【古文】不死者物語 作:紫式部(仮)
さて、その御子、姫君、御方さまの御三方に、
「御子をば、わが手に抱きて育てむ」
と思ひたまへられて、 御方さまの御殿に入りたまふ。
御方さまは御簾のうちにおはしまして、 御子のおん有様を見たまふ。御方さまの君は、
「御子がたぶらかし給ふやうにてこそあれ」
と仰せられけるに、
「いにしへのことよりも、 かくは苦しきことはあらじとは知りながら、 何とも心安からね」
と仰せられけるを、
「いとうれしく聞えつることかな」
と、仰せられて、
「なんじはいかなる人ぞ」
と仰せられければ、
「われは人ならぬがゆえに、 人のことを語り得ず。しかして、わが身のことを語るべきや」
と、仰せられければ、
「なんじは人ならぬがゆえに、 人に語らるるを好まず。しかして、わが身のことは語るべし。わが身は人ならず。人ならざれば、わが身のこともまた人に知られじ」
と、仰せられぬるを、
「あはれみ深きことなり」
と仰せられて、
「なんじの苦しみは何事によるぞ」
と仰せられれば、
「わが身の悩みは、 なにごととも知らず、 なにごとの所以にて悩めるかも知らず。ただ人にて生まれ出でず。されど、もしも人にて生まれ出でずば、 わが身は人と同じくて、 わが身にもわが身は知ったはずなりしものを」
と、悲しく仰せられければ、
「この世に生まれたるより、 わが身は苦しめり。この世はわが身に苦しみ多かり。この世の空しさ、この世の無常を知りたり」
と、嘆きたまへば、
「この世に生まれいでぬれば、 わが身は生まれざりせば、 わが身にも我が身をも知るはできざりければ、 この世に生まれいでずば、 われは生まれなんだものなるに、 われにもありて、われに知らでいたるものを」
と、悲しみて言ひたれども、
「この世に生を受けたるによりて、 この世の苦しみは生まれたるものなれば、 この世に生を受けるは、 この世に苦しむに同じ。されど、もしもこの世に生を受けねば、 わが身は生まれざりせば、 わが身にも我が身をも知るはできず、 この世に生まれたるより、 我が身も我が身をも知るはできねば、 この世に生まれたるより、 わが身も我が身をも知りえたる者は、 この世にありて、この世のことを知るに足れるのみ」
と、宣ひて、
「なんじは人ならずといふに、 この世に生きあり。いかにしてぞ」
と、仰せられけり。
さて、その御子、姫君、御方さまの御三方に、
「御子をば、わが手に抱きて育てむ」
と思ひたまへられて、 御方さまの御殿に入りたまふ。
御方さまは御簾のうちにおはしまして、 御子のおん有様を見たまふ。
御方さまの君は、
「御子がたぶらかし給ふやうにてこそあれ」
と仰せられけるに、
「いにしへのことよりも、かくは苦しきことはあらじとは知りながら、 何とも心安からね」
と仰せられけるを、
「いとうれしく聞えつることかな」
と、仰せられけて、
「なんじはいかなる人ぞ」
と仰せられければ、
「われは人ならぬがゆえに、人のことを語り得ず。しかして、わが身のことを語るべきや」
と、仰せられければ、
「なんじは人ならぬがゆえに、人に語らるるを好まず。しかして、わが身のことは語るべし。わが身は人ならず。人ならざるがために、わが身のこともまた人に知られじ」
と、仰せられぬるを、
「あはれみ深きことなり」
と仰せられて、
「なんじの苦しみは何事によるぞ」
と仰せられれば、
「わが身の悩みは、 何ごととも知らず、 何ごとの所以にて悩めるかも知らず。ただ人にて生まれ出でず。されど、もしも人にて生まれ出でずば、 わが身は人と同じくて、 わが身にも我が身は知ったはずなりしものを」
と、悲しく仰せければ、
「この世に生まれたるより、 わが身は苦しみ多かり。この世の空しさ、この世の無常を知りたり」
と、嘆きたまへり。