__偉大なるエルデンリングが砕け散り、はや幾星霜。
狭間の理たる黄金の律は陰り、生死の境は揺らぎ、地に住まう人々の多くは正気を喪った。
しかし問題はない。黄金ではなくとも、律はある。
あの遥かなる夜空。暗く冷たい月の夜空。律とは確かな黄金でなくていい。
だが、今はまだその時ではない……
今はまだ__
◆
リエーニエ北部。アルター高原もほど近い台地に、かつてカーリア王家の住まう居城であった城館がある。
侵入者を拒む魔術、凶悪な魔獣たちのはびこる城を越えて、魔力霧が覆う丘へと出た先に、その魔術師塔はある。
__月の王女にして、魔女ラニの魔術師塔。かつて死を盗み、陰謀の夜を企てた主犯である彼女が隠れ潜む、今は小さき居城。
その塔の頂上__魔女ラニが御わす場所に、今家臣たちが集っていた。
半狼ブライブ。巨人の軍師イジー。魔術教授セルブス。彼らはラニの運命を拓くためにあり、今回もその作戦会議のために此処にいる。
そう広くはない室内で三人の男たちが、無言で顔を突き合わせていた。ともすれば、一触即発。妙な緊張感が、居合わせる一同が共有していた。
__ややあって、沈黙は破られる。
「__なあセルブス。いい加減口を割ったらどうだ?」
狼の顔の戦士ブライブが、眼光を鋭く細める。その矛先はツバ広の尖り帽をした仮面の男、魔術教授セルブス。
「ほう? 何のことかね」
慇懃無礼な態度を隠しもせず、セルブスはわざとらしいはぐらかしでブライブを挑発する。
「とぼけるな。ノクローンの秘宝の在り処、永遠の夜空への道を、お前は知っているんじゃないのか」
「__例えそうだったとして、それを探るのは貴様の仕事だ。何故わざわざ私が手を煩わせねばならない?」
「貴様……」
ブライブの気炎が一段高まる。今にも噛みつかんばかりに牙を剥き、一歩詰め寄る。
「まあ落ち着きなさい、ブライブ」
頭上から降ってくる声。巨人のイジーが、狭い空間に身を縮こまらせて座っている。
巨躯であるブライブの更に頭上、鏡面で囲まれた奇妙な兜の奥から、落ち着いた声が届く。
「……セルブス殿。お言葉は尤もです。しかしこれは我らの主、ラニ様の悲願。いたずらに隠されると困りますな」
「ふっふっふ。軍師殿に置かれましては手厳しいですな。しかし何事にも機というものがある。これはそうした深謀遠慮によるものだ」
「主への不徳ではないと? 秘密とする訳も秘したままか?」
ブライブの詰問にもセルブスはどこ吹く風。
「ノクローンへの道など、考えれば分かることだ。それが分からず無為に駆けずり回っている愚者に、どんな言葉も無為というものだろう?」
「傀儡で耽っている隠者気取りの下衆が……ッ! 何もしない貴様の方こそ無能だろうがッ!」
「生憎無駄なことはしない主義だ。そして無駄を重ねるものをこそ愚者と呼ぶ。そら、こんな会話こそ無駄の極みだ、さっさと己が主のために動いたらどうなのだ?」
「ああそうだな。どうやらそうしたほうが良さそうだ!」
ブライブの手が、背中の大剣へと伸びる。
あわや一触即発の空気。そこへ、
「ブライブ」
小さな玉座に腰掛けた、主からの声が掛かった。
静かに語りかけるような、深い叡智をたたえた瞳。聞く者落ち着かせる理知的な声色。青白い人形の顔に重なっる、ラニ本体の霊体の顔が、己が配下たちを睥睨している。
「ラニ……」
ブライブがラニへと振り向く。
「ラニからも何か言ってくれ! お前の命令であればこいつも従わざる得ないだろう! そうすればようやく、俺もお前の命令を果たすことができるんだ! 頼む!」
ブライブの焦りをともなった叫びを、ラニは静かに受け止める。厳かな神人のように。厳格な裁定者のように。
ラニは言った。
「くさい」
どんっ。
狭い空間に衝撃が走った。
「ラ、ラニ?」
ブライブ、呆然。だがそんなブライブには構わずラニが続ける。
「ブライブ、お前の息はくさすぎる。きちんと歯を磨いているのか?」
「い、いや…………ラニ、今俺たちは真面目な話をしているんだぞ? そんなのはまた後で__」
「ブライブ、くさい」
ぴしゃーんっ!!
心に突き刺さる稲妻。ブライブは空いた口を塞ぐことができない。
ラニの追撃。
「加えて体臭もきつい」
ぐさ。
「洗っていない犬の匂いがする」
ぐさぐさっ。
「それだけならまだ良いが、汗臭さも相まって耐え難いくささだ」
「ラ、ラニ……ラニ……!」
感情が追いつかず、ただいっぱいいぱいいなブライブ。そんな従者に、小さな主は目を伏せて首を振った。
「__うんざりだ。お前の息はくさすぎる」
がーーん……
こうかは ばつぐんだ。
ブライブの めのまえが まっくらになった。
__そんな……ラニ……俺はラニの剣……それが……
__こんな……ああ、ラニ……
__ラニ……
__毎日歯を磨くの、面倒くさいよ……ラニ……
茫然自失となったブライブは、そのまま頭をフラフラとさせて出て行った。
「…………」
「いやはや、ラニ様は手厳しい」
巨人のイジーがいう。
「言ってやればよろしかったのでは? このところ、あ奴は根を詰めすぎていた」
ブライブを気遣うイジーの声は、穏やかだった。
「ノクローン自体の場所は分かっている。しかし其処へ至るための道筋が見当たらない。もどかしく奔走する事しか出来ずに、苛立ちを募らせるしか……」
イジーはブライブの出て行った入口を見ながら、
「…………」
「しかしこれでブライブも、少しは頭を冷やして休息を摂るでしょう。それで事態が変わるわけではありませんが、何、この先長くなる事を考えれば何時かわやらねばならぬ事__」
「イジーよ」
「何でございましょう、ラニ様」
「お前もくさい」
ぴしゃーん。
「……………………」
「最後に風呂に入ったのはいつだ? 汗と鉄の臭いでひどいことになっているぞ?」
「…………」
「…………」
「……失礼。少し席を外させてもらいますぞ」
のっそりと、大きな躰を揺らして、イジーもまた出て行った。鏡兜で表情は伺えないが、その背中には哀愁が漂っていた。
「くっくっく。女性の機微もわからん配下共には困ったものですな。そのあたりの教鞭も考えてみてはいかがかね?」
「お前が一番くさいぞ、セルブス」
「…………」
「…………」
睨み合う両者。一触即発。静かな緊張感が二者間に漂い始めた。
沈黙。そして__
「カァーーッッ!!」
「!」
セルブスの気合の喝破。懐から取り出した小瓶を床へと叩きつける。
「あまり私を舐めるなよプリンセス・ラニ! そこらの田舎者ならいざ知らず、この魔術教授がメンズケアを怠ると思ったか!」
「……! この匂いは」
「気付いたようだな! この精薬こそは我が長年の研究にて完成させた至高の香水よ! 神々をも魅了したとされるミケラ、かの神人に縁あるスイレンより抽出されたこの香りは、あらゆる者を魅了させる! さらに__!」
バッ! セルブスの両手に二本の杖が掲げられる。
「ハハハハハッ! “回れ回れ”ぇい!」
右手の杖を高速で左回転! 左手の杖を高速で右回転!その杖の間に生じる真空状態の圧倒的破壊空間は、まさに歯車的砂嵐の小宇宙!
「ッ!?」
結構呑気していたラニも、香水煙が一瞬巨大化したような回転圧力にはビビった!
圧倒的空気撹拌能力! あっという間に、この狭い室内はセルブスの香水によって制圧された。
「この魔術教授セルブスに魅了されよラニ! そして大人しく我が傀儡となるがいいーーッッ!!」
杖を乱舞させながら高笑いを決める男セルブス。それに対してラニは、
「オロロロロロロ……」
「えぇえーーーーーっ!?」
ラニ。嘔吐。
諸事情により虹色の光で表される吐瀉物が、口から滝のように流れ落ちる!
「な、何故だ!? 我が精薬の効果は完璧のはず……!?」
「……香水が良くても、肝心の貴様自身のくさい臭いが消えていない。それどころか、二つの臭いが混ざり合って、気持ち悪いことに……オロロ」
「ええっ!? 自分じゃわかんない! そんなに臭いかな私!?」
慌てて自身の臭いを確認するが、時すでに遅し。口元を拭ったラニが目の前に断罪人の如く佇んでいる。
「覚悟しろ。魔女ラニを辱めた罪は重いぞ」
「くっ、この私としたことが、一生の不覚! しかしこれで終わりではない! 必ずやお前を魅了する精薬を完成させてみせるぞッ!」
「風呂に入れ」
「面倒くさい! って、ああーーーっ!?!?」
どんがらがっしゃーん。
セルブスも物理的に居なくなった。
「まったく……」
誰も居なくなった魔術師塔で、麗しき魔女は溜息をついた。
◆
__昔の夢を、見ている。
「わたしは、暗き路を目指す」
それはまだ、彼女が神人であった頃。輝かしき日々の過ぎ去ろうという、決別の日。
この時はまだ人の居たカーリアの城館、その尖塔で、ラニは遠くにそびえる黄金樹を睨むようにして佇んでいた。自分とイジーを背後に侍らせて。
「これは裏切りだ。黄金樹への、大いなる意思への。この狭間の地で生きる多くの者にとって、私は最悪の魔女となるだろう」
静かな、しかし確かに揺るぎのない意思を宿した声。
この時、自分は何を思ってその声を聴いていただろうか。今はもう、確かには思い出せない。
それでも__
「それでも、それを目指す。輝かしき黄金の律を棄て、暗く冷たい夜空の律を。傲慢な指どもの支配なき、遠き星の世紀を。
__そのために、私は全てを裏切り、全てを棄てる」
ラニが、己が主が振り返り、静かな笑みを浮かべる。
「その路は、ただ私一人が行けばいい」
静かな決意と、隠しきれない寂寥の笑みを。
遥か昔。もはや確かには思い出せない過去。
__それでも。守ると誓った。
たとえ最後まで付いて行けずとも、この強がりで寂しがりやの義姉を、必ず守り通す。
その誓いだけは、決して色褪せることなく。
この身は、彼女の剣であろう____。
◆
リムグレイブの、霧の森近くの隠れ家にて。ベッドで眠る半狼ブライブ。
__コケコッコー。
かっ!
目を見開いて覚醒。布団を跳ね除け、ナイトキャップをむしり取り、窓の外を睨む。
「俺はラニの従者……決して裏切らぬ、何があろうとも」
その瞳に迷いなし。
肌寒い霧の空気に臆することなく、決意に満ちた背中で部屋を後にする。
「……! お前たち」
身支度をすませ隠れ家の扉を開けると、家の前には見知った顔があった。
イジー。
セルブス。
「…………」
「…………」
彼らは向かい合い、無言。
そして無言のまま何かを分かち合った後、揃って歩き出す。
__向かう先は一つ。湖のリエーニエ。
いざ、結びの教会へ。
◆
『結びの教会』。
それは日々多くの褪せ人がやってくるスーパー銭湯。鈴玉目的で商人を殺害した罪を落としに、日夜教会は賑わっている。
その日も大亀ミリエルは、贖罪の水盆の前で番頭をこなしていた。
「…………おや」
乾いた風。転がる回転草《タンブルウィード》。その向こうから、3つの影がやってくる。
ザッザッザ。靴音響かせて歩いてくるのは、巨人と半狼と魔術師という奇妙な組み合わせだった。
(汚れているな……)
この場所で多くの罪人を見てきたミリエルは、ただならぬ雰囲気を纏った彼らにそう思った。
何をしたのかは分からない。問いただすつもりもない。ただその険しい表情と、不退転を宿した瞳に、人知れず悲しみを覚えるだけだ。
「……星の雫はお持ちで?」
ミリエルの言葉に、無言で取り出される星の雫三個。
「男湯はそちらです」
「ああ……」
番台に瓶を置いた男たちは、決意の表情でのれんをくぐっていく。
その後ろ姿に、ミリエルはいつものように祈りを捧げる。
悲しき罪人たちに、奇跡あれ__。
◆
贖罪の水盆・男湯。
__カコーン。
〜〜掛け湯〜〜
「熱っ!? ちょっと熱すぎないか? 水で薄めていいか?」
「フフフ。老人にはこのくらい熱いほうが心地よいですなぁ」
「私はまだ若いがね。そちらの駄犬は熱さも駄目か?」
「……」
〜〜入浴〜〜
「コノヤロウ! 陰険野郎が今浴槽に何入れやがった!」
「セルブス殿! ここは奇跡宿る贖罪の水盆、源泉掛け流し! 異物混入はご法度ですぞ!」
「はなせ! 私の入浴剤は完璧なのだ!」
「捨てろ捨てろ!」
〜〜サウナ〜〜
__むわぁ。
「…………」
「…………」
「…………」
「……誰が先に出る?」
「……カカカ。愚かな行いだ。貴様が先に出る」
「ほう、なら賭けようか。勝ったほうが風呂上がりの贖罪コーヒー牛乳を奢る」
「若造が。文字通りの吠え面をかくといい」
「二人とも、汗は静かに流すもの。無為に気を荒立たせるものではないですぞ」
「…………」
「…………」
__カッコーン……。
〜〜水風呂〜〜
「ぐわあああ寒いいいいいい!!!」
「ふっはっはっは! 駄犬が! 身の程知らずとはこの事ひゃあああああ冷たいぃいいい!!!」
「おっほっほ! これは身が引き締まりますなぁ」
〜〜サウナ 二回目〜〜
「…………」
「…………」
「…………」
◆
そして、後日。
再びラニの魔術師塔に集ったスリーブラザーズ。ちなみにこの地はスリーシスターズ。
彼らの眼前には、小さな玉座に腰掛けた麗しき王女。彼女の御前に、代表をして半狼の戦士がひざまずく。
「__主よ。先日は我らが不徳により、重要な会議の最中に退室する事となった次第、深くお詫び申し上げる」
普段の飾ることのないブライブの、一転した恭しい一礼。
「これよりはより一層、あなたの従者、あなたの騎士として、その使命に従事する所存。その証を検められよ」
そう言うと、一歩主へと歩み寄る。
ラニはすぐ側まで来た己が従者に顔を近づけると、すんすん、と鼻を鳴らす。
緊張の面持ちの三人。ごくり、と誰かが唾を飲んで見守る。
そして、
「good」
「「「いよっしゃぁあああ!!!」」」
ラニの言葉が出るやいなや、渾身のガッツポーズで雄叫びを上げる男たち。恥も外聞も、ついでにこれまでの遺恨も棚上げしてハイタッチを交わし合った。
「__さあ、お前たち。改めて使命を与えよう。否やはないな?
……ブライブ。お前はこれまで通りノクローンへの道程の調査。これは今は変わらず難航するだろうが、お前にはお前の星、運命がある。そのさなかで出会うものがお前の道を拓くだろう。それを待つがいい。
イジーはブライブの補佐だ。ブライブの調査を基に軍師として助言をしろ。愚直すぎる頭に、持ち前の細やかさで支えてやってくれ。
セルブスは二人が居ない間の城館警備を。傀儡の補填は済ませているか? 各地への斥候は? ……よろしい。そうして働いている分には、秘密の作業も黙認してやろう。ただし、二度目はないぞ?____……」
◆
そして月日が立ち、とある褪せ人が彼らの前に現れるのだが……
「……誰だ、貴様? カーレだな。まったく、相変わらずお節介な奴だ。……だが、あいつの見立てなら、おかしな奴ではないのだろう__いや、少し臭うな。戦士であっても、風呂くらいには入ったほうがいいぞ」
「……忠告を忘れないでくだされよ。
カーリア王家の城館には、恐ろしい魔術の罠がずっと残っています褪せ人の方。城館に近づくのはお止めなされ。
__ただ、もし向かわれるのであれば身奇麗にしておかれるのが宜しいでしょう。……面と向かって指摘されるのは、いささか応えるものですから」
「……ほう、本当に訪ねてくるとはな。世辞も分からぬとは、まったく田舎者には困ったものだ。加えて何だ? 臭うじゃあないか! 褪せ人には身だしなみの文化もないのかね? これだから田舎者は!」
……やたらと匂いに敏感になっていた男たちであった。