駆け抜ける『トキ』   作:羊羹mgmg

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トキノ成分たっぷり。

前の話で「模擬レース」と書いてありましたが、正しくは「選抜レース」です。既に修正は済ませましたが、混乱させてしまい申し訳ありませんでした。




第二コーナー

 

 

「どうだ、晶?緊張するか?」

「ええ……そりゃあもう」

 

桜の花びらが落ち始め、新緑が姿を現し始める頃合い。視界の先には午前の授業を終えてターフに集まってきたウマ娘達がいた。

 

だがいつもの明るい雰囲気はやや抑えられ、代わりに濃密な緊張感が漂っている。

 

自信に溢れた子、緊張で震えている子、いつも通り落ち着いている子。皆それぞれの想いを胸に秘め、それでもそこにいる誰もが静かに闘志を燃やし、入念にウォーミングアップを熟す。

 

今日はトレセン学園の選抜レースの日。ウマ娘達にとっては自分の実力を公の場でトレーナーに披露する日であり、トレーナーにとっては数多のウマ娘の中に眠っている宝石の原石を探し当て、場合によっては奪い合う日だ。

 

だから俺―――紫月晶もまた、生涯初めて行うウマ娘のスカウトに緊張していた。

 

縁あってトレーナーライセンスを獲得し、トレセン学園に勤務するようになったのは丁度一年前。そして今隣にいるベテラントレーナーたる先輩の下で一年間、サブトレーナーとして勤務してきた。

 

だが、それも去年までの話。今年から晴れてトレーナーとなった俺は秋川理事長の辞令により、一人担当を持つ計らいとなった。

 

ということで早速先輩から助言を貰いながら、初めてのウマ娘のスカウトに赴いているという訳だ。

 

「基本的には担当にしたいと思う子にアプローチをかけるもんだが、さじ加減を忘れるなよ」

「はい、勿論」

「そしてこれは俺個人の見解だが……選抜レースをする以上足の速い子が人気になるが、足の速さより内面を重視した方がいい。そしてそれを理解しているトレーナーも此処には沢山いる以上、この選抜レースは視点を変えろ。レースに注目したくなる気持ちも十分理解できるが、そこだけに集中するな。レースを待つ子達の素振り、ゲート内の様子、そして何よりレースを走り終えた時の顔……兎に角、レースばっかりに気を取られるなよ」

「ええ。出遅れれば意中のウマ娘に逃げられてしまう……ですよね?」

「そういうこった―――おい、晶」

 

そうこうしている内に選抜レース開催の合図が流れ、ウマ娘達は次々とゲート近くへと集まっていき、予め伝えられている列へと並んでいく。

 

「しっかり見とけよ。もしかしたらあの中に、この世代の王がいるかもしれねぇんだから」

 

列の先頭にいた九人全員がゲートに入る。緊張で顔を強張らせている者が半分ほど、自信家が三割、残り二割がマイペースで落ち着いている子と言ったところか。

 

ゲートが開く。そして皆全力を尽くして走り出し……

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

選抜レースが始まってから既に一時間以上は経過したが、それでもなお此処にいるウマ娘の三分の一程度しか走っていない。

 

それはそうだ。選抜レースに参加するのは何も新入生だけではない。前年度にスカウトされなかったウマ娘も当然走っており、新入生合わせて総勢千人を軽く超えるウマ娘が此処にいるのだから。

 

だが一時間は一時間。それなりの時間をずっとウマ娘の観察に費やしているだけあって、流石に緊張はほとんど無くなったし、何となく自分の中にある琴線も掴めてくる。

 

「もう三分の一は行ったか。どうだ、良い奴いたか?」

「何人かは。けどぶっちゃけてしまうと全員良い奴ですよ」

「それを言っちゃあしまいだろ。まあでもその様子だと、こう……ビビッと来る奴はいなかったようだな」

「まあ……そうですね」

 

正直、そういう子が現れるのかどうかも分からない。何ならそのビビッと来る感覚を既に味わっていながらも見逃してしまった可能性すらある。一流のトレーナーは教える事以上に名伯楽たれ、と耳にするが、それが正しいなら俺はド三流だな。

 

「おっ……」

「二番の子、速いですね」

「ああ、才能も申し分ない。名前は……『イツセイ』か。ありゃあ多分、この世代で三本の指に入る強者になるだろうよ」

「素人目から見ても分かっちゃいますね。周りのトレーナーも立ち上がってますし、スカウトする気満々ですね」

「お前は行かねぇのかよ」

「何というか……しっくり来ない感じです」

「そうか。まぁ焦ることは無い。今日で終わりってわけでもねぇしな」

 

足の速さだけなら良い子は沢山いるんだけどね。何というか、少し物足りない気分がある。その気分に従うのが吉か凶かは不明だが……

 

 

 

「――――――」

 

いた。

 

視界の先にいる、エメラルドの瞳を持つ一人のウマ娘。

 

きっとこれが先輩の言っていた、ビビッと来る感覚なのだろう。

 

「見つけた」

「ん?」

「五番の子。次一着を取ります」

「そうなのか?確かにまあ速そうではあるが……」

「先輩、失礼します。俺はもう行きますね」

「……どうやら見つかったようだな。ああ、気にせず行ってこい」

「はい」

 

先程のウマ娘の影響もあってか、残っている他のトレーナーはまだあの子に気づいていない様子だ。まあそんな事、どうでもいいが。

 

トレーナーが犇めくスタンドを一人立ち上がる。向かう先は、まだウマ娘が出走さえしていないトラックの、そのゴール。

 

スタートの合図。ややどよめくトレーナー陣。駆ける一陣の風。一着が決まる音。

 

スタンドから数人のトレーナーが立ち上がる。それを尻目に、今しがたゴールに誰よりも早く駆け込んで来たその子に、真っ先に声を掛ける。

 

「君が欲しい」

「えっ」

 

しまった。少し気が逸りすぎた。

 

「ンンッ……失敬。要するに君をスカウトしたいんだけど……どうかな?」

「えっと……その前にどちら様でしょうか?」

「俺の名前は、紫月晶。まだ此処に来て二年目の新人、今まで担当を持った経験も無い若輩だ」

 

嘘は良くない。自分の中でこの子は最高のウマ娘だったとしても、この子にとって俺が最良のトレーナーである道理は何処にもない。彼女に惹かれたからこそ、彼女の選択は尊重したい。

 

だから、何もない新人の俺は誠実でありたかった。

 

「では、どうして私をスカウトしようと思ったのですか?」

「勘だ」

「勘……ですか?」

「ああ。君の他にも速い子は何人かいたが、俺には君しかいないと、そう確信したんだ。君こそが最高のウマ娘に違いないと、そう確信した」

 

すぐ後ろには、スタンドからこの子をスカウトしにやって来たトレーナーが数人駆け寄ってくるのが見えた。そしてそれに気づいた彼女は首を傾げて……

 

「……貴方はいつそれを確信したんですか?他のトレーナー方を見る限り、レースを見てから来たわけではないようですが」

 

いつ……いつ、か。

 

「ゲート前でウォーミングアップをする君を、一目見た時に」

 

それを聞いたこの子は、少し微笑んで。

 

「変な人ですね。けど……」

 

 

 

「ねぇ君!さっきのレース、凄く良かったよ!良かったらうちのチームに来ない?」

「いやいや、うちはどうかな?君ならG1……いや、三冠だって狙えるよ!」

「いやいやいやいや、こんなむさくるしい変態共は放っておいて僕はどうかな?一応此処に勤めてもう七年になるんだ」

「「むさくるしいって酷くないですか!?」」

 

後ろから雪崩れ込むスカウト陣の声で、少し平静を取り戻す。どうやら新人トレーナーである俺のアピールタイムはもう終わりらしい。返事位は聞きたかったのだが、仕方ない。

 

「ごめんね、返事はまた後で聞くよ。というか面倒だったら返事しなくても……」

「いえ、返事は今ここでします」

 

そう言って彼女は俺の後ろにいる先輩トレーナーの方々に目を向ける。

 

「トレーナー契約の話は大変有難いのですが、遠慮させていただきます。だって……」

 

 

 

「私のトレーナーは、もう決まりましたから」

 

項垂れる先輩方。そしてその先輩方を尻目に、彼女は……

 

「自己紹介がまだでしたね。トキノミノルと言います。よろしくお願いしますね?…………トレーナーさん♪」

 

エメラルドの瞳は、俺をはっきりと捉えていたのだった。

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

「どうしたの、紫月教官?」

「ああ、いや……すこし昔を思い出していただけだ。気にするな」

「ふぅん……?」

 

トキノミノルのスカウトに成功してから、今日で丸八年となる。四月も既に中旬に突入しており、残す四月のG1も天皇賞春のみとなった。

 

しかしそれはデビュー戦から三年目のウマ娘限定の話。今俺が教官として預かっている二十人弱のウマ娘の内、ほとんどは中等部の二、三年。高等部の子は二人しかいない。

 

今日は選抜レースの日。中等部の子はともかく、高等部にいる子は今年に専属トレーナーを持たなければトレセン学園にいる内にシニア級である天皇賞に参加する事さえ危ぶまれる。

 

勿論中等部の子だって早めにトレーナーを持てる方が良い事は多い。だから教官たる俺としては、今受け持っている全員をトレーナーからスカウトさせるくらいの勢いで、今日まで指導してきた。

 

「集まったな。それじゃあミーティングを始める。時間も無いし、ストレッチをしながら聞いてくれ」

「「「「はいっ」」」」

 

ミーティングの内容は多岐に渡るが、総じて行うのは彼女らの精神を安定させる事だ。

 

此処にいるのは、確かにトレーナーにスカウトされなかった子達だ。その事実は変えようもない。

 

しかしだからと言って、それがレースに勝てなくなる要因には成り得ない。彼女ら一人一人には長所があり、短所がある。伸び代がある。そして何より、トレーナーに選ばれずとも諦めず、ここまで俺の指導についてきただけの気概がある。

 

それを披露出来れば、彼女らにだって十分スカウトのチャンスは残っているはずだ。俺はそう信じている。

 

『連絡します。選抜レースに参加する方は参加登録の為、受付にご集まり下さい。繰り返します。選抜レースに参加する方は……』

 

ミーティングも終わりに差し掛かり、丁度いいタイミングでアナウンスがかかる。

 

「……よし、時間も時間だ、最後に一言。……念押しになるが、順位や周りに惑わされず、全力で走ってこい。下手な策略は殊スカウトの場においては逆効果だ」

「「「「……」」」」

「ありのままの自分を、皆に見せつけてやれ!」

「「「「……!はいっ!」」」」

「よしっ、行ってこい!」

「「「「はいッ!!」」」」

 

気合十分。うん、いい顔だ。

 

当然、緊張はあるだろう。だがそれでも、彼女らにはそれを上回って余りある自信がある。スカウトされなかった間も絶えず努力し続けて身に着けた、純粋な自分への信頼を。まだ入学してきて数日の新入生には無い経験を。

 

「行ってこい。そして願わくは、俺の下になぞ帰ってくるなよ」

 

受付へと向かう子達の背中に届かないよう、俺は小さく呟いた。

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

既に日は落ち、選抜レースの為に設置されたゲートはトラックの脇に一時的に寄せられていた。

 

そしてそのターフから少し離れた、本校舎の真横。街灯が並び、濃紺に染まる景色から切り取られた様に白く照らされたベンチに、俺達はいた。

 

「ではまた、後日改めて」

「ええ。詳細な資料は正式に引継ぎが決まった時に渡します」

「よろしくお願いします。……さあ、行こうか」

 

そう言って俺の前から立ち去るのは一人のトレーナー。そしてその横には教官として俺が受け持っていたウマ娘の内の一人。

 

「今までお世話になりました、紫月教官!」

「ああ。新しいトレーナーの下でも、しっかり頑張れよ。陰ながら応援しているから」

「はい!」

 

お辞儀を一つ。そのまま俺に背を向け、パタパタと人間で言う所の小走りで新しいトレーナーの隣へと向かう。

 

少しずつ小さくなっていく背中を見送った後、近くの自販機からコーヒーを購入する。勿論微糖だ。苦くないくらいが丁度いいんだよ。

 

「ふぅ……」

 

選抜レースが終わり、俺の受け持っていた子の内、これで合計六名がトレーナーによってスカウトされた。そして今しがた俺の下を巣立ったのは二人いる高等部所属のウマ娘の内の一人。駿川さんの策略により途中何度か担当を外れたこともあったが、それでも中等部一年の頃からの付き合いだ。過去何度も選抜レースでスカウトされなかったが、それでも諦めずに努力するそのひたむきな精神には幾度となく心を動かされた。

 

そして今年の選抜レースにて彼女は見事スカウトされるに至ったのだ。俺の中にだって感慨深いものが生まれてくる。少し寂しくなるのは否定しないが、それでもスカウトされたその場で嬉しさのあまり泣き崩れる彼女と、そして今しがた見せてくれた満面の笑みの前ではそんな感情ちっぽけなもんだ。今の俺は素直に祝福の気持ちに溢れていた。

 

だが、ずっと喜んでいられるわけではない。六名がスカウトされたという事は、逆に言えば十名以上はスカウトされなかったのだ。

 

まだまだ選抜レースの期間は続くし、選抜レースが終わってもスカウト自体は何時でも自由だ。別に今日スカウトされなかっただけで残り一年教官の下での鍛錬が決定するわけでもない。

 

だがそれでも今を逃せば、ベテラントレーナーからスカウトされる機会はほぼ皆無となるのに違いは無かった。選抜レース期間の終わりになってまだ残っているトレーナーは、スカウト経験の浅い新人か、スカウト戦争に敗北した中堅が多い。それに選抜レースは年四回開催されるとしても、新入生がいる分春が一番の大舞台だ。ベテランの下に行けるチャンスは今日を含めてあと三日といったところか。

 

まあそれでも、スカウトされるならばそれだけで同じ世代の中でも平均よりは上の実力を持っている、或いは持つと見込みがあるウマ娘なんだけどね。

 

スカウトされなかった子達は、取り敢えず今日はそっとしておく。だがフォローは絶対に忘れない。俺にさえ見限られたと勘違いすればいい気分はしないだろうから。

 

「メール……いや、電話の方が確実だな」

 

最初に電話を掛ける相手はやはり、俺が受け持っている二人の高等部のウマ娘の内のもう一人。彼女とも彼是三年の付き合いだし、高等部になってスカウトされなかったダメージは痛いほど分かる。残りの選抜レースで全力を出してもらう為もあるが、単純に心配だったのだ。

 

ベンチの横に飲みかけの缶コーヒーを置き、スマホを取り出す。そしてそこから彼女のアドレスに電話を掛ける。

 

Pr『ガチャッ』

 

え、早くない?ワンコールもしない内に出たんだが?

 

『もしもし、紫月教官?どうしたんだい?』

「ああ、いや……」

 

きっとさっきまでスマホを触っていたのだろう。うん、そうに違いない。

 

『それはそうと、後ろを見てくれないかな?』

「ん?後ろ……?」

 

促されるままに後ろを振り向く。

 

 

 

果たしてそこには、スマホをスピーカーモードにしているウマ娘の姿が。

 

「ッ!」

「やあ、紫月教官。奇遇だね」

「脅かすなよ……トキノメグル」

 

トキノメグル。彼女こそが俺の担当する二人の高等部のウマ娘、そのもう一人だ。

 

レース中のキリリとした目付きは無く、赤紫色の柔らかい瞳が俺を捉える。すまないね、と口では言っているが、その悪戯心満載のニヤニヤした顔を見るとどうにも信じられないな。……まあそれも可愛げがあるんだけど。

 

「全く……まあ元気そうでよかったよ」

 

まあ、一度や二度スカウトされなかったくらいで調子を落とす程、彼女は子供では無い。

 

彼女は基本的に冷静且つ温厚な振る舞いをしている。が、レース時は別だ。真っ直ぐにゴールを射貫くその目には他者を圧倒する威圧感がある。流石生徒会役員と言ったところか。

 

だが、それ故に少し気がかりだったのは、今日のレースではその威圧感が薄かった事。緊張はあまりしていなかったみたいだし、何かあったのだろうか。

 

「どうしたんだ、今日のレース?もしかして足の調子が悪かったのか?今は大丈夫そうだが……」

「ん?足は頗る快調だけど、どうしてそう思ったんだい?私としては全力で走ったつもりなんだけどな」

「なら良いんだが。一着も取れてたし速さは申し分無かったんだけど、何だか普段の君と少し違って見えたから」

「……!そうかい…………ふふっ」

 

ん?何故そこで嬉しそうに頬を緩めるんだ?

 

「普段はもっと鬼気迫るというか……その姿をこの三年間見ている身としては、スカウトしない手なんて無いんだがなぁ」

「そ、そんな……照れるじゃないか……」

「ほんと、何で他のトレーナーはスカウトしないんだろうな。こんなに凄い子なのに……」

 

 

 

 

 

「……………………は?」

 

 

 

 

 

え?何?今その威圧感を出されても困るんだが?

 

「紫月教官は」

 

「私にトレーナーが就いたら」

 

「嬉しいのかい?」

 

「答えて?」

 

「ねえ」

 

「ねえ」

 

「ねぇってば」

 

 

 

……怖っ。

 

何だ?地雷を踏んだのか?……分からん。一体今の言葉のどこに彼女を怒らせるフレーズがあったのか、さっぱり分からない。

 

「それは……やっぱり、嬉しいよ」

「それは教官としてかい?」

「いや、俺自身としてだ。もう三年の付き合いだし、君の頑張りをよく知ってるからこそ、君にはスカウトされてトレーナーを持って欲しいんだ」

「ふぅん……そんな事言うんだ」

 

何故更に機嫌が悪くなったのだろうか。誰か教えてくれ、飴ちゃんあげるから。

 

「やっぱりそうだね。うん。出来れば気づいて欲しかったけど、仕方ないよね。これはもう、分からせるしかないよね?」

「まっ、待ってくれ!気に触ったなら謝る。だから一旦落ち着こう、な?」

「謝罪は要らない。何が悪かったのか分からないんじゃ、反省なんて出来っこないんだから。私が欲しいのは、反省した後の君が取るべき行動だけ」

「うぐっ……」

「だから何がいけなかったのか…………その身に刻み込んであげる」

 

ジリジリと迫り来るトキノメグル。それに合わせて後退していく俺。だがそれは背中に当たる壁の冷たさによって終わりを告げられる。

 

後退は封じられた。それでも彼女は止まらない。であれば彼我の距離が縮まるのは、必然。

 

俺の耳の真横に、彼女の掌が叩きつけられる。よもやこの歳になって壁ドンを経験するとは思わなかった。どうやら胸がドキドキしてしまうのは本当らしい。……おまけで変な汗も止まらなくなってきたけど。

 

視界一杯に広がる彼女の顔。普段と色が違うその瞳に、ドンドン意識が吸い取られていくような……

 

 

 

 

 

ドギャァン!!

 

「……へ?」

「…………」

 

轟音。何か硬いものが、容赦なく破壊された音。

 

その音がした方向に目を向けると……

 

「…………紫月トレーナー。話があります」

 

大きく罅の入った壁の横に、笑顔の抜け落ちた駿川さんが立っていた。

 

 

 

…………うん、逃げたい。

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

「ねぇ?何だったんですかあれ?明らかに生徒と教官の距離感ではありませんよね?もしかして何か疚しい事でもする気だったんですか?いけませんよ?そんな事許されていいはずがありませんよね?それによりにもよってまたあの子ですか?私前にも言いましたよね?教官としてもずっと同じ子を担当するのは好ましくないって、ねぇ?私、ちゃんと言いましたよね?じゃあ何であの子と一緒だったんですか?百万歩譲って一緒なのは仕方ないとして、どうしてあんなにくっついていたんですか?そんなに近づく必要なんて微塵も有りませんよね?何でなんですか?もしかして浮気ですか?そんなの絶対に許しませんからね?ねぇ、どうしてそんなに黙っているんですか?もしかして図星なんですか?本気であの子と特別な関係にあるんですか?違いますよね?そんな事、万に一つもあり得ませんよね?じゃあはっきりと否定してもいいじゃないですか。違うなら何とか言って下さいよ、ほら、ほら、ほらほらほらほらほら……」

 

本日二度目のKABEDON。世の皆さんはこれで恋に落ちるらしい。ふむ、なかなか強靭な精神をお持ちのようで……少しでもいいからその見事な胆力を俺に分けてほしい。

 

「…………」

 

……いかん、現実逃避はよそう。彼女が滅多に見せない前掻きをし始めた。

 

「勿論唯の教師と生徒の関係ですよ。それ以上もそれ以下も有りません」

「じゃあ何であんなにくっついてたんですか?」

「それが、良く分からないんです。どうやら俺があの子の機嫌を損ねてしまったようで、いきなり詰め寄って来ました」

「ふぅん。それで?」

「後は御覧の通り、そのまま詰め寄られて壁ドンをされ、何故か顔を近づけられていた次第です。誓って疚しい事は何も」

 

真っ黒の瞳のまま無言で俺の顔を凝視する駿川さん。裁判長から判決を言い渡される被告になった気分だ。それも十中八九有罪が確定している犯人の。

 

「……………………はぁ」

 

どうやら先程までの掛かり状態は幾分和らいだようだ。その証拠として瞳孔が開き切って真っ黒だったその瞳は光を取り戻し、限界まで引き上げられた瞼は降りてきている。その代わり口を小さくへの字に曲げ、加えてジト目で俺を睨んできているが。

 

「……不本意ですが許してあげましょう。嘘はついていないようですし、何より手を出したのはあちら側ですからね」

「ありがとうございます」

「それに私も……忙しさについ油断していました。これからは気を付けます」

「油断……とは?」

「それは勿論貴方の心配ですよ。メールや電話は勿論の事、GPSチェックに盗聴……まあ色々です」

「頼むから永遠に油断してて下さい」

 

多分GPS機能を持つアプリケーションソフトはトレセン学園から支給された仕事用のスマートフォンに搭載されているのだろう。勿論俺のものにだけ、駿川さんが勝手に。やっぱ職権乱用って悪だわ。

 

「まぁ、誤解が解けたなら何よりです。俺はもう行きますね」

「何処にですか?」

「先程居たベンチにですよ。あの場であなたが有無を言わせず俺を引っ手繰ったんですから、まだ彼女がそこに残っているかもしれません」

「……反省してます?」

「様子を見るだけですよ。彼女が帰っていたらそれで大丈夫ですし、残っていても軽くお話をする程度です。もし気になるようであればついて来てもらっても構いませんよ」

「ええ、じゃあそうさせてもらいますとも」

 

先程駿川さんに引きずられて通った道を、今度は自分の足で歩いて引き返す。既に日は落ち切り、辺り一面は黒で塗りつぶされている。街灯とまん丸に太った月だけが、そこに色を与えている。

 

「こうやって一緒に夜を歩くのは久しぶりですね」

「そうですね。ここ最近はお互い忙しかったですし」

「ふふっ……夜のターフを見ると、あの頃を思い出しますね。丁度これくらいの時期に、ダービーに向けて走っていたあの頃を」

「何しろ無敗でしたからね。昼間ターフに行けば周りの子達からよく勝負をふっかけられて……ダービー前は情報を出来るだけ与えたく有りませんでしたから、結局夜にこっそりターフに行くようになったんでしたっけ」

「私としては別に情報を漏らしても良かったんですよ?それでも勝ってみせますし」

「……情報の面も有りますが、そうやって偶に煽るのも昼間を避けた理由ですよ。特にあなた、イツセイには容赦有りませんでしたし」

「それは……あの子がカルガモ親子の様に私の後ろをくっついて来るもんですから、つい構いたくなってしまって……」

 

イツセイは彼女と同じ世代のウマ娘であり、正に時代の王たるウマ娘だった。

 

勿論敵無しという訳ではなく他にも速い子はいたが、一時期の間彼女は間違いなくその時代の頂点たる存在だった。そしてその肩書に相応しい成績を収めていた……はずだった。

 

……トキノミノルという、一種のバグがいなければ。

 

彼女の成績はある意味で無敗だった。トキノミノル以外の全てのウマ娘を蹴散らし、最終結果を見れば一時期はイツセイが出るレースはトキノミノルがいなければ一着、いれば二着となってしまっていた。それ程までに彼女は強かった。

 

だがどうしても、連勝を重ねることが出来なかった。全ての元凶は時代の頂点などという器には収まりきらないバケモノが相手だったから。文字通り『相手が悪かった』のだ。

 

だが仲が悪かった訳ではなく、むしろいい友人同士だった。それこそイツセイがトキノミノルに勝つために、事あるごとに勝負を吹っ掛けるくらいには。そしてその勝負を受け、その全てを返り討ちにしていた彼女が、他の子には嫌味に聞こえるような煽りをするくらいには。

 

「俺の記憶の中のイツセイ、全部悔しそうな顔しかしてないなぁ」

「もしかしたら私にとってはそれが新鮮で、つい煽ってしまったのかもしれませんね。負けた事が無いとやっぱりその悔しさが分からないですから」

「……素で言ってるし、しかも事実だから恐ろしいんだよなぁ」

 

今この場にイツセイがいたら発狂してそうだな。まあその発狂も既にご愛敬なんだが。

 

「本当、懐かしいですね……ふふっ、それに変なのも思い出してしまいました」

「変なの?」

「貴方のプロポーズですよ♪『あなたが欲しい』って……熱烈でしたね♪」

「ちょっ、その後直ぐに訂正しましたよね!?」

「でも言いましたよね?覚えてますよ?この耳ではっきりと。忘れてもあげませんし、訂正なんて認めませーん」

「うぐっ……昔の自分をぶん殴ってやりたいよ……」

 

なんてこと口走ってくれたんだ。あの頃はウマ娘による拉致事件なぞ想像すらしていなかったピュアな時期だから、警戒の「け」の字も無かった。本当に、今から思えば危なっかしい事をしていた。

 

隣でいつもの三割増しでニマニマしている緑の悪魔……もとい駿川さんから目を逸らし、ようやく見えてきた目的地に目を凝らす。暗くてはっきりとは分からないが、少なくとも街灯が当たっている場所には彼女はいなさそうだ。

 

「どうやら、帰ったようですね。良かった、もしこんな時間まで待っていたら申し訳なかったですし」

「寮の門限も近いですからね。当然です」

「一応メールは送っておきますかね」

「心配性ですねぇ」

「これが普通ですよ」

 

これで万事解決とまでは行かないが、目下の心配事は無くなったか……いや、まだあったわ。やべっ。

 

「すいません、他の子達に電話するのを忘れていました。失礼します」

「他の子達って、スカウトを逃してしまった方々の事ですか?」

「ええ」

「本当に……心配性ですね」

 

呆れ半分で、でも微笑みながらこちらを見つめてくる駿川さん。やっぱりウマ娘に優しいのは変わらないようで、俺が彼女の話を遮って電話するのだって快く許してくれている。

 

駿川さんに失礼して近くのベンチまで行き、電話のコールを始めると……

 

「あ、電話が終わりましたら今日は飲みに行きませんか?」

「え?ちょっと急に何を―――ああ、もしもし……」

「あら、断らないという事はOKなんですね?ふふっ……確か貴方はお酒弱かったですよね?貴方の介抱……楽しみにしておきますね♪ふふふふふっ……♪」

「――――――」

 

この人俺が電話して返答できないのを分かってて許したんだ。やっぱりウマ娘には警戒しておかないとだね。

 

 

 





トキノメグルが何故機嫌悪くなっちゃったのかは、多分次の次くらいには分かります。なお缶コーヒーは誰かにベンチから回収された模様。

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