次の日の朝。
国際交流学科がある棟は、少しばかりどよめきが広がっていた。
「……」
1年F組。
慶としずくが在籍しているこのクラスの教室前の廊下に、たくさんの女子生徒が集まってきていた。
「にひひ。人気者じゃん」
「恥ずかしくて死にそう……」
「そんな事言わずにほら、自信持って。柏葉くんは晴れてイケメンさんになったんだから」
その目的は、イメチェンした慶をひと目見るため。
原因は海里。昨日のヘアサロンで慶に気絶させられた仕返しとして、朝から『1年F組にイケメンがいる』という噂を流していたのだ。最も慶が嫌なことがわかっているからこその、究極の嫌がらせだった。
「あのクソカスゴミハゲアホ雑魚エロ猿、絶対ぶっ飛ばしてやる……!!」
「ネーミングセンス小学生すぎない?」
慶が一人で憤怒している様子を見て、しずくは肘をつきながら呆れた表情でため息を吐いた。
「なんでこうも自分に自信を持てないんだか……」
慶と外に集まっている女子生徒たちの視線が合う。
途端、慶は先程まで復讐心に駆られていた表情が一変、顔を赤面させ慌てた様子で視線を逸らした。
「うぅ……やっぱり女子の視線は慣れないよ……」
「柏葉くんの情緒どうなってるの」
「だって桜坂さん! 元々僕は陰キャだったし、女子との交流も一切なかったんだよ!? こんなの恥ずかしくて耐えられないよ……!」
頭を抱え、左右に大きく振る。
そんな彼の様子を見て、しずくは微笑んだ。
(私とは、もう恥ずかしがらずに話せるようになってるんだけどね)
なんだか彼にとって特別な存在になれている気がして、しずくは嬉しい気持ちでいっぱいだった。
これからも彼の異性の友達としてもっと頼られるような存在になりたいと、密かに考えていた。
「桜坂さんのお尻桜坂さんのお尻桜坂さんのお尻桜坂さんのお尻……!!」
「ねぇほんと! そういう事は人前でしないでって言ってるじゃん!! もっと他にやり方あるでしょ!! 」
「いや! 僕にはこれ以外のやり方を知らないんだよ! 精神統一ならぬ精尻統一しか僕には──」
「誰が上手いこと言えって言ったの!!」
「すんませッ!?」
しずくは尻を手で隠しながら、自身の筆箱を投げる。それは、慶の頬に直撃した。
──────────────────────
「留学制度?」
頬に湿布を貼っている慶が聞き返す。
「うん。留学制度。虹ヶ咲学園の国際交流学科にはね、1年生の時は第一言語、2年生の時は第二言語の国に行って留学するのが決まってるんだ。私たちF組はアメリカへ留学するみたい」
「へぇ。そんなのがあるんだね」
しずくが丁寧に、事情を説明してくれる。
慶は右手で海里の頭を机に押し付けながら、説明を聞いていた。
「あ、あの、慶さんや。死ぬ。圧死してまう」
「自業自得」
「ち、違うんです! 鳴ったら! 鳴ったらダメな音が絶えず鳴ってるんです!! ご勘弁を! お許しください!!」
海里の頭蓋骨と机が軋む音が鳴り響く中、しずくと慶は話を続ける。
「それってグループ分けとかあるの?」
「うん。あるよ。2年の先輩に聞く限りじゃ、出席番号順かつ男女混合のペアで行われるんだって」
「なるほど、男女混合……」
慶はハッとする。
しずくはそんな彼を見て、笑った。
「私の出席番号が五番で、柏葉くんが六番だから」
「桜坂さんと一緒ってことか!」
「ふごっ!?」
右手に力を入れて慶は勢いよく立ち上がる。
それに合わせて、海里にかかる圧力の負荷も膨れ上がった。
「よかったぁ……別の女子だったらどうしようかと思ってたよぉ」
「うんうん。で、本音は?」
「桜坂さんのお尻を留学中でも見れ……ハッ!?」
慌てて口を塞ぐ。
しかし、既に手遅れだった。
「ふふっ。柏葉くん、もう一度筆箱投げられたいのかな?」
「こ、怖いよ桜坂さん!? なにその暗黒微笑怖すぎるんだけど!!」
「俺はこんな状況でも普通に話してるお前らが怖ぇわ! サイコパスかよッでででですみませんでした俺が悪かったので許してください!!」
ようやく謝罪の言葉を口にした海里。
それに応じたのか、はたまたしずくに対する恐怖から身を守るためなのか、慶は海里の頭を掴んでいた右手を離した。
「頭潰れるかと思った……ゴリラじゃん」
「もう一回いっとく?」
「もう一件飲み直す? みたいな感覚で人の頭を握り潰そうとしないでください」
潰れた髪型をもう一度セットし直している海里は、少し意外そうに口を開く。
「そうかF組はアメリカに留学なんだな」
「G組は違うのか?」
「おう。G組はイギリスに留学することになってんだ」
海里はドイツ語を第二言語として選択している。
本人曰く「ドイツ語話せたらなんかかっこよくね」という単純明快な理由で選択したらしい。それ故に、慶としずくとクラスが違うのである。
「まぁ、今ある国際交流学科の一年生が一気にアメリカに行く訳にも行かないからね。広大な土地とはいえ、受け入れ数には限りがあるし」
「だな。それじゃあ俺は、そのペアのやつとイギリスのどこに留学するか決めてくるわ」
髪型を綺麗に整え直した海里は、手を左右に振りながらこの場を去っていく。
ふと、海里の別れ際に放った言葉が気になり、しずくに訊ねる。
「ねぇ桜坂さん」
「ん? どうしたの?」
「海里が気になることを言ってたんだけど、アメリカのどこの州に留学しにいくかはこっちで決めることが出来るの?」
「そうだよ! あまりに数が多い州は抽選になっちゃうみたいだけどね」
「なるほど」
しずくの嬉しそうな顔を見て、慶は考え込む。
(こちらに選択権があるのは驚いたな)
自分たちの行きたい州に行けるというのはかなり魅力的な話だ。恐らく一年生の留学は語学留学、というよりかは海外旅行に近い形なのだろう。
どこに行きたいかを考えてみるが、何一つ行きたいところが思い浮かばない。自分はどこでもいいという旨を伝えて、慶はしずくに行き先を決めてもらう事にした。
「桜坂さんが決めていいよ。僕は特に行きたい場所とかないし」
「本当!? いいのっ!?」
「どわぁ!?」
目にも止まらない速度で顔を寄せてくるしずくに盛大に驚いてしまい、慶は椅子ごと後ろ向きに倒れてしまった。
「お、桜坂さん……! 本当にびっくりするから突然来るのはやめて……!!」
「あ、ごめん」
いくらしずくという女子に慣れてきたとはいえ、人間の内情はそうそう変化するものでは無い。女子との関わりを断ち、万年童貞である慶に、それはあまりにも強い刺激だった。
「ふぅ……驚いたぁ」
「むぅ。なんだか除け者にされてるみたいでやだなぁ」
「ご、ごめん。少しずつ慣れていくから、ね?」
「ふーん。私のお尻にはすぐ慣れたのに、私本人にはまだ慣れてないんだ。ふーん」
「それとこれとは話が別っていうか……! ほら、桜坂さんのお尻は特別だし……!」
「全然フォローになってないんだけど……」
じっとジト目で見つめてくるしずく。
慶は少し居心地悪そうに頭を掻き、困った表情を浮かべながら視線を逸らした。
「……まぁ、その話はとりあえずおいといて。本当にいいの? 私が決めちゃって」
「う、うん。僕はそれに合わせるよ」
「分かった! じゃあニューヨーク州で!」
「……随分即決だね。前々から行きたいとか考えてたの?」
「うん! 昔から、アメリカに行くなら一度は行ってみたいと思ってたとこなの!」
両手を組み、目を輝かせながらしずくは天を仰ぐ。
「ニューヨーク州にあるブロードウェイ……そこには様々な劇場があるの! 一度でもいいから、そこの演劇を見たくて……!!」
しずくが、ここまで自分の欲をさらけだしている姿を慶は初めて見た。
彼女はスクールアイドル同好会の一員であると同時に演劇部も兼任している。そういう身としては、やはり興味があるのだろう。彼女の熱烈なアピールに、慶は微笑みを浮かべ。
(……そういえば)
そして、とある事に気が付いた。
(僕、桜坂さんのお尻についてならプレゼンテーションを出せるほど知り尽くしているし今も研究しているけれど……)
平然とセクハラ紛いな思考が頭をよぎった後、今まで意に介さずにいた重要な事柄を自覚する。
(桜坂さんのこと、まだ何にも知らないな……)
彼女の張りがあって大きな尻に気を取られすぎたせいか、彼女自身の事について、慶は全くと言っていいほど知識がない。
ニューヨーク州にあるブロードウェイで演劇を見たいという話を聞くまで、彼女が演劇部ということも忘れていた。
スクールアイドルに関しても同義だ。彼女がどういった歌を歌っているのか、どんな衣装を好んで着ているか、どんなダンスをしているか、そしてどんなスクールアイドルを売りとして活動しているのかも、全然知らない状態だった。
(……)
それは果たして、友達と呼べるのだろうか。
彼女のお尻にうつつを抜かしてしまうのは仕方ないとはいえ、彼女自身を見ようとしないのは間違っているのではないだろうか。
だから──いつまで経ってもしずくにすら未だに慣れていないのではないだろうか。
慶は自問自答を繰り返す。
自身の性癖が絡むとクズに成り下がる彼だったが、それ以外の時はとても優しく人情深い性格だ。故に正面から向き合ってくれている彼女に対して、内心では少し罪悪感を抱いていた。
これはいい機会だと慶は言い聞かせる。この留学を機に、桜坂しずくという女の子をもっと深く知ろうという覚悟が、彼の中に出来上がった。友達として失礼のないように。
そうすることで初めて『尻合い』と呼べる間柄になるのではないだろうか。
途中までいい感じだった雰囲気が、最後の結論で一気に破壊されてしまう。やはり彼は、しずくの尻が少しでも過ぎるとどうしようもないクズ人間になってしまうようだった。
しかし、最終目標が馬鹿げたものであるにしろ、それが今の彼に必要なものであるというのもまた事実であった。
「いいね。見に行こうよ」
「本当!? ありがとう柏葉くん! とっても嬉しいよ!」
しずくは、満面の笑みを慶に向ける。
普段、大人びている彼女が見せる年相応な笑顔。それを見て慶は、再度微笑みを浮かべた。
──────────────────────
留学の日は、あっという間にやってきた。
ボストンバッグの中身を確認する。着替えに生活必需品、そしてパスポート。忘れ物がないことを再確認して、慶は早朝の電車に乗り込む。
彼らの第一志望であるニューヨーク州への留学は、特に被りが出なかったおかげで即決となった。第一段階をクリア出来たので、胸を撫で下ろす。
しかし、まだまだ不安要素はたくさんある。初の海外ということや時差ボケなど、上げ出したらキリがない。なので、油断はしないよう心掛けることにしていた。
「……よし」
髪型をセットし直して、顔を上げる。
この日のために、慶は海里をこき使って流行の私服を押えて購入していた。着こなしも教えて貰ったとおりにしたので、きっと大丈夫なはずだ。
「おはよう、柏葉くん!」
弾かれるように顔を上げる。
そこには、私服姿のしずくが手を振って電車の中に入ってきている光景が広がっていた。
その瞬間、慶の目が見開かれる。
その視線の先には、もちろんしずくの尻。
空色のオフショルダーのブラウスに膝上までの紺のスカートを履いている彼女。一見、尻のラインなど見えるはずがない服装なのだが、慶の頭脳はしずくの尻のラインを計算し、最もラインが美しく見える位置を弾き出した。
「ふむ。私服姿の桜坂さんも素晴らしいね」
「え、そ、そう? えへへ……」
「うんうん。特にこう、身体のラインがしっかりしているというか、尻のラインも滑らかで黄金比率そのものだなと思って」
「少しでも喜んだ私の気持ちを返して?」
相変わらずだなぁ、と溜息を吐いて彼が座っていた横に座るしずく。慶は名残惜しそうに、彼女の横に腰を下ろした。
「もうちょっと見せてくれてもよかったのに」
「ふんっ。お尻ばかり見ようとしてくる変態さんにはこれ以上見せるものなんてないですっ」
「いや、そうじゃなくて」
少し不服そうに慶の方を見たしずくだったが、彼の表情は真剣そのものだった。
「私服を着た桜坂さん見るの初めてだからさ。お尻もそうだけど、もっと全体的に眺めたかったなって思って。とっても綺麗だったから」
彼の言葉の真意に気が付くまで、数秒を要した。
全てを理解した途端、まるで沸騰したやかんのように顔を真っ赤にして湯気を噴出するしずく。
「は、え、えぇ!?」
そんな彼女の様子を見て、慶は意地悪な笑みを浮かべた。
「へへ。前の仕返しだよ」
彼の顔を直視できないのか、しずくは両手で顔を覆い隠す。心なしか、彼女が付けているリボンが萎れているような気がした。
「そ、それは卑怯だよぉ〜」
「今日は僕の勝ちってことでいいかな?」
「うぅ……悔しい……お尻大魔神の柏葉くんにこんなに照れさせられるなんて……」
「待ってなんか変なあだ名ついてない?」
早朝の電車でやり取りを行う二人。
そんな彼らを祝福するかのように、東から太陽が姿を現し、彼らの行き先を照らした。