紫咲の今年のお誕生日記念に書きました。
※この本丸オリジナルの人物や設定が色々出ます
※特に恋愛っぽい要素はありません
「主君。……猿の手の物語を、ご存じですか?」
縁側でお茶を楽しんでいる私に、隣に座ったまま、躊躇いがちにそう言って瞳を上げた前田くんを、私は驚いて見た。季節は秋、未だ日差しの衰えというものを知らぬ太陽が、壽の上から燦々と照り付けて、庭木の葉を輝かせる。羽織を纏った軽装姿で、団栗のような艶のある茶色い瞳が、真剣な色を帯びていた。
「知ってるけど……前田くんは、英国の物語まで嗜んでるのかな?」
「少しは、この本丸にも本がありますし。それに、夜羽や恵李朱が学校で習ったことを教えてくれる事も多いです。この間、読書の時間にこの短編を読んだと聞いて。それで僕も耳にしたんですよ」
にこやかに笑ってそう教えてくれるが、さすが魔法界の学校、一年生が読むにはいささかハードな内容ではないだろうか。
とはいえ、魔法学校に年齢制限はないし、そもそも魔族である
左手に携えた湯呑みを、私は床の上に置いて、頭を巡らせた。
「あれはたしか、どんな願い事でも叶うけれど、願いの成就にはとても大きな代償を伴う……そういう呪物だったよね?」
「ええ。僕が聞いた話では、猿の手の木乃伊なのだと。金を願った夫婦は、労災で亡くなった息子の見舞金として、願ったのと同じ金額を得ることになってしまいます。その息子を蘇らせようと願いを掛けたところ、今度は人ならざる者が玄関先まで尋ねてきた。もう一度息子を墓に戻すよう願ったことで事なきを得ましたが、三つの願掛けを使い切ってさえその代償は大きかったと……そのような話でした」
なんでいきなり、こんな話を始めたんだろう。前田くんは。
首を傾げた私の隣で、沈痛な面持ちで顔を伏せた前田くんは、何かを耐え忍ぶような表情をして、おもむろにそっと、膝に置いたままの私の右手に触れた。
「怒らずに、聞いて頂きたいのですが」
「なあに。前田くんに怒るようなことなんてないよ」
「この話を聞いた時……主君の手のようだと思ったんです。主君は、この手でどんな物語でも生み出すことができる。どんな日常も記録して、僕らのことを支えてくださる。その代わり、この手は」
唇を噛みながら泣きそうに瞳を潤ませた前田くんが、重なった自身の掌を、悔しそうに見つめていた。
それで全てを察して、私は未だ痺れが残る己の掌を、右手の内側に引き寄せた。
描画や筆記やタイピングで、少しでも疲労が溜まるとこの手には痺れや痛みが出る。もちろん、家事や生活一般の動作でも同じように影響する。もう症状が出て一年以上だ。痛みや違和感が気になる時でも、休ませるしか対処療法はない。
原因は不明だが、一年前に整形外科に見せた時、生まれつき外に曲がる肘をしていると、神経を圧迫して痛みや痺れの原因になりやすいと言われた。
普通の人は、両方の手を上向きにして手首の側面同士をくっつけ、両腕を前方に伸ばしても、両腕の肘と肘同士をくっつける事はできない。だが私は、手首から肘までの前腕が、綺麗にぴったりとくっつく。生まれつき、それだけの角度がついて肘が外側に曲がっているからだ。
このような腕のことを、俗には猿腕とか猿手とか言うことがある。
私の手は、本当に「猿の手」なのだ。
夢を創るにも、そのための努力を連ねるにも、この右手では代償を払わずにいられない。何かを生み出せば、確実に消耗する。今はまだその代償が小さく済んでいるのだとしても、これから先もそれがずっと同じだとは限らないのだ。
苛立たしい痛みを振り払うように、手首をぶらぶらさせた右腕を左手で摩っていると、前田くんははっしと私の右手を小さな両手で掴んだ。近付けた顔の中で、傾き始めた秋の日差しに、溢れそうな少年の瞳があまりに必死な色を湛えて光っていた。
「ですがっ! ですがっ……主君は決して、過ぎた願いをお持ちの人ではない。僕らとここで、日々を重ねて、生きようとされているだけ。戦いに赴く僕らを、主君はいつだって明るく励ましてくださる。この本丸には、刀の身を持つものもそうでないものも、たくさんの仲間が増えて……そんな日々を見つめていたいと、主君は願っているだけなのに」
つむじが見えるほど深く俯いた頭の下から、しかし涙が零れ落ちることはなかった。どれほど小さな少年の姿でも、どれほど泣き出しそうに見えても、彼は主君を守るという矜持が高い、凛々しい短刀だから。主より先に泣くことは許されないと、その思いが掴まれた掌の強さと震えから、痛いほど伝わってきた。
絞り出すように吐き出された、掠れた声が、秋風に乗って微かに響く。
「……どうして、主君なのですか」
彼は常日頃、主を困らせるようなことを言う柄ではない。
こちらが答えに窮するようなことは言わないし、ましてや我儘なんて聞いたこともない。
だからそれは、本当にうっかり、彼の感情の制御を超えて出てしまったかのような、悲しく震えた声だった。
「どうして……物を創ることで物を愛そうとする主君が、なぜ。他の誰かではなく、この世界を形作ることを誰よりも愛している主君が……どうして、このような目に遭われなければならないのですか」
「前田くん……」
「呪いなんて……代償を受けなければならないようなことなんて、主君は何一つ望んでない! この本丸の外で、生きていれば当たり前に望めるようなことすら、主君はきっと半分も叶えられていないでしょうに」
ただでさえ健康を害しがちな私がどれほど悔しい思いをしてきたか。初めてこの本丸ができた日から顕現した前田くんは、今までずっと見ていたはずだ。この二年間、まともに外を出歩けた日の方が少なかった。
そっと膝をついて、私は前田くんに向き直ると、彼の温かな掌を握り直した。私以上に、悔しさと理不尽で震えてくれた肩をそっと摩ると、柔らかな茶色いボブの頭を、前田くんはようやく上げてくれた。
「大丈夫だよ。私は……このままでいいとは思ってないけど、でも、この体で生まれたからできることも、きっとあるって思ってる」
「主君……」
「不安になったり、泣きたくなったりすることだってあるけど……でも、こんなに心の温かい神様たちがいっぱい見守ってくれてるんだよ? だったら、どんなに最悪な事が起こったって、それ以上は悪いことなんて起こりようがないに決まってる」
こつりと前田くんの綺麗な前髪のおでこに額をぶつけて、私はその鼓動に耳を澄ませるように、そっと目を閉じた。
「まだ、動く。この手も、足も、耳も、目も。その終わりが来るのがいつかなんてわからないけど、だったらそれまで、君たちのこといっぱい大切にする。色んな方法で、幸せになれないかなって考えてみる。……だからありがとう。前田くんとみんなのおかげで、今はまだ、生きるのを諦めずにいられる」
祈る以外に私がこの身一つでできることなんて、たかが知れている。
それでも私は祈るのだ。
握った手を離さずにいられるように。想いに宿る力を信じていられるように。
優しく見つめると、不意に柔らかな笑みを取り戻して、前田くんは眉を下げながら私に笑いかけた。
「すみません。主君を困らせるつもりではなかったのに、僕はつい難儀なことを」
「まさか。前田くんは普段いい子すぎるんだから、このくらいでちょうどいいよ」
「では、我儘ついでにもう一つ、お願いを申し上げても?」
珍しい。なんなりと、と先を促せば、前田くんは眩しそうに目を細めてから、きちんと正座し直し、私をじっと見つめ返した。
「僕を、修行に行かせていただけませんか。主君」
「そっか……長らくうちにいてくれたけど、もうそろそろ行ってもいい頃合いだもんね」
「主君が涙を堪えて頑張っていらっしゃる隣で、僕が泣くことなどないように。主君がお辛い時、もっと隣でお役に立てるように。——身も心も今より強くなって、帰って来たいのです」
強い決意を込めた言葉に、私は目を見開いた。
心配を掛けてしまうのは忍びないけれど、私の姿を見てそう思ってくれたのは、嬉しかった。修行は、ふらっと行ってしまう子もいれば、何かのきっかけがあって旅立つ子もいるけれど、長く初の姿のままで本丸を守ってくれていた前田くんにとっては、きっとこの「猿の手」が契機だったのだろう。
だから、私は力強く頷いて微笑んだ。
「行っておいで。前田藤四郎。ここでみんなと、帰りを待ってるから」
「主君の三十のお誕生日が過ぎる頃には、戻って参ります。直接お誕生日をお祝いできないのは口惜しいですが、どうかそれまで、今一時待っていてください」
頼もしくにっこりと笑みを返して手を握ってくれる愛刀は、小柄な少年に見えてこの本丸では歴戦の猛者だ。安心して送り出すことができる。
立派になって帰って来る彼の姿が誕生日の贈り物になるなんて、恵まれた審神者だと思いながら、私は小さな両手をぎゅっと握り返した。