――美しい娘よ、泣いているのだろうか?
どこか懐かしい、優しい声がする。
天元様の膝元、
しばらく目を閉じたまま柔らかなクッションに身を任せ、ゆっくりと瞼を開いた。
視界いっぱいに、たくさんの
学院にある礼拝堂より数倍大きく、年季の入ったその場所――大聖堂は、人々に忘れ去られたような寂しさがあった。
大きな窓から差し込む光に、高専に着いてから時間はあまり経っていないと分かる。
身体を起こすと、隣には自分と同じように長椅子で眠る黒井がいた。
そして、祭壇の前で祈りを捧げるのは……幼いころの夢で見たのと同じ、聖歌隊の装束に身を包んだ人物。
「どうしてここに居るの……?」
どうして自分がここに居るのか。どうしてあなたがここに居るのか。
少女の出した小さな声に、星空の瞳が振り返った。
大聖堂の膝元にあった孤児院は、かつて医療教会による学習と実験の舞台となり、幼い孤児たちは、やがて医療教会の密かな頭脳となった。
上位者――人智を超えた存在との一致を、人類の“進化”を試みた結果、やはり人の思考の次元を超えられなかったものたち。
それが“聖歌隊”。教会の最上級聖職者たちの始まりである。
「聖歌隊は見捨てられた上位者――“星の娘”と共に空を見上げ、星からの
そうしていつか、超越的思索に至ることが聖歌隊の
「……彼女を失うまでは」
失って初めて、星の娘と共に在ることこそが歓びだったと、聖歌隊は気が付いた。
しかし、嘆きの祭壇で祈る彼女の望みが何であったかを知る
「君をここに連れて来たのは、“
天内が幼いころから持っていたペンダント――星の瞳の狩人証を握る手を、黒の長手袋をした手でそっと包まれる。
「さぁ、聞かせてください。……君はこれから、どうしたいですか?」
恭しく片膝をつき見上げてくるその人は、
「あの少年たちも、君に同じことを聞きますよ……」
美しい星空の瞳が、一段と輝いた。
知らない場所で、自分と黒井を攫ったであろう人物が、自分の手を握っている。
異常事態であるはずなのに、天内は自分に語り掛ける声に、見つめてくる瞳に、なぜか安心感を抱いていた。
その瞳が肌身離さず着けていたペンダントと同じ、星空の輝きをしていたからだろうか。
もしくは天元様とは関わりのない、それでいて天内の境遇を知っている相手だからか……。
これからどうしたいのかという問いに、黒井にさえ吐露できなかった気持ちがこぼれた。
天内は生まれた時から
そんな彼女には
でも、ある日……両親との思い出が途切れた。
「お母さんとお父さんがいなくなった時のことは、覚えていないの。もう悲しくも寂しくもない」
だから同化によって、皆と離れ離れになっても大丈夫だと思っていた。
どんなに辛くても、いつか、悲しくも寂しくもなくなると……。
「でも、やっぱり……もっと皆と、一緒にいたい……。もっと皆と色んな所に行って、色んな物を見て……もっと!」
ペンダントを握る手に力が入る。そうするのは、美しい星の輝きが自分を導くと信じているから。
何かを決めるとき、自分を奮い立たせたいときには、その輝きを眺め、握りしめていた。
今もそうして――不意に、このペンダントを貰った時の、幼いころの記憶がよみがえった。
声を上げずに泣く自分の前に現れた、輝く三つの星。
それは、今、目の前にいる人物と
天内が息をのみ、星空の瞳の輝きを見つめ返す。……目の前のものが何であるか、気づいてはいけない。
「“星漿体”としての君は死に、この“夢”を忘れ……誰に庇護されることもない、一人の少女として目覚める」
そう囁いたのは、狂気が隠された甘く優しい声。
「すべて、長い夜の夢だったように……」
「……理子様!」
はっとして目を開ければ、黒井が自分の手を握ってくれているのが分かる。
何かを掴んでいた気がするが、繋がれた手の中には何もない。
起き上がって祭壇の方を見ても誰もおらず、灯りの消えた蝋燭が並んでいた。
「理子様。どうかなさいましたか?」
「黒井……私は……」
困惑する天内を見て不思議そうに首を傾げていた黒井が、繋いだ手にこめる力を強める。
「帰りましょう。理子様。……皆と色んな所に行って、色んな物を見るために」
そう話す優しい声に、天内は肩に入っていた力を抜いた。
ここに夏油が迎えに来るらしいと話す黒井にうなずき、大聖堂を見渡す。
あの襲撃者の手から逃れるため、二人だけここに転移させられたのだろうか。
それにしては変なタイミングだったし、高専に西洋風な建物があるとは知らなかった。
本当は、ここに誰かいたか、何かなかったか、聞かなければならないことがたくさんある。
でも、隣に座る黒井の横顔を眺めていれば、ただ“長い夢を見ていた”と、そう思うのが一番いい気がした。
都内にある“医療教会”の敷地内を、夏油が駆ける。
襲撃者は、あの場で天内を殺さなかった。
そのため医療教会が関係していると当たりをつけて来たが、五条が先に来た様子はない。
そもそも、五条は医療教会と盤星教のどちらに向かった?
教会の扉を開き、中には熱心に祈りを捧げる信者たちしか居ないのを確認して、元来た道を振り返った。
「“星の娘”は、大聖堂に居ますよ」
焦り始めていた夏油が、急にかけられた言葉に足を止める。
他の信者とは明らかに違う、聖職者らしいその人は、通りがかった信者たちに深々と頭を下げられていた。
「呪術高専の方ですよね? ……かつては私も、呪術師をしていました」
夏油は大聖堂までの案内を申し出てきた、その人の服装を後ろから観察する。
肉弾戦を好むのか、腕は分厚い手甲で覆われており、教会の装束らしく聖布が厚く垂らされている。
顔を覆えば外見から人物を推察するのが難しい、着ぶくれして見えるその装束は“処刑隊”のものであった。
そんなことは知る由もない夏油が、前を歩く人物に声をかける。
「……なぜ、狩人になられたのですか?」
夏油たち高専生は、夜蛾から「狩人とは極力、関わるな」と言われていた。彼らは人の道理で生きていない、とも。
だから任務中に狩人らしき者とすれ違ったことはあるが、話すのはこれが初めてだ。
「私は、それ以外に生きる道がなかったので……。君は? 何のために呪術師をしているんですか?」
「『非術師を守るため』です。それが
数日前、五条にも話した内容を伝える。
「なるほど。でも……“狩人”のほとんどは、その“弱者”である非術師ですよ」
「えっ……?」
――医療教会には、高専傘下にいない術師――“狩人”と呼ばれる者たちが所属している。
「いや……あなた方は、呪霊を祓うでしょう?」
呪いは、呪いでしか祓えない。
信じていない様子の夏油を見て、その人が自嘲気味に笑った。
「我々は“呪われて”います。……“呪物”を取り込むことで呪霊を視認し、祓える力を得ているようなものです」
医療教会は“血の医療”により、新たな狩人を迎える。
上位者――人智を超えた存在の血の“輸血”により、呪霊を含めた人ならざるものを知覚し、その身に宿した呪いによってそれらを祓う。
……そしていつか、自らも
「しかし、最初から“持っていた”私と違い、彼らが呪力や術式を得ることはありません」
普通は3級程度の呪霊が祓えれば御の字。
だが、人の理を外れた狩人は、主に呪霊――“獣”を狩り、血を浴びることで、その遺志を力とする。
「
――我ら血によって人となり、人を超え、また人を失う。
それは、狩人たちの間で語り継がれる警句。
「知らぬ者よ……かねて血を恐れたまえ……」
かける言葉の見つからない夏油が、気まずい沈黙を耐えて歩いていれば、先ほど見た教会より二回りは大きい大聖堂が見えてきた。
「……少し、話し過ぎてしまいましたね」
先導していたその人が振り返り、こちらに手を伸ばす。
「これを……。“強者”であろうとする君に、先輩からの餞別です」
そう言って差し出されたのは、狩人が協力を求める際に鳴らす神秘の鐘――狩人呼びの鐘。
「困った時に鳴らしてくれれば、君の元へ
受け取った夏油が試しに鐘を揺らすが、音の鳴る気配はない。この“お守り”を渡す際の決まり文句なのだろうか?
「自分で言うのもなんですが……。私が勝てない相手をどうにかできる人なんて、ほとんどいませんよ」
「ええ。だから
いや、そもそも音が鳴らないだろう。
言い返そうとした夏油だが、その人が恭しく、どこか芝居がかった一礼をとったため言葉を飲み込む。
「では、私はここで失礼します。……君に会えてよかった」
「こちらこそ……。案内、ありがとうございました」
深く礼をしてから大聖堂へと足を向けた夏油の背中に、また声がかけられる。
「獣狩り……呪術師は貴い業です。お互い、この街を清潔にいたしましょう……」
そう言って笑う姿は、白の装束に包まれているはずなのに、全身が暗い血の赤に塗れているように見えた。