とてつもなく長いので、3ページ構成です!
1ページ目は、急に我慢の限界が訪れてべったり甘えるヨアさんの話。
※2025年から、夜翰さん→ヨアさんの修正作業を始めました!
世界で一番強い人《前編》
これは、少し前……先月くらいの話。
ヨアさんの「それ」が爆発したのは、鯨さんが丁度出張中で家を空けている、数日間の楽園を過ごしている時のことだった。
思えば、夏にオメガバースの世界で直生くんとの出逢いがあり、ひょんなことから二人が付き合うことになり、そのことでヨアさんの心はいっぱいいっぱいに割かれていただろうから、帰って来て再び私の側にいるようになっても、ヨアさんが比較的落ち着いていることに、あまり疑問は抱かなかった。
もともとかなり大人びた子だったし、私や私の体調管理のことについても、冷静なアドバイスをくれていたから……。
なんだか二人とも慣れて、それが普通なような気がしてしまっていた。
その日、冬用の毛糸を買いに自転車で出掛けたものの、品数不足や休業日で、二店舗連続フラれてしまった私は、仕方なく、いつもは行かないスーパーに寄って、ほんの少し贅沢な買い物をして帰って来た。
買い出しに付き添ってくれた直生くんには、見切り品の生クリームを買うのは贅沢に入らないとか、見切り品の高そうな豆腐を買うのは贅沢かどうかで迷うんじゃないとか、財布の紐を押さえ続ける私に剛を煮やして散々口出しされまくったが、なんとか双方の妥協点を見つけてお買い物してきたのだった。
なお、生クリームは買った。これで、後で直生くんの髪色と同じかぼちゃを使って、かぼちゃ餅にするのだ。
ほくほくと、大きなスーパーの製パンコーナーで買ったクロワッサンとホテル食パンをラックに並べている私を見て、ヨアさんは何とも言えない顔つきを浮かべていた。
いつも行くスーパーには、パンは菓子パンしかない。いくらスーパーとはいえ、その場で焼いてるパンって高級感があってテンションが上がる。このあたりパン屋が少ないから、パンが大好きな私は美味しいパンに飢えているのだ。
どんなにパンが大好きでも、さすがに私一人では沢山買えないのが難点だけど。
「たまにスーパーのパン屋のパンを買うのは、贅沢なの……?」
「直生くんにも同じこと言われた!」
どうも、私の贅沢の基準は、ヨアさんたちの考えるそれと若干ズレているらしい。
そんなに質素かな。稼ぎがない主婦の私からすれば、十分な贅沢なんだけど。
「あのスーパーも、一人で行くには遠くてなかなか行けないから、買い物で行ったの本当に久しぶりだよ! 何ヶ月ぶりかな!? 自転車を漕げるくらい元気っていいわねぇ」
「手芸屋さんが閉まってた帰り道だっけ……寒くなかった?」
「今日はまだ暖かかった方だと思う。ほらー、お惣菜もちゃんと買ったよ」
あんまり私の好きな品がなかったので、小さなレバニラのパックを買った。
これを一人で独占して昼飯にできるのも、贅沢。だと思う。
相変わらずの少食ぶりを見て、ヨアさんは少々呆れた目をしながらも、ご飯茶碗を差し出してくれた。
「もうちょっと、色々買って来てもバチは当たらないと思うよ?」
「んー、結局は自分で作った方が美味しいかなって思うもん。
それに、たまに普段行かないスーパーで真新しいものを見るのも楽しかったけど、どうしてもあのスーパーに行かなきゃ売ってない品っていうのもなかったから……やっぱり近いところで十分かな、私は」
「まあ、行くのが楽だもんね。ことあんたの体力じゃ」
「今の土地に越してきて幸せなのはねぇ、スーパーが近くなったことと、坂道がないからいつでも自転車でいっぱい買い溜めできること、あと品揃えが多いこと、お魚がいっぱいあること、バーコード決済できること、それから見切り品のくるみパンが、いつも棚に並んでること!」
「相変わらず薄欲だねぇ……」
ちょっと高い声に移行する時の、艶の入ったヨアさんの声が好き。
幸せいっぱいでごちそうさまをしてから、さっさと食器を片付ける。
折角掃除もしたし、せめて鯨が帰ってくるまではこまめに洗い物を回して、綺麗な台所にしておきたいな。二人だとどうしても、洗い物の後の台所の汚れや、食器やタッパーが山積みになった網棚を、そのままにしてしまう。
一人で、あまり汚れや埃も溜まらない家を、独占して心穏やかに過ごせるのは、パートナーが出張中だけの特権だ。鯨には申し訳ないけど。
ご飯を食べ終わってからもまだ動けそうだったので、ホテル食パンという名前にだけ惹かれて買ってきた食パンを、私はパン切り包丁で切り分けた。
一人で食べ切るには到底多すぎる、小さいとはいえ一斤サイズのパンだけど、何も考えなしに買って来たわけではない。これを一食サイズに切り分けて、明日と明後日の分はそのまま、それ以降の分は冷凍庫に入れて置いておくのだ。
そうすれば、朝眠いし怠い時に、食パンをナイフ出して切らないといけないという面倒も発生しないし、切ってあるものをトースターに放り込んで焼くだけでいい。冷凍ご飯は大概解凍作業が必要だけど、パンだったら薄いものなら直にトースターで焼いて食べられるのも、パンのいいところだ。
朝が苦手な人間の、最強の味方。でも、明日はクロワッサンにカフェオレボウルで、フランス式朝ごはんにする。楽しみだ。想像しただけでほっぺたが落ちそう。
思わずにへにへしながら、パン切り用の細いナイフで、潰さないよう慎重にパンを切り分けていると、ヨアさんが興味深そうに、台所に立つ私を覗いてきた。
「こんな事をする余裕まで、出てきたんだ」
「え? へっへー、そういえばそうだね。元気ない時なんか、パンの冷凍どころじゃなかったもんねぇ」
思えば、こんなことをしようなんて思ったこと自体が、随分と久しぶりだ。
贅沢しようにも、贅沢する品を買ったり作ったりする体力なんかないし、近場のコンビニにすら足が向かない、そういう日々だった。
ほんの少し、病院からもらった薬のおかげで改善したのだ。まだ、症状とか病気そのものが治ったわけではないけれど。
手の込んだ、美味しい料理を作ってみたいな。
普段下ごしらえが面倒な、あんな食材やこんな食材も使ってみたい。
手が掛かっただけに、最高に美味しい料理が出来上がると、幸せになる。
幸せになれるんだったら、台所の掃除やお風呂の掃除も、ちょっとやってみよう。
やった分だけ、幸せが返ってくる。
なんだか気分がいいから、毛糸で何か編んでみたい。
あんな話も、あんな絵も描きたい。あれも、これも。
最近の私は、そればっかりだった。
普段は忘れていた気持ちが、あれこれいっぱいに溢れてくる。
背後から、優しい声が掛かって、ふわりと頭を撫でられる。振り返って見上げると、優しげな瞳のヨアさんと目が合った。
「……今はもう、だいぶ平気?」
「うん。薬飲んでるだけで、モチベーションも体の楽さも全然違うよ〜。
夜になっても、乾いた食器片付けとこうって気になるし、明日になったら朝ごはん何にしようって考えられるし。
あ、でもやる気があるのは、鯨さんの出張中限定だけどね?
みんな味わってご飯食べてくれるし、お風呂とかも綺麗に掃除できるし、部屋も一人じゃそんな汚れないからいつでも清潔だし。
まるで擬似ホテル暮らししてるみたいでほんと楽し……っ、んん、……っ!?!?」
急に、ぎゅっと抱き締めたまま唇を塞がれたから、言葉が続けられなくなった。
あまりに突然のことで、嬉しいけど目を白黒させてしまう。
ヨアさんにしては、言動に脈絡がない……っていうか、めっちゃ急だけど!?
台所の剥き出しの木の床が、微かに軋む。パンを出しっぱなしにした作業台に、体ごと押し付けられながら、台所にはあまり相応しくない、ちゅっという甘い生々しい音が、唇を吸われる度に響いた。
「ちょ……っ、まっ、まって……パン切りナイフまだ……っ、持ってる、危ない、からっ」
このまんま、二人っきりの甘美な感覚に酔いしれてしまいたいけれど、さすがに手元に刃物を持ったままは危ない。パン切り用だし大した切れ味はないと思うけど、それでも下手に触ったら怪我をしてしまう。
空いた腕で慌ててとんとんヨアさんの体を叩くと、その言葉でやっと、諦めたように吐息を吐いて、拘束を緩めてくれた。
よ、よかった。改めてパンやナイフを片付けてからリビングに戻り、完全に安全な状態になった上で、私はもう一度、差し出されたヨハネさんの腕にすっぽりと収まる。
こんな風にべったり甘えられたのは、よく考えたら、ヨアさんが長めの夏休み明けに帰宅して以来かもしれない。
意外かもしれないけど、それまではなんだか一歩引いたような感じで、再会を喜んだり、会えなかった分を補充したりするのを、ヨアさん自身が遠慮しているように見えた。もちろん傍にいるのを喜んでくれてたのはわかったけど、見境なさや思いっきり加減があまりない、というか。
ぎゅうっ、と私の肩口に肩を埋めて擦り寄ってくるヨアさんを、私はちょっと驚きながら、目をぱしぱしさせて見上げる。
「ど、どうしたの、突然」
「夏が過ぎてもこの方、あんたの体調一向に良くならなかったし。
直生のことや、夜羽や恵李朱のこともあって、ボクのことまで気を回してる余裕あんまなかったでしょ、あんたは。
だから、黙ろうと……あんまり迷惑掛けないようにしようと思ってた、けど。
なんだろう。気が緩んだのかな」
そう言って、ヨアさんは顔を伏せたままで、腕の力を強めた。
思いもがけない言葉だった。素直で気弱で……普段の不敵なヨハネさんから出てくるとは、あまり思えないような言葉。
「そ、そんな」
「……ボクだって、鬼の心臓じゃないんだからね。
あんたは勝手にしっかりしてると思ってるみたいだけど、ほんとは……」
恨みがましく吐き出されたと思った言葉が、途中から涙で濡れて先が続かなくなり、私はますます慌ててしまった。
震える肩に手を置いて急いで覗き込むと、葉影の露のように儚げな泣き顔が、綺麗な髪の内側に見えた。涙の粒が揺れて、ぽつりと掌の上に落ちる。
まったく、私は……。こんな悲しい顔をさせるまで、ヨアさんの寂しさに気が付かないなんて。強情で我慢強さが過ぎる恋人の頬に、私はそっと指で触れる。
「……うん。ごめんね、あんまり気付いてあげられてなくて」
「ずっと、不安だった。あんたが消えていなくなっちゃうんじゃないかって。
あんたは一生懸命気丈に去勢張って生きてたけど、それでも生きてる笑顔が辛そうで……いつか、消え失せてしまいそうで……
だから、本当にここにいるんだって、あんたが自分の意志でいなくならないんだって思えるまで、安心できなかった」
そんな大袈裟な話だったのか、と目を丸くした。
私自身に死ぬ気はとんとなかったのだけれど、そんな風に見えていたのか。
まあ、確かに、辛いことも多かった。死にたいと思うことも、ないわけじゃない。でもそのどれもが、今のところ最終的には笑い話になっているし、現に私はこうして生きている。
こればっかりは無理でしょ……という思いをさんざ繰り返しながらも、ひいひい言いつつ今まで生きて来られたのは、ヨアさんやみんなの支えがあってこそだ。最後に笑える世界になるのは、みんなが居てくれるから。
だから心配しないで……と思ったけど、ヨアさんはずっと不安だったらしい。
掠れた声が、耳元で囁いた。
「ボクは、あんたが思うよりずっと、弱虫なんだよ?
夜羽や恵李朱たちの前で、情けない面できないから必死だけどさ。
あんたが本来の元気を取り戻すほど、あんたが今までどれ程苦しかったのか、眼裏に浮かんでくる……
あんたの苦しそうな顔ずっと見てきて、ボクが今までどんな気持ちだったか、あんたにわかる?」
思わずはっとしたというか、はたと立ち止まった瞬間だった。
何とはなしに「良くなった」「楽になった」と口にはしたけれど、今まで何かを飲んで、何かを試して、そうはっきりと実感を伴って言葉にできた事は、明らかな病からの回復を除いては、一度もなかった。
どんな薬を飲んでも、高い栄養剤を使っても、早く寝ようと腹巻きをしようと体に良いものを食べようと、どんなにどんなに努力したところで、私の体はそれについて来ようとしなかった。
それが当たり前だった。
「良くなった」「楽になった」「大丈夫」……
そう口にするのは、本当に心からそう思ったわけじゃなくて、たとえ思い込みだとしてもそう信じていなければ、本当に、何の希望もなくなってしまうからだ。良くなったと思っていなければ、結局はこの体で何をしても無駄だという事実が、絶望としてのしかかってくるだけの日々が現実なのだと、わかってしまうから。
気のせいだとしても、これで体にいいことをしたのだと、少しはマシになったのだと。その結果まだ十分に体が動かなかったとしても、今ひとつ活力に欠けて力が入らなくても、熱っぽく怠く辛かったとしても、それは「本当に辛い」状態よりは、良いはずだから。
それが私の「良くなったよ」の定義だった。「良い」状態で多分、他の人から見ればまだ底辺にいる状態なのだとは、気付きようもない。
そんな私が、一時的であれ、何の迷いもなく確信を持って「良くなった」「元気になった」と自分から口にしたのだ。
明らかに、間違いないと、自分で変化を実感できるくらい。これまでの、良くなっているのかいないのか分からないような、中途半端な体力黄色ゲージの状態とは、格段に違った。
「良くなった」と言いながら、知らず知らずのうちにずっとしんどそうに体を引き摺りながら過ごしていた私を、その頃から見続けていた人間が、一体どんな気持ちだったのか。今の私と比べて、あの頃の私がどれほど擦り減っていたのか知った時に、どんな気持ちになるのか。
私はまったくの無頓着で——そして、ヨアさんの涙を見て、初めて気がついた。
「ご、ごめんね」
「謝らないでよ。謝らないで……ボク本当に、安心したんだ。
昼間布団に戻ることもなくなったあんたが、炬燵に座って歌を歌ってる。
バカみたいに目をキラキラさせながら、ボクたちに向かって話し掛けてる。
何度立ち上がってもしんどそうな顔をしないで、お茶やらコーヒーやら淹れて、お菓子まで焼いてもケロリとしてる……
そんなどうでもいい光景で、胸がいっぱいになって溢れそうになるんだよ。あんたにわかる? この気持ちが」
ぼろぼろっと、向かい合った瞳から、遠慮なしに涙が零れ落ちた。
これ以上なく泣いてるけど、明らかな涙声とは違って、あまり声は震えてない。荒ぶる気持ちよりも、静かに語り聞かせるような、穏やかな音色が柔らかな胸元から指先を伝わり、触れている私まで届く。
けれどその間にも、雨のように涙は幾筋もひっきりなしに降って、私を濡らしていくのだ。びっくりするぐらい、透き通る青の綺麗な瞳から、次から次へと涙が溢れ落ちていく。これまで溜め込んだ気持ちが決壊したみたいに。ぽろぽろぽろぽろと、綺麗な雫が花弁みたいに落ちる。
彼が語るのをずっと聞いていたら、なんだかこっちまでもらい泣きしてしまった。
頭を撫でてくれる、たおやかな掌が温かい。そのぬくもりに甘えながら、私も滲んだ涙を手で拭う。
「ありがと……ありがとう。こんなに、想ってくれて」
「当たり前でしょ。大好きだよ、サキ。ほんとに……愛してる」
「ふふ。私も大好き」
これ以上なく、ストレートでまっすぐな、愛の言葉。
こういうべったりした付き合いは嫌かと思ったのに、必要な時には、自分からこんな素直に伝えてくれるようになった。だから、私も伝えられる。
安っぽいと思う人らには、いくらでも思わせておけばいい。私は、いくらでも伝えて欲しいし言って欲しい。
寒い時期だからを理由にべったりくっついていたら、部屋の扉の陰から、こそこそっとこちらを覗きながら話す声がした。
「……なんかいい雰囲気じゃない? あの二人」
「今夜は二人きりにしてあげようか」
「たまには譲ってあげないと、ヨアが可哀想だもんね( ˙꒳˙)」
ちっちゃな影が二つ、肩を寄せ合って話している。
やれやれ、と鼻を啜ったヨアさんは、小さく笑ってから、ちらっと夜羽くんと恵李朱くんを振り返った。
「ちょっとそこ二人? 聞こえてるんだけど?」
「わーい、バレた」
「ラブラブタイム邪魔しちゃったぁ」
「まったく、マセた
二人いっぺんに頭をもみくちゃにされたヨルくんとエリくんが、きゃあきゃあ笑っているのに釣られて、私も笑った。