マルメロ家だいすき日記2022〜2023   作:大野 紫咲

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風邪を引いた日の夜。紫咲は、夢の中で別本丸の三日月宗近と出逢う。
図書館で出逢ったその三日月は、どうやら資料の探し方に困っていたようで……?
※2025年から、夜翰さん→ヨアさんの修正作業を始めました!
しぶばーじょんはこちら→ https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=20041329


図書館の君

 風邪の熱がようやく引いて、ある程度まともに眠れるようになった日の夜。

 私は、夢の中で図書館にいた。

 どことなく今住んでいる地域の図書館に雰囲気は似ているが、夢だし完全に同じとは言えない。

 本棚とパソコン画面が並んだ、レファレンス専用の区画のような場所で、紙を捲るような音があちこちから聞こえてくる。どうも今回は、恐ろしい夢ではなさそうだ。身に覚えのある気配に、私は少し安堵した。

 何を調べているのか、自分でもよくわかってはいなかったが、手元にあるファイルと書棚の中身を見比べて、私は何とはなしに、ぱらりと本のページを捲った。

 その時だ。右側に影が差し掛かって、私に声を掛けてくる人がいた。

 

「すまないが、一つ教えてはくれまいか。この本を探しているんだが」

 

 なんかめっちゃ聞き覚えのある声だね???

 と思う間もなく、顔を上げてその姿を見上げた私は固まった。見慣れた三日月模様の深い青の狩衣に、少しひょんと跳ねた黒髪。柔和な微笑みと、ブルーハワイを思わせる青に黄色混じりの瞳。三日月宗近。紛れもなく、刀の神がそこにいた。

 

「あっ……えっ……⁉︎」

 

 思わず声を出してしまってから、ここが図書館だったのを思い出し、慌てて口を塞いで辺りを見回す。幸いなことに、誰にも気付かれていなかったらしい。それどころか、図書館に来るには随分と目立つ格好ともいえる三日月さんを、気に留める様子の人が周囲に全くいなかった事からして、元々人間からは見えていないのかもしれない。

 手を口に当てたまま挙動不審に様子を伺う私を見て、三日月さんは眉の端を下げながら、少し申し訳なさそうにも見える笑顔でころころと笑った。

 

「すまない、驚かせてしまったな。同業者かと思ったもので、つい声を掛けてしまった」

「あ、いえ、同業者は多分合ってま……す……?」

 

 審神者だということが、バレているのだろうか。

 それに、私の夢だし見目形はそっくりだけれど、この三日月さんは、多分うちの本丸の三日月さんじゃないな。外見的特徴から判別出来たわけじゃないのに、何故かそう思う。雰囲気というか、感じというか。審神者だけに分かる勘みたいなものだろうか。

 自分の親切で何か手助けが出来るならと思い、私はおずおずと顔を上げた。

 

「あの、本をお探しなんですか……?」

「ああ。ここに書いてあるものなんだが」

 

 司書でもないのに私に分かるだろうかと思ったけれど、どうも探したい本の目星は最初から付いていて、タッチパネルでの入力が上手くいっていなかっただけらしい。タイトルを検索欄に入れて、書架番号から本を探すくらいの真似は私でも出来たので、棚を回りながら何冊か本を抜き出すと、私に物珍しげについて来た三日月さんは、おおっと嬉しそうな声を上げながら、分厚い本を受け取っていた。

 

「いやはや、これは助かった。やはり若い者は探すのが早いな」

「いえいえ、そんな……他に何かお困りの事はありませんか?」

「この部分の印刷をと頼まれているんだが、俺はどうも機械が苦手でな」

 

 何かに関する資料を集めているらしく、コピーした紙をファイリングしたノートを、その三日月さんは持っていた。

 印刷機を使ったコピーなら、そんなに難しい事ではない。それこそ、大学時代にレポート書く時に死ぬほどやったし。

 頼まれた資料を印刷し、それを分別する作業を手伝った。夢の中だから、何を書かれているかははっきりと分からないのに、隣にいながら黙々と仕事をこなすのが、なんだか楽しい。どんな本丸の個体でも、三日月宗近という刀は、自然とこちらが落ち着くオーラを放っているような気がするのは、私だけだろうか。緊張しながらも図々しい真似に出てしまったと思ったが、三日月さんはただ隣で、微笑ましく作業を見守ってくれていた。

 

 夢の中だから、時間の経過の感覚は独特だ。何日か、何週か。まるで週に一度待ち合わせをして資料集めを手伝っているかのような感覚で、どこかの三日月さんと勝手に意気投合し、すっかり顔見知りの気分になってきた頃。

 

「それと……もう一つ、頼みがある。その資料も印刷して譲ってはくれないだろうか」

「えっ?」

 

 三日月さんが微笑んで、すっと紺色のファイルを指差す。

 いつの間にか、私の手元にあったファイルが、目の前で開かれていた。自分のものなのに、今まで中身がわかっていなかったけれど、よく見たらそれは、私が台湾や日本で旅行した先で、昔もらってきたパンフレットや記念の品が、パンパンに詰め込まれたクリアファイルだった。

 全然整理をしてないから、写真やら観光地のマップやら、行った店の名刺やら、可愛くて捨てずに取っておいたティーバッグの袋やら、とにかく雑多なものが各ページの袋にごっちゃになって入っている。

 そして、三日月さんの示した指先には、何かが書かれたルーズリーフ……小説の設定か、はたまた必要知識のメモかは忘れたが、明らかに私の字で纏まったノートの紙片が挟まっていた。

 思わず反射的に、慌てて首を振った。

 

「そ、そんな。私が纏めたこんなぐしゃぐしゃのノートじゃなくて、もっと綺麗で見やすいものがどこかにあるはずです。それこそ、この図書館の本とか、誰かの論文とか、色々……」

 

 けれど、三日月さんはゆるりと首を振り返すと、穏やかに微笑んだままで、——本当に嬉しそうに、私の抱えるファイルにそっと触れたのだ。

 

「他の誰かではなく、おぬしの書いたものがよいのだ」

 

 どうして、そんなに私の書いたノートに拘るんだろう。私より優秀で、見やすく書ける人はいくらでもいるのに。

 思わず言葉に詰まったけれど、なんとも言えない気持ちを飲み下すようにして、私は言われたページをコピーした。

 そうしないと、泣いてしまいそうだったから。

 あと少しで、多分これを受け取ったら、この三日月さんは図書館から帰ってしまう。もう二度と、会う事もなくなってしまう。そんな予感があった。

 最後のページを渡して、書棚の間で向き合うと、三日月さんは出逢った時と同じ、朗らかな笑みを浮かべて言った。

 

「ありがとう。おぬしに手伝ってもらったお陰で、よい収集ができた」

「あ……え、いえ、そんな……私なんて、本当に大した事は」

「そう謙遜するな、自信を持ってよいのだぞ。本当に助かった。これで主も喜ぶだろう」

 

 大袈裟だなあ。思わずふっと笑ってしまったのに、瞳を見ながらそう言われたら、胸の内側からじわりと、感謝と涙が滲む。

 よかった……と思いながら俯いた私の頭上を、三日月さんの掌がふわりと撫でた。まさか、よその本丸の審神者にまでそんな気軽にスキンシップを取ってくれると思わなかったから、思わず俯いて真っ赤になってしまう。

 顔を、上げられない。このまんまお別れするのは、寂しいのに。行って欲しくないのに。

 

「何か、礼に叶えられる事はあるか?」

 

 頭を撫でながら、優しい声が響く。

 行かないで。これからも、一緒にいて。寂しい。

 どうして、よその三日月さんにそんな事を言いたくなるのか、わからなかった。

 けれど、私は——誰かに求められて、嬉しかったのだと思う。

 

 私は、専業主婦の片手間に審神者になった。

 体も弱く、そんなにコンスタントには働けないから一時は辞退しようと思ったけれど、時の政府はそれでも気軽に始めて欲しいと言ってくれた。それに、私には常に前を歩き続ける、憧れの審神者先輩がいたから。理由としてはそんな、大した事のない動機だった。

 主婦としての現実での暮らしにだって、大した役割はない。

 風邪を引いて、病院の帰りにドラッグストアで薬を待っていた時、忙しく立ち働く薬剤師さん達を眺めながら、ふと思った。

 ここにいる人達はみんな、健康で頑丈で、当たり前のように、出勤すべき日に出て仕事が出来る。生きているだけで、100点満点の生活だ。パートであれ正社員であれ、「毎日元気に出勤できる」以上の長所がどこにあるのだろう、と。

 私には、それすらない。社会人として一番に求められる「当たり前」すら、欠如している。

 だから、この歳になっても何もない。養われて生きていく事は出来ても、社会の中で、誰からも求められない。

 

 そんな私に突然手を差し出して、「私」だからいいのだと、言ってくれた。それは「人」ではなかったけれど、リアルの世界でどこにも居場所がなかった私に、どこに居ても惨めだった私に、生きる意味を与えてくれた。ありがとう、助かったと、言ってくれた。

 誰かに暮らしの中でそんな風に言って貰えたのは、結婚してこんな生活を続ける中で、数えられるくらいに少なく——本当に本当に、久しぶりの事だったのだ。

 それこそ「誰かが私を必要とした」という、たった一つの何気ない事実で、涙が止まらなくなってしまう程度には。

 

「……っ、……ひっく……うっ……ううっ……」

 

 返事の代わりに、俯いた顔から、押し殺した嗚咽と涙が幾つも零れ落ちた。

 たった一つか二つ、本を探して、集めるのを手伝って、コピーして。誰でも出来る事をやっただけだ。

 たまたま私がそこにいて、手が空いていたから。別に一本丸の立派な刀が頭を下げて感謝するほどの事じゃないし、大した事は何もしていない。

 それなのに、一期一会の出逢いの瞬間から、丁寧に礼を尽くした温かい感謝と優しさは、私だけに向けられていた。

 助けを求めてくれてありがとう、と、力にならせてくれてありがとう、と、そう言いたいのは、私の方だったのに。

 

「うっ……う……うあっ……あ……っ」

 

 言葉にならずに、ただ涙になって流れ落ちるその全部を、まるでわかってくれているかのように、三日月さんはいつまでも、私の頭を撫で続けてくれていた。

 

*****

 

 その日。

 夢から戻りぼんやりしたまま、私はまだ夢現で、本丸の三日月さんに会いに行った。

 朝ぼらけの中で、早々に目を覚ましていた三日月さんは、内番着姿のまま、縁側でお茶の支度をしながら日を浴びている。

 まだ袴を纏う気力もなく、裸足で浴衣のままやって来た私を、三日月さんは振り返った。

 

「お早う、主。今朝は早いな。また熱で眠れなかったのか」

 

 やや心配げな表情を浮かべる、いつもと変わらないうちの三日月さんは、私の顔色が良くなってきているのを見て、ぺたぺたと歩み寄って来た私の頬に手を当てながら、少しだけ安堵したようだ。

 

「ふむ。昨日一昨日より、随分と楽になったように見えるな」

「おじいちゃん……」

 

 大きな手が、少しひやりとして気持ちいい。

 いなくなっているはずはないのに、三日月さんがいつも通り本丸に居てくれている事に、酷く安心した。それはそうだ、あの夢でお別れしたのは別の本丸の三日月さんで、この三日月さんじゃないし、私が恋しがったり悲しがったりする義理なんてないのだから。

 それなのに、いつも通り三日月さんがここに居てくれる朝の風景が、ひどく愛おしくて、心があたたかくて、夢の中で味わった優しさと重ね合わせた瞬間、ほろほろと涙が頬を零れ落ちた。

 

「おじいちゃあんっ……」

 

 夢から覚めてまでこんなに泣きじゃくってしまう自分を滑稽だとも思うけど、涙が止まらなくなってしまった私を、訳もわからないだろうに慌てることも問い詰めることもなく、三日月さんは伸ばした手で撫でると、縁側で隣に座らせてくれた。

 

「どうした。何か悲しいことがあったか」

「うぅ……えっく……ぐすっ……」

 

 着物に染みを作っちゃうのは申し訳ないなぁと思いつつも、べったり三日月さんにくっついたまま、私は蹲った膝から顔を上げられずにいた。悲しいこと……どうなのかな。部類としては、むしろ嬉しいことに入ると思うけど。泣きながら夢であったことを少しずつ話すと、小鳥の声が微かに響く庭で、三日月さんは右肩で抱くように寄り添った私の髪を漉きながら、目を細めて何度も頷いていた。

 

「そうか。はっはっは、それは他所の本丸の俺も、さぞ嬉しかろうなぁ」

「そうかなあ……?」

「こんなにも聡明で努力家な主が、人助けならぬ刀助けをしたのだぞ。他所の俺も、お前が審神者であることはわかっていたのだろう? 自分を大切に扱ってくれる同業と出逢えたことは、誇らしかったに違いない」

「そ、かな……だったら、私も嬉しいな」

 

 今はそう思うことしかできないけれど、その言葉が、心にぽっかり空いてしまったどうしようもない寂寞を、埋めていってくれるような気がした。

 お礼に叶えられることはないかと、あの三日月さんは聞いてたけど、願うことなら、どうか幸せに、本丸と主と共に生きていって欲しいと思う。

 話しているうちに、ふと私は気が付いて頭を上げた。

 

「ごめんなさい、よその本丸の三日月さんの話なんかして」

「はっはっは。俺がそんな事で気を悪くするほど、狭量な刀に見えるか? 紫咲」

「ううん、全然。でも、あんまり気持ちよくないかなぁって……なんていうか、その三日月さんとどうしてももう一回会いたいとか、うちの刀にしたいとか、そういう訳じゃないんだよ。ただ、あの時どうしようもなく寂しくなっちゃって……」

「わかっているとも。ただ、その俺がお前に求めたことが、お前の普段感じている寂しさや苦しさに、すっぽり嵌まったのだろうなぁ」

 

 優しく肩を撫でながら言われると、日は高くなってきたのに、うとうとと心地よい眠りに誘われる。風邪から回復したばかりで、体力がまだ追い付いていないらしい。少し動いただけで、疲れて眠くなってしまう。半分くらい目を閉じていると、三日月さんはそーっと私の体を横倒しにして、そのまま膝の上に頭を預けた。

 

「ん……重いよ……?」

「かまわんよ。主の頭くらい、軽いものだ。今は存分に、じじいの膝に甘えるといい」

「ありがとう……おじいちゃん、すき。めっちゃだいすき」

「うむ。俺も紫咲が好きだぞ」

 

 当たり前のようにのほほんと降ってくる声も、柔らかに髪や耳を撫でてくれる手つきも、全てが心地良い。

 1000年を超える歴史を持つ刀の神様に、こんな風に甘えるなんて図々しいのかもしれないけど、その傍はほっとして、温かくて、ついつい離れ難くなる。

 優しく心を解くようなぬくみに揺蕩いながら、私はそのまま三日月さんの膝に身を任せて、ころりと寝てしまったのだった。

 

*****

 

「……お湯、冷めちゃったでしょ。新しい奴持って来たから、その急須の中のはボクが飲むよ」

「はっは。気を遣わせてすまんなぁ、夜明」

 

 背後から小声で話し掛けてきた人影に、三日月が小さく微笑して振り返る。盆に載せた湯呑みと、あつあつの鉄瓶を持った人物——紫咲のパートナーである夜明(ヨア)は、この本丸に合わせた甚平姿の出立ちで、三日月の左隣に静かに腰を下ろした。普段から露出の多い服装を好みがちな夜明ではあるが、上下共に半袖なのは却って珍しい。

 柔和な三日月に、夜明は照れを隠すようにして、ぼそぼそと返事をしながら茶を注ぐ。

 

「別に……自分の湯呑み取りに行って、戻って来たらサキがあんたの前で泣いてたから、今割って入るのもなんか違うと思って。ついでだから、待ってる間に厨でお湯沸かして持って来ただけ」

「そういうのを、気を遣える奴と言うのだぞ」

 

 紫咲を起こさないよう、二人の声量は小さいものの、静謐な朝の空気の中では、互いの声が何かに遮られることもなく、程よく耳に届く。

 先ほどまでの会話を途中から遠目に眺めていた夜明は、小さく湯呑みを啜ってから呟いた。朝の光が艶っぽい紫紺の前髪に反射して、朝露を浴びたような輝きを纏わせている。

 

「……その三日月宗近は、なんでサキの思い出なんか欲しがったんだろう」

「さあてなあ。その俺が何を目的で歴史を収集していたのかはわからんが、きっと主の辿った『物語』は、もう一人の俺にも興味深いものだったのだろう」

「まあ、それは……わからなくも、ないけど。サキの人生ってなんかこう、波瀾万丈だし」

 

 紫咲は、取り立てて有名人のような煌びやかな人生を送っている訳でも、誰の目をも惹く劇的な過去や経歴を持つわけでもない。それこそ、大きな歴史と情報の波の狭間に、簡単に飲まれて消えてしまうような、何て事はない人生だ。

 それでもその人生における一つ一つを輝かせているのは、紫咲の「物語」だと、三日月は思っていた。決して平凡だと流す事なく、その中で味わう幸せや歓び、それだけでなく悲しみや苦しみさえも、噛み締めて天へと上げていく、彼女の生き様。意味があるのかと己に問い直しながらも、もうダメだと何度も足を止めそうになりながらも、どうにか一歩、また一歩と持ち上げて踏み出そうとする、その姿が三日月にはとても愛しかった。この本丸に顕現して以来、短い間にも眺めてきた紫咲の姿だ。

 初夏の風が吹いて、軒先の風鈴を小さく鳴らしていく。涼しげな音色の下、三日月の膝を枕にしながら、熱で火照った体をようやく冷ませたというように安らかな寝息を立てる紫咲を見下ろし、夜明は不意にぽつりと漏らした。

 

「……止められなかったんだ」

「うん?」

「こんな事になるまで、ボクは気付いてやれなかった。絶対にサキの事を守ってやるって、言ったのに。本人が大丈夫って言うから、なんとなく自分でも見守りつつ心配はしてやってるつもりで。心配はしてるけど、まだ自分の都合とか仕事を優先して大丈夫だって思ってて……甘えて、潰れるまで放置した。最低だ。こんなの、サキの旦那さんと大して変わらないじゃん」

 

 ぎゅっと、悔しげに吐露した夜明がその唇を噛む。元より美しいだけに、険しくなると尚更その造りの鋭さが際立ってしまう夜明の顔色を見ながら、三日月は困ったように眉尻を下げた。

 

「そんな事はあるまい。見よ。お前たちの手は、あまりにも小さいのだぞ。その五本の指で、望むもの全てを守り切れず溢れ落としてしまうのも、無理はない。守るものが多い中で、お前はよくやっているさ」

 

 褐色のたおやかな夜翰の指の間に、三日月の色白な大きな手の指が、ゆっくりと差し入れられる。それをぎゅっと握り返しながら、肩を震わせる夜明の頬を、堪え切れなくなった涙が伝った。

 

「それでも……っ、何かできたんじゃないかって……っ、もっと早く、もっと沢山サキのところに通い詰めていれば、こんな事にはならなかったんじゃないかって……!」

 

 叫びながら真珠の粒のような涙を散らす夜明を、三日月は右隣で切なげに目を細めながら見守っていたが、やがて柔らかく解いた手を、麻の着物越しの細い肩に回し、包み込むように夜明のことを抱き寄せた。

 右手で、膝枕に横たわる紫咲の黒髪を。左手で、嗚咽を漏らす夜明の紫紺に近い黒髪を。交互に優しく撫でながら、静かに目を閉じた三日月は、泣き声を上げる夜明の華奢な腕を摩る。

 

「夜明。お前たちは、二人そろって優しい子らだなぁ」

「優しいって……ぐすっ……別に、ボクはそんな、優しくなんかないし」

「いいや。そんな事はないぞ。悲しいのは、人を想って痛める心がある故だ。紫咲もまた、お前たちや常世の人間達のことを想わなければ、こんなに苦しみはしないだろう。本当に、頼りなき小さな体で、なんとも大きな悩みを抱えるものだなぁ。お前たち人間は」

 

 朝方の抜けるような青空に残った月を仰いで、その名の如き弧のような光の浮かぶ瞳を、三日月は感慨深げに優しく和らげた。

 

「生きている限り、孤独が癒えることはない。それでも、共にある者達の力があることで、主は命を繋いでいる。俺も、お前もな。お前をこれ程までに泣かせたのだ。主もしばらくは養生して、身も心も慮ってくれるとよいのだがなぁ」

「紫咲って意外と素直に甘えるタイプじゃないんだよね……周りに頑張り屋が多いせいで、すぐ自分を下に置いちゃうというか。まあでも、少なくとも三日月さんには甘えられるみたいだし、それはよかったかな」

「はっはっは。そうか。それは俺も嬉しいな。ただ……」

「?」

 

 ほんの少しだけ、見ていてもわからない程僅かに表情を曇らせた三日月は、首を傾げる夜明の前で、またからりと笑った。朗らかだが、どこか己への呆れを笑い飛ばすかのような笑みだ。

 

「いや。紫咲の夢に現れたのが、他所の本丸のではなく、この俺であればよかったなどと……柄にもなく思ってしまっただけでな。はっはっは」

「ええ……さっき自分は狭量な刀じゃないとかどうとか言ってなかった? 三日月さんって、意外と執着心強い方? サキに焼き餅?」

「お前には敵わんなぁ。なに、年寄りのつまらぬ嫉妬のようなものよ」

 

 意外そうに夜明が瞬いて目を輝かせたのを見て、三日月が苦笑する。

 

「三日月さんでも、そんな事考えたりするんだね」

「今の俺たちには心があるからな。何も綺麗なものだけでできているわけではない」

「心……か。人の内側にある感情は、一つじゃないからね」

「人の身と心というのは、如何にも難儀なものだ。それ故に苦しみ、それゆえに興味深くもある。お前も、感情のままに振る舞う姿は、随分と可愛らしく見えるぞ」

 

 不意に横槍が飛んできて、夜明は不意を突かれながら慌てふためいて声を裏返らせた。

 

「は、はァ!? ボク別にかわっ……かっ、可愛いのは当然かもしれないけど? でも別にそんなん言われても嬉しくないし!」

「ははは。外見の話ではない。心根の良い奴は、見ていて気持ちがいいぞ」

 

 あまりに騒ぐので、とうとう紫咲がもぞもぞと体を動かしながら目を擦る。既に太陽は高く昇り、鳥の声がぴちちと軽やかに庭の木から降り注いできた。ころりと寝返りを打って膝から降り、紫咲は縁側にごろりと転がりながら夜明と三日月を見上げた。

 

「うーん、あれ……夜明さん? いつの間に。おはよう。ふたりで何話してたの?」

「何。俺らの主は可愛いなという話だ」

「違っ! べべべ別にそんな話してないし!」

「はっはっは。その顔の赤さでは、染まった心までは隠せんなぁ」

「ふふ。夜明さんてば、そんな嬉しいこと言ってくれたの?」

「違うってばーッ!」

 

 どちらかといえば恥ずかしい話をしていたのは三日月の方のはずだったのに、しれっと恥を擦り付けられて夜明は声を大きくするが、とはいえ自分も同じような醜態を晒していたので、反論する余地もない。

 誤魔化そうと苦くなった茶を啜る夜明の隣で、三日月が袖の下の手を、紫咲の乱れた髪へと伸ばす。愛すべき刀に寝覚めの髪を整えられて、紫咲は幸せそうに微笑んでいた。




※余談なんですが、一振と一人でいるところを振と人に単位を分けて書くのが、語感的に収まりが悪いなと思って、ひらがなで「ふたり」と表記していることがあります。
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