てんやわんやの末にビニールプールの中へ落ち着くことになったのだが、久しぶりに対面する主から、思いもがけない話を聞いた青雨は……?
目の前に舞い降りると、女はぽかんとした表情で俺のことを見上げていた。
あれだけ確信を持って呼びつけたくせに、それは失礼だろうと思えるくらいには、呆気に取られた顔で。
けれどすぐに、小さく開いた唇が懐っこい満面の笑みに変わり、俺の名を呼んだ。
「青雨」
「……」
「ふふ。もしかして、心配してわざわざここまで来てくれたの?」
心配、か。そういう感情だということに、なるのだろうか。
それに迷って肯定も否定も返せずにいるうちに、背伸びした女の掌を、ふわりと前髪の上に乗せられてしまった。辛うじて届いているだけとはいえ、こんな部位を撫でられるのは随分と久方ぶりの感覚だ。タマミツネの姿であれば、きっと俺の方から近づかぬ限り、手が届かなかったであろう。
背後から、狼狽えた複数の声が掛かった。
「ええっと、主……?」
「うお、ごめん。みんなに紹介が遅れちゃったね。敷地の山に、この間タマミツネを顕現でお迎えしたことは、みんなも知ってるよね? この子がそのタマミツネ。……の、化けた姿って言えばいいのかな? 名前は青雨。お騒がせしちゃってごめんね。これから仲良くしてあげてください」
俺の代わりに頭を下げた女に、周囲の短刀連中があわあわと手を振って慌てていた。
「主がそんな畏まることなかと!」
「そっ、そうですよ! 僕らも、早とちりした訳ですし……」
「な〜るほど、それで全然邪悪な感じがしなかったんだ? 敵じゃあなさそうだなって思ったけど、強いからボク冷や冷やしちゃった」
「ホントですよ……主の身の上に何かあったらどうしようかと」
手を合わせて、周りを囲んできた短刀の子供らに謝っていた女は、まだ多少置いて行かれ気味のへし切長谷部と、その横にいた金髪に赤鉢巻の刀剣男士を見上げた。こいつも、彼女がよく連れているから見たことがある。
名は確か、山姥切国広。剣筋がまっすぐで、迷いなき強さを感じた。あのまま一太刀、こいつらに浴びせられていたらただでは済まなかっただろう。
俺のことをちらちら胡散臭そうな横目で見ながらも、長谷部がこう言ってきた。
「その……主は何故、こいつが例のタマミツネだと?」
「……勘?」
「随分とざっくりですねえ!?」
「いやだって、そういうものじゃない!? 顕現したのは私だし、何となくっていうか……水と泡で薄々見当はついてたけど、姿を見たらすぐにわかったよ」
「まあ、主は俺ら全ての刀剣男士を統べる存在だからな。実際に顕現した者と、特別な繋がりを持っているのはおかしな事ではないが……それにしても、人間に化けるとは。あの山には、何か特殊な霊力でも満ち溢れているのか?」
そう言った山姥切国広は、思ったよりも抵抗感のある様子はなく、呆れたような微笑みを浮かべて俺を見ている。
あの山が特殊なのか、俺が特殊なのかはわからんが、それを説明しようにも声を出せずにいると、ふとこちらに聞き覚えのある足音が近づいて来た。
「はっはっは。まさかこんな形でおぬしがこの本丸に現れるとはなぁ」
聞く者全員の心を、どことなく和らげてしまいそうな笑い声。
のんびりした歩調でこちらに向かいながらも、廊下の泡に足を取られかけては慌てて周囲の短刀に手を貸されている三日月宗近が、俺のすぐ傍に立った。
(そもそもお前の入れ知恵がなければ、俺も気付きはしなかったんだが?)
「おや。俺は何か余計な事を言ったかな。何をどう手がかりにするかはおぬし次第。あのまま留まる道を選ぶも、歩み寄る道を選ぶも、青雨、おぬしの心一つであろう」
「……おい、三日月。お前まさか何か知っているのか!?」
「さあてな。昨晩、散歩の際のひとりごとを、こやつには聞かれてしまっていたようだ」
俺の心を読んだかのようにそう言った三日月は、長谷部に問い詰められながら、相変わらず暢気に笑っている。そんな三日月と俺を、女は不思議そうに見比べていた。俺とこいつの間のやり取りを知らないのだから、無理もない。
そこでふと、足元に目をやった山姥切が慌てたように口を挟んだ。
「あ、主。それはともかく、青雨に水を湧かせるのを止めるように言ってやったらどうだ? 廊下が全面水浸しなんだが」
「へっ……えっ、わぁ!?!? ちょっと待って、なんでセイの足元こんなにびしょびしょなの!?」
「元はこやつは水神であろう? 人間に化けたばかりで、力の制御が上手くいっておらんのかもしれんなぁ。そうそう、俺は
「それは早く言っておじいちゃん!?」
事実、俺が困惑する程度の水たまりで、廊下は色が変わっていた。確かに、力が暴走している時の感覚とは違う。単に人間の体では小さ過ぎて、タマミツネの体では保持できていた力が、外に漏れ出てきているのだろう。どうにかして力を節制する事も慣れればできるはずなのだが、あの姿以外になるのが久方ぶりすぎて、如何せんすぐには勝手がわからない。
何振かの短刀が桶と雑巾を運んできて、困惑気味の俺の着物を拭こうとしてくれるが、それでは追いつくはずがないと思う。が、それを伝えようにも、人間の喉の動かし方が未だわからず、ここは一旦池に戻るべきだろうかと考えたところで、
「あのあの! それだったら、ぼくらがつかっていた、びにーるぷーるというものをもってきてはどうでしょう!」
「ああ……確かに、いい考えですね!」
「あれなら軽くてすぐ運べますし、しばらくの間なら水も溜められますね」
そう言った短刀達が、すぐさま廊下を飛び出してどこかに走って行く。先ほどは泡に手こずっていたというのに、もう慣れたらしく誰も転ばない。驚異的な運動能力だ。
それから程なくして、短刀の連中は薄くて軽い、人工素材で作られたらしい何かを運んできた。こんなぺらぺらで水をどうにか出来るのかと思ったら、空気を入れると伸びて膨らみ、巨大な水桶になる仕組みになっているらしい。
ヨツミワドウの腹の皮みたいなものだろうか、と見知ったモンスターの姿を思い浮かべながら、そのびにーるぷーるとやらに座り込んで縁を指でつついていると、隣で主は一生懸命ぺこぺこ頭を下げていた。
「みっ……みんなごめん……! 私も片付け手伝うからぁ!」
「何言ってるの、主さんは無理しちゃダメでしょ〜? お熱があるんだから」
「そうですよ。今は青雨さんと語らってあげてください。この本丸の敷地にいるとはいえ、普段と違う環境では不安でしょうし」
「お掃除は俺らに任せておくんだぞ! あっでも、あとでご褒美にお菓子ちょうだい!」
「包丁……具合の悪い主君に、お菓子を強請るなんて」
「ふふ……わかったわかった。包丁くんにもみんなにも、お菓子いっぱい弾もうね。ありがとう」
順に軽く皆の頭を撫でる彼女を、俺は見た。こうしていると姉か母親のようだ。
言葉が出ずとも、ここまでして留まる手段をくれた相手には謝意を示して然るべきだろう。そう思い、両手を胸の前で組んで軽く頭を下げると、彼らは驚いたような顔で互いに目を見合わせた後に、どこか照れ臭そうな様子で去って行った。
……人間の心というのはよくわからないが、刀の心もよくわからない。
「青雨ってば、随分風流なお辞儀の仕方知ってるんだねぇ」
ぷーるのすぐ側にやって来た女が、座り込んで俺のことを見上げていた。これなら横に布団を敷いていても濡れる事はない。
その布団の移動を手伝った打刀の連中が部屋を出る際に、山姥切と長谷部が言っていた。
「じゃあ、俺は下の階の片付けの手伝いに行ってくる。無理するなよ」
「俺は部屋の外におりますので、何かあればいつでもお呼び付けください」
「うんっ。ありがとうね、ふたりとも」
長谷部の方から暗に、「だから絶対にお前は主に妙な真似をするんじゃないぞ」という脅すような視線を感じたが、この忠犬は何でもかんでも心配し過ぎではないだろうか。
そこまで威嚇しても何も出はしないのに、と呆れて多少肩を竦めながら、俺は開け放した障子の向こうに人影が消えるのを見送った。
***
「さて……他のみんなも言ってたけど、青雨は一体どうやってこの本丸に入って来たの? 一応、安全上の問題で獣除けの結界はしてあるって話だったんだけど」
半袖の甚兵衛に羽織を纏った彼女が、俺を見上げる。俺は少し迷ってから、一度ビニールプールから数歩外へ出ると廊下の手前に立ち、窓から見える外の池を指差した。
廊下で胡座をかいて待機していた長谷部が、こちらを眺めて呟く。
「……主、もしかすると、こいつは人間の言葉がわからないのでは?」
(失礼なことを言うな。お前達の喋る内容は一言一句漏らさず分かっている。人間の言葉と喉の動かし方に、まだ慣れていないだけだ)
「大丈夫。喋れなくてもちゃんとわかってるよ。ね。あの池から入って来たって言いたいんだよね」
驚いて振り向くと、主は髪留めで緩く結い直した頭を傾げて微笑んでいた。
差し出された手に掌を乗せると、熱を持った指先が暖かい。俺をぷーるの中に戻した主は、自分も布団の上へ座りながら言った。
「なるほどね。何か最近のおじいちゃんはにやにや楽しそうにしてると思ったけど、そういうことだったか。不思議な水路を通って、湖から本丸の池まで移動してきたの? すごいなあ」
(お前が全然顔を見せに来ないせいだ。勝手にふらふら現れたかと思えば勝手に消えるなど……いちいち中途半端な真似で俺の気を揉ませるな)
「んふ。ごめんごめん。私、青雨に嫌われてると思ってたから。わざわざ、みんなに攻撃されるかもしれないのに、ここまで来てくれると思ってなかった。びっくりしたけど嬉しい。ありがとうね」
ふわふわと笑った顔を眺めながら考えて、ふと気付く。
さっきから俺は一言も声を発していないのに、女の喋る言葉は辻褄が通っていた。
(……俺の言葉がわかるのか?)
「何となくね。湖にいた時は、そんなにはっきりとは聞こえなかったけど。あとはその、お耳と尻尾があればわかりやすいかな」
はたと、忙しなく動く頭上の耳を俺は両手で押さえてみた。尾はそこまで揺れていないと思ったが、そんなにわかりやすいだろうか。
それにしても、普段モンスターでいる間は顔の筋肉をそこまで使わないので、表情というものが作りづらい。未だ強張っている顔面を両の掌でごしごし擦っていると、女が言った。
「青雨は、やっぱり綺麗だね」
(……?)
「耳や尻尾は燃えてるみたいに真っ赤で、おめめは翡翠みたいに青い色。タマミツネの時はあんまり近くに寄れなくて、遠くから眺めてるだけだったけど、この姿になってもやっぱり綺麗だなぁ」
びにーるぷーる越しに、目の前に跪いた女が見上げてきて、頭に手を触れる。
髪は和泉守の黒に合わせているからともかく、この頭から生えた耳やら目の色やらがどちらかといえば派手な俺と違い、何の変哲もない女の黒目と黒髪を見下ろしながら、俺は言った。
(……この身に化けている時ならともかく、俺の赤黒い体をして“綺麗”だと言ったのはお前が初めてだ)
「だって、綺麗なものは綺麗だもん。竜の時の体だって紅葉みたいよ」
(この色の由来を知っても尚か?)
「ごめんね。笛を運んできて顕現する前に、何度か透心の術を
思わず目を見開くと、俺と目を合わせたままで女は切なげに微笑む。
「全部を見たわけじゃない。でも、タマミツネに転生してくる更に前、あなたは大切な相手を守るために、その身を盾にして闘った。湖と同じと称えられるくらいに青かった体は、その時の返り血を浴びたせいで赤く染まってしまった」
(……俺の犯した過ちを知っていたのか)
「でも、あなたは人間を殺したかったわけじゃない。打たれても最低限の反撃だけでやり返さなかったのは、これ以上誰も傷付けたくなかったから。あなたに染み付いた赤は、他人の血じゃなくて、傷付いても耐え忍び続けたあなたの血の色でしょう」
(……)
着物が濡れるのも厭わずに、女はそっと俺の首に両腕を回した。くっついた頬から、弱った人間特有の汗の匂いと、甘い香りがした。
「あなたが嫌なら、私はこれ以上何も言わないけれど。でも、誰かのために闘って、どんなに憎んでも自分が傷付いても、心の奥底では人への優しさを失わなかったあなたを、私はとても綺麗だと思う。青雨って名前を与えたのは、青かった頃のあなたに戻って欲しいからじゃなくて、あなたの心の綺麗さと清らかさを映した名前だと思ったから」
(……)
「ちょっと大袈裟すぎたかな? でも私は……うわぁっ」
小さな女は、人間とはいえ俺の腕の力でも傍に引き寄せるには十分だった。
ぱしゃん、と僅かに溜まった水が跳ねる。半分転ぶようにして俺の着物の内に飛び込んできた彼女は、少しびっくりしたような顔をしながらも、腕の内側で大人しくしていた。
嗚呼。そうだ。この感覚だ。尻尾の先で叩き潰せば、即座に死んでしまうようなか弱い小鳥を、何故かわざわざ囲って逃さずにいるかのような。それでいて、俺よりも大きなものに、守られているかのような。
すぐ真下にある艶やかな髪の頭頂に、俺は顎を乗せる。
「……気に入ってくれたのかな?」
(……。俺の心が読めるんだろう)
「ふふ、そうだけど。言葉にしてくれたら、それはそれで安心するもんだよ?」
肩を震わせて小さく笑った彼女は、くしゅんと一つくしゃみをした。
(寒いのか)
「う〜ん、今日は暑いくらいだけど……流石にずっと水に浸かってるのは無理があるみたい。元気だったらセイとずっとくっついていられるのにな」
彼女は残念そうにそう言いながら、濡れた服を御簾の内側で手早く着替えて、麻の浴衣姿でこちらに戻って来た。帯も体の横で結ぶだけの簡素なものだ。
触れていたくとも、添い寝すら出来ず横で見ているだけとは。本格的に化ける練習をきちんとした方が良さそうだ、と俺が濡れた着物の袖を眺めて思案を巡らせている間に、彼女は廊下の長谷部に向かって声を掛けていた。
「ごめん、お茶ってまだあるー? 青雨の分も頼んでいい?」
「あいつも人間の茶を飲むのですか?」
「いやわかんないけど……長谷部やみんなも嗜んでるくらいだから、普通に飲むかなーって。あ、でも、そろそろお薬の時間か。私が自分で取りに行こうかな」
「種類と量さえ教えていただければ、俺が茶と一緒に持って参りますよ」
そう応える物腰柔らかな声が聞こえてくる。よく仕事のできる忠犬のようだ。
でも下の階の様子が気になるから、と畳の縁から廊下に踏み出した彼女の後ろ姿を見た途端、妙に鮮烈に、湖での光景が頭に蘇った。
明日もどうせ下手な歌を歌いに来るのだろう、と思って疑いもしなかった、随分と前に見たように感じる、ふらふらと頼りなげな背中と長い髪。
何の為にここまで来たのかを思い出したその瞬間に、俺は立ち上がって、彼女の袖を繋ぎ止めていた。
「あるじ」
「……。え、えっ!?」
僅かな驚きの空白を挟んだ後に、振り返ったまま俺を見つめる顔に、この喉と唇は思ったよりもずっと、澱みなく動いて音を紡いだ。
「もう、おいていかないでくれ」
「……。えっ……あっ、うそ、青雨ひょっとして、私が湖にあなたを捨てて行ったと思ってたの!? そんな訳ないじゃん!」
言葉にした方が安心することもあるというのは、本当だったらしい。いくら念話のできる彼女でも、ここまでは読み切れていなかったようだ。
同様に驚いている長谷部の前で、彼女は着替えた衣を濡らさないように、雫の滴る俺の額を引き寄せると、そっと自分の額を押し当てた。
「大丈夫だよ……私は自分の寿命が尽きるまでは、青雨の前からいなくなったりしないつもりだから」
「……」
「と言ってもまぁ、この体じゃ信用ならないよねえ。えへへ。でも、今回はちょっと下の階を見たらすぐ戻って来るから、ほんとに大丈夫。ね?」
「……」
「おーい、青雨さーん?」
「コラ貴様! そのびしょびしょの体でこれ以上主を困らせるんじゃない、主を離せ! お前が動き回ったらまた本丸中水浸しだろうが!」
嗚呼、煩い。
久しぶりにこれだけ近くに居るのだから、少しくらい大人しく匂いを嗅がせてくれても良いだろうに。
解らせてやるつもりで、俺は背を屈めたまま彼女の瞳を覗き込んだ。
「……紫咲。あんたが、俺のあるじだ」
「!」
「だから、あんたが戻って来られないなら、俺がずっと傍に居れば良い。死ぬまで、お前の傍を離れない」
「……そ、それは嬉しいけど、お手洗いとかちょっとした用事の時くらい、気を張ってなくてもいいんだよ? そんな目を離した隙に死んだりしないって」
「青雨貴様ァァ! 力の制御も出来ぬうちから主お世話係など百年早いわ! ビニールプールから出直して来い! というかさっさと戻れ!」
目を白黒させる主と、ぎゃあぎゃあ喚く長谷部の顔が、少しばかり愉快だった。
幾年振りだろうか、こんな風に頬が緩むのは。
そう思って主に微笑めば、どういう訳か彼女は、俺に向かって益々頬を赤くした。
とあるタマミツネの日記シリーズ、これにて完結です。
あとはちょっとだけ、ラブラブした後日談的エピローグが続くかもしれません←
このお話はあくまで弊本丸での出逢いを描いたに過ぎないので、今後の青雨と皆との関わりや、過去のお話についてもそのうち書けたらと思っています。お楽しみにです〜。