人間嫌いの偏屈者な彼は、自分を顕現した紫咲に、なかなか心を開こうとはしなかったが…。
ツンデレな元竜神様が、女審神者に心を寄せるようになるまでの異種間ラブストーリーです。
※本丸やモンハン世界やタマミツネに関する独自設定が多くあります
※タマミツネはタマミツネとして顕現しておりますが、話の途中で擬人化します
※なんでも許せる方向けです
深い暗い水の中で、誰かが呼んでいた。
赤黒い霧が、頭の中を回る。
また煩い人間どもか。それとも身勝手な神職や妖怪の類か。
もうどちらでもいい。
黒い藻の中をどこまでも、絡め取られながら堕ちていくだけの体に、今更何が聞こえたところで。
“あいつ”は、今度こそ添い遂げられる相手に巡り合うだとか馬鹿げたことを抜かしていたが、どこの世界に移り住もうと、結局人間など同じだ。
暗闇など晴れはしない。祀り上げて敬い畏れて、用がなければ処分する、蝿のような人間どもも、“あいつら”のことも——もうどうだっていい。永遠にここにいればいい。
そう思っていた。
気が付けば、目の前が底のない暗闇ではなく、入り口に近い洞窟の中くらいの暗さにまでぼやけてきたのは、どういうわけだったか。
霞む意識の中で、誰かが俺を呼んでいた気がする。
眠い。俺を呼ぶな。
眠ってさえいれば大して何も思い出さずに済むと言うのに、この耳は勝手に音を拾う。
『上手く……いったのかな?』
『笛は戻って来ましたし、成功はしているはずですが……浮かんできませんね、奴』
『ど、どうしよう、中で溺れちゃってたら』
煩い。意識の中で耳を動かすと、腹や足先に水の当たる感覚があった。どろりとした意識の闇の泥ではなく、涼しい水底の石が擦れる感覚が、爪先に当たる。
(水だと……?)
何だ、こんなところに連れて来て。
鼻先を鳴らせば、鼻の中にも空気ではなく水が入り込んできた。鰓を揺する感覚が、ここには時と水の流れがあることを教えてくる。
『タマミツネに限ってそれはないでしょう』
『い、いやでも、わかんないよ。潜ってみる? ああでもっ、私じゃ重すぎて持ち上がらないだろうし』
『本丸から石切丸でも呼んで来ます?』
それにしても、煩い。何なんだこいつらは。さっきから訳のわからない事をぐだぐだと。
水音を伝ってくる喧しさに、耐え切れずに目を開けると、差し込む陽光の激しさに眩暈がした。
皮膚を撫でる水の流れ。聴覚。焼け付くように煌めきながら降り注ぐ光の筋。すべて、生きていた頃の感覚だ。
……「生きていた」? 俺は、死んで常世にも天上にも戻らず、彷徨っていたのでは。
次々と知覚が現世のものへと切り替わり、戸惑う俺の真上あたりから、焦燥に駆られたやり取りがさっきからずっと聴こえてくる。
『えっ、あっ……じゃあ、石切丸さんと岩融にでも頼もうか……。ああっ、でも薙刀組遠征中なんだっけ!? 静さんは!?』
『落ち着いてください、主。静形ならそろそろ戻っているかと』
『どうしよう。まさかこんな大事故になるなんて。水の中が好きな子だと思ったけど、いきなり笛を沈めるなんてやっぱり無茶だったんじゃ……』
『失敗は何事にもつきものですよ。本体さえ無事なら付喪神が死ぬ事はないはずです。もう一度試されては』
(煩い!!!!!)
もう少し籠っていようかと思ったが、苛々してたまらず暗闇を蹴破りながら飛び出すと、水飛沫の向こう側から一対の派手な悲鳴が上がった。
「わひゃああああ!?」
「うおおお!?!?」
この体での加減をすっかり忘れてしまったので、陸地を押し流しそうな波が岸辺へと押し寄せた。そうやって、水上に顔を出して初めて気がつく。どうやらここは、湖の中らしいと。
そして岸辺に……目の前の濡れた草地の上に、尻餅をついたまま丸い目でこちらを見上げる、いかにも愚鈍そうな女がいた。
(……なんだ、こいつは)
さっきから口喧しく喋っていた奴の片方だろう。そして……俺には、自然とわかりかけていた。暗闇の中で、何度も俺を呼んでいたのは、こいつの声なのだ、と。
「貴様あああ! 出て来るなら出て来ると言え! 主をずぶ濡れにした上に心底驚かすとは、悪意があるにも程がある! 許さん!」
「わーわー! 長谷部! 大丈夫だから! 落ち着いて! ステイ、ステイッ」
長谷部と呼ばれた凶暴そうな男が、こちらに向かって何やら喚くのを女が抑えていた。
こいつ、人のなりをしている癖に人間ではないのか。付喪神が忠犬の如くこんな女に傅くとは、神の格というのも堕ちたものだ。
(あそこにいる犬どもは、さっきから尻尾を丸めて近づかぬと言うに。畏れ知らずの犬め)
ガルクと言ったか、かの世界でよく人間に使役されていた動物は、茂みの中でこちらの様子を伺ったまま、威嚇して動かずにいる。こいつらを乗せてここまで来たのだろう。
一方、付喪神とはいえ、塵のような人の身で俺とその女の間に立ちはだかるなど、同じ忠犬でもこちらはなかなか度胸があるようだ。
(構わん。吠えるなら好きなだけ吠えていろ。返り討ちにしてくれる)
牙を剥き出せば裸足で逃げ出すかと思いきや、長谷部という男の背にすっかり隠れるほど小さなその女は、思いもがけない行動に出た。
奴を制するように前へ出ると、俺の方へ向かって歩いて来たのだ。
「大丈夫だよ。ちょっとびっくりしちゃっただけだよね。大丈夫。いい子いい子」
簡単に俺の顎で引き千切れそうな腕を、雫の垂れる着物から剥き出しで、何故かこちらに伸ばしてくる。その顔は、何故か笑っていた。あまりのことに、あわや顔に掌が触れるというというところまで、俺は硬直したまま動くことすら忘れていた。
(……! よ、寄るな!)
それ以上こいつの顔を見ていられなくなり、俺はたまらず尻尾で水面を叩いて背を向けた。とっさの事で力加減など頭の半分ほどでしか考えていなかったが、女はものの見事に波に飲まれ、湖を取り囲む崖の際あたりまで流されていく。
訳がわからないまま混乱した頭で振り向けば、瞬間唖然とした長谷部の周りが、湖の中央から見ている俺からもわかるほどに、殺気で匂い立っていた。
湖のあちこちに反響しそうなよく通る声で、忠犬が吠えるのが聞こえる。
「……ッ!!! タマミツネ、貴様ァ! 顕現したばかりだと言っても限度があるぞ! 主に危害を加えるような真似は俺が許さん! 今すぐその鼻面、叩き切って成敗してくれるッ……!」
「けほけほ……ま、待って待って! 長谷部、私は大丈夫だから! 刀を納めなさい! ねっ!」
「しっ、しかし主……ッ!」
「大丈夫。……本当に傷付ける気があるのなら、とっくに爪や牙を立ててもおかしくないのに、あの子は水しか掛けてこない。優しい子なんだよ」
……何故、俺を庇う。
途方に暮れた様子の長谷部から、手を取られて立ち上がった女は、ずぶ濡れの着物で、水の冷たさに震えながらも、尚俺から目を逸らさずに微笑んでいた。
「主……主の術で見た風景を疑うわけでは決してありませんが、あいつが優しいというのは本当なのですか?」
「うん。まあ、根拠もない勘と言えば勘だけど……。それに、
ぴん、と扇のように広げた耳が、俺の意思に反して動いた。
言霊だ。誠に不本意だが、どう足掻いてもこいつが俺の「主」であるらしいということは、その名を呼ばれることで分かってしまった。だが、実際に俺が主従関係に甘んじるかどうかは別だ。名を握ったくらいで、俺を使役できると思って貰っては困る。
湖の中から動かない俺を見て、それ以上は近づかずに距離を保ったまま、女は岸辺で口元に手を当て、こちらに呼びかけた。
「少し落ち着いたー? 大丈夫。私は何もしないから」
(……こいつ、まさか願いを叶える目的で、元神竜たる俺を現世に顕現したのか?)
だが生憎と、今の俺には「神の資格」はない。
転生権と引き換えに、“あいつ”が俺から勝手に剥奪していったのだ。元々要らぬものだったから奪おうが捨てようが知った事ではないが、ここへ来て勘違いを起こした人間に面倒に巻き込まれるなど、俺は御免だ。
首を傾げる女の声が、湖面を伝ってここまでよく届く。
「青雨。自分が、どうしてここにいるのかわかる?」
(……俺を召喚したところで、何の得にもならないぞ。雨の一滴すら、お前らのために降らせてなどやるものか)
「あのね。あなたはもう、神様にならなくていい。主は私。でも、主とかじゃなくて、普通に友達になって欲しい。ゆっくりしたかったら、ここで好きなだけゆっくりしててくれていいんだよ」
会話が、さっきから微妙に噛み合っていない。ということは、俺の心を読んでいるわけではないようだ。
それにも関わらず、俺が望んだことを次々と投げかけてくる。こうなってくると更に怪しくて、何を企んでいるのかと俺は半目になりながら、水から頭を出して小柄な女を睨んだ。
何の打算もなく、俺を顕現させるなどあり得ない。それなのに、この馬鹿そうな女からは、何か裏の顔らしい匂いは本当に何一つ読み取れないのだった。
(……まさか、本当にただの馬鹿なのか?)
「主の厚意に甘えられるのを有難く思うのだぞ。俺らは、歴史に害を及ぼす遡行軍と戦うべく、現世に呼び出された。種類は違うとはいえ、お前たちもその身分は変わらない。現に、この山で放し飼いにしている奴らも、少しずつ訓練を積み、戦闘や遠征において主のためにその身を役立てているのだ。主の言葉を鵜呑みにせず、お前も顕現した体に慣れ次第、研鑽を重ね……」
(興味ないな)
「ぶわぁっ! 貴様ァ! 人の話の途中で水を掛けるな!」
水鉄砲を顔面に噴射させると、長谷部と呼ばれた忠犬は濡れ鼠になりながら尚も喚いていた。本当に喧しい男だ。
そっぽを向いて身を翻しかけた時、何故かくすくすと主と呼ばれた女が笑っているのが視界に映った。
「ふふっ。……セイ、また明日来るね」
水底に潜りながら、こちらをくすぐるような言葉の端が、俺の耳を掠める。
また明日来るだと?
これだけ酷い目に遭いながら、まだやって来るとは。何を目的とも知らせず、ただ俺に水濡れにされる為だけにやって来るなど、馬鹿げている。それともやはり、口に出さないだけで、そうまでしてでも成就させたい願いがあるというのだろうか。図々しい。
まあ、さしたる目的がないのだとしたら、どうせ口先だけだ。
何故俺に媚びを売ろうとするのか知らないが、それが媚びであるのなら、所詮三日も経たず俺のことなど飽いて放置するだろう。勝手に社に俺を祀り上げた連中と同じように。
そう考えながら、俺は思ったより広い湖から連なる森の中へと、不本意にも呼び出された新天地を散策しに出掛けた。
***
驚いたことに、女は次の日、本当に湖までやって来た。
次の日も、そのまた次の日も。
俺を監視するのは、何もこの女ばかりではない。
何体か、彼女が顕現したと思えるモンスターとはすれ違ったし、時々彼女の本丸に属する他の刀剣男士とやらが、遠巻きに俺の様子を観察しに来る。
その度に水を掛けて追い返してやったが、反撃してきたり、無理やり俺を術や道具で縛り付けたりするような事もない。自由にさせろというのは、本当にあの女が指示しているようだ。
(ったく……
俺をこの世界に、引いてはここに来る前のモンスターが跋扈する世界に転生させた、腹立たしい白狐の面を思い出し、俺は内心で悪態を吐きながら仕方なく魚を獲った。狙いを定めた腕を振るえば、銀色の腹が空中に飛び出て跳ねる。
何が悲しくて、忌み嫌った人間になど、この俺が飼われなければならないのだ。
囲われたここより気軽で居心地がよい場所があるならと、当然の如く俺は脱走を図ったが、何度か周囲を散策して気が付いたのは、存分に広いこの山野にも、どうやら境界があるらしいということだった。
森の風景は果てまで続いているが、ある地点まで来ると透明な壁に跳ね返される。どうやらそれは、結界などではなく“世界”の境界線に類するようなもので、ここまでわざわざやって来るもの好きがいるとも思えないが、万が一外へ出ようもんなら、未知の地帯や常識の通じぬ空間などが、待ち構えているのかもしれない。
仕方がない。いくら逃げ出してやろうかと思ったとはいえ、そんな危険を冒すよりかは、此処に留まっていた方が無難だ。縄張りを作るための敷地の広さに不満はないし、少なくとも此処にある植物や動物や景色は、俺にも馴染みがあるものだ。留まってさえいれば、清浄な気と美味い魚は手に入る。
滝壺に溜まる水にも、俺が普段潜っている湖の中にも、至る所に魚が泳いでいる。ここにはあの主とやらと刀剣男士しか住んでいない様子だし、モンスターの数も少ない。他に自然を荒らす者がいないせいかもしれない。
タマミツネに転生してからも、その前世の時代に神竜として存在していた頃からも、魚は好物だった。現世に呼び起こされたのは不本意ではあるが、久々の美味い魚が喉を通っていく感覚は、悪くはない。
思う存分魚を食ってから、水の中で大欠伸をしていると、聞き覚えのある間抜けな声が、水面の方から波紋のように降って来た。
「セイー。青雨ー。どこにいるの〜?」
昼下がりのうたた寝に最適な日差しさながらに、ゆらゆらと漂って水底へ聴こえてくる声を、俺は胡乱に思いながら目を細めた。覚えたくもないのに、すっかり覚えてしまった声紋に耳を動かしながら、俺はどうするか考えた。
追い払ってもいいが、あの刀剣男士どもならともかく、この女はごく普通の人間。無駄に水を掛け、俺のせいで山を降りる間に風邪を引かされた何だと、この女を盲信する連中に逆恨みを買って狙われるようになったら、それはそれで鬱陶しいし厄介だ。
(何が好きで、こんな軟弱な人間を主に立てているんだか)
明日にも倒れるのではないかという噂を、ここを見張りに来る男士の話し声から耳にしたが、だったら屋敷の中から一歩も出さなければいいものを。
それ以前に、何の特別な力もない、頭脳や体力に優れているわけでもない、計略においても戦闘においても役に立たなさそうな人間を、ずっとこの場の頂点に据えているというのは、理解に苦しむ。遡行軍が何たらというのは俺の知ったことではないが、大体そのような戦場の場では、凡人よりは秀でた人間を長にするものではないのか。
今まで俺を討ち取りに来たあらゆる人間どもの誰と比べても、あの女に明らかに優れた点があるとは思えなかった。
首を振りながらその場を離れようと思った時、普段の世界では聴き慣れぬ音色に、思わず手足が止まった。
(この音は……)
頭上から、女の声以外のものが聴こえてくる。
この世界の——いや、あの女は本丸の外のあらゆる世界で出入りを繰り返しているらしいから、どの世界のものかは知らないが、いわゆる音楽という奴だろう。
何か、小さな牌のようなものを女も仲間も使っているのを目にした事がある。あれは、俺らのように鳴き声を持たぬ者が、仲間と交信したり音を流したりするのに使うらしい。
それに混じって、女の声が“歌”に変化するのがわかった。
(……下手くそだな)
湖に接する崖の上から、音は聴こえている。その真下あたりに潜って、俺は耳を澄ませた。
別に、大した歌声じゃない。人間と共に暮らしていた時間は短く、俺は芸能には疎い方だと思っているが、水鏡に潜れる力を利用して、色んな世の様々な音楽を耳にしてきた。そんな俺からすれば、聞くに耐えないというほどではないにせよ、特筆すべきようなところもない。どこにでもいる人間が、ただ旋律に合わせて口を開いているだけの、凡庸な歌声だ。通りすがりの人間なら、間違いなく気にも留めはしないだろう。
俺とかつて番っていた“彼女”の方が、神楽の腕といい張りのある歌声といい、よっぽどいいものだった。
(……)
そう思うのに、何故かしばらくその場を動けずにいた。
別に、これは進んで聴いているとかじゃない。気になるとかじゃない。
憐れなほど凡庸なこいつの歌に、どういう意図があって何をしているのか、不可解に思っているだけだ。
誰かを立ち止まらせる事も、振り向かせる事も、感嘆させる事も、ひれ伏させる事もないだろうに。たった一人で、何がそんなに楽しくて、幸せそうに歌っているのだろう。
(俺ほど良い耳でなければ、お前の歌など何の意味もない)
好きで特別な力を持つ身に生まれたわけではないが、この耳や髭があれば、少しの音から感情の機微を察することなど容易いものだ。「感情を込めて歌う」だの「心を込めて奏でる」だのいう芸当は、人間では感度が鈍すぎて、もし人間から人間に伝えようとすれば、秀でた才や喉がなければまず実現し得ないものだが、俺ならわかる。
(……どういうつもりだ。俺のことを思いながら歌ってるのか)
当惑して水中で一度旋回してみても、聞き違えようがない。
どうして、こいつの歌からは「好き」が溢れてくるのか。無視され冷遇され続けて、何故何かを伝えたいという意志が薄れないのか。——どうしてこの俺などと、「仲良くなりたい」と思うのか。
長い間、水に潜っているのも何となく気詰まりになって、俺は息継ぎのついでに、音を立てないよう慎重に水辺に鼻を出した。
「あっ、セイのお鼻!」
(ちっ。目ざとい奴だ)
歌に夢中になっているものとばかり思ったのに。楽しげに弾んだ声を聞き、気付かれているのにこっちが鼻だけ出し続けるのも間抜けなので、俺は仕方なく水面に顔を出した。
日差しの眩しさに目を輝かせるような表情で、彼女が少し小高い崖の上から足を振る。まあ、ここまで高低差がある場所なら、迂闊にこちらに近付いて来ることもないだろう。
彼女が手元に置いたあの牌からは、既に記録されたものらしい音が流れ続けていた。耳慣れない楽器の合わさる音が聞こえてくる。俺が聴いたことのある類とは違うが、やはりなかなかに良いものだ。
「セイは、もしかして音楽が好きなの? わざわざ水から出てくるなんて」
(勘違いするな。お前の凡才な歌はどうでもいい。そこで流れている元々の曲が良いから感心しているだけだ)
一声鳴いて水の代わりに泡を数個吐き出すと、彼女は袴の膝に当たってぱちん、と弾けたそれに驚いたような目をしながら、今度はきゃっきゃとはしゃぎ始めた。
駄目だ。こちらが嫌がらせのつもりでいても、頭の弱い奴には何の効果もない。馬鹿につける薬はないという世の言葉は、本当のようだ。
どうせここにいる間はその喧しい声を聞き続ける羽目になるのだろうし、未知の音楽はこれはこれで興味深い。俺は崖下の岸に上がり、体を振って水を落とすと、日差しで温かくなった砂の上に寝そべって丸くなった。
(仕方がない。俺の体が乾くまでの間くらいは、付き合ってやるとするか)
皮膚から潤いが完全に消えるのも良くないが、ずっと水に浸かりっぱなしは、それはそれで体が苔生す原因になる。欠伸をして目を閉じ、微睡みながら、俺は自慢の耳だけを音のする方へ向けていた。
崖の影になって見えていない事を祈ったが、この俺の体躯だ、どうせ彼女には気付かれているのだろう。
それでも、馴れ馴れしい割には不思議とこれ以上の距離を詰めずにいる女を、妙な奴だと思いながら、俺は彼女の齎す歌に耳を傾けていた。