新年を祝う人々の賑やかさに溢れた街で、則宗の向かう先は……
【Cam_This World _Shanghai_1985_02】
屋台から立ち上る、焼けた肉や鍋物の香りが漂う俗っぽい路地を、一人の男が歩いていた。
石造りの建物の間を、踊るような足取りで陽気に行くジャケットに白袴の姿は、異国風の街並みと自然に溶け合い、それでいてごった返す人波の中でその風雅さが自然と人目を惹いている。
あちこち跳ねた癖毛の金髪に碧眼。西洋然とした顔つきの割に、不思議と洋国にも亜細亜にも馴染んだ身なりを整えた麗人は、赤いショールを翻して、軒下で
「すまないが、一つ教えてはくれないか。このあたりで、日本酒の醸造と販売を商っている会社を探しているんだが」
「ん? ああ、それなら有名だよ。なんでも日本から上海くんだりまでやって来て、販路を拡大しようってんだからね。若奥さんは豪快だし旦那はちーと頼りないが、みんなあそこの人らを好いてるさ」
「酒の味も上々だしなぁ。今夜みたいな祭りの晩にはうってつけよ。ほら、あっこの角を曲がって、もう少し行った先だ。しかし兄ちゃん、夜だし店は閉まってるぜ」
次々と集まっては好意的に口出しを始める現地人の言葉は、皆口調の激しい中国語だが、見かけの若いその男は鷹揚に笑って踵を返す。
「なあに、僕は酒じゃあなく、あの家の人間に用があるのでな」
「ほう、あの家族の知り合いかぁ。まぁ、今は酒の仕込みに加えて赤ん坊の世話もあるから大変だと思うが、よろしく言っといてくれや」
「もうすぐ獅子舞が通るぜ、この通りは昔っから春節ん時は一際賑やかなんだ。兄ちゃんも用が終わったら戻って来いよ。こっちで俺らと飲もうぜ」
声を上げる男達の姿に、赤いストールの青年は、祭りの喧騒にも負けない大声で豪快に笑いながら、手を振って応えた。
「うははは。僕はただのじじいさ。兄ちゃんはよしてくれ。だが、それも良いかもしれんな。どれ、後で寄らせてもらうとするか」
本気でそう思っているのかどうかも分からない口調で、赤提灯の真下を道の向こうへ消えていく酔狂な後ろ姿を見送りながら、残された人々が次々に首を傾げた。
「なんか、変わった奴だったなあ。あれのどこがじじいなんだ?」
「英国人っぽい見た目だが、西洋の奴らにしては妙に馴れ馴れしいし」
「それに何だ、あの格好は。異国の王子かなんかじゃねえのか?」
「なんで王子が、こんな脂ぎった街を護衛も付けずに一人で歩いてんだよ」
「狐にでも化かされたかもしれんな。わはは、まあ何だっていいさ。今夜は飲もう飲もう」
人々の疑問は、祝祭の喧騒とごちそうの匂いと陽気な笑い声にすぐさまかき消されていく。新たな年を迎える春節は、そのくらい現地の人々にとっては特別な節目なのだ。
その群れを抜けて、朱色の提灯飾りや家々の軒先に垂れ下がる真っ赤な祝い飾りの下を抜けながら、青年——
「やれやれ。堪能な主に多少教わったとはいえ、この国の発音は相変わらず舌が絡まりそうだぞ。せめて道を尋ねる時に言葉の一つも知らんでは困るだろうとは思ったが、あまり年寄りに無体を働いてくれるなよ」
付喪神たる刀剣男士の姿は、通常であれば人の目に映ることはないが、時と場合に応じて術で自由に姿を現したり、そこにいながら気配を消したりすることが出来るようになっている。
文句を言いつつ、任務のために探し当てた建物を見上げて、則宗はにぃと口角を上げる。
「ここだな」
一階が店舗になった商会のようだ。開きっぱなしのガレージには、車と共に輸入物らしき段ボールや木箱の山が積まれており、眼鏡の男性がやや疲れたような顔つきで、それを移動させながら額を腕で拭っていた。
「この寒空の下、汗をかくほどに働くとは、ご苦労な事だなぁ。邪魔するぞ」
再び気配を消し、聞こえないと知りつつも男に声を掛けながら、則宗は車庫の入り口から……入ろうとしたものの、ふと脇にある自転車小屋と、その上にある外装工事の足場越しに灯りの灯った窓を目に留めると、にっこりとして、助走を付けながら自転車小屋の屋根に飛び乗った。どうやらやんちゃの血が疼いたらしい。
一回転しながら、それでいて猫の如く音も立てずにひらりと舞い降りると、則宗はトタンの屋根から外壁の足場に飛び移る。腕力だけで体を持ち上げながら、手摺がついた二階のベランダによっこいせと這い上がると、格子窓の内側を覗き込んだ。
側から挙動だけ見ていたら完全に泥棒か不審者のそれだが、どうせ見えないのだからと気に留めてもいないようだ。
「どれどれ」
鍵が閉まっていたはずの窓が、則宗を迎え入れるかのようにいとも簡単に開く。内側に開いた窓から飛び降りると、飴色に磨かれた木製の床に白壁の室内には、同じ系統の木材で設えられた掛け時計や化粧台、戸棚などが揃っている。ダブルサイズのベッドがあるところを見るに、夫婦の寝室として使っている場所なのだろう。ベッドの向こう側にはさらに奥間のもう一部屋に続く扉があって、書斎として使っているらしき机が見える。
そして、窓辺にほど近い壁際、カーテンが引かれた大きな窓の側に、白レースの天蓋付きのベビーベッドがあり、そこに赤ん坊が寝転がっていた。手に持っていたおしゃぶりをぽいと放り投げ、大きなお尻でごろんと寝返りを打ちながら、くーかー寝息を立てている。不揃いな黒毛は、まだ完全には生え揃っていない。
天蓋をそろりとかき分け、中の様子を伺いながら、則宗がその藍玉のような瞳を輝かせた。
「ほう。お前さんが、将来の仮の主という奴か。食えん娘っこだと主は言っていたが、こうして見ると未だ憂いも悪意も知らぬ、ただの赤ん坊だな。
確かに、主の持っているお前さんを模したぬいぐるみによく似ているか……いや、しかしあんなに毛は生えていないようだな。生後一年近い人の子では、まあこんなところだろう」
則宗が含み笑いを漏らすと、不意に窓の外で歓声が上がり、深夜の花火が打ち上がった。今年も無事に年越しを迎えたようで、街路の人々が一斉に爆竹をぶち撒け、窓の外が俄かに明るくなる。窓を閉めていてもわかるほどの激しい音と衝撃が、レンガ作りの建物の間にこだまするが、赤ん坊は涎を垂らして幸せそうに眠っていた。
中華風の格子窓から外を見上げ、呆れたように則宗が言う。
「しかしまあ、こんなどんちゃん騒ぎの中でよくも寝ていられるなぁ、お前さん。銃声すら久しいじじいの耳には、いささか堪えるぞ」
くぅくぅ寝息を立てた赤ん坊が、それを合図にうっすらとその瞳を開けて黒い目を覗かせた頃、階下から人の上がってくる音がして、寝室の扉が開く。
哺乳瓶を携えた、ひどく小柄で長髪の女性が、則宗が見守っているとも知らずにベビーベッドの方へ歩み寄ってきた。
「すまないな、
「どうしたんだい、
「聞いてよ、
広海と呼ばれていた、先ほどガレージで働いていた男が、湯の入ったポットや育児用品一式の入った籠を両手で抱えて、えっちらおっちら階段を登ってくる。
それを待たずに、麗香と呼ばれた母親らしき女性は、我が子——愛理を抱きかかえて、寝ぼけまなこの口元に哺乳瓶の乳首を吸わせた。
「ほら。待望のミルクだぞ」
「……うー?」
眠そうにしていたのは単純に空腹を忘れていたからのようで、ぽけっとしていた愛理は目の前に差し出された食料にはっと目を見開くと、がぶがぶミルクを吸い始めた。肩を揺らして笑っている麗香の元に、荷物を置き終えた広海が合流する。
「こんなに賑やかな晩でも大人しく寝ていてくれるのは助かるが、あまり静かだとそれはそれで心配になるね。妙におっとりしたところは、広海さんに似たのかしら」
「そ、そうだろうか……? 愛理は泣き声も大きいし、ハイハイも速いし、もうつかまり立ちも始めたし、元気のいいところは麗香くんに似たと思うけどなぁ……それに、君に似て美人だ」
「あらあら、もう。広海さんったら、本当に褒めるのが上手なんだから」
べったり寄り添う夫婦を見て、窓際に腰掛けながら笑みを浮かべる則宗。
「おうおう、お熱いことだな」
「んう?」
すると、お腹がいっぱいになったらしき愛理が、哺乳瓶を手放して以来、ぱっちりと目を開けて則宗の座る窓辺を見つめ始めた。ゲップをさせても、ずっと同じ方向をじーっと見ているので、さすがの麗香も不思議になったらしい。
「どうした、愛理?」
「向こうに何かいるのか?」
当然、不夜城のような灯りが入る窓辺があるだけで、麗香の目にも広海の目にも、何も映ってはいない。ただ、その上にあぐらをかいて座る則宗のことが、愛理にははっきりと見えているようで、はしゃいだように声を上げ始めた。
「あーい! あーい!」
「お、おい、この子、何もないところに向かって手を振ってるぞ……」
「何が見えてるんだ、愛理……?」
戦々恐々とする二人の前で、則宗は思わず大笑いだ。
「ふははは。そうか、お前さんには見えているか」
「あっ、なんだ……あそこにあるガラガラが取りたいんだな、愛理?」
窓辺の前に転がっているガラガラに向かって愛理が手を伸ばしているのを見て、麗香がほっと息を吐く。しきりに声を上げてアピールする愛理を見て、則宗は嬉しそうに目を細めた。
「ほう? じじいに取って来いと言うか」
「あー、うー」
「わっと、愛理、わかったわかった。今降ろすから」
腕から落ちそうなほど身を乗り出す愛理に耐えかねて、麗香がその腕からそっと降ろすと、愛理はつるりとした床の上を器用にハイハイして、まっすぐにガラガラへと向かい始めた。それを見て取った則宗は、ひょいと窓辺から飛び降りると、しゃがんでガラガラの前で両手を広げながら叩いてみせる。
「ほれ、じじいはこっちだぞ」
「あー!」
途中から這っているのがもどかしくなったのか、愛理はなんと戸棚に掴まって両足で立ち上がり、そのまま嬉しそうにどたどたと則宗に向かって歩き始めた。ほんの数歩ではあったが、背後で見ていた両親があんぐりしたのは言うまでもない。
その勢いに任せた貴重な一人歩きの瞬間を、あろうことか両親に背を向けて見せつけることになった愛理は、よろめいて床に転ぶ瞬間、ふわりと則宗の腕に助けられていた。
「おおっと。よくここまで進んだな。ほれ、誉をやろう。受け取れ」
「きゃいきゃいっ」
「あ……愛理、やっぱり何もないところに向かってガラガラ振ってないか……?」
「ぼ、僕にもそう見えるよ、麗香くん……」
微笑ましい成長の一ページのはずが、則宗の見えていない両親にとっては、ただの恐怖映像になってしまったらしい。
蒼白になりかけていた麗香は、はっとしたように顔を上げて広海を見上げた。
「そ、そうだ! もうすぐここ、獅子舞の通る時間じゃなかった!? 事情を話してここに呼んで、ついでに愛理の頭も噛んでもらって厄払いしてもらいましょう、広海さん!」
「う、うむ、君の国には確かそういう風習があったな。日本の獅子舞とも同じだ。元々愛理の誕生祝いに頼む予定ではあったが、善は急げと言うし!」
大慌てで部屋を出てドタドタ階段を降りていく両親を、愛理は床にぺたりと座り込んだまま、何もわからないという様子でぽかーんと見つめている。その一部始終を見届けていた則宗は、あぐらの膝に愛理を乗せながら耐えかねたように笑い出した。
「わっはっは! 嗚呼、これはたまらんな。主に何と報告したものか」
「あーい!」
「そうかそうか、お前さんも愉快か。どうやら世話焼きの過ぎる両親なようだが、それもまた一興。お前さんの物語を彩ることになろう」
楽しそうにはしゃいだ愛理を膝の上で揺らしながら、則宗がその小さな頭に触れて目を細める。アクアマリンのようなその瞳が、微かに寂しげに揺らいだ。
「愛された果てに、お前さん自身が〝もう一人の自分〟を生み出すことになろうとはな。今はとても考えられんよ」
「あう?」
「倦むも人生、愛しむもまた人生。お前さんが耐え忍ばねばならない数々の苦難に僕は関われんが、しかしお前さんの持つ歪さを愛する人間が、必ず現れるだろう。物語の内側にも、外側にも。
その時僕が、幾許かでも力になるというのなら、このじじいを好きなだけ使ってみるがよい。何せこの僕も、若造の叩き上げが趣味のようなものでね。この先でお前さんと出逢えるのを、楽しみに待つとしよう」
その言葉の意味がわかるはずもなく、きょとんとして見上げる愛理を優しく抱き上げた則宗は、高い高いをして遊んだ後に、そのまま愛理をベビーベッドの上に落ち着かせた。
愛理が勝手に床からベビーベッドの柵の内側に戻っていたことで、おそらく後で入って来た両親が再び泡を吹く羽目になるだろうが、則宗は気付いていないのか、それとも半分わざとなのか。
「さて、危険がないとわかれば、僕はもう行かねばならん。このままここにいては、悪霊と間違われて祓われてしまうからなぁ」
「ぶぅっ」
「そう急くな。人の一生とは一瞬だ。僕と出逢うまでに、お前さんにも会うべき人・成すことが山と残っているだろう。僕なら待てるが、周りの人間の寿命はそう長くはない。再び相見えて遊ぶのは、その後でも遅くはないぞ」
立ち去るのを察したのか、口を尖らせる愛理をぽんぽんと宥め、則宗は獅子舞と銅鑼の音が鳴り響く派手な路上を見下ろすベランダに出る。そこからひらひらと派手に桜を舞わせ、則宗は幼子を喜ばせていた。
「ではな、愛理。力強く生きろよ」
「あいっ」
手を振り返す愛理を一度見て笑みを浮かべてから、則宗はひらりと獅子舞にすれ違うようにして飛び降りた。何食わぬ顔で民家の屋根上から見物を試みていると、先ほど則宗に声を掛けてきた一団とすれ違う。
「おう、さっきの兄ちゃんじゃねえか。何してんだ、そんなとこで」
「丁度いいや、俺ら今からこいつの実家に年始のご馳走を頂きに行くところでよ。ついでにぱーっと、家の前で爆竹でも上げてやろうって話してたんだ」
「兄ちゃんも混じりなよ。その感じじゃ、この国での正月は初めてなんだろう」
言葉も終わらぬうちから、子供たちが爆竹を打ち上げて大はしゃぎしている。からからと笑った則宗は、投げられた赤筒を受け取って、そのお祭り騒ぎの中に嬉々としながら身を投じて行ったのだった。
「もう祭りではしゃぐような歳でもないんだがなぁ。まあいい、折角遠い地まで縁あって来られたんだ。存分に暴れさせてもらうぞ」
弊創作のファンの間では有名な話なのですが、愛理の生年である1984年は丁度2月2日が旧正月で、愛理は旧暦では元旦生まれのキャラクターなのです。
これは生まれて一年後くらいの様子ですが、愛理の生まれた年もまた、こんな感じで同じくらい賑やかだったろうと思います。