マルメロ家だいすき日記2022〜2023   作:大野 紫咲

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水辺で歌う紫咲と、少しずつ距離を縮めていくタマミツネの青雨。
しかし、彼女の体調の悪化と共に、少しずつその訪れは減っていく。
そんな現状に際し、青雨は……


とあるタマミツネの日記《第二話》

***

 

 曲があれば俺が寄り付いてくる、と単純な思考で学習したらしい女が、毎日のようにこの森の水場で歌うようになってから、また一週間ほどが経った。

 俺が水や泡を飛ばすときゃあきゃあと甲高い声で大騒ぎするくせに、自分から俺を脅かすような真似はしてこない。それがわかってから、無駄に崖の下と上で距離を空けるのは止めた。あの女の意図に乗るようで癪ではあるが、どうせ音を聴くのなら、近くの方が良く聞こえて来るのは当然だ。

 

 彼女や仲間の男士が持っている牌の事を、「すまほ」と言うらしい。少し前は「携帯電話」と呼ばれていたらしいが、電話というものを知らない俺には、その説明を聞いてもぴんとはこなかった。どこかの世界を水鏡越しに覗き見た時に、発明されたとか何とか言われているのを聞いた気もするが、俺には無用の長物なので覚えようとも思わなかった。人間は、よくもまあ好きでこんなにややこしいものを作るものだと思っただけだ。

 彼女が指で少し撫でただけで、種々様々に変化した音色がそこから流れ出す。曰く、彼女が自分で奏でているわけではなく、遠い場所で音楽を生業とする者らが、「録音」という技術でそれを保存し、どこでも聞けるような形にしているのだという。

 俺が元の世界で、自らの泡の中に記憶や音や風景を封じて保存し、時々それを割っては楽しんでいたのと、同じようなものだろうかと思った。

 

 彼女は、よく喋った。

 歌のみにあらず、その曲に込められた思いだの、その曲に謳われている物語にはどういうものがあるだの、この曲は誰に教えてもらっただの、その誰かが今日はどこで何をしているだの、関係あることないこと、何でもよく喋る。

 俺の言葉は理解できないくせに、俺が聞いているという事はわかるのか、瞳を見つめ返すと、その喋りは殊更に嬉しそうで止まるところを知らないのだった。

 別にこいつのどうでもいい話など、聞いていてもいなくても構わないだろうに、何故か気が付けば耳を傾けてしまう。どうでもいいと思っているはずなのに、いつの間にか話の最後まで、この女の横にいて付き合ってやる事が増えていて、それを苦にも思っていない俺自身にも驚いた。

 あまりにも平和で暇を持て余していると、こんなくだらない話でも、憂さを晴らせるようになるのだろうか。

 

 ある時、湖の際にやって来て足を浸している彼女を見つけ、俺はいつものようにその近くに寄った。

 珍しく今日は静かだ。曲も流れておらず、ただ浴衣の袂を緩めてぼーっとした顔を晒しているところへ、俺がやって来た事に彼女は驚いたのか、頬を緩めて微笑んだ。

 

(別に、その顔を拝みに来た訳じゃないぞ)

「青雨。音楽は流してないのに、来てくれたの?」

(今日は、歌わないのか)

 

 鼻先を脚に押し付けると着物の裾が多少濡れたが、彼女はそれを気にも留めず、声を立てて笑いながら、初めて俺の額に触れた。むずむずとした指先の感覚よりも、その火照った手と脚の体温が、妙に気に掛かった。

 

(……ふむ)

 

 嗅覚や聴覚だけでは、確かめ切れぬこともある。

 俺は岸辺に身を乗り出すと、舌でべろりと女の頬の汗を拭った。彼女は、舐められた箇所に驚いたように手を当てながら、俺のことを見つめ返している。

 竜は、同族や親しい相手に対して挨拶や毛繕いをするために舌を使うことがあるが、別にこれは、親愛の情を示すためにやった訳ではない。ここへやって来る前の俺は、仮にも水を司る神だった。人間の体液然り、俺が水から得られる情報は大きい。

 彼女の汗からは、その情に違わぬ蜜のように甘い味がした。そこに混じるように感じられる、苦味と渋み。表面上の塩気や酸味などは、人体を構成する要素としては正常範囲内だろうが、俺が感じ取っているのはそれとは違う。微かに眉を顰めると、彼女は不思議そうに、俺の顔を見て瞬きした。

 

「青雨……? どうしたの」

(早く、ここから帰れ)

 

 着物の裾を噛んで引っ張り、陸に上がって彼女の背中を鼻先で押すと、慌てたように彼女は立ち上がった。

 

「わ、わあ。え、何、私ここにいちゃダメ?」

(こんな体調の時に、ふらふら外を出歩くな)

 

 苛立って口の端から唸りを漏らすと、彼女は俺の表情を見て何かを察したのか、こくりと頷いて、振り向きざまに小さく手を振った。

 

「……心配してくれたんだね。ありがとう」

(礼を言うくらいなら、初めから来なければいいものを)

 

 ふん、と鼻を鳴いてそっぽを向いてから、俺は彼女がガルクに乗って下山するのを見届けた。降りるまで尾けてやろうかとも思ったが、流石にそこまでしなければ帰らないほど愚かな奴でもないだろう。

 弱り切った体を押して、わざわざ俺に会うためだけにここまで来るのも十分愚かだが、それで無理をするのは尚更愚かだ。

 ざわりと逆立ちかけた背中の鰭を何とか静めながら、俺は湖へと踵を返した。

 

***

 

 俺が強引にあいつを帰らせた日から、彼女の来訪が極端に減った。

 大人しく俺の意図を汲んで、具合の悪い日は外に出たり、長時間滞在したりしないようにしているのだろうが、追い返しておきながら、来ないと来ないで落ち着かなくなる自分自身に、俺はたまらなく苛立った。

 あれだけ俺のことを好いていると言った癖に、あれは嘘かと問い正したくなる。

 傍に寄れば、彼女に触れさえすれば、そんな事はないとすぐにわかるというのに。何度彼女の、湿りやすい柔い手足に触れて、その体に流れる水の音を感じ取っても、次に会えるまでのほんの束の間が、とてつもなく長い。

 永い永い時を生きてきた俺にとって、この世界での数日など、瞬きするにも等しいほど短い時間だというのに。

 

 あんな脆い人間に構うから、俺まで弱くなる。

 苛立ちを誤魔化すように、俺は自慢の尾を叩き付けて、地面にめり込ませた。あまり縄張り争いや喧嘩の相手もいないから、時々は樹木や岩相手に鍛錬でもしておかなければ、食べてばかりで体が鈍りそうだ。

 そんな俺の、貴重な喧嘩相手たりえる奴が、ずべずべと雨上がりの後の泥の中を滑って、こちらへ這ってくるのが見えた。

 

「セイちゃーん。こんなところで何してるの。さっき大雨が降ったばかりだから、溢れた川の岸に新鮮なお魚がいっぱいびちびちしてるよ。一緒に食べに行こうよ」

「……ポン。お前、しこたま食ってばかりだと、ただでさえ丸い体がますます丸くなるぞ」

 

 黄色い瓜が巨大化したような体で、短い前脚を持ち上げながら足踏みをし、へらりと笑っている様を見て、俺は呆れながら目を細めた。

 ポンこと、ロアルドロス。ロアルドロスというのは種族名だが、この本丸ではポンと呼ばれているらしく、呼び名としては俺も楽なのでそれに倣った。一体何が由来なのか、ポンという名前では元の名の影も形も見当たらないが、本人は気に入っているようだ。

 

「ぼくは、丸いのがかわいーからいいんだもん。ムラサキちゃんも他の子も、みーんなかわいーって」

「……ふん。いっぱしの獣が、すっかり懐柔されておめでたい事だな。無駄な話をしている暇があれば、取っ組み合いにでも付き合え」

 

 じゃれるように飛び付くと、顔の周りにふよふよと柔らかそうな立髪を蓄えたポンは、その丸っこい見た目からは想像のつかない俊敏さで、ころりと転がって俺の攻撃を避けた。

 ひらりと宙を舞うように身を翻して尻尾を叩き付けると、上がった水飛沫を盾に身を隠したポンは、猛烈な速さでこちらに突っ込んでくる。泡を吐き出してやると、それをもろに食らったポンは、転ぶどころか楽しげに両手で泡を抱えるようにして割り始めた。そのまま滑る泡で加速しながら突進してきたかと思えば、べしゃんと音を立てて、上半身全部でこちらを押し潰そうとしてくる。

 さすがにポンの体躯では俺は潰せないだろうが、無邪気に遊ぶようにして尻尾を振っている割には、一打一打の攻撃が的確で重い。俺より脚が短いくせに、体の使い方を心得ている。なかなかの強者だ。ちょっとした喧嘩の相手には打ってつけだった。

 妙にのんびりしていて、若干阿呆っぽく見えるのが玉に瑕だが。

 

 べっと氷のように冷たいブレスを吐き出して、俺に足止めを食らわせながら、ポンが首を傾げて言った。

 

「また鍛錬〜? セイちゃんは真面目だねぇ。どうしてムラサキちゃんとみんなのことが、そんなに嫌いなの?」

「……逆に、お前はあいつらのどこがそんなにいいのか聞きたいんだが」

「みんなぼくのことかわいーって」

「それはさっき聞いた」

「おなまえいっぱい呼んでくれて、いっぱいなでなでしてくれて、おやつくれるの。お団子とかー、お菓子とかー」

「結局食い意地ってことか」

 

 まあ、食い物に釣られるのは獣らしい習性だ。別にそれを馬鹿にするつもりはない。俺にはよくわからないが、人間の世界には美食も多いらしいし、本能には抗えないものだ。

 そう勝手に結論づけて、水辺で爪と鱗の手入れをしていると、自分が吐き出した息で俺の泡を凍らせて遊んでいたポンは、思い出したように振り返りながら、無邪気な顔で言った。

 

「あとねえあとねえ、ムラサキちゃんの横は、ふわふわであったかくて気持ちいいよ。ごろーんってするとねぇ、なんかふわふわするの」

「……お前、あいつの膝に乗ったのか」

「セイちゃんも、お隣にいたらなんとなくわかるでしょ? いつも、どきどきしてふわふわして、はぴはぴの感じ。おむねがきゅきゅきゅーんって。ぼく、ムラサキちゃんだいすき。やさしいもん」

「……」

 

 思わず顔を顰めると、ポンは体をぐいぐいと両側に捻りながら、ない首を傾げるようにして頭を左右に振っていた。

 

「うん? あれれ? セイちゃん、なんかお顔の皺ふえた? でも、セイちゃんよくムラサキちゃんと一緒にいるよね? セイちゃんもお膝にごろーんすればいいのに。ぼくだけじゃなくて、みんなにやってくれるよ」

「違う。誰がやるか。そもそも、俺やお前の大きさじゃあいつが潰れるだろう」

「霊力節減で、ちっちゃくしてもらえばいーんだよ」

「……要らん。お前らがべたべた媚びた後の奴の膝なんかに、誰が好き好んで」

「ねえ、それってもしかして焼き餅? 焼き餅ってやt」

「煩い」

 

 容赦なく水を噴射して浴びせてやると、きゃーと声を上げながら、最後まで愉快そうにポンの奴は去って行った。

 まったく、こんな場所に生きていてもどこまでも気楽というか、お騒がせな奴だ。

 

(……誰が焼き餅だ。誤解も甚だしい)

 

 さすがに、人間の世界の語彙で、これが単なる焼いた餅を示す言葉ではないことぐらい知っている。

 別に、あいつが他のモンスター相手に平気で接触することぐらい、俺はどうとも思ってない。あの間抜けならやりそうな事だ。馴れ合って油断しているうち、獰猛なモンスターに食いつかれて懲りてしまえばいいとさえ思う。

 

(だが、それが原因で、腕が千切れてすまほを使えなくなったり、声が出なくなったりしようものなら困りものだな)

 

 そうなるくらいなら、俺の横にいたらいいものを。

 少なくとも、俺は噛まないし、力加減を間違えたりもしない。

 それなのにあいつは何故か、俺が近寄らない限りは、俺に触れてこようともしない。あれだけ歌に想いを込めながら、いつもいつも受け身なのだ。図々しい。

 

(……それは、俺が拒んでいたからか)

 

 ひらりと、頭上の木から落ちてきた緑の葉が、鼻の上に止まった。

 ポンのように馴れ馴れしくすれば、膝にも乗らせてくれるだろうか。

 それとも、あれだけ水を掛け続けたり波に押し流したりしたこともある俺を、これ以上傍に寄らせるなど、考えられないのだろうか。

 

 陸に上がり、水鏡に映った己の姿を見る。

 獰猛だ、呪いだ、穢れていると散々に呪詛を吐かれた赤黒い体が、堅強に大地を踏み締める脚が、水鏡に映っている。体表から滴った雫が、水面に波紋を作っていく。

 なぜ、俺に「青雨」と名付けた。

 俺のことが、恐ろしくはないのか。

 俺の元あった姿を知っているわけでもあるまいに。俺に、何が起こったかも知るまいに。何故、この体色と真反対の清らかさと美しさを、その名に込めたのかと。俺はまだ、あいつの口から聞いたことがない。

 

 聞けば、教えてくれるのだろうか。だが、人の口がないこの身でどう尋ねるべきか。信頼関係が築ければ念話が可能な人間もいると聞くが、おそらくその段階にはまだ至っていない。そもそも、あいつの体が弱っている今では、足繁くここに通うこと自体も難しいだろう。

 何をどうするにも煩わしい時の流れの遅さを鬱陶しく思いながら、俺は雑念を振り払うように、勢いよく水の中へと飛び込んだ。

 

***

 

 それから間もなく。身を引き摺るように様子を伺いに来ていた彼女の訪れが、完全にぱったりと止んだ。

 それはそれでせいせいするだろう、あの下手な歌にも纏わりつく視線にも迷惑せずに済む、と考えた頭とは裏腹に、心は未だ晴れなかった。

 

 代わりに、刀剣男士と呼ばれる彼らが見回りに来る。

 この世界の付喪神とは、主に主を守護するような存在だと聞かされてはいるが、まさかこいつらが隠したのか、と警戒しがちに唸りを上げると、その度に奴らは種々様々な反応で、俺を宥めた。

 

「ふん。気に食わぬ様子だな。俺だって貴様の様子を拝みに来るのは不本意だが、主は最近お加減がよろしくないのだ。あまり心配を掛けぬよう、ここで大人しくしていろ」

「あのぅ……ごっ、ごめんなさいっ! あるじさまは、お布団から起き上がれなくて、そのぅ……ひぃっ、食べないでください!」

「青雨さん。主君は今、ご自身の病と闘っておいでです。どうか、信じて待っていただけませんか。困り事があれば、僕が代わりに承ります」

 

 いつも通りの忠犬ぶりを発揮する長谷部に、ちっとも強そうでない虎を連れた五虎退。小柄な割に気丈で、礼節を重んじ毅然とした態度の前田藤四郎。

 この三振が多かったが、他にも入れ替わり立ち替わり、刀が様子見に現れる。が、彼女だけが待てど暮らせど現れる気配がない。

 無理をするなとは言ったが、これは間が空きすぎなのではないか。というよりは、こんなに長い間来られないほど、具合が良くないということか。

 

(……顔を見せに来なければ、俺が直にその身を診てやる事もできぬではないか)

 

 診たところで、俺に病を治す力などない。水の流れや音から、具合が良いか悪いかをせいぜい判別出来る程度だ。

 それでも知っていたかった。単純に、これは俺の知識欲を満たすためだ。あいつがどの程度弱り果てているのか知りたいのは、俺自身の欲望で。そして。

 

(……どう、したいのだろう)

 

 大した事はない、こんなに案じさせるなと鼻を鳴らして呆れられる程度であれば、まだ良いが。俺を顕現させておきながら、もしあいつの方が先に世を去ろうとしているのであれば、俺は——

 

「おや。随分としょげ返っているな」

 

 闇世の中に凛と響いた若者の声に、俺ははっと身を起こして振り返った。

 この耳と髭があれば、一、二里は手前から音を拾う事ができるし、刀剣男士が山を登ってくるのもわかる。こんなに近寄られるまで気配を察知出来なかったのは、初めてのことだ。

 体を捻ると同時に即座に後ずされば、竹藪の林の中に、三日月形の装飾が印象的な青い狩衣を纏った、黒髪の男の姿があった。

 およそ遠出には不適だろうと思えるような格好で、男は緊張感もなく笑う。

 

「おっと。すまんすまん。驚かせてしまったな。警戒する必要はない。俺の姿に見覚えはないか?」

(こいつは……)

 

 俺は目を見開いて、目の前の姿を眺めながら、鼻をひくひくと動かした。覚えのある香の香りだ。

 確か、名前は……三日月宗近。そう呼ばれていた。ここへ渡る直前に俺の魂が棲み着いていた秘境で、俺の荒御魂(あらみたま)を討伐にしに訪れた、矢羽というハンターと共にいた奴だ。

 俺はあの時、何か凶暴で重苦しいものに意識も意志も支配されていて、記憶が朧げだった。ただ、その虚ろな記憶の中でも、闇を裂くように閃いたこいつの刀と、側で奏でられていた狩猟笛の音色は覚えている。

 こいつは俺に傷を負わせるだけではなく、それと同時に、苦しさに暴れる俺の内側に巣食う黒い塊を、少しずつ千切り取っていった。気がついたら、悲しみも憎しみも、驚く程に元通り鎮められて、俺の内側に返ったままで笛の中に魂を封じられていた。

 膨らんでいく感情と御霊の力に、既になす術もなかった俺は、やすやすと敗北を覚えておきながら、かえって安堵したほどだった。

 半分以上自我を失っていたとはいえ、何が起こったのかすらわからないまま、ここまで俺が翻弄されていたのは初めてだ。もし彼がこの本丸内の刀剣男士だというのなら、間違いなく抜きん出て高い力と実力を持つ者だろう。

 

(……癪だが、俺はこいつに助けられたとすら言えるのかもしれない)

「おや。はっはっは。(おもて)を上げよ。よもや俺がこのような言葉を使う機会があるとはな。そう畏まらずともよいのだぞ。おぬしは殊勝で真面目な竜だなぁ」

 

 モンスターと人間同士、刃を交わし、互いに実力を認め合った間柄である以上、相手に義礼は尽くすべきだ。悔しくはあっても、負けたのであれば俺が三日月の下だ。それを弁える程度の礼儀は、俺にもある。

 そう思って脚を折り、首から頭を垂れたが、三日月はそれをさして気にもしていないかのように、弾けた笑いを漏らした。

 

「それに、俺は使われる刀の身に過ぎん。俺を敬うより、主に優しくしてやってはもらえんか」

(……またその名前か)

「はは。そう嫌そうな顔をするな。おぬしも、気になっておるのだろう?」

 

 まるで心を読んだような挙動に目を丸くすると、三日月は俺の隣に立ち、風が水面を撫でていく湖越しに、静かな夜の森を眺めていた。

 

「主は素直で甘え好きの無邪気なお方だが、時に少々、疲れや無理が祟り倒れてしまってな。大事はない。ただ、一度調子を崩すと、長引いてしまうことが多いのだ」

(……)

「さしたる大病ではないとはいえ、人間の体の機能も気の流れも、滞れば主にとって悪影響となる。あまり寝付いて欲しくはないが……誰よりも苦しんでいるのは、主だからなぁ。おぬしに行った浄化や退魔とは違い、人の子相手では何もできぬ刀の身とは、歯がゆいものがある」

 

 困ったように、三日月は月明かりの下で眉を下げて微笑していた。

 下手をすると、常人が名のある病に罹った時などより、余程長く寝込んでしまうこともあるらしい。元来神竜である俺には、病などとんと無縁のものだが、明けども明けども、熱や病魔が去らない日々を繰り返すというのは、一体どんな心持ちなのだろう。

 

(……それなのに、あいつは何故)

「おぬしをここへ連れて来てくれというのは、主の命だった。主は霊力が少ないと言われているお方だが、その潜在的な力はとても強い。むしろ、内なる力を制御し切れず暴発を繰り返しているが故に、主は体調を崩し易いのだと俺は考えている。おぬしを封じたのは俺だが、それは内在する力を出力できぬ主に代わり、俺が札や神気と融合させて使っていたからで、源は主そのものなのだ」

(……!)

「おぬしの御霊の中の凶暴性——俺らが荒御魂(あらみたま)と呼んでいるそれを、膨らませ暴走させようと目論んでいたのが、時間遡行軍だ。奴らの歴史改変の企みを阻止するのが、俺らの役割ではあるのだが……その名目がなかろうと、主はおぬしに手を伸ばそうと躍起になったであろうなあ」

 

 三日月は、そう微笑んで俺に告げた。

 暗闇の中で聞こえた、微かなあいつの声が脳裏に蘇る。

 俺が神であるか獣であるかなど気にも留めず——ただ必死で、俺を呼んでいた。自分自身では、何もできぬ癖に。こんな付喪神にしか、頼る事ができない身の上の癖に。

 俺を抱えて何になるのだ。本当に、俺には何も求めていないのか。

 風の匂いを嗅いでいると、三日月がまた、俺の隣で月を見上げて呟いた。

 

「何も、と言うにはちと矛盾があるなあ、青雨よ。おぬしが何を叶えるのも望まない代わりに、ある意味では一番大きなものを望んでおるのかもしれない。俺の主は、存外寂しがりなのでな」

(……? どういうことだ)

 

 この青年、もとい爺の言う事は、どうも謎かけめいていて分かりにくい。刀剣男士というよりは、狸爺だ。

 そんな三日月は、その特徴的な色をした目で、広げた扇の下からふと俺の方を覗き見し、仰いで自分に風を送りながら、全然関係のないことを言い始めた。

 

「うむ。それにしても、十五夜には早いが良い月だな。たまにはこうして山野を歩きながら眺める月も良い。だが、本丸で見る月もなかなかのものだ。甲乙つけ難いな」

(……)

「なに、どちらも大して変わりはないと言いたいのだろう? だが、もしこちらの月が恋しくなった時は、湖の中を覗いてみると良いぞ。何せ、本丸の池に映っているものも、お前の棲まう湖に映っているものも、同じ空に浮かぶ月なのだからな。何かと縁故もあるだろう」

 

 何を言いたいのかわからなかったが、そんな言葉を残し、三日月は衣の裾を翻して、もと来た道をあっさりと戻って行った。こんな夜半に、ガルクに乗ることもなくわざわざ歩いてやって来たのだろうか。相変わらず健脚の爺だ。

 涼しい風のそよぐ中で、俺は雲が泳ぐように漂っていく暗い夜空を見上げた。本丸との距離はそこまで離れていないだろうし、平地と莫大な高低差があるわけでもないのだが、不思議と澄んだ気持ちのいい風が吹き渡っている。

 何をするともなく、その日は月を眺められる場所に体を丸めて眠った。奴の真似をして見上げていれば、せめてあの女が眺めているのと同じ月を見ていることはできるのではないかと、そんな気がして。

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