土壇場である。
背水の陣である。
絶対絶命の窮地である。
「まったく、私としたことが迂闊でした。見境なく女を穢す獣を放し飼いにしてしまうとは。私を睨め回すだけでは飽き足らず、群衆にまで好色の目を向けるとは何事ですか」
愛用の短銃を手先で弄びながら、白髪の聖女は詰問を開始する。半身の自由程度では手綱を握れませんか、これでは首輪を特注するほかないですね、などと冗談とも本気ともつかない呟きを耳にして、哀れな罪人——レーベンは居竦まるほかなかった。
シスネの乱入から数刻後、文字通り首根を掴まれたレーベンは半裸のまま街中を引き摺り回され、彼女が押さえていた宿屋へと連行された。受付の女将はあまりの絵面に目を見開いたが、全身に覇気を纏う聖女のひと睨みで慌てて店の奥へと逃げ去った。あの時の重圧は騎士長にも匹敵していた。
「ええ、もちろんわかってはいましたよ。穢い穢いあなたのことです、いつの日か過ちを犯すことは火を見るよりも明らかでした。何とか言えばどうですか、騎士レーベン……いえ、この色情狂」
「なんとか」などと言葉遊びを図れる状況ではない。彼女の自決銃は今にも火を吹く勢いであり、ともすれば「自害せよ、レーベン」などと命じられかねない。いつになく饒舌に捲し立てるシスネに、レーベンは平伏して許しを請う。
「誠に申し訳ない」
「その決まり文句は聞き飽きました。頭を下げるしか能がないのですね……謝り倒せば許されると思っていますか?」
「本当に反省している。もう二度と通わないことを誓う。信用がなければ有金を貴公に預けても構わない。だから——」
「勘弁して欲しいと? なくした信用を金で買うことがあなたの誠意ですか。どこまでも見下げ果てた雄ですね」
怒りで我を忘れているのか、聞く耳をなくしたシスネには弁明が届く気配もない。まずい、とレーベンは冷や汗を滲ませる。機嫌を損ねたことは幾度となくあったが、話が通じないのは初めての経験だった。
「コルネイユが〝好色の騎士〞なら、あなたは〝女狂い〞といったところでしょうか。まったく、騎士と呼ぶことも嘆かわしい」
「すまない、俺はコルネイユよりジャック・ドゥの方が「は?」……誠に申し訳ない」
いったい何が、彼女をここまで駆り立てるのか。娼館に足を運んだことが原因なのは間違いない。それほど許されないことだろうか。自分ならばどうだ。ない知恵を振り絞り、双方の立場を置き換えて考える。
(……怒られるだけで済むはずもないか)
耐えられない、と断言できた。シスネが見知らぬ男に抱かれる姿など思い描くことも悍ましい。目の当たりにしたその日にはあらゆる食事が喉を通らないだろう。事ここに至って、レーベンはようやく己の軽挙を悟る。幾度となく馬鹿呼ばわりされ続けてなお、考え足らずを貫いてきた過去の自分を呪った。
同時に、ふと思い至る。想像するだけで心を乱されるのは、レーベンがシスネを好いているが故のことだ。それならば、目の前で憤りを隠さずにいるシスネは。彼女はもしかすると——
◇
妬んでなど、いない。
(————穢い)
初めからわかっていたことだった。
恥も外聞もなく聖女の写銀を売り捌き、カーリヤの生脚ばかり追いかけていた男である。純朴さなど期待していなかったし、新たに弱みを握れるのは歓迎すべき事だ。シスネが失ったものは何もない。——そのはずなのに、娼婦と抱擁を交わすレーベンの姿が、瞼の裏に焼きついた光景がシスネをどこまでも苛立たせた。
(穢い……穢い……穢い、穢い穢い穢いっ‼︎)
込み上げる衝動の命じるままに罵詈雑言を並び立てる。獣、不埒者、好色漢——苛立ちを罵倒に変えて吐き出したところで、胸の奥に燻る不快感は尽きることがなく、より一層シスネの苛立ちに拍車を掛ける。明らかに異常が起きていた。エイビスと飲み過ぎてしまったのか。
『レーベン殿とは恋仲ではないのか?』
的外れな邪推だった。シスネはレーベンと恋人になった覚えなどない。一方的に告白されただけであり、シスネの答えはいつだって「嫌い」だ。見当違いも甚だしい。
だから、私は妬んでなんかいない。悔しくない、羨ましくない、憎らしくない、忌々しくない。私は、私は、私は私は私は——
『そんなことでは遠からず愛想を尽かされかねないぞ?』
怖かった? レーベンが心の支えを見つけることが。
不安だった? 自分以外の誰かを宿木にすることが。
——違う、違う。違う違う違う!
愛想を尽かしたのはシスネの方だ。レーベンは身体を許そうとしないシスネに辟易して、股の緩い娼婦へと乗り換えたのだ。好いた惚れたと口説いたくせに所詮は男ということだ。
『ならば、聖女以外はどうだ?』
先程の娼婦は美しかった。記憶の中のカーリヤと比べても遜色のない、恵まれた美貌と肢体の麗女だった。全てにおいて、何もかも自分より優れた相手。シスネに諦めを強いる絶対的な存在。その姿はまるで——
『兄には聖女以外の伴侶がいた』
途端に猛烈な吐き気に襲われ、シスネは口元を抑えながら両膝をついた。手から短銃が滑り落ち、室内に乾いた音を響かせる。だめだ、これ以上考えてはいけない。酒が回って混乱している。
いっそのこと酔い潰れてしまえば楽なのに、酒瓶はどこにも見当たらなくて——
『自分こそ唯一無二だと浮かれているようだが、契りを結んで心まで通わせたつもりか?』
何を自惚れていたのだろう。片目と片腕を支配したくらいで、唯一の拠り所になれたと思い上がっていたのか。契りは単なる契約に過ぎなくて、親愛の証でもなければ、不変の絆でもない。誰よりも身に染みていたはずなのに、それを履き違えた愚かな聖女は——
『何も反省していないようだな』
私は、また、繰り返すの?
「貴公、大丈夫か?」
自分を覗き込む灰色の瞳と目が合った。腰に回された腕の温もりが心地よい。騎士の雄々しい腕に抱かれて、聖女は一心不乱に願った。
願ってしました。このまま時が止まればよいと。
祈ってしまった。いつまでも傍にいて欲しいと。
望んでしまった。他の誰にも奪われないようにと。
恐ろしかった。もう別れを告げられるのは嫌だった。誰かを見送るのは沢山だった。
娼館通いなど序の口に過ぎない。いつの日かレーベンも伴侶を探し当て、シスネは友人として祝辞を送るのだろう。聖女と騎士は決して恋人ではなく、その物語はいつだって悲劇なのだから。
一度目でシスネは狂ってしまった。レグルスとの別離で心身に異常をきたして、今なお完治には至っていない。二度目があれば、今度こそ生きていられないだろう。絶望を纏って魔女へと身を堕とし、嫉妬に狂ったシスネは再び騎士殺しを遂げる。聖女キノノスも顔を背ける悲恋の物語が誕生するのだ。
そんなこと、私がさせないけれど。
「今日はもう休みたまえ。俺は——」
気付けば上体を縛るベルトを外していた。大量の武器が床に散らばり、焼夷弾や炸裂弾までもが転げ出す。慌てふためくレーベンを尻目に、拘束を解かれたシスネは聖女の象徴たる装束に手を掛けた。自分の穢さを思い出したから。こんなに穢くて穢くて仕方のない女が、聖女であるはずがないのだから。
独占欲、支配欲、征服欲——人として当たり前の心の穢れが、「自身は異常者だから」とシスネに暗示をかけた。まるで羊皮紙に垂らした墨液のように、じわじわと理性を侵食し、心を真っ黒に塗り潰す。
離れていくなら、手放さなければいい。
拒絶されるなら、求めさせればいい。
ずっと傍にいたいのならば、一人で生きられなくしてやればいい。
契りなどでは生ぬるい。新しい縛りが必要だった。そして、その方法をシスネは既に知っている。
『男って生き物は規則的に発散させる必要がありやしてね』
それは契りを結ぶより遥かに確実で、
『お前が腹を括れば済む話だろう』
とても簡単なことだった。