とは言っても人目が無いとやってることが男子学生と大して変わらないんだよな、こういうとこ。
風を満喫している彼女を尻目に、制服をボストンバッグの中に捻じ込んで更衣室を出ると、理事長とたづなさんにばったり出くわした。
「あら。
今日のトレーニングは終わりですか?」
「はい。
うちのトレーナーはもう帰りましたか?」
「うむ、先ほど顔を出して帰ったぞ。
思いの他貴女の成長が早いと複雑な顔をしながらも喜んでいた。
今日は上がりなら、ちょっと茶に付き合え。」
「今トレーニング終えたばかりで、汗臭いですよ?」
「何を言うかと思えば。
ウマ娘の汗はその努力の証。
トレセン中央の理事長たるもの、それを好ましく思いはすれど疎むことなどありえぬ。
くだらないことを気にせず付き合え。」