【読書感想文】吾輩は猫であるを読んで   作:夏目漱石(仮)

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『こころ』を読んでいる青年の話 第一話

 

(一九二四年十一月)

 

 僕は、父のことを思い出していた。

 

 山椒魚を解剖する ぼくの父は、明治四十三年の暮、ある日曜日、突然に死んだ。その時分はもう大分寒くなっていたと思うが、ちょうど今頃の季節だったろう。死因はよく覚えていない。多分風邪でもひいたのだろう。とにかく、その日を境にして、父の姿を見なくなったことは確かである。

 母の話によると、父は朝早くから家を出て行ったらしい。それが夕方になって帰って来た。その頃母は外出していたらしく、家の中には誰もいなかった。すると父が、

 

「お母さん、今日はちょっと山椒魚の解剖をして来る」

 

 と言ったそうな。

 

 山椒魚というのは、わが国では、ごく近頃になって、ようやく養殖されるようになった淡水産の大きな水棲動物のことである。もっとも、この頃になってもまだ、山椒魚という名前ではない。正式には「サンショウウオ科」ということになっている。

 

 父はその山椒魚について、いろいろ研究をしていたらしい。その山椒魚がどういうふうにして生まれるかということも知っていたようだ。母の話によれば、父の専門は地質学であり、鉱物学でもあり、生物物理学でもあったらしい。ただ、父は学者というよりもむしろ科学者のような性格を持っていたようである。何かの実験をする時など、いつも自分で実験材料を探し求めていたそうである。そのせいかどうか知らないが、父はしばしば実験室の中に籠っていたものだ。そんなわけで、ぼくは父の研究の内容については何も知らなかった。ただ、ある時母がこんなことを言ったことがある。

 

「お父さんはねえ、あの人はああいう人だから、人に偉いと言われるよりは、自分一人だけで満足するような人だったけど、あんたはお父さんの子なんだからね、もう少し学問をしなくちゃだめですよ」

 

 この時母は冗談半分にこう言ったのかもしれないけれど、あとで考えてみると、この言葉は真実を語っていたように思われる。確かに父は学者的な人間ではなかった。どちらかと言えば、哲学者に近い人間であったかも知れない。しかし、少なくとも科学に関心のある人間は、誰でもどこかに学者的気質を持っているものなのだ。

 

 例えば物理学者とか天文学者というような人たちは、普通の人の目にはあまり理解できないような法則や計算によって、いろいろな問題を解こうとする。それは一種の神秘主義的な傾向を帯びているかも知れぬが、同時にまた一つの科学的探究心を有していることにもなる。しかし、それならば、なぜ科学者たちは、自分が発見した理論を他人にもわかるように説明しようとしないのか。自分の発見したものを世間一般の人々に知らせようとしないのか。これは明らかに不自然である。

 

 要するに、学者というものは、他の人々の目から見ると神秘的であり、非常識でもある。そしてそういう人々は往々にして誤解を受けやすいものである。もちろん誤解を受けたとしても、彼らはそれに気がつかないことが多い。しかし中には、その間違いを訂正することもせずに、かえってその方が都合がよいと考える人もいるのだ。

 

 たとえば物理学者なら、一般の人々にはどうしても解けないような難問を解決したとする。そうすれば、一般人はその偉大な業績に対して敬意を表してくれるに違いないと信じ込む。しかもその功績が一般に認められた暁には、彼はきっと得意満面になるにちがいない。そこで彼の方も調子に乗って、ますます大言壮語を繰り返すようになる。ところが一方一般の人々はといえば、その偉大な業績の意味がわからず、また何のために彼がそのような偉業を達成したかということさえ知らずにいるうちに、いつの間にか彼を見下げ果てて、「あいつはとんでもない奴だ」と陰口を叩くようになる。これではどう考えても割り合わないではないか。

 

 父の場合は、恐らくこういう例とは少し違っていたであろうと思われる。なぜなら父は自分の発見を、決して公表しなかったからである。

 

 父は山椒魚に関する多くの著書を残した。それらはいずれも山椒魚に関してなされたものである。ところがその山椒魚に関する研究資料はほとんど残っていないのだ。山椒魚についての書物といっても、父の書いたものは全部合わせても十冊に満たないくらいだろう。従って、その内容についてもほとんど知るよしがないのである。

 

 ところが、それにもかかわらず、山椒魚に関する父の研究は大変なものであった。その証拠には、山椒魚の卵を顕微鏡にかけて観察したり、山椒魚から分泌される粘液を調べたりしている。さらに、山椒魚の脳の組織まで解剖して、そこにある神経細胞の仕組みを研究したりしていたそうだ。つまり、父は山椒魚という魚を材料として、それを徹底的に解剖したのである。

 

 僕はそんな父を尊敬していた。

 

 

 

 

 

 ある日、父の研究室をのぞきに行ったこともある。その時父は、ぼくに、

 

「お前は将来、山椒魚を研究するつもりか?」

 

 と尋ねた。ぼくが、

 

「はい」

 

 と答えると、父は、

 

「よろしい。じゃあ今のうちに山椒魚のことを知っておいた方がいいだろう」

 

 と言って、その山椒魚の死骸を見せてくれた。その山椒魚は、解剖台の上に横たわっていて、ちょうど死んだばかりのように思われた。しかし、よく見ると、その山椒魚はもうすでに死んでいたのである。

 

「お父さん、どうして死んでしまったんですか」

「それはね、こいつが病気になったからだ」

「どんな病気ですか」

「この山椒魚は肺病にかかったんだ」

「肺病ってなんですか」

「肺に悪い空気が入ることだ」

「その山椒魚の身体の中に空気が入ったら、死ぬんでしょうか」

「そりゃ死んでしまうさ」

「でも、その山椒魚は、自分でその悪い空気を入れたんじゃありませんよ」

「わかっている」

 

 父はそう言って、その山椒魚が肺に入った時の様子を詳しく話してくれた。

 それによると、その山椒魚は、ある晩、いつもと同じように寝床に入って、眠りについた。すると間もなく、彼は突然胸が苦しくなって、息ができなくなってしまったのである。それで僕はびっくりしてしまった。そこで僕は、一生懸命に、何とか呼吸ができないものかと考えた。しかし、いくら頑張っても、ちっとも楽にならない。そのうちに、いよいよ苦しくなってきた。そこで彼は最後の力を振り絞って起き上がった。そして、部屋じゅうを走り回った。ところが、走っても、走っても、苦しいことは変わらない。おまけに、走るたびに、ますます苦しくなるような気がするのだ。それでも、とうとう彼は疲れ切ってしまって、そのまま倒れてしまった。

 

 この時、ふと何かがおかしいことに気がついた。足が思うように動かないのである。まるで重い鉛をぶら下げているような感じなのだ。

 

 そこで、僕は自分の足を眺めてみた。すると、そこには、何とも不思議なものが付いていた。それは、僕の足のまわりにまとわりついていて離れないのである。そういえば、僕が起き上がって走り回っている時にも、同じようなものがあった。それが何であるか、最初はよくわからなかったけれど、今考えると、あれはきっと、その山椒魚の口から飛び出してきたものに違いなかった。

 

「これがその山椒魚の死体だ。どうだい、面白いだろう」

 

 父はそう言った。

 

 ぼくはその山椒魚を見てからというもの、その山椒魚が死んだ時の様子が忘れられなくなった。そして、いつか自分もそのように死にたいものだと憧れるようになった。

 

 ところが、ある時、父がこんなことを言い出した。

 

「お前には、一つだけ欠点がある。それはお前があんまり馬鹿だからだよ」

 

 父は続けてこう言った。

 

「もっと勉強をしなくちゃいけないな。学問というのは、けっして無駄にはならないものなんだ。特に科学者にとってはな。科学者は、世の中のためになることをする人間でなければいかんのだ。そのためには、まず第一に自分の研究を世間一般の人に理解してもらうことが大切だ。それなのに、お前ときたら、自分がやりたいことだけをやろうとして、そのために他人を馬鹿にしているところがある。そういう態度では駄目なんだよ」

 

 父の言葉は、ぼくの心にぐさりと突き刺さった。けれども同時に、その言葉は、どこかしら暖かくもあった。それは、おそらく、父の本心から出たものではなかったからだろう。

 

 父はただ単に学者という職業柄から、ついそんな説教めいたことを口にしたに過ぎなかったのだろう。しかし、その時のぼくには、父のその一言で充分だった。

 

「はい、わかりました。これからはお父さんの言う通りにします」

 

 僕は素直に、父の言葉に従った。

 





次の話で『こころ』のことについての話が出てきます。
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