シスネの涙が濁っていないことに安堵した。次いで途方もない後悔に襲われる。きっと、取り返しのつかない過ちを犯した。どうやって償えばいいのだろうか。
「貴公……」
レーベンは戦うこと以外何も知らない。騎士になることだけを考えて生きてきたから。そのことに不安は感じなかったし、破綻者には似合の生き様だと割り切っていた。どのみち選択の余地など無かったのだから。——その結果がご覧の有り様だ。人並み程度の常識や教養が備わっていれば、レーベンが少しでもまともであろうと努めてさえいれば、きっとこんな結末は回避できた。
馬鹿を貫き、騎士になりきり、目の前に敷かれた道だけを進むのは楽だった。そうして魔女狩りにかまけて何一つ顧みず、最愛の聖女の心を狂わせた。本当に、他の道は無かったのだろうか。数多の分岐点から目を背け、人として真っ当に生きることから逃げ続けていたのではないか。
『無知が祟って、初の色事が台無しに——』
無知の対価を支払うことからも逃げた。色事を穢さないように、なんて言い訳に過ぎない。ただレグルスと比べられることが、シスネに失望されるのが怖かっただけだ。学べず終いだった色事の作法も、取り繕いたかった男の矜持も、シスネの涙を止めるのには何の役にも立たないのに。あまりにも己が滑稽だった。
「誠に……申し訳ない……」
聞き飽きたと言われたばかりなのに、レーベンには馬鹿の一つ覚えしかできなくて。薬物に汚染された脳味噌からは気の利いた言葉ひとつ浮かんで来ない。だから、咽び泣くシスネをそっと抱き締めた。旧聖都の災厄に幕が引かれた時に、彼女がそうしてくれたように。不幸中の幸いかシスネは抵抗しなかった。
華奢な体だった。今にも折れてしまいそうだった。「シスネも自分を好いているのでは」などと淡い期待さえ抱いていた己に嫌気が差す。あれだけの苦難を共にしてなお、レーベンはシスネのことを何もわかっていなかったのだ。白状すれば、今この瞬間もわからずにいる。
このまま謝り倒すのか? ——駄目だ。その場凌ぎでは元の関係に戻れない。
それなら宥め賺すのか? ——無理だ。己には知識も経験も備わっていない。
いっそのこと抱いてしまうか? ——論外だ。性欲が満たされるだけの結果に終わる。
決断を強いられるたびに「馬鹿だから」と開き直り、強化剤に手を伸ばしていたツケが回ってきた。相手は魔女ではなく人間、それも愛する女である。思考を放棄することは許されない。時間も待ってくれない。正念場を迎え撃つには何もかもが足りていなかった。そんな状態のレーベンにも、たった一つだけ、わかることがあった。——他ならぬ彼自身の心だ。
「俺は、ずっと貴公に心を奪われている。貴公が——シスネが、好きだ」
腕の中でシスネが身を強張らせるのを感じた。
あまりにも場違いで、身勝手な告白だ。どの口が愛を囁くのかと呆れられることだろう。それでも、馬鹿である己が唯一断言できる真実だから。金輪際揺らぐことのないレーベンの本心だったから。みっともなく弁明や釈明に走るより、それだけは伝えておきたかった。
嗚咽を漏らしていたシスネが顔を上げる。涙で潤んだ黒い瞳には様々な感情が渦巻き揺らいでいた。彼女は無言のままじっとレーベンを見ており、続きを促しているようだった。こうなれば、後は素直に白状する他ない。覚悟を決めて重い口を開く。
「娼館に通うのは今日が初めてだ。それも貴公のおかげで未遂で済んだ。誰にも手を出していない」
「貴公にはずっと黙っていたが、俺は——」
「童貞というやつなんだ」
…………
気まずい沈黙が場を支配する。シスネは唖然とした表情を浮かべており、レーベンは途端に居心地が悪くなった。
順を追って説明するつもりが、もしや己はこの土壇場で言葉選びを間違えたのだろうか。得も言えぬ雰囲気まで漂い始め、レーベンは脳裏で今は亡き親友に助けを求めた。
「あぁ、その、なんだ」
「貴公に愛想を尽かされたくなかった」
「だから、隠れて経験を積むつもりだった」
嘘偽りなく事実を述べるつもりが、尻窄みの言い訳のようになってしまった。シスネは俯き加減に肩を震わせている。どうやら本気で怒らせたようだ。これは平手打ちでは済まないな、とレーベンが身構えた直後だった。
「この馬鹿は、本当に……ふ、ふふふふっ」
「ふっ——く、ふふっ、あ、はははははっ」
シスネが堰を切ったように笑い出した。いつもの冷笑や嘲笑ではない。体を折り曲げ、腹を抱え、顔を綻ばせて大爆笑している。
「何を言い出すかと思えば……くっ、『俺は童貞だ』なんて……ふっ、はっ、あははは、ははははは——」
よほど笑壺に入ったのか、シスネはいつまでも笑うのを止めようとしない。目に涙まで浮かべて大笑いしている。しかも笑い方に全く可愛げがない。当初は呆然と立ち尽くしていたレーベンだったが、次第に沸々と苛立ちが募り始めた。
「貴公、元気になって何よりだが、話を聞いてもらえないだろうか」
「ふっ、ふひ、ひひ……ふっ、ふふふ——」
「もういいだろう。そろそろ笑うのは止めにして話を——」
「あははははははっ、はあっ、ははは……」
「いい加減にしたまえ」
「ぎにゃぁぁぁぁ!!」
無防備に晒された弱点、素肌の脇腹を力強く揉んでやる。シスネはありったけの空気と悲鳴と吐き尽くして、ようやく馬鹿笑いを止めた。
「笑い過ぎだろう。俺も人並みには傷つくぞ」
「はっ、はぁっ……見苦しい姿を、見せしました……ですが、謝りませんよ」
「ああ、そうだ。俺が先に貴公を傷つけたんだ。誠に申し訳なかった」
「結局それですか……許すのは今回が最後ですよ。次までに新しい定常句を用意しておいてください」
一時はどうなることかと思われたが、ようやく事態の収拾がついてレーベンは安堵の息を吐く。結局、男の矜持を保つどころか尊厳まで失ってしまった。しばらくはシスネに頭が上がらないし、今回の失態を盾に取られて弄ばれるに違いない。もう娼館など懲り懲りだ、とレーベンは内心で独り言つ。
「もっとも、また娼館に足を運ぶようなら次はありませんが」
「二度と通わない。貴公を随分と不安にさせてしまったな」
「……別に、私は不安になどなっていませんが?」
「なあ貴公、それは無理があると思うのだが」
「——っ不安になっていたのはあなたでしょう! いったい何を恐れていたんですか?」
そっくりそのまま尋ね返したかったが、流石にレーベンも空気を読んだ。
さっきまで笑っていたのに今度は怒り始め、喜怒哀楽が目まぐるしい。この聖女、情緒不安定にも程がある。レーベンにシスネの気持ちがわからないのは、彼女に原因があるのではないだろうか。
「官能書籍くらいしか嗜んでいなかったからな。本番で貴公に失望されたくなかった」
「あなたは色事の他に気にすることがあるでしょう。私を寝屋狂いとでも思っているのですか? これでも聖女の端くれですよ」
聖女の端くれなら身体を投げ売るような真似は慎んで欲しい。というより、シスネは先程から自身が裸同然なのを忘れているのではないだろうか。スカートから足を覗かせるどころではない、下履き一枚に上衣を羽織っただけの姿は女騎士ヴァローナも顔負けである。
レーベンは何としてでも記憶に残したかったが、下心を見抜かれれば命はないだろう。これが見納めにならないことを女神に祈りながら、泣く泣く視線を彷徨わせるのだった。
「私も表向きは潔癖な聖女で通っていましたからね。ふしだらと思われるのは心外です」
「なんだ、ということは貴公も処じ——」
「殴りますよっ」
「手を上げる前に警告してもらえないだろうか」
「女性に経験の有無を問うなど正気ですか⁉︎ 撃たなかっただけ感謝してください‼︎」
人のことは気が済むまで笑い倒しておいて、自分の番になるとこれである。レーベンは腫れ上がった頬を抑えながら世の不条理を嘆くほかなかった。
「そもそも皮算用が過ぎるのでは? 私はあなたと恋仲になった覚えすらないのですが。色事の心配など……一年、早いです」
一年でいいのか?と言いそうなったが、激昂されることは目に見えているので自重する。代わりに、自重し切れなかった想いが、ずっと内に秘め続けていた願いが無意識に口から漏れ出した。
「ならば、恋仲にならないか?」
シスネが思わず息を呑んだ。驚愕に見開かれた黒い瞳は、レーベンに本気なのかと問いかけている。
聖女と騎士には常に死別がつきまとう。その苦しみは親しみに比例して増大し、生き残った聖女を後追いへと導くことも少なくない。最悪、破戒魔女と化す恐れもある。聖女と騎士の恋愛が表立って容認されない所以だった。
レーベンとて百も承知だが、それはシスネに二度目の死別を強いることと同義である。当人からは「そんなことはさせない」と一笑に付されたし、勿論レーベンも簡単に死んでやるつもりはない。それでも、真にシスネを思い遣るのであれば、今以上の関係は望むべきではない。——だから、これはレーベンの我儘だ。
「俺と、恋仲になってはくれないだろうか」
初めて出会った日のように、シスネを真っ直ぐ見つめながら切り出した。漆黒の瞳が再び揺らぐ。彼女の頬を伝う一筋の涙は悲しみ故か、あるいは喜びだろうか。
後者であることを切に願いながら、レーベンはじっと返事を待った。シスネが口を開くまでに数秒も掛からなかったが、無限に等しい時間を体感していた。
「もう一度、言っていただけますか?」
「何を」とは言われなかったが、レーベンとて察せないほど愚かではない。今度こそ、本当の正念場だった。もう、言葉を間違えない。
「シスネが好きだ。——誰よりも、愛している」
その時のシスネの表情をレーベンは生涯忘れないだろう。美しい、などという平凡な褒め言葉では形容できない。美の頂点として語り継がれる聖女シーニュの再来——否、名の無い女神の体現だった。直に触れることさえ躊躇われたが、レーベンは恐る恐るシスネの頬に手を添える。彼女の白い手がそっと重なった瞬間、否応なく悟ってしまった。——己はもう、シスネがいなければ生きていけないだろう。
「返事を、聞かせてくれないだろうか」
一刻も早く声が聞きたかった。笑顔が見たかった。白銀の髪が、黒曜の瞳が、シスネの全てが恋しかった。愛おしかった。右目と右腕を抑えられたどころではない。レーベンの心は既にシスネの虜だった。
そんな必死の懇願が伝わったのだろうか。シスネは涙の滲んだ双眸を細め、輝くような笑顔をレーベンに向けて、
「もちろん、お断りです」
…………?
——⁉︎ …………?……⁇
「すまない、緊張のあまり正しく聞き取れなかったようだ」
「お断りします」
二度目は即答だった。耳を疑う余地すら与えられなかった。狼狽えるレーベンを愉しげに見つめるシスネが、女神の仮面を外して嘲笑する天邪鬼が、これは現実だと無慈悲に告げている。レーベンは二度目の失恋を迎えた。一世一代の告白を完膚なきまでに粉砕されたのだ。
いや、おかしいだろう。
「……貴公、あんまりではないか? 俺なりに精一杯やったつもりなんだが」
「元を辿れば元凶はあなたでしょう。これだけのことをしでかしておいて、受け入れられるとでも思ったのですか?」
流石のレーベンもこれは堪えた。ガックリと肩を落として項垂れる。何かの間違いであって欲しかったが、輝きを取り戻したシスネの瞳は揺らがない自信に満ちていた。恥じらいや動揺は微塵も感じられない。対するレーベンはその場にくずおれそうだった。
「その、なんだ。俺でも不安になることはあるんだが」
「はい? つい先程も聞きましたが……」
それが何か?と言わんばかりにシスネは大袈裟に首を傾げている。——この聖女、明らかに愉しんでいる。やはり彼女が立ち直る前に抱いてしまうべきだったのか。今更になって逃した魚の大きさが悔やまれる。
つい先刻の、神々しさすら感じさせた聖女の面影はどこにも残っていない。すっかりいつもの調子を取り戻したシスネに、レーベンは……。
——元気になって何よりか。
毎度の如く、惚れた弱みということにして締め括るのだった。
「まあ、そんなに、不安だというのなら」
いつもの通りなら、これで物語は幕引きを迎えていただろう。
「私が……聖女として、正しく……」
空振りに終わったかと思われたレーベンの告白が異例の事態を引き起こした。一貫してレーベンを「嫌い」と言い張り、まともな距離の詰め方を心得ないシスネが、自ら歩み寄る姿勢を見せたのだ。
シスネは羞恥を噛み殺してレーベンを見つめ、鍛えられた胸板に辿々しく身を寄せて、
「操を立てていたのか——確かめてみては、いかがでしょうか?」
盛大に挑発の匙加減を誤った。不慣れな真似に勇み足で踏み切った結果、一足飛びで一線を越えてしまったのだ。シスネの肩から羽織っていた上衣がずり落ち、数秒遅れて彼女はようやく自身の格好を思い出す。
裸の女が胸を押し当て、己が処女か確かめてはどうだと誘っているのだ。もはや痴女の真似事では済まない。正真正銘、痴女そのものである。
「な、なんて言うとでも思いましたか? まさか本気になっていませんよね」
慌てて失言を誤魔化そうとした時にはレーベンに拘束されていた。背中に回された両腕は万力のようにシスネを締め付け、逃げようともがいたところでびくともしない。
レーベンに力を加減する余裕はなかった。強化剤の原液を一度に数本打ち込まれたような感覚だった。思考回路が焼き切れ、全身は炎のように燃え上がり、男性器がはち切れんばかりに屹立する。下穿き越しに伝わる力強い躍動にシスネは思わず身震いした。
「あのっ、先程から当たっているのですが……」
「先に謝らせてもらう。誠に申し訳ない。だが、今のは貴公が悪い。以上だ」
「待ってください、何を大きくしているんですか⁉︎ む、無理ですこんなの! 放しなさい——放してっ‼︎」
あれだけ抱いてみせろと焚き付けられた手前、引き下がるようでは男が廃るというものだ。レーベンとて健全な男児である。二度も据え膳を見逃すほど腑抜けてはいない。——それでも、これ以上シスネを傷つけたくないから。例え照れ隠しだとしても、シスネが拒否するならレーベンは従うほかないのだから。
「……本当に嫌なら、どうか今すぐ聖性を解いてくれないだろうか」
それがレーベンにできる精一杯の譲歩だった。
「俺はもう、貴公を放せない。——手放したくないんだ」
腕の中で暴れていたシスネの抵抗が止んだ。「本当にずるい」と蚊の鳴くような声がする。顔を赤くしてはにかみを見せるシスネに「ずるいのは貴公だ」と嘆きたくなった。
命懸けで昂りを抑えていたのに、俯き加減に恥らう仕草など見せつけられたのだ。ついに理性の堤防に亀裂が走り、力づくで組み伏せようとした刹那——視界からシスネの姿が消えた。否、視界そのものが半分消失した。
「そう、か……」
聖性の流れが止まったのだ。レーベンは冷や水を浴びせられた心地だったが、おかげで冷静さを取り戻した。
傷つけないと誓った矢先に、危うく実力行使に訴えるところだった。シスネが止めなければきっと滅茶苦茶に犯していただろう。だから、これでよかったのだ。そう言い聞かせないとやり切れなかった。
右腕からも力が抜け落ち、胸板に凭れていたシスネの温もりが消える。それでも、剛直した竿は一向に萎える気配がなく、これはどう処理したものか、などと自嘲気味に考えた時だった。
「——レーベンっ」
いきなり右目の死角からシスネが飛び込んできた。不意打ちも同然に体当たりを受け、二人でもつれるように寝台へなだれ込む。レーベンが仰向けから起き上がるより早く、シスネは胴体に馬乗りになり、視界を独占するように目一杯顔を近づけた。
「簡単に身体を許すとでも思いましたか?」
顔を真っ赤に染め上げて、悪戯っぽく口の端を吊り上げて、
「あなたに許すのは——半分だけです!」
それで十分でしょう?なんて言いながら、勝ち誇ったように微笑んで見せるものだから。レーベンも釣られて笑った。声を上げて笑った。長らく外し方を見失っていた鉄画面まで、気づけばシスネに取り払われてしまった。
降参だ。とんでもない聖女に惚れてしまった。
白い細首に左腕を絡めて、三度目はレーベンから唇を重ねた。シスネはそっと目を閉じて、のし掛かるように身体を預けてくる。口吸いの心地に酔い痴れながら、レーベンは将来に思いを馳せた。
自分はきっと、生涯に渡り彼女の尻に敷かれ続けるのだろう。そう確信できたが、悪くないと心の何処で受け入れている。もう手遅れだ。治療の施しようがない。だから、これはきっと——
「まったく、なんて——悲劇だ」
聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わる。