東京からニューヨークまでの14時間のフライトを経て、慶としずくはアメリカの地へと降り立った。
「遂に来た……! 劇場の聖地、ブロードウェイがあるニューヨーク州に……!」
目を輝かせながら、一人はしゃぐしずく。
「楽しみだね! 柏葉くん!!」
テンションが吹っ切れたのか、はたまた共感して欲しいのか、しずくは満面の笑みを浮かべながら、後ろにいるはずの慶の方へ振り返る。
「ウェップ……オエ……オロロロロロロロロ」
そこには、虹色に輝く細工が施された液体を口から絶え間なく吐き出す慶の姿があった。
「嘘でしょ……? ニューヨークに来て記念すべき初景色が友達の嘔吐になっちゃったんだけど……」
「ウップ……ふぅ……スッキリした……やっぱり慣れない乗り物に乗ると酔っちゃうな」
開幕早々、下卑た景色を見せられてしずくは表情を一変、先程とは正反対のげんなりとした様子で無駄にキメ顔をしている慶を見つめていた。
「もう……ほら、行くよ」
「待って!」
突然、真剣な表情と声色になる慶。
しずくは、彼の変貌に思わず驚き、息を飲み込む。
「ど、どうしたの柏葉くん……!?」
「桜坂さん……一大事だ……!!」
じっと見つめてくる慶。
少し躊躇うような素振りを見せたが、彼は重大発表をするかのように、重々しい口を開いた。
「桜坂さんのお尻よりデカいお尻たちが……たくさん群生しているぞ……!!」
「それじゃあ先に行ってるね。道に迷って迷子になっても知らないから」
「ち、違うんだ桜坂さん! 待って! それでも君のお尻の方が素晴らしいってことを言いたかったんだよ〜!!」
心の底から呆れたのか、とてつもなく大きなため息を吐きながら、しずくは歩き出す。
そんな彼女の顔は、怒りと恥ずかしさと嬉しさが入り交じったような複雑な表情を浮かべていた。
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虹ヶ咲学園の留学は二人組のペアでの活動となっており、中には男女混合ペアになってしまう事案も存在する。しずくと慶はまさにその事案通りのペアなわけなのだが。
「えっ!?」
「二人部屋しか用意出来ないって!?」
「すみません。どうしてもホテルの都合が合わなくて、個別の部屋を用意できなかったんです」
海外に駐在している虹ヶ咲学園のスタッフが、驚く二人に対して謝罪の意を込めて頭を下げる。
男女ペアになってしまった場合も、留学先で宿泊するホテルでは個別の部屋を用意されるのだが、運悪くしずくと慶のペアは個室を確保することが出来ないというアクシデントが発生してしまった。
「ってことは……」
「桜坂さんと同室……ってこと!?」
「そういうことになります……」
お互いに顔を見合わせる。
そして、方や額を手で押え、方や目を輝かせた。
「うぅ……お尻を見られない時間が生まれないってキツイなぁ……」
「桜坂さんのお尻を四六時中見れるなんて……夢みたいだ……!!」
彼らの常識的でない反応を見て、スタッフは。
(……何この闇深いペア……)
自らの過失でこうなってしまったのにも関わらず、密かにドン引きしていた。
「と、とりあえず活動は明日から行います。時差ボケなどもありますし、今日は一日中ゆっくりしてください」
「分かりました!」
「了解です」
慶はスタッフから部屋の鍵を貰い、しずくと共にエレベーターへと乗り込む。
「まさか同室になっちゃうなんてね」
「ね。でもこればっかりは仕方ないよ」
エレベーターで上の階に向かう間、二人は苦笑を浮かべ話し合う。
「柏葉くんと二人、かぁ」
ふと、しずくが呟く。
ようやく気が付いたのか、徐々に彼女の顔が赤く染まっていった。
(そ、そういえば、同室で柏葉くん二人きり!?)
肝心な事が頭から抜け落ちていた。
男子と女子しかいないホテルの密室。何も起きないはずが──
「疲れたから先に寝るね。お風呂とか自由に入っといていいよ。おやすみ桜坂さん」
──あった。
部屋に入った途端、慶は荷物を置いてベッドに寝転がる。そしてそのまま、深い眠りへと誘われるがままに寝てしまった。
「はあぁ……」
安堵と呆れが混じったため息を吐く。
本当に彼は自分のお尻以外には興味がないのではないだろうか。そう考えざるを得ない程の即寝だった。
「今寝たら絶対に時差ボケするのに……」
頬を膨らませて、スーツケースから着替えを用意するしずく。一週間ほどアメリカに滞在することになっているので、部屋着などをたくさん持ってきていた。
「さっさとお風呂に入っちゃおっと」
寝ている慶を横目に、浴室へとしずくは入る。
私服を脱ぎ下着姿になる。水色のそれが、彼女の乳白色の肌のキメ細やかさを強調していた。
髪を結んでいた白色のリボンを解き、じっと鏡を見る。よく見ると、しずくの表情にも疲れが溜まっているのか、少しばかり隈が浮かび上がっていた。
「明日までには疲れを取らないとなぁ」
苦笑を浮かべながら、下着を脱いで一糸まとわぬ姿になる。そしてバスルームへと入り、シャワーを浴びた。
「んー! 気持ちいい〜」
身体をぐっと伸ばし、リラックスする。
14時間も飛行機で座りっぱなしだったからか、流石のしずくの身体にも疲れが溜まっていたようだ。それが一気に流れ落ちるような感覚に、思わず心地良さを感じてしまう。
「先に身体洗っちゃおっか」
しずくは椅子に座ると、持参してきたシャンプーで髪を洗い始める。洗い残しがないように、入念に泡を立てて洗っていた。
「……」
期待はしていない。
男女二人きりになったというのに、即寝するような男子だ。そういう展開になるなんて万が一にも有り得ない。
「……少しだけ……見栄張ってもいいよね?」
それでも、心の底ではそのような展開を妄想してしまう自分がいるのも否定できず、しずくは今日の日のために持ってきていた、いつもとは香りが違うシャンプーを髪に馴染ませていった。
髪を洗い流し、次は身体を洗っていく。こちらも、普段とは香りが違うボディーソープを持ってきていた。
「……ちょっとくらい、私のお尻以外にも興味を持ってくれてもいいじゃない……かしばかくん」
不満げに頬を膨らませて、こちらも隅々まで入念に泡立てて洗っていく。
普段はあまり洗わないところも洗い流したせいか、慣れない感覚に少し戸惑ってしまった。
「ふぅ」
シャワーで身体を洗い流し、身体を十分拭き取ってから髪の毛を拭き取る。そして髪の毛を束ねてタオルを頭に巻いた後、しずくは浴室へと戻る。
そこには、眠そうに目を擦りながら歯磨きをしている慶の姿があった。
しずくの顔が強ばり、硬直してしまう。
そして、慶は寝ぼけた様子で一糸まとわぬしずくの体を眺め──固まってしまった。
「……は!?」
「……ん?」
その場に立ち止まること数秒。
先に変化があったのは、慶だった。
「桜坂さん……おはよう」
少し気まづそうに視線を逸らす慶。
そんな彼の鼻の穴からは、まるで最大まで捻った蛇口から出る理科室の水のような勢いの鼻血が流れ出ていた。
「か、かかか、柏葉くん!? 寝てたんじゃなかったの!?」
「そういや歯磨きしてなかったなって」
「律儀か!!」
慌ててしずくは頭に巻いていたバスタオルを身体に纏わせる。一枚布だが、ないよりかはマシだ。
「……見た?」
「まぁ、見たからこんなに鼻血が出てるんだよね。ほら、鼻血の勢いが強すぎて僕の身体浮いてきてるし」
「柏葉くんの鼻はスーパーマ〇オサンシャインのポンプかなにかなの?」
「かもしれない。今はホバーノズルなのかもね」
「いや聞いてないんだけど」
鼻血の勢いで三センチほど宙に浮いている慶を見て、しずくの中にある羞恥心が薄れていく。
女子の裸を見て、顔一つ赤らめずに鼻血を噴射するだけの彼の反応の異質さに、妙に冷静になってしまったからだ。
「そんなことより! バスタオル姿の桜坂さんのお尻を見させてもらうっ!!」
「あっ! 待って!!」
「なんでお尻にタオルが巻いてあんだよ!」
「普通巻くでしょ!? 何言ってるの!!」
浮きながら接近してくる慶に、慌ててしずくは浴室の中へと逃げようとする。
しかし、鼻血で浮く事が初めてだったのか、慶は勢いを殺しきれず、しずくにそのまま突撃する形になってしまった。
「うわっ!?」
「きゃあ!?」
体勢を崩し、互いにもつれあってしまう。
「いたた……」
「う、うぐぐ……」
「ひゃん!?」
しずくは自身の下半身でモゾモゾと動く何かに身体を震わせると共に、声を上げてしまう。
恐る恐る下を見ると──しずくの尻に下敷きになっている慶の姿が。
「あ、ああ……!!」
しずくの顔が一気に朱色に染まり上がる。
そして慌ててその場から離れようとした、その瞬間だった。
「ご馳走様でしたッ!!」
再び慶の鼻から、此度は消防車が消化の際に放つ水のような勢いの鼻血が噴き出した。
先程のような垂直への噴射ではなく、今回は水平への噴射だったせいか、とんでもない勢いで横に吹っ飛ぶ慶。
「きゃっ!」
上に乗っていたしずくは、テーブルクロスの要領でごく最小限の衝撃で地面に落ちる。
そして慶はそのままの勢いで壁にぶつかり、頭だけ壁に埋もれ。ようやく勢いが止まった。
「ふふ……桜坂さんのお尻の直の感触があまりにも極上すぎて……ターボノズルになっちまったぜ……」
そして、出血多量によりその場で息絶えてしまう。
「柏葉くん!? しっかりして!! 柏葉くんッ!!」
しずくは即座に下着と寝間着を着込み、慌てて壁に埋もれた慶を引き抜く。
引き抜かれた彼は、一生に悔いを残さないかのような幸せな表情を浮かべて、気絶していた。
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「う、うーん……?」
息苦しさを覚えたのか、ゆっくりと慶は閉じていた瞼を開ける。
「おはよ。柏葉くん」
そこには、しずくが苦笑を浮かべている光景が拡がっていた。
「おはよ……桜坂さん……?」
ふと、慶は違和感を覚えた。
そして、数秒の思考の末に彼は気が付く。寝る時は枕を上に寝ていたのに、それとは違った柔らかな感触と温もりが彼の後頭部を包み込んでいるという事に。
「……はっ!?」
そして──自身がしずくに膝枕されているということに。
「ご、ごめん桜坂さん!」
慌てる様子で慶はその場に起き上がる。
しずくは一瞬だけ、少し名残惜しそうな表情を浮かべたが、すぐに安堵のため息を吐いた。
「よかった。元気そうで」
「う、うん? 僕は元気だけど……ってあれ? なんで鼻にテッシュが詰まってるんだろ」
もう一つの違和感に気付いた慶は、鼻に詰まってあったティッシュを抜く。
そこには、慶の鼻血がこびりついていた。
「え……鼻血?」
その言葉に、しずくが僅かな反応を示す。
「桜坂さん。僕、寝ている時に鼻血を出してたの?」
先程の穢れた獣のような視線とは真逆の、純粋無垢な視線がしずくに向けられる。
彼に本当のことを言うべきなのか、はたまた隠し通して嘘をつき、無かったことにするべきなのか、彼女の中で葛藤が起こる。数秒の思考の上、導き出された結論は。
「う、うん! そうなの! だから私が治療してあげたんだよ?」
平然と嘘をつくことだった。
「そうなんだ。ありがとう桜坂さん」
「ううん。平気だよ。あと勝手に膝枕してしまってごめんね? なんだかうなされているっぽかったから」
嘘である。
慶は一度たりともうなされてはいなかったし、むしろ幸せそうな表情で気絶していた。
しかし、しずくが膝枕をせざるを得ない程にうなされていたという既成事実を作ることが、彼の記憶を呼び起こさせない唯一の手段であった。
「……そういえば、夢を見ていたような。なんだか空を飛んだり、高速で移動したり、桃に顔を埋めたりした要な気がするけど……」
「こ、これ以上思い出さない方がいいんじゃないかな? うなされてたくらいだったから、きっと怖い夢だったんだよ」
「確かにそうかも……ごめんね桜坂さん。何から何まで」
「どういたしまして。柏葉くんが無事でなによりだよ」
言えない。
自身に都合の悪いことを思い出させようとしないために一芝居うったなんて、しずくは口が裂けても言えなかった。
「ん?」
何やら匂いを嗅ぎとったのか、慶は鼻をピクピクと動かす。
「いつもより甘い香りがする……桜坂さん、シャンプー変えたりした?」
チラッとしずくの方を見る。
先程まで、ぎこちない笑みを浮かべていたしずくだったが、その言葉を聞いて思わず目から涙を一筋流してしまった。
「!?」
思わず慶はギョッとしてしまう。
「あれ? なんでだろ。なんで涙が流れたんだろ」
「ご、ごめん桜坂さん! もしかして聞かれたくない内容だった……!?」
慌てて頭を下げて謝罪する。
そんな彼の様子を見て、しずくは笑った。
「ううん。その逆だよ。気付いてくれて、とっても嬉しい」
心の底から、嬉しさが込み上げてくる。
自身の尻以外に興味を持っていないと思っていた異性からの、さり気ない言葉。その言葉が、今のしずくにとっては一番必要で、重要な一言だった。
「ありがとっ。柏葉くんっ」
「う、うん。どういたしまして……?」
屈託のない満面の笑み。
それを見て、慶は少し頬を赤く染めながら視線を逸らす。彼の様子に、しずくはさらに嬉しそうに微笑んだ。
(桜坂さんって、こんなに可愛かったんだ……)
二人きりになって、初めて気付いた事実。
友達だと割り切って、異性として今まで見ようともしてこなかったからこその動揺。それに戸惑いつつも、慶は新しい事を知れた喜びを、少しばかり感じていた。
まだまだ彼女の事を全て知ったわけではない。今回は彼女の魅力のほんの一欠片を垣間見ただけに過ぎない。
しかし、それでも確実に。
当初の目標であった桜坂しずくという女の子を知るための第一歩を、慶は踏み出した。