人間誰しも趣味嗜好というものを持っている。
その中に、特に異性相手に感じるものを人はフェチズムと呼んでいる。男性で言えば女性の脚の綺麗さだったり、二の腕の細さだったり、なんなら鎖骨にフェチズムを感じる人もこの世には存在している。
女性側もまた然り。男性の筋骨隆々な身体が好きな人もいれば、首筋などにフェチズムを感じる人だっている。その種類は多種多様で、挙げ出すときりがない。
「お前さ、何フェチよ」
「胸に決まってんじゃん。お前は?」
「ばっかお前、分かってねぇな。脚こそがこの世の真理だと思わないか?」
ここは虹ヶ咲学園という私立高校。そこに在籍している男子生徒たちが、楽しそうにフェチ談義をしていた。
このように、各々が別々の好みのフェチを持っているとなかなか意見が合致しない。しかし、それこそが面白く、盛り上がるものなのだ。
(くだらない)
もちろん、中にはフェチを持たない者もいる。
盛り上がる男子生徒たちを横目に、一人の男子が横を過ぎて階段を上っていく。彼は何もフェチズムを抱いていなかった。
だからこそ、フェチズムの良さが全く分からない。彼からするとフェチ談議は低レベルな会話すら満たない内容だった。
(じょ、女子をそんな目で見てたら、モテるわけないだろ)
なぜ彼がフェチズムを持ってないのか。
それは彼が、未だにまともな女子との交友関係を築いていなかったからである。
「ういーす
「うわっと。おはよう、
慶と呼ばれたその男子は、友達である海里に後ろから肩を組まれてよろめいた。
「相変わらず目立つ格好してるね」
「ん? まぁな。こうすりゃ女子の目に少しは止まるかもなって思ってよ」
「また女子にモテることばかり考えて……」
「逆にいつまでお前はモサ男でいるつもりなんだよ。早く高校デビューしようぜ? そんなんだから女の友達の一人や二人も出来ねぇんだろ?」
「勝手なお世話だい!」
ムキになった慶が海里を突き飛ばす。
二人の見た目は正反対そのものだ。慶が目元が隠れるほどの長い髪に眼鏡をかけているのに反して、海里は爽やかに短く髪を整え、首にはスポーツネックレスを身に付けている。月とすっぽんとはまさにこの事を言うのだろう。
「ふむふむ……あの子の鎖骨エッチですなぁ」
「……またお得意の鎖骨フェチの話かい?」
「おうともよ! いやぁ、それにしても虹ヶ咲の女の子たちはレベルが高ぇな! 鎌倉からわざわざ一時間かけて通ってる甲斐があるってもんよ!」
「それに関しては確かにそうかも。さすが、女子比率が高い高校だね」
虹ヶ咲学園は、自由な校風と豊富な専攻が特色で、全国から優秀な人材が集まる人気校。 かなり広大で、外部の人間や新入生、方向音痴の生徒では確実に迷うほどだ。
全生徒に配布したタブレット端末で連絡事項を共有しプリント配布が無いなどかなり先進的であり、生徒が見る大きな学内掲示板のほかに廊下にも電光掲示板がある。
学校在籍生徒数はおよそ3000人。しかしその9割ほどが女子生徒であり、男子にはあまり人気のない学校となっていた。
「お前、フェチに興味ないとか言ってるけど本当は少し興味あるんじゃねぇの? じゃないとわざわざ俺と一緒に高校一年の途中から編入試験を受けてこんな遠くて女子が多い高校に来ねぇだろ」
「興味ないに決まってるだろ? 僕は海里がセクハラで警察のお世話にならないために、わざわざ付いてきたんだからね」
「セクハラする前提なのやめてもらっていいですか慶さんや」
ため息混じりに慶は早足で階段を上っていく。
「もう僕は先に行くから。後から追いついて来てね」
「あっ! おいっ! 慶ッ!!」
慶を制するように大声をあげる海里。
「なんだよ。 海里がいつまでもくだらない話をしているから──」
「そうじゃねぇ!! 前見ろ前ッ!!」
いつものおちゃらけた海里の真剣な表情を見て、只事ではないと理解した慶は反射的に前を見上げる。
━━そこには、空中に身を放り投げられた女子の姿が迫ってきている光景が広がっていた。
「……へ?」
思わず素っ頓狂な声を上げ、慶はその場で固まってしまう。慌てて海里が走り出し慶をどかそうとするが、間に合わなかった。
「きゃあああ!?」
「ぶふぉ!?」
階段の上から降ってきた女子と慶が接触する。
──刹那、慶に襲ってきたのは二つの感触だった。
とてつもなく柔らかく、あまりにも包容力のある二つの山。あまりにも見事なそれに、ビックリするほどピッタリに慶の顔が挟まった。
途端、彼の頭に電撃が流れる。今まで味わったことの無い未知の感触。身体が倒れていくその僅かな時間の間に、彼の頭脳はその『ブツ』の答えを全力で導き出す。
背中から落ちてきている彼女の状態からして、この『ブツ』が女性が成長すると共に大きくなる胸ではないことはすぐに演算で導き出せた。では何か。その答えは、消去法によってすぐ求まる事となる。
(……これが……!!)
今までフェチズムに関心を向けなかった慶が、たった今、フェチズムに目覚めた歴史的瞬間。
(これが……女子のお尻……ッ!!)
弾力があって、それでいて柔らかくて、なんて優しい包容力のある部位なんだ。
慶は、フェチズムの事を馬鹿にしていた自分に反吐が出そうになった。こんなに素晴らしいものが世の中にあったのに、何故それに見向きもしなかったのかを、全力で後悔した。
(あぁ……これが僕の……僕だけのフェチズム……!)
慶は、コンマ数秒という時間を思う存分利用して女子のお尻の良さを堪能し。
──そのまま地面に叩きつけられた時に後頭部を打ち付け、見事に一瞬で意識が途絶えた。
──────────────────────ー
慶は、気付いた時には顔も見知らぬ女子の尻に顔を埋めていた。
まるで枕のようにふわふわな感触に、彼の顔はだらしない表情になっていた。
「えへへ……僕のお尻……これが僕だけの……」
思う存分堪能しているその時、突然顔を埋めていた尻が動き出し、慶から離れていく。
「あっ! 待って! 待ってよ!」
手を差し伸べ、尻を掴もうとするが届かない。
どんどん遠ざかっていく尻を追いかけるべく、慶は必死に走って追いかけていき。
「僕のお尻ッ!!」
そして、夢から目覚めた。
目を開いた先に広がっていたのは、白い天井。先程まで見ていた景色とは全く違うそれに、思わず慶は呆然としてしまう。
「……あれ? ここは……」
「保健室だよバーカ。ようやく起きやがって」
横を見ると、海里が呆れた表情で慶を見ていた。
「あれ? なんで僕は保健室に……」
「覚えてねぇのか? 階段から落ちてきた女の子を庇って、お前は意識を失ってたんだよ」
「そうだったんだ……その子は大丈夫だった?」
「おう。無事だよ。よく見ろ、俺の横に座ってるだろ」
そう言われて、慶は海里の横を見る。
そこには、顔を赤らめながら彼を見ている女子の姿があった。茶髪のロングヘアーに、後頭部には赤いリボンを付けている。彼を不安げに見つめてくる瞳は、まるでサファイアのように澄んでいた。
「あ、えっと……」
「ごめんなさいっ。私が足を滑らせなければこんな事にはなってなかったのに……本当にごめんなさいっ」
「い、いや。別に大丈夫だよ。ほら、こうして僕と君も無事だったわけだしさ、ね?」
慌てて取り繕うが、慶とは全然目を合わせようとしない女子。その瞳はどこか揺れていて、耳まで真っ赤にしていた。
「……あれ? 僕って助けた側だよね? なんでこんなに避けられてるの?」
彼女の態度を不審に思い、海里に耳打ちする。
それを聞いた彼は、とてつもなく大きなため息を吐いて、この世のものとは思えないものを見た時の表情を浮かべた。
「え!? なんでそんな顔すんの!?」
「……お前、目覚めた時の言葉思い出してみろよ」
「目覚めた時の言葉……? 別に変なことなんて言ってな──」
そこまで言って、慶は自分の口から飛び出した爆弾発言を自覚する。
途端、彼の体からまるで滝が流れているかのような量の冷や汗が流れ落ちる。そして、何があったのかを全てを思い出してしまった。
──彼がお尻フェチになってしまった、ということも。
「ち、ちちちちち、違うんだよ! あれは……!!」
「まさかこんな事になっちゃうなんて……本当に足を滑らせなければよかった……」
「被告人
「弁護って言われても……! 気がついた時には僕の顔にお尻が降ってきて、そのお尻がとんでもなく心地いい柔らかさだったのがいけなむごごごっ!?」
「やめて! 本当に恥ずかしいからこれ以上は言わないでぇ!!」
「ジャッジ、判決。慶ギルティ」
「むぁんで!?」
慶は、必死に口を押さえ込もうとする女子から逃れ、慌てて弁明を始める。
「不可抗力じゃんか! それに嘘ついてまで事実を隠そうとしないだけマシだろ!!」
「それで? 彼女のお尻の感想はどうだった」
「至極恐悦。感服いたしました……ハッ!?」
「良くて死刑、悪くても死刑ってとこだな」
「死ぬ未来しかないのやめろや!」
必死にこの状況を覆そうとするが、その度に脳内にあの時の光景がフラッシュバックし、そして実際に味わった感触を思い返してしまう。
それにつられて、慶の口からは油断すると彼女の尻の柔らかさの感想がポロリと出まくる。どう足掻いても、変態そのものだった。
「と、とにかく! 助けてくださったのには感謝します! でも、あなたみたいな変態さんとはもう二度と会うことはないでしょう! ありがとうございました! そしてさようなら!」
「あぁ! 待ってくれ僕のおしり!」
「やめとけお前。ガチで警察にお世話になる気か」
この場から逃げ出した彼女を追いかけようとして、慶は海里に首根っこを掴まれた。
「……はっ!?」
おかげで彼は徐々に理性を取り戻していき、そして自分が犯してしまった大罪を心底後悔した。
「……やらかした……僕の新しい高校生活が……」
「今までろくに女との交流がなかった反動がとんでもなさすぎるだろ。童貞拗らせたらこうなるとは」
「うぐっ……こればかりは何も言い返せない……」
「それに相手も悪かったな。これが普通の女子生徒ならまだやりようはあったんだろうが」
「……どういうこと?」
慶が絶望に打ちひしがれている中、海里は彼女の正体を彼に話した。
彼女の名は『
「そんなすごい人のお尻に惚れてしまったとか、普通にクズすぎるだろ……」
「疑いの余地なくクズで変態だったな。彼女のファンから殺されても文句言うなよ」
絶望の上からさらに絶望が彼に襲いかかる。
高嶺の花の尻に触れてしまったこと。その後、彼女の尻に執着したこと。そして逃げられたこと。その全てが慶の心に負荷をかける。考えれば考えるほど、気持ちが辛くなっていく。
「まぁ、その時はその時だよね」
「訂正しよう。馬鹿でクズで変態だったわ」
だから、彼は考えることをやめた。
「だって虹ヶ咲学園には1学年に1000人ほどの規模なんだろ? 僕たちの編入先は国際交流学科っていうところだし、まぁそうそう会わないでしょ」
「妙に説得力あるのなんなんだよお前。クソムカつく」
悪態をつかれながら、慶はベッドからゆっくり起き上がると、自身のカバンを持って海里と共に保健室を後にする。
国際交流学科は数ある学科の中ではあまり人数が多くない学科だ。だから同じクラスになる可能性も限りなく低いだろう。そう考えたようだ。
「彼女のおしりとはもう戯れることは出来ないけど、仕方ない。いい夢を見させてもらったってことにしておくよ」
「よりにもよってお前が尻フェチに目覚めるとはな……お前が捕まった時は『やると思ってました』ってインタビューで言っといてやるよ」
「誰が捕まるか! それに僕は彼女のお尻フェチなだけだ! もう彼女に会わない以上、そのフェチに振り回されることなんて──」
海里と話をしながら、勢いよく教室のドアを開けて慶は中へと入ろうとする。
そして、目の前に座っていた人物を見て硬直してしまった。
「な、なななっ……!?」
「……へ?」
教室に入ろうとした彼の目の前の席に座っていたその人物は。
「あ、えーっと……さっきぶり、だね」
「なんでこうなるのぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
先程と同じく、顔を真っ赤にして信じられない表情でこちらを見ている、桜坂しずく張本人だった。
──これは。
少女のお尻の虜になった少年と。
自分のお尻が仇となり、少年を虜にしてしまった少女の。
笑いあり、涙あり。
「というわけで同じ学科、同じクラスっぽいのでよろしくお願いします……運命のお尻の人」
「最悪な邂逅からの最悪の呼び名すぎる!? せめて運命の人って言ってよぉ!!」
そして、お尻ありの青春の物語である。