赤子時代の夜羽は、今にも増して臆病な性格らしく、案の定泣き出してしまうが……
【Cam_This World_Nagoya_2014_05】
「ここか……」
ふわり、と窓辺のバルコニーから洋風の邸宅へと舞い降りたへし
付喪神の身はいくら常人からは見えないとはいえ、顰めしい面を携えながら司祭然とした厳粛な格好で住宅に入っていく姿は、子供が見ただけで泣き出してしまいそうな雰囲気を醸し出している。
カーテンの影から土足で踏み入れたその行く先に、小さなベビーベッドがあった。艶やかな木材で設えられた上質なベッドの上に、むずかるような表情で寝転がっている、透き通るような青目の赤ん坊の姿がある。ベッドの傍には「
この先の未来ではよく見知ったその姿を、長谷部は上から見下ろして目を細め、安堵したように嘆息した。
「よかった。今のところ、何事もなく育っているようだな」
「うあああ〜〜ん!!!」
突然大声で、しかしその小柄な体に合わせたかのようなやや控えめな鳴き声を赤ん坊が上げると、長谷部はぎょっとしたような顔で慌て始めるが、子供部屋の入り口から誰かが入ってくる気配はない。
赤子は依然として泣き続けており、長谷部がふと扉を開けてテラス状の廊下から階下を覗き込むと、一階の閉じられた扉の向こう側から、電話で話しているらしき母親の声が微かに漏れ聞こえてくる。こんなにも広い邸宅だというのに、他に家族や使用人が駆けつけてくるような様子もない。長谷部は小さく溜息を吐いた。
「……金銭的に恵まれた家庭環境でも、気にかけてくれる者がいないのか」
「ふええっ、うぅっ、ぐすっ」
もはや泣き疲れたように声が小さくなる夜羽を見て、長谷部の顔に同情的な表情が浮かぶ。
誰から見えている訳でもあるまいに、長谷部は周囲を伺うようにして何度もきょろきょろと見渡し、挙動不審な仕草でベッドに近付きながら、覚束ない手つきで慎重に夜羽のことを抱き上げた。
すると、泣き喚いていた夜羽が、驚いたようにぱっちりと目を開ける。その綺麗な青玉のような瞳を、長谷部の見開いた藤色の目と見合わせたのも束の間、夜羽はさっきにも増して大きな声で泣き始めた。
「ふぎゃあああん!うえああああん!」
「おっ……おいどうした!? 俺だぞ!? 何故泣く!? って、この時代のお前に言っても仕方がないのか……よ、よしよし、泣くな」
むしろ自分が抱かない方がいいのではという表情で、長谷部はだだっ広い子供部屋の中を、赤子の気を引けそうなものを探してうろうろしていたが、その移動の揺れが逆に心地よかったのか、夜羽はしばらくするときょとんとしたような顔を浮かべて静かになった。
やがてふと気が付いて長谷部が胸元を見ると、ストラを胸の前で留めている金縁の紐飾りが気に入ったのか、こちらが何をしようとも思う前に、夜羽はそれを紅葉のような手で弄ってはしゃいでいた。
「きゃきゃいっ」
「やれやれ……子供というものは、相変わらずよくわからんな」
小さく肩をすくめた長谷部は、普段であれば頭を抱えているところだが、両腕でしっかと抱きかかえた子供を落とすわけにもいかないので、そのまま夜羽の様子を伺っている。金の飾りを涎でべとべとにした夜羽は、気が済んだのか、親指をちゅうちゅう吸いながら、ふと長谷部を見上げてにこっとした。先程まで泣いていたのが嘘のように、生え揃え始めた短い黒髪の頭で、にこにこ笑っている。
「あうー、えあう」
「まったく、お前は……。天使になるよう宿命付けられている者に、血の匂いは辛いだろうに。俺が怖くはないのか?」
長谷部が手袋をした手で擽るように夜羽の顔を撫でると、夜羽はきゃっきゃと楽しげな声を上げる。年齢は違えど、屈託のない笑顔は、今の本丸で何かと長谷部を慕ってくる夜羽のそれと同じものだ。
不意に気配を感じ、長谷部は俊敏に窓辺を振り返った。
「おや。珍しいお客人もあるものじゃな」
反射的に右手が刀の柄に触れるが、敵意のない者だとわかった長谷部は、安堵したように息を吐く。テラスの手すりからとっと床に降り立った小さな白狐の姿を見て、長谷部が口を開いた。
「お前が、主と夜羽を導き出逢えるよう仕向けた、守り神という奴か」
「そこまで偉いものじゃあありゃあせん。ただの世話好きの化け狐が、世話役兼保護者係をやっておるようなものじゃ。こやつが転生前の記憶を取り戻すのも、もうしばらく先の事じゃろうしな」
「それにしてもその見た目……
「誰が小狐丸じゃ」
ぽんっ、と音を立てた白狐が、耳と髭の生えた長い白髪の人型に変わった。ふさふさと触り心地の良さそうな尻尾を振って見せるが、夜羽は怯えたように、長谷部の服へとぎゅっとしがみ付いた。
「えうー」
「と、このように人の格好では怯えられてしまうのでな。人の手足がなくとも魔法は使い慣れとるし、何かとこの姿の方が、儂にも都合がよい」
そう言って、すぐにぽんと煙を立てて小狐姿に戻った狐の神は、長谷部の肩にぴょいと飛び乗ると、腕の上から尻尾を垂らして、夜羽の顔をくすぐった。すぐに楽しげに笑い声を上げる夜羽の前で、ぶらぶら尻尾を揺らしながら、狐が長谷部を見上げる。
「それにしても、小狐丸とはまた懐かしいの。あやつと会ったのも久しく前のことじゃ。おまんところの分霊も、さぞ振るっておるのじゃろうな」
「毎日稲荷と油揚げが食べられて元気そうだぞ」
「ふぉっふぉ。帰りにあやつへの土産でも持たせてやろうかのぉ」
満足げに笑って胸元を見下ろした狐は、ふと夜羽がうとうと寝そうになっているのを見て、葡萄のような瞳をぱちくりとさせた。
「おや、珍しい。余程おまんを信頼しておるようじゃな」
「そうなのか……? 本丸で会ったこいつは、やたらと俺にくっついて来るんだが、正直そこまで好かれる事をしている覚えもない。主が命に変えても守りたいと大事になさっている御子ゆえ、もちろん丁重に扱ってはいるが……」
「おまんの堅実で実直な性格は、儂も嫌いではない。滲み出るものがあるのじゃろう」
不思議そうに首を傾げつつ、先程よりはやや慣れた手つきで眠る夜羽を抱き直した長谷部は、部屋のソファに腰を下ろしながら、隣に飛び乗った狐に尋ねた。
「折角会えたのならついでに尋ねたい事があるんだが、最近このあたりで、遡行軍の襲撃や変わった事が起きている気配はないか?」
「いたって平和じゃな。儂も、おまんらとは別次元に存在する者ゆえ、全てを把握しとる訳じゃあないが……この子を狙うような者とは会っておらんよ。まあ、天使として開花してからはわからんがの。今のところは安全じゃ」
「主と出逢えるまでに、こいつがこの家で健やかに育てる見通しは立っているのか?」
「それも心配なしじゃな。この世で出生後に世話をする魔法契約を結んだ仮の親が、多少放任なのが問題と言えば問題じゃが……こやつが育つまでは、儂が天界の師匠としてつきっきりになる約束じゃ。時間の許す限り面倒は見とる。少し早いが、そのうちこやつの使い魔も採る予定じゃし、人間どもが多少いい加減でも何とかなるじゃろう」
「ふむ……」
任務で確認するべき事項は、すべて裏が取れた事になる。
すやすやと安らかに眠る幼子を、長谷部は慎重に元いたベッドに戻し、名残惜しげに柔らかな黒髪を撫でた。普段はきりりとした目元が、夜羽の前では優しげに緩んでいる。
「俺が守ってやれたらいいが、ずっとここに留まるわけにもいかないからな」
「じゃな。おまんがこやつと会うべき時は“今”ではないのじゃろ」
「うぐ……しかし、血縁がないとはいえ、夜羽は主と大層体質が似ているからな。こんなに貧弱で、本当に大丈夫だろうか。何か心細い思いをしていたり、この先躓いた時に、立ち直れなかったりするのではないかと……」
次から次へと心配が湧いてきて止まらない様子の長谷部に、狐はふわふわした顔周りの毛を揺らしながら、見かけによらぬ頼もしい笑い声を漏らしながら言った。
「確かに人見知りもするし体も弱いが、すこぶる育てやすい子じゃよ。それなりに生きる術も覚えよう。安心せい。いずれ成長し天使の自覚を持てば、早い段階で徐々に前世の記憶も戻る。そうなれば、見かけは子供でも中身は立派な大人じゃ」
「……それ、本当にそうか? 俺の前では、今でもあいつは子供に見えるんだが……」
「ほっほ。まぁ、個体差というものはあるわいの。異世界にこやつの元となった存在があるとしても、この姿を与えられてからのこやつの人生ならぬ天使生は今からじゃからな。人間としては未成熟なんじゃろう。おまんらと同じじゃよ」
「そういうものなのか……???」
首を傾げる長谷部はぴんとはきていないようだったが、その類似性が何かと自分と夜羽に繋がりを感じさせるのかもしれない、と思い直す。階段を上がってくる母親の足音がして、長谷部は今度こそ吹っ切れたようにばさりと上衣を翻した。
「行くのかや?」
「世話役が来たのなら、俺が留まる意味もないだろう。そいつを頼んだぞ」
「任せておくがよい。皆によろしくの」
ひらひらと尻尾を振って別れの意を示す狐が飛び乗った、ベッドの方角をもう一度振り返る。うっすらと眠たげにその瞼を持ち上げた幼子を最後に一目見て、長谷部は元来たテラスから飛び降りる瞬間、桜吹雪の中でふっと口元を微笑ませた。
「夜羽。お前が主となる日を、お前にとっての未来で、待っているぞ」
描写の面ではまるっとスルーしてしまったんですが、うちの長谷部くんは極めております、一応。
夜羽くんが天使になった過程と、成長してからの様子は、マルメロ家日記のシリーズをご覧いただくか、「運命の人」シリーズをご参照ください。