遮蔽物のない窓から刺す朝日が、部屋に散乱するビール缶や灰皿に反射して煌めいている。
みほは床に打ち伏せ、ぼんやりとした意識の中、眩しさに目を細めながらゆっくりと瞬きをした。
意識が完全に覚醒すると跳ね起き、浴室へと足を運んだ。シャワーの蛇口を捻り、頭から冷たい水を浴びて身体に纏わりつく汗を洗い流す。
ここ数日の記憶は曖昧だ。雀荘に入り浸っていることだけは覚えているが、そこから先のことは思い出せない。気が付けば夜になり、こうして朝を迎える、その繰り返し。
何もかもがどうでもよくなっていた。執着や関心、生への渇望は、もう消えてしまった。
だが、ふと沙織の顔を思い浮かべてしまうと、途端に心がざわつき始める。
彼女は自分を優しい人間だと言ってくれた。自分に寄り添ってくれていた。自分の身を案じてくれていた。沙織の言葉を思い出す度に胸の奥が締め付けられるような感覚を覚える。
「入れ込み過ぎだ」
自分に言い聞かせるように吐き捨て、みほは浴室鏡を頭突きで割った。
破片で額を切り、血が流れ落ちる。
痛みはない。
あるのはただ虚無感のみ。
割れた鏡を見ながら、みほは自嘲気味に口元を歪めた。
自分は所詮偽善に塗れた、薄汚い愚女だ。そんなものが人並みの幸せを望んではいけない。
沙織も自分の事を知らないから優しく接しただけだ。でなければ、あんな穏やかな環境で健やかに育ったであろう少女が自分を構う理由がない。
彼女も、自分の本性を知ったらきっと離れていくだろう。
それでいい。
私は独りで生き、独りで死ぬしかない。
みほはタオルを取ると血を乱暴に拭い、浴室を出た。
下着とデニムのショートパンツ、黒のタンクトップを身に着けるとベランダへ向かう。
煙草を吹かしながら、青く晴れ渡った空を見上げた。
雲一つない青を紫煙が漂い、溶けて消える。
陽光がみほの頬を照らし、眩しさに目を細める。
そのまましばらく佇んでいると、外に人の気配を感じた。
このアパートは入居者が少なく、通学路からも外れているため普段ほとんど人気がない。
不審にに思い、部屋を出て気配の方へ向かうと、そこには背の低い、白いヘアバンドが特徴的な女子高生が電柱にもたれ掛かって寝息をたてていた。
「おい。こんな所で寝るな、起きろ」
肩を掴み、揺らすと少女は薄く目を開くが、まだ意識がはっきりしていないのか、みほの胸を揉みしだく。
「ン……沙織……」
少女はみほを沙織と勘違いしているのか、彼女の胸に顔を埋めようとする。
「アタシは沙織じゃない。寝ぼけるな、叩き起こすぞ」
そう言って軽く小突くと少女はようやく意識が覚醒し、顔を上げた。
「……そうだ。沙織がこんなに痩せれる訳ない」
少女はボソッと呟き、みほの身体を観察するようにまじまじと見つめた。
「……悪い。寝惚けてた」
少女は申し訳なさそうに謝り、背を向け、おぼつかない足取りで歩き出す。
だが、またすぐ力尽きたように倒れ込んだ。
「……やっぱり朝は無理だ。このまま寝させてくれ」
「何を言う。学生は学校に行くのが義務だ」
「……嫌だ。眠い」
再び駄々っ子のように地面で丸まる少女に、みほは溜め息をつく。
「仕方がない。校門までなら連れて行ってやる」
その言葉に、少女は飛び起きる。
「……いいのか?」
「こんな場所で寝られるよりはマシだ」
「すまない。助かる」
みほは少女を背負い、電柱の頂上までよじ登り、そこから民家の屋根へと跳躍する。
少女はみほの腰に腕を回し、きつく抱き着いた。
「寝るなよ。落ちたら死ねる高さだからな」
「分かってる。怖いんだから脅すな」
少女は震えながら呟き、身体をさらに密着させる。
みほは屋根から屋根へ、時には壁すら足場にして素早く跳び移り、大洗女子学園へと向かっていく。
やがて視界に校舎が見えてくると、少女は口を耳に近づけ、囁くような声で訊ねてきた。
「なあ、校舎裏に降りてくれないか? 風紀委員のそど子に見つかると面倒だ」
「部外者のアタシが校内に入ってみろ。騒ぎになるだろう」
「アンタ、この学園の生徒じゃないのか?」
「違う」
「……そうか。なら、仕方ない」
少女は残念そうな声色で言うと、さらに強くみほにしがみついた。
校門前に着地すると、みほは背中の少女を降ろす。
周囲にいた数名の登校中であろう生徒達は、その異様な光景に唖然としていた。みほに怪奇の視線が集まる。
「当然、か」
みほは独りごちる。
だが、少女は視線を気にも留めていないようで、大きく伸びをした後、みほの顔をじっと見つめた。
「世話になった、ありがとう。遅刻せずに済みそうだ……本当に感謝してる」
「礼を言う暇があるなら早く行け」
背中を叩くと少女は少し名残惜しそうに離れ、正門の方へ向かっていった。
みほは彼女が見えなくなるのを確認し、踵を返そうとする。
その時だった。
「西住みほ殿……ですよね?」
背後からの呼びかけに振り返ると、くせっ毛で、自分ほどではないものの筋肉質な少女が立っている。
少女はみほが答える前に自分の名前を告げた。
「お初にお目にかかります。普通二課、2年C組、秋山優花里といいます」
自己紹介を終え頭を下げる彼女に、みほは戸惑いを覚えるしかなかった。
「何故アタシの名前を知っている」
「以前から戦車道の情報誌等で存じ上げていました。……去年の決勝戦、貴女に何があったのかも」
そう言い、優花里はどこか哀しげに目を逸らす。
「なら、アタシに文句でも言いに来たのか」
「違います!」
強い口調でみほの言葉を遮ると、優花里は勢いよく顔を上げ、続ける。
「あの時の西住殿の判断は間違っていませんでした! ……私は貴女の、勝敗より仲間を助ける判断に感銘を受けました。確かに、貴女の判断は誤りだと、そう思う人もいるかもしれません。けれど、少なくとも私はそう思いません」
優花里はみほに詰め寄り、熱っぽく語り続ける。
「……何?」
「私は貴女のような、勝利よりも大切なものがある人に憧れて、戦車道を始めたんです。西住殿は私のヒーローなんです! だから、私達と一緒に……」
みほは気圧され、思わず半歩後ずさるが、すぐに気を取り直して睨み返す。
「言いたいことは、それだけか」
興奮気味に語る優花里の言葉を遮り、みほは冷たく言い放った。
「あの時の私は間違っていた。一時の感情に流され、勝利という大局を見失っていた。その結果がこれだ。アタシがお前の憧れであるはずがない」
「そんなことありません! 西住殿は……っ!?」
突如、優花里は声を詰まらせる。
みほが自分が何をしようとしているのか分からなかった。
気が付いた時には、優花里の腹に拳を突き立てていた。
腹部への衝撃とみほの鋭い眼光に怯み、優花里はその場でうずくまって、嗚咽を漏らす。
「証拠は見せた。次同じような事をほざくのなら、今度は容赦しない」
そう思考よりも先に吐き捨て、みほは今度こそ踵を返し、立ち去った。
「……待って……貴女が否定しないで……貴女の信じたものを……」
去り際、微かに聞こえた優花里の噎び泣く声に、みほは胸を締め付けられる痛みを感じた。
その気持ちを誤魔化すようにポケットから煙草を取り出し、火をつける。紫煙が肺を満たしていく感覚は、痛みを紛らす程ではなかった。
「偽善に魅入られるとは、愚かな奴だ……優花里」
自分に言い聞かせ、みほはその場から逃げるように駆け出した。
「こんなことしか、アタシに出来ることはない」
夏休みに入ったので更新頻度が多少は改善されると思います。