それを出迎えた直生が用意した逃げ道は……?
※2025年から、夜翰さん→ヨアさんの修正作業を始めました!
「ただいま……」
時刻は、夜中の12時を回って1時近くになっていた。
近所の家でさっきまで耳にしていた喧騒が嘘のように、見慣れた部屋の中は時折道路を通る車のタイヤの音以外、しーんと静まり返っている。
あまりに誘われた飲み会が長引くので、
傍に跪いて、そっと二人の髪を撫でる私の背後から、直生くんが声を掛けた。
「まあ、なんつーか、災難だったな」
「仕方ないよ。自分の関係ない職場の人たちばかり集まったらこうなるって」
思わず苦笑を返したものの、顔に滲み出る疲れは隠せない。
夫である鯨の同僚達から、いわゆるたこ焼きパーティーに呼ばれて参加したものの、大人数が集まると盛り上がりがちになる職場の身内トークについていけるはずもなく、途中から完全に暇を持て余していた私に、珍しく直生くんは付き添ってくれていた。
普段他人にストイックで、他人を憐れむような真似をしない彼には非常に珍しいが、最近少しずつ柔らかくなってきたところもあるからか、こうして気に掛けてくれたり、話す機会も増えた。
「夜羽達なら、ヨアが先に寝かしつけといたから安心しろ。
まあ、こいつらちょっと察しの良すぎるくらいいい子だから、オレらがいなくても問題はなかったろうけどな」
「うん、ありがとう……。天使と悪魔とはいえ、ホントに手が掛からないから助かってるよ」
想像以上に遅くなった帰宅でずーんと重くなってしまった胸の内を抱えながら、私は即シャワーを浴びて、布団に寝転んだ。Twitterに色々書き込んで、気持ちの整理をする。
飲みの場は嫌いではないし、他人の話や経験談・容姿や行動を観察して得られるものもあるし、何より私自身が話し相手に飢えていたので参加したのだが、隣に座った誰かと一人ずつ話すならまだしも、大勢がいっぺんに、みんなに向かって喋るのが前提の雰囲気では、自然と私は静かになってしまう。そういう場には我先にと喋りたがる人が他にいて、私が率先して口を開く必要はないからだ。
周りが楽しければ基本それが一番いいことだからと割り切っているが、十分二十分に一度程度、それもほんの十数秒とかしか話題を振られないのは、それはそれで寂しい。しかも聞かれることといえば大体、結婚までどのくらいかかったのかとか、結婚式はしたのかとか、(私からすれば)くだらない質問ばかりだ。まあ、本人がそれ以上語らないことを根掘り葉掘り聞いてくるほどデリカシーがない人達ではなかったので、根は皆いい人なのだろうけど。
実際、私のノンアルコール飲料が進んでないと見るやお茶とジュースを勧めてくれたり、提供した食器や道具に大変感謝してくれたりと、会話に混じれない以外は何ら不愉快な目には遭っていないのだ。むしろ、この場で一番厄介なのは変に気難しい私なのかもしれない。
単純に私とその「場」が合わないだけであって、彼らには何の罪もない。
そういういい人ばかりに囲まれて、さりとて退屈な思いは拭い去れず、途中から鯨がかなり気を遣ってこちらを見てくれているのが分かったが、そうやって「部外者」として気を遣われていることすら癪で、目も合わせずに大体無視してしまった。
レッテル貼りの苦手な人間に、テンポの速い飲み会は向いてないな。
そもそも今夜はタコパだと聞いていたので、どんなに盛り上がっても常識の範囲内の時間に終わると思っていた。まさか、夕飯時どころか夜中になっても解散する気配がないなんて。少しでも早寝がしたい私にとっては地獄だった。
だから、鯨が気を利かせて先に帰るかと聞いてくれた事に乗じて、眠気で体調がよくない振りをして帰って来た。「呼んでくださってありがとうございました。楽しかったです」と、笑顔で完璧な大嘘までついて。
「普通の人はさあ、あれを地獄だと思ったりしないのかな。みんな楽しそうにしてたけど。
楽しいか楽しくないかで言われたら楽しい方って答える人が多いと思うけど、地獄とまで思う人はそんなにいないんじゃないかと思うんだよねぇ……」
「さあな。そもそも見えてる表情からだけじゃ、他人が何考えてるかなんてわかんねーだろ。
あの人らにとってはあれが楽しいことで、あんたにとっては違った。そんだけのことだ。
別にそれ以上、推測することも思い詰めることもない」
横になった私のとりとめもない話を聞きながら、直生くんは隣に座り、頭を撫でてくれていた。
直生くんは暫く黙っていたけれど、その口が、思いもがけない言葉を作るのを私は聞いた。
「前にあんたが言ってた。『その目で見て、聞いて、感じたことがすべて』なんだろ。
つまらないと感じたんだったら、それがあんたにとっての真実だよ。
気にすんな。あんたは悪くねえ。……あんたは、何も悪くねえよ」
つい、目を見開いた。まさか私に向かって、こんなことを言うとは思わなかったからだ。その言葉で、一気に安心して涙腺が緩んでしまった。
玄関先の電灯がほんのり反射する廊下は、静まり返っている。
今も、鯨と同僚達は楽しく飲み続けたり、片付けをしたりしているのだろう。
私が地獄と感じる会話を、当たり障りなくそれとなく楽しんで。
私のパートナーが感じられる楽しさを、なぜ私は隣で享受出来ないのだろう。
そう思うと、久しぶりに胸が苦しくなって涙が出る。
相手にされないことが悲しいのか、交流出来ないことが悔しいのか、それとも下手な話題で相手にせずにいてくれたことを逆にありがたく思っているのか、鯨に気を遣われたことが情けないのか、それでも気を遣ってくれるパートナーで居てくれたことが嬉しいのか……
ぐちゃぐちゃに流れる涙の理由が、一向にわからない。
わからないけど、わかることが一つだけある。
私は別に、辛いからといって哀れまれたい訳じゃない。
可哀相だねとかひどいねとか言って欲しいわけでも、代わりに泣いたり怒ったりして欲しいわけでも、ましてや私を追い詰めた人々を憎んで欲しいわけでもない。
あんまりな目に遭った時ならば当然話は別だが、どんなに泣いても苦しくても、この程度は私にとっては些細な思い出に分類される方だ。むしろ、たった一回の接触が原因で、その人達の良さや見つめるべき本質を、永遠に曇らせてしまう方が、私には怖い。
だから、こういう時人に話を聞いて欲しいとは思うけれど、「こんなに泣かせて、辛そうな事に気付いていながら、夫はなぜ紫咲を帰らせなかった」みたいな怒りの反応は、何か違うなと思うのだ。むしろ鯨としては、私を厚意で誘ってくれた先方と、無理やりあの場にいるしかなかった私の、どちらにも角を立てない形で申し出てくれたと思う。
SNSというのは、顔の見えないメディアだ。もし私が相談したり愚痴を漏らしたりして、それを見ているフォロワーが厚意でそんな風に糾弾すれば、私としてはその気持ちを慮って、鯨を、ひいてはこの飲み会自体を悪者にせざるを得なくなってしまう。私が前向きに捉えていきたいと願う事物の評価を、私以外の人の中で底辺まで貶めてしまう。私が何か一つ、愚痴を零しただけで。それはとても、つらいというか悲しいことだった。
というのも、最近になって漸く気付いたことだけれど。だから私は、本当にどうしようもない事以外、SNSでネガティブな愚痴を漏らす事を極力やめた。そんなのは、自分にとっても他人にとっても、幸せにならないと思ったから。
とはいえ……いくらそう思ったところで、今べろべろに泣いているのは事実だ。当然、ヨルくん達が見ていたら心配されてしまうに決まっている。
直生くんがこういう時にばかり私の傍に現れるのは、それが理由だろう、と思った。
彼なら、いくら私の話を聞いたところで、いいとも悪いとも言わない。
その場限りの感情に深い理由を求めないし、ああそうかよと首肯を返しながら、どうしても行き過ぎた箇所だけは諌めてくれる。
なんだかその、他人からはひどく冷めて見えるであろう優しさが、私には心地良かった。
そういえば、前も職場の飲み会で傷付いて帰った日には、直生くんが傍にいたっけ。
決して同じ布団には入って来ないまま、こちらを見て視線を合わせることすらなく、直生くんは枕元に膝を組んで座り、傍で眠っているヨアさんと窓の外の月明かりを、交互に眺めていた。
「直生くんは寝ないの? もう2時だよ」
「不規則な時間帯の仕事に慣れると、深夜でも目が冴えちまってな。あんたはさっさと寝ろ」
この子は一体いつ寝てるんだろう、と思っていたところで、ようやく鯨が帰ってきた。
隣のリビングに入ってきたので、布団の中からおかえり、と声を掛けると、私はとっくに寝たと思っていたのか、少し驚いた返事が返ってくる。
「まさか、2時まで掛かると思わんかったわ……。食器は洗って持って帰って来たから」
「だいぶ遅くなったね。お疲れ」
ほんの二、三言言葉を交わしてから、彼はふと何かを思い出したように、「こんな遅くまで起きて待っててくれてありがとう」と言った。別に待ってたわけじゃなくて泣いてて寝れなかっただけだし、あまりに想定外の言葉だったので、私の口からは「ああ……まあ、うん」と間抜けな声が出た。
おやすみの声を掛けてから、自室に引っ込んでいく姿を追うように台所に顔を出す私と、それを呆れ顔で眺める直生くんだけが、その場に残される。
ぐずり、と鼻を啜り上げたまま、私はほうと溜息を吐いた。
「……さすがに鼻声だけじゃ、泣いてるのには気付かないか」
「気付いて欲しかったのか?」
「んなわけないでしょ。別に私、謝って欲しいわけじゃないもん」
「そういう顔してるけどな。今から部屋押し掛けて、寂しかったって素直に言えよ。布団にぐらい入れてくれるかもしんないぜ」
「そんな恥ずかしいことはし〜ま〜せ〜ん〜!!!!!!」
お茶が飲みたかったものの丁度切らしていたので、やかんを火にかけながら、その前に私はずるずる座り込んだ。おい、と直生くんが物問いたげな声で咎めながら肩をつつく。
「ここで泣いてるお前の肩を抱くのは、どう考えてもオレの役どころじゃねえだろうが。
こういうことを口に出さなくても気付いてやれるのは、オレらみたいな連中だけだぞ。人間って奴は、たとえどれだけ近い関係性でも、言わなきゃ気が付けない」
「それは分かってますけど、どう考えたって今更あの人に泣きつくなんて想像つかない。私そういうポジじゃないし、そもそもわざわざ慰めてもらうような事じゃないよ」
「お前ら夫婦なんだろ? たまにぐらい意地張ってないで甘えてやれよ。オレに今まで喋ってたようなことを、隣の部屋に飛び込んでって喋るだけで済む話じゃねーか」
「そしたらなんか、私が同僚の人たち相手に嫌な感情を抱いてた事までバレるじゃんっ!? 私はただ、人がまったく気にしてないことを上手く消化できなくて、他人を嫌だと思っちゃう自分が一番イヤなだけ……もうやだ死にたい……」
「……こういうことあんま言いたかないけど、あんたもしかして生理前か?」
「そうですけど!?!?!?」
体育座りで突っ伏していた涙目の顔を、がばっと上げる。
無理やり自分を納得させかけたと思えばすぐに泣き出す、情緒不安定極まりない私の挙動は、それで直生くんにも納得されたらしい。一応身体上の性別は女である直生くんは、あー……とわかったような声を出してそれ以上何も言わなくなった。心当たりがあったのかもしれない。
そうなのだ。ちょっと落ち込んでしまうことと、PMSの不調が被ってしまった日には、些細なことでも気持ちの切り替えができないで、永遠に悲観のループに入ってしまう。
最近はあまりなかったけど、今は実際に生理前なのでもうそういうことにしておこう。それこそタイミングが悪かっただけで、誰も悪くなんかない。
やかんの火は忘れずに消してから、お茶を注いで部屋に戻る。布団に潜り込んでからも、さっきの「ありがとう」を思い出すだに涙が出た。悲しかったからじゃない。一応は、自分のことを考えていてくれたのが分かって、ほんの少し嬉しかったからだ。
「おい、あんま泣くな。せっかく通ったのに、寝ながら泣いたらまた鼻詰まっちまうぞ」
「だってえ〜〜〜〜」
私にも泣きたい日ぐらいある。
いくら泣き止んだと思っていても、黙って上を向いているだけで、涙が目の横を伝っていくだけの日もあることぐらい、許して欲しい。
さっきのお茶は冷めただろうかと、寝室に戻ってぐすぐす鼻を鳴らしながらマグカップを手に取り、一口啜ってから振り向くと、直生くんが黙ってこちらを見ていた。
「……」
怒っているか呆れていると思ったが、意外なことにそのどちらでもない。何かを考えているような顔だ。
何か言いたいことでもあるのかとぼーっと見つめていたら——彼は想定外の行動に出た。
左手で私の顎先を素早く捉え——唐突にその唇を重ね合わせたのだ。
「……っ、?!?!?!」
あの超がつくド級のイケメンに正面からキスをされていることにも、その相手が私であることにも驚いたが、何よりあの直生くんが、たとえ慰めであっても気軽に私なんかにキスするはずない、という思いが勝って大混乱してしまう。
とにかく愛理一筋、他の人間には脇目も振らずここまで成長してきたプライドの塊みたいな人間が、慰めや優しさであっても、演技以外で他人に唇を許すことなど、許してもいいと思う程揺るがされることなど、決してない。
ないはずなのに、それは挨拶や戯れの域を超えて甘い、熱いキスだった。
軽く触れ合わせただけの、初めて味わう熟れた唇の感触に、これは何かの冗談なのか、応じて良いものなのかと慎重に引きかけた私の後頭部を、空いた手が支えていた。
「……、ふ……っ」
皆が寝静まった部屋に、二人分の吐息と、煩い心臓の鼓動だけが耳元に響く。
本気でキスに応じるのなんて、ヨハネさん以外ではいつぶりのことになるだろう。
戸惑いを置き去りにするくらい、表面を食んでいた唇が舌先へ、喉の奥へと深く交わい、全てを掻っ攫っていく。触れ合う額と鼻筋が熱い。
突き飛ばすようなことはしなかった。否、正直に言えばしたいと思わなかった。気が付いたら指が縋っていた。
それとなく私の掌を受け止めてくれていた大きな指が、するっと組み入れた指の隙間をなぞる。それだけで体がぞわぞわすることを知っているかのように、掌から肘、腕を、さらに髪や耳の先を、キスの最中にそれとなく触って、小さな火を灯していく。
「……は、ぁ……っ」
「……っふ。腰砕けだな」
唇が離れた瞬間、吐息が漏れると同時に鼻で笑われたけど、まさしくその通りだった。
最初からへたりこんではいたけど、腰から下がガクガクして力が入らない。ほんの数分キスしただけで、息すらまともに吸えない程上がってしまっている。
顔を伺い見れば、直生くんは目を細めたまま、暗闇の中で微かに光る艶っぽい唇を、ぺろりと舐めては不敵に歪めてみせた。
そのくせに、私の顎を片手で捉えたまま囁く声音は、今までにないほど優しい。
「αのキスで、大概のことがどうでもよくならねえ奴なんかいねーよ」
「……っ」
ぶわっ、と顔が熱くなった。
思わず、想定外すぎて布団の上で思いっきり背を向けてしまう。
たしかに、なんかもう……今の一瞬だけで、頭の中を占拠していた飲み会だのくしゃくしゃの感情だのが、どっか行ってしまった気はするけど。
暗に、自分にぶつけろと言われているのか。
私はオメガバース世界の住人じゃないけど、彼なら私の性別が何だろうとこうする、と思った。
直生くん自身も布団に入ってくる気配を伴いながら、低くて落ち着いた声が響いた。
「まあ、効くのは少し時間掛かるかもな」
「な、なんで。あの……」
「あんたが一番必要そうに見えたから。
オレが誰にでも気軽にこういうことしないのは、あんたが一番よく知ってんだろ」
恐る恐る、ころりと寝返りを打った先で、試すような青い瞳とかち合う。
懐に入れた人間以外には、たとえどれだけ表面上は丁寧な態度を取ろうと、決して気を許さない。
何であっても、「愛理を守る」という己の目的の為なら、冷酷に斬り捨てる。打算もなしに、最初から相手に気を持たせるなんて、リスキーかつまどろっこしい真似はしない。
そういう人間だ。鈴木直生は。
だからこそ、その行動に説得力が出る。それが戯れでない事は、その行動自体が一番物語っている。
「んで? 効いてきた頃になって、あんた一人でどうにかなんのか」
「ど、どういうことよ」
「手伝ってやろうかって言ってんだよ」
「……」
「言っただろう。あんたは、悪くない。
……それでも傷が痛むんなら、いっそ何もかも忘れちまえよ」
伸ばされた大きな掌が、私の視界を覆った。
……なるほどな。ヨアさんはこの罠に堕ちたのか。
抱き寄せられた先に、大柄な肩と豊満な胸がある。やけにヨアさんもヨルくんもエリくんも静かだと思ったが、こういうわけだったらしい。最初から、私たち二人を除いたみんなに、防音魔法が掛かってる。多分、何をしようと何を叫ぼうと、誰にも気付かれることはない。
そっと額を触れ合わせた直生くんが、私に囁いた。私が小柄な分、その包み込むような肉体の力強さが、よく分かる。
「あんたが去るに十分な、一回目の言い訳はもう与えてやった。オレじゃなくて本人に、不満も感情も全部ぶつけちまえってな。多少の恥を捨てれば、あんたにとっても同居人にとっても有益で、現実的な解決策だったはずだ」
「……」
「んで、二回目の言い訳は、まだ必要か?」
「……その聞き方は、ずるい、と思う」
返事の代わりに、小さく笑う声がして口付けが降ってきた。
いつもこうだ。この人は、何もかもを自身の美貌とカリスマ性で押し流す。αの特権を翳せば、何しても許されるしどうにでもなると思ってる。
しかもその言い訳を、何よりも必要としている人間の前に、溺れる人間に藁を差し出すみたいにここぞという時ばかり持ち出して、逃げ道を全部塞いで、相手から握らせてしまう。
そのことが、一番悔しい。
(ほんと、地頭いいくせに、なんでそういうとこばっかり頭が回るかな)
はっきり言って、才能の無駄遣いだ。
けれどいくら恨み言を吐いたところで、誘惑に負けた私には何一つ、言い返せる余地などないのだった。
*****
翌朝。
「……」
とてもここには書き記せないほど、あられもない目に遭った気がする。
そして私を好き勝手籠絡した本人は、現在ヨアさんの横で大の字になりながらくーかー寝息を立てている。
思わず指先を眉間に当てた私は、どう皆に顔向けしたらいいだろうかと頭を悩ませた。
いやもう、素知らぬ顔で黙ってたらいいのかもしれないけど、居直るには若干気まずい。
「なんだ。寝付くの遅かった割に、もう起きてんのか」
「直生くんこそ早起きじゃん。まあ、ちょっと生理痛もあるし……朝ご飯どうしようかと思って」
でもおかげで少しだけ、素直になれた気がする。
なんとなく、別に何を責めるでもなく、鯨をカフェへブランチに誘ってやろうかな、と思う程度には。嫌なことがあった翌朝にも残りがちな、変な拗れや後ろ向きな落ち込みは、ほとんど消え失せていた。ただ落ち着いて、分かち合うために会話がしたいという素直な気持ちだけが、残っていた。
それはそれとして、だ。
根本的な解決にはなったんだろうか、これ。やる必要あったか?
天気のいい土曜日、朝日の中で呆けていると、直生くんが無責任に隣から言った。
「根本的に解決しようと思ったら、逆に手なんか出してねーよ。
忘れたいことを忘れちまえるからいいんだろ」
「直生くんって、意外とそういう刹那的な悦びに身を任せるタイプだよね」
「オレの職業がまあそうだからな」
頭を振り、散らばっていた髪を結い上げながら、しゃあしゃあと述べてみせる。
その場限りの演技で、他人に夢を見せる仕事。
共通するといえばする。もしかしたらこの子は、ホストや風俗業やらせても上手くいったのかもしれない。ていうか、一時期レッスン代とか化粧代稼ぐのにしてたんだっけか。
そうこうするうちに、隣の布団でもぞもぞと動く、エリくんとヨルくんの気配がした。
「あ……二人とも、おはよう」
「おはよー。サキ、帰って来てたんだ」
「ぐっすり寝てたから、全然気付かなかった」
おはようのキスをすると、くすぐったそうに二人で抱きついてきた。いつも通りだ。
ということは、すぐ隣にいたけどアレには気付かれてない……と思いきや。
二人は何か意味深長な表情をして、布団の背に隠れ、穴から出てきた子兎のように体をくっ付け合いながらこちらを見ている。
「( ˙꒳˙)」
「( ˙꒳˙)」
「ちょっと二人とも、何訳知り顔して……」
「「( ˙꒳˙)」」
わかった二人ともグルなやつだこれ。
もう、と二人の頭を撫でたら、ヨルくんとエリくんは順番に照れたような顔をした。
「ボク達は何も言ってないよ。でも直生にーちゃんが、もしサキが落ち込んで帰って来たら慰めてあげたくなるかもしれないから、念のため魔法の準備しといてくれって」
「直生くんが適任だって言うんじゃ、しょーがないよね」
「あんのやろ……」
どこまで、計算の範囲内だったのか。
いくら人外かつ中身は子供でないとはいえ、小さい子を巻き込んでまで何してるのよ。
思わず半目になって、Tシャツを捲りながらお腹を掻く直生くんを肘で突いてしまった。
「なーにが『慰めてあげたくなる』よ。慰めるは慰めるでも完全にソッチの方じゃない、このケダモノが……」
「けどよかっただろ?」
「バーカ!バーカバーカ!!」
「う〜ん、うるさい……朝から何……」
もうバカしか言葉が出ずに言い争っていたら、隣のヨアさんがずるずるとタオルケットの下から這い出てきた。これだけの騒ぎになったら目を覚ますのも無理はない。
そういえばこっちは何か知らされていたんだろうか……と思っていたら、ヨアさんは目を擦りながら、寝惚けてこっちに抱きついてきた。出て来たばかりの、気持ちいい感触の敷布に押し倒される。
「んわぁっ、ちょっ」
「ふぁ……サキ、おはよ……!?!?!?!?」
「?」
何をそんなに驚いて……とふと開いた自分のシャツの胸元を見た瞬間、私も固まった。
昨晩の、明らかなる痕跡。首筋や鎖骨に、くっきりとキスマークが残っていた。
当然、がばりと背後を振り返るヨアさん。直生くんは、一瞬あちゃあという顔をしたが、初めからバレるのは想定内だったようで、特に焦った様子もなく苦笑してみせる。
「な、直生……!?!? おっ、おまえっ、まっ、まさかっ、まさかっっ」
「お前の方がそんな露骨に慌てることねーだろ。ここは普通オレが慌てるところだぜ」
「じゃーなんであんたはそんなに余裕なんだよッッ!?!? この見境なしの淫乱オオカミ……っ、もうほんとッ、ほんと信じらんないッ!」
「んな耳元で悲鳴みてえな声出さなくていいだろ! お前の大声頭にキンキンくるんだよ!」
「ご、ごめんなさいヨアさんその、私も悪かったから……」
「あんたには怒ってないからッッッ!」
全然怒ってなくはなさそうな大声で言われて、思わず肩をすくめる。
やれ察しはしてたけど本当にやるとは思わなかっただの、やれ人の彼女を何だと思ってるんだだの、膝を詰めてこんこんと説教するヨアさんと、手を合わせるもののイマイチ本気で反省しているように見えない直生くんのやり取りを眺めながら、私は痴話喧嘩に興味津々のヨルくん達を抱え、そのままズルズルとリビングまで退散した。
まああの二人、色んな意味で身体をゆるし合うほど仲が良いみたいだし、何とかなるだろう。きっと。
(てことは、私もヨアさんも、二人とも直生くんに寝取られたことになるのか……?)
どういう状況だそれ、と脳内でツッコミを入れる。
甘えられる先が増えたのは、素直にありがたいと思うが……世間一般から見れば、この家はどんどん特異的な状況が加速しているに違いない。
まあ別に、誰に批判されてるわけでもないしいっか、と思いながら、私は改めて、喫茶店に行くために鯨の部屋の扉を開けた。
*****
直生くんが喫茶店について来るのも、珍しいことだった。
普段、こんな風に外で直生くんと話をする機会はあんまりない。
道中、車の中で鯨さんは、私が何か話し掛けるより先に「昨日は、多分あなたに一番つまらない思いをさせたからごめんね」と謝ってくれて、それだけで溜飲が下がるというか、だいたいのことがもうどうでもよく感じた。
私と話をしながら、「誰かが楽しく過ごそうと思ったら、誰かが自分を抑圧するっていうか、犠牲にするしかないからね……」とも言っていた。人が聞いたらキレるところかもしれないが、私は別に、その感覚を知っておいてくれるならばそれでいい。これが分かるということは、少なからず鯨にも自己を犠牲に配慮した経験や自覚があるということだ。
そうまでしてでも、場の空気を壊さず尽力した私は褒め称えられるべきなのだから、その分こうやって言葉を交わし、本を買ってもらい、朝食をいい喫茶店で奢ってもらえるだけよしとしよう。私が直生くん達と自由に好き勝手過ごすのも、許してくれてるし。
労ってもらえるならば、労は大した苦にならない。労いや感謝を忘れた時が、一番の問題だ。
食後、久しぶりにゆったりと膝を組み、持って来た本で読書の時間を楽しみながら、私は隣で頷いて様子を見守っていた直生くんに、ふと問い掛けた。
「そういえば、ヨアさん達はどこ行ったの?」
「夜羽たち連れてラウワン行くって」
「ほえ?」
そりゃまた、行き先としては珍しい。
カフェインレスコーヒーのカップをゆるりと回しながら、私は想像を巡らせた。
「ラウワンで何するんだろ。ボウリングとかかな。カラオケだけなら、わざわざラウワン行かないよね」
「スポッチャでキックボクシングやるんだとさ。サンドバッグ殴る気満々だったぜ。主にヨアが」
「……わあお」
一体、何に対するストレス発散なのか、聞きたい気もするがやめておこう。
直生くんも釣られて神妙な顔をしていたが、私の顔を見て、はあと溜息を吐いた。
「あんた、存外鈍いよな。なんであいつらじゃなくてオレがここに居るか、本当にわかってんのか?」
「?」
ボックスシートに深く身を沈めた直生くんは、肩を竦めて説明するように片手を広げる。
ポニーテールに、洗いざらしのデニム地のシャツがよく似合っていた。
「あいつらだって、昨日のこと、何とも思ってねえわけじゃないだろ。
別に、あんたのつるんでた連中を嫌いたいわけじゃない。ただ、あんたの前で今すぐいい顔できる自信もねぇし、かといって露骨にあんたの前でそんな態度を出しちまったら、必死で参加してたあんたが傷付く。
だから、ちょっとしたストレス発散というか、距離を置いてんだよ。心配しなくても、多少ガス抜きすりゃ元通りけろっとした顔で帰ってくる」
納得しかない説明に、今度は私が申し訳なさでため息をつく番だ。
「やっぱり、あちらを立てればこちらが立たずか……困ったねぇ。
別に、とんでもない無理をしてるわけじゃないんだし、私が一人で奮闘してることに関しては、そこまでみんなが気を揉んだり心配してくれなくっても、大丈夫なんだけど……」
「まあ、死なない程度ならオレもいちいち止める気はねーよ。ただ、あんたにほんの僅かでも、傷付いて欲しくなくて心配な連中もいるんじゃねえか。あいつらはまだ、慣れた方だと思うけどさ。
愛されるってのも、なかなか大変なもんだな」
そう言って、直生くんが目を閉じながらコーヒーを啜る。
誰かが愛したいと願う通りに愛されることにも、責任が伴うのか。
思えばそれは昔からそうだった気がするけれど、大人になっても変わらないようだ。
誰かを心配させないことと、自分が自分を擦り減らすことの妥協点は、どこに存在するのだろう。
それを共に考えていけるようにと、私は自身も無理をしがちな直生くんの手を、隣でそっと握ったのだった。