駆け抜ける『トキ』   作:羊羹mgmg

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R-15タグを付けたのはこの話の為です。



バックストレッチ

 

夢というものは記憶の整理だと俺は思う。

 

過去に起こった事、或いは最近起こった印象深かった事……はたまた寝る前に見ていたテレビの事など、夢の内容は実に雑多。

 

そして何故かわからないが、悪い夢というものは決まって現実にベッドの上で横たわっている自分の寝つきが悪い時に見るものだ。

 

息が苦しい時は溺れる夢。歯軋りしている時は、歯が折れる夢。冬場に毛布から腕が出て冷えてしまった時は……色々あったかな。体の異変と夢の内容は必ずしも相関があるものでは無いけれど、悪夢を見る時は決まって寝つきが悪くなる原因があった。少なくとも俺は、と言うのが前提にあるが。

 

 

 

……だからこうやって過去のトラウマが蘇るのはきっと、昨日駿川さんと行った居酒屋のせいだと思う。

 

恐らく現実にいる自分は酔いで気分が悪くなっているはずだ。息苦しくなったか、あるいはお酒で温まっていた体が急速に冷えているのかもしれない。

 

だが悲しいかな、夢の中で感じる時間と現実で過ぎる時間はズレがある。現実で体が悲鳴を上げ始めてから起床に至るまでの数秒が、夢の中じゃあ数時間に膨れ上がる事もある。

 

現実での苦行はほんの数秒。だが俺は今からきっと数十分間、地獄を見るだろう。

 

 

 

『さあ―――日本ダービー、まもなく始まります!』

 

君が東京優駿で足を壊した、あの瞬間を。

 

俺は今から何も出来ないまま、呆然と見続けるだろう。

 

そして何より―――あの時何か出来たはずの自分が、なんにも出来ないまま項垂れるその姿を。その過去の自分を。憎むべき、加害者を。

 

俺は罰する事さえ出来ないまま、見続けるだろう。

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

G1の一角、東京優駿。またの名を、日本ダービー。

 

先月皐月賞を掻っ攫ったトキノミノルにとってはクラシック三冠達成への折り返しであり、事実上の峠でもあった。

 

「最も運のあるウマ娘が勝つ」―――東京優駿はそう噂されているのだが、だからと言って神社にお参りをしに行けば勝てるほど簡単なレースでは無い。皆、自分の足で勝ちに来ている。

 

「そろそろ、ですね」

「ああ……そうだな」

 

だからこそ、俺は信じている。トキのダービーに向ける熱意を、努力を、実力を。

 

トキは間違いなく今が最高のコンディションだ。

 

ウマ娘であろうが人間であろうが、女性の肉体の成熟は男性のそれと比べるとほんの少し早く、ウマ娘のレース競技における肉体の全盛期は基本的に中等部三年~高等部三年の間で横這いに存在している。つまり逆を言えば、トレセン学園卒業後はゆっくりではあるが肉体は衰えていくのだ。

 

しかしそれ位の誤差は日々のトレーニングと経験の前では微々たるもの。トレセン学園卒業後でも活躍するウマ娘も当然存在する。肉体がどうこう言うよりトレーニングを重ねる方がよっぽど建設的だ。

 

だが、それでも―――そうだとしても、トレーナーとしては語らざるを得ない。今の彼女こそが今までで最高の状態である、と。

 

肉体は全盛期を迎え、トレーニングも積み重ねてきた。それこそこれから先の菊花賞の場で、今以上に進化した彼女の姿を想像できないくらいには。

 

「流石に少し、緊張しますね。夢にまで見たダービーの舞台ですから」

「多少の緊張感は大事だが、堅くなりすぎるなよ」

「ええ、分かっていますとも」

 

彼女の肉体は嘗て無い程に仕上がっている。なら今すべきことは、その肉体を最大限活用するための準備だ。その為にも彼女の心に寄り添うのが大事だ。

 

「これが緊張感から来るものかは分からないんですけど……少し、不安なんです」

「何がだ?」

「原因が分からないんです。ただ何となく、嫌な予感がするというか……」

「…………ごめん、触るぞ」

 

最終チェックに彼女の足を触診するために、その場で膝立ちになる。彼女としても既に慣れてくれたらしく、無言で足を前に出してくれる。

 

「……筋肉に異常はない。炎症も無いし、肉の強張りや筋のズレも無し。……骨格にも異常はないな。骨盤のズレ、膝関節の定位及びねじり、足首の定位とねじり……特に異常はない」

「そう、ですか」

 

この触診の意味は彼女の無事を確かめる事というよりかは、これを聞いて彼女の不安を和らげるのが目的だ。とは言っても、それもあまり効果が無かったみたいだが。

 

『さあ、今レースのウマ娘達が入場します!』

 

放送席からの催促により、トキは足を戻して外の方を見る。彼女がこの地下バ道を抜けて日光を浴びれば、俺はもう彼女にアドバイスをする事は許されない。

 

「では……行きますね」

「ッ……」

 

クラシック三冠の峠、東京優駿、無敗記録……数えればきりが無い程、彼女の緊張の原因はそこら中に転がっている。きっとそこには彼女の不安の種も必ずあるはずだ。

 

でも、それが何かが分からない。

 

「トキノミノル」

「……?どうしましたか、トレーナーさん?」

 

この短時間で、君のその不安を取り除く事は俺には出来ない。だが自分の無能を呪うのは後でいくらでも出来る。今この瞬間を費やして為す程の価値はそれには無い。

 

「信じているぞ」

「……!」

 

不安は取り除けない。だからこそ今俺が掛けるべき言葉は、きっとこれだろう。

 

「……ええ、貴方の信頼……ちゃんと受け取りました」

 

今の俺の気持ちを、ぎゅっと一言に圧縮して、君に捧げよう。

 

「さあ―――行ってこい!」

「はいッ!!」

 

他の誰にも負けない、溢れんばかりの信頼を。

 

 

 

あなたに……勝利を。

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

『さあ―――日本ダービー、まもなく始まります!』

 

軽快な吹奏楽器が奏でる音と共に、会場のボルテージは最大にまで跳ね上がる。

 

ターフ上にいるウマ娘達が自身に割り当てられたゲートに入っていき、今か今かと目の前の扉が開くのを待っている。

 

「晶!悪い、遅れた!」

「!……もうすぐゲートイン完了しますよ!」

 

俺は今観客席の中でも最前列、しかもゴール手前の席にいる。一般客がこの席を取ろうとすればかなり早い時間からチケット売り場に並んでおかなければならない。

 

なら何故俺が此処に居られるか。それは偏に俺がトキノミノルのトレーナー……もとい、今回のレースにおける出走バのトレーナーだからだ。

 

だから後ろから声を掛けてきた先輩や同期の人達も俺と同じく、今ゲートに入っているウマ娘の担当達だ。

 

「おうおう、今日は勝たせてもらうぜ!」

「な〜に言ってんすか!トキノミノルの無敗記録を終わらすのは、うちの担当バっすよ!」

 

トキノミノルは無敗。だからこそ今こうやって1番人気のウマ娘として紹介されてゲートに入っていくし、既にゲートに入っているウマ娘達からは燃え上がるかの様な熱い視線を向けられている。

 

そしてその子達の担当トレーナーもまた、俺に向けて熱い視線を向けてくる。傍から見ればむさ苦しい先輩に絡まれて可哀想な後輩に見えるだろうが、これが案外心地よいのだ。レース前のこの得も言えぬ高揚感の前には、このむさ苦しさが似合ってる。

 

「余裕そうだな、晶」

「少し違いますよ、先輩。俺はただ信じているだけです。今日もあいつが一着を取ると」

「ふっ……それでこそ倒しがいが有るってもんだ。だが俺もうちのイツセイを信じている。あいつのトキノミノルに対する執着は誰にも負けていない」

「先輩には悪いですが……トキノミノルは負けませんよ。今までのあいつとは一味違いますからね」

「……生意気で糞可愛い後輩にはお灸を据えてやらんとな。『レースに絶対は無い』って事を教えてやる」

「そのお灸、丁重にお返しさせてもらいますよ」

 

悪いが先輩でもこれは譲れない。トレーナーという人種は他の誰よりもウマ娘を客観的に捉えることの出来る人間であり、それでも尚他の誰よりもウマ娘を主観的に見てしまう変人だ。例え自分の担当バと敵の担当バの力量や才能の差を理解していても尚、自分の担当バが負けるなどと微塵も思わない。

 

……だからこそ、正々堂々と言えるのだ。自分の担当バこそが最強だと。

 

『各ウマ娘、ゲートインが完了しました!』

 

放送席からの声に、俺達は一斉に固唾を飲む。否、会場にいる全ての者が今この瞬間だけはその意識をゲートに向け、一様に口を噤む。

 

時間にすればほんの数秒。だがゲートが開くまでのこの数瞬は何度場数を踏んでも異様に長く感じられ、逆に約二分半にも及ぶレースは一瞬の内に終わっている。

 

トレーナーである俺達でさえこう思っているのだ。今まさにゲートの中にいるウマ娘達は……どれ程の緊張と高揚に包まれているのだろうか。

 

喧騒が止み、一瞬出来上がる静寂。

 

 

 

その静寂を切り裂いたのは、同時に開いた扉同士の接触による、軽い金属音。

 

そして、最初の一歩を踏み出し、地面を踏みつける、その鈍い打音。

 

『スタートしましたっ!』

『十八人全員、綺麗に出ましたね』

 

「よし……」

「よっしゃ!いいスタートだ!」

「落ち着いているな。先行に惑わされずにいい位置取りが出来そうだ」

 

スタートはまずまず。不安があると言っていただけあって確かに好スタートとは言い難いものの、これ位はまだまだ大丈夫だ。あいつはパワーが桁違いだし、バ群に呑まれても複数人の結託された妨害でない限り大体突破できる。

 

『先頭は九番―――、続いて十四番の―――、少し離れて十八番の―――、そしてその後ろに今日のダービーの一番人気、二番トキノミノルが控えています』

『おや、今日は先頭を譲る形で来ましたね』

 

トキノミノルには絶対的に得意な戦術は無い。が……あいつはいつも逃げウマ娘だと言われている。その理由は単純にして明快、他のウマ娘と違ってスピードの絶対値が違うからだ。

 

あいつはいつも最初は先頭に位置取るが、別にそれが得意な戦術という訳でも無く、お気に入りという訳でも無い。逃げウマ娘と並走しながら足を蓄え、そして最後に上がってきた差しウマ娘を直線で引き離す。ただ単純に「速い」だけなのだ。

 

そしてその単純な事が、殊レースでは何より恐ろしい。

 

『……後方に六番イツセイ、そのまた後方には十一番―――が…………おっと、二番トキノミノル、第一コーナー前で早くも上がってきましたね』

『ははは!彼女からした自然に上がっただけなのかもしれませんね!』

 

多分それで合っている。コーナー前にギアを上げる必要性が低いからこそ、あれは自然に上がっただけで間違いあるまい。

 

『さあ、先頭は依然として九番でその後ろをしっかりと十四番がマークしています。そしてすぐ後ろには上がってきた二番がついており―――いま第一コーナーに入りました』

 

先頭集団が第一コーナーに入る。

 

左回り、向心力を打ち消す仮想の遠心力に抗い、上体を左にやや倒す。

 

そしてその軸足になる左足に、体重がかかり―――

 

 

 

 

 

 

 

         パキッ

 

 

 

 

 

 

 

聞こえるはずの無い音が、嫌な位耳に響いた。

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

「ッ――――――」

 

きっとこれは、幻聴なのだろう。だがそれは虚構であることを意味しているのではなく、俺の見たその光景が一瞬で作り出した一種の確信が、架空の信号となって俺の五感に警告を出したのだ。

 

外見上に変化は殆ど無い。それどころか……彼女はどんどん加速していく。コーナーに相応しくない程に、加速していく。

 

彼女は……笑っていた。薄っすらと浮かべる笑みじゃない。今まで一度も見たことが無い程、酷く口角を釣り上げて、笑っている。

 

それがどうしようもなく……不気味だった。

 

 

 

「止まれぇぇェエええエええッッ!!!トキィぃぃィイイッッ!!!」

 

 

 

確定だ。骨が折れたのだ。

 

箇所は左足の脛骨の上部、腓骨は罅に収まっているくらいか。

 

そして骨折による力の分散を庇って骨と全身を支えている左足の筋肉は、いつも以上に酷使されている。

 

まずい。まずい。まずいッ……!

 

何故あいつは止まらない?今も尚左足には痛みが駆け巡り、それを無理して支えている筋肉は悲鳴を上げているはず。それにこのまま走れば間違いなく悪化する。今は単純骨折と罅で済んでいるが、このまま走ればいつ筋挫症を起こしても不思議ではない。最悪一気に関節が破壊され、選手生命が断たれるかもしれない。

 

ダメだ。それだけは絶対に避けなければならない。

 

「おい、どうしたんだ、晶!いきなり『止まれ』だなんて!」

「観客もいる。一旦落ち着け、な?」

 

 

 

…………は?

 

見て分からないのか?あいつの足は今……折れているんだぞ!?

 

「よく見て下さい!あいつの左足、さっきのコーナーで折れたんですよっ!」

「なっ…………いや、特段負傷してる風には見えないが……」

「そもそも骨折すれば力が逃げるし、ああまで速く走れる筈が無いんだがな……見ろ、減速するどころかギアを上げてるぞ」

「ッ……!」

 

既の所で喉に迫り上がってきた暴言を飲み込む。そんな事してる暇は無いんだ。先輩方を頼れないなら、自分で何とかするまでだ……!

 

『さあ、第二コーナーを曲がり切って先頭に躍り出た二番、トキノミノル!速いですねぇ!』

『あの速度でコーナーを回るとは、足の強靭さと技術の高さが伺えますね』

『1000メートルのタイムは59.8!一分を切ってきました!』

『ややハイペースですね。ですが彼女なら最後まで『保たせて』きますよ』

 

絶え間無く聞こえる実況の中からトキの事だけを切り取って耳に入れる。……ちっ、もう1000メートルか。

 

 

 

 

 

 

 

         バキッ

 

 

 

「……ッッ!!」

 

不快だ。神経を逆撫でするかの様な、その歪んだ響きが頭から離れない。不快だ。実に不快だ。

 

「おい、何処に行くんだ!」

「放送室ですよ!マイクを借りに行くんです!」

「はぁ!?今から行ってもそこに着く前にレース終わっちまうぞ!」

「……なら、ターフに出てやるっ……!侵攻妨害でレースが中断すれば、あいつも止まるだろ!」

「落ち着け!あそこで走っているのはなにもお前の担当だけじゃねぇんだぞ!」

「知るか!責任は全部負ってやるから、先ずはあいつをと止めるのが先決だろうが!」

「だから落ち着けって言ってるだろうが!」

「五月蝿い!邪魔をするなッ!」

 

 

 

「……少し、静かにしろ」

 

 

 

……頭に上りきった血が、少し下がる気がした。

 

声をかけたのはこの中でも最年長のベテラン、そして今もターフに居るイツセイの担当トレーナーだった。

 

「晶。トキノミノルの足は、折れているんだな?」

「間違いなく」

「そうか。丸二年以上欠かさず見てきた担当が言うのだ。なら間違いは無いだろうな」

「だったら今すぐにでも……!」

「ターフを見てみろ」

「……は?」

 

先輩が指さす方には、既にバックストレッチの半分以上を通過したトキが。

 

『速い速い!トキノミノル、既に何バ身開いているのか分からないほどです!』

『これは稀に見る『大逃げ』ですね。仮にこのペースが保つなら、とんでもないタイムが出ますよ』

 

「あいつはもうここで『終わる』腹積もりだぞ」

「なっ……!有り得ないっ!」

 

終わる。それだけ聞いて意味が分かってしまったのが恐ろしい。

 

……いや、それを分からせる彼女の走りを見て、何処か納得している自分がもっと悍ましい。

 

「あいつにはまだ菊花賞が有るんですよ!それだけじゃない!あいつならシニア級だってやって行ける!例えここで無敗記録が途切れようとも、あいつにはまだまだ未来が有るんだ!」

「晶。辛い気持ちは痛い程分かる。でもそんな事は他の誰でもない、彼女が一番分かってるんだ。それでも、そう分かっていて尚、トキノミノルはターフを駆けているのだ」

「ッ……」

「気の毒だが、一度走り出したウマ娘は止められない。今のレース制度上、トキノミノルが自主的に止まらない限り俺達は見ているしかないんだ」

 

認めたくない。死んでも認めたくない。

 

ここで終わるはずじゃなかったんだ。あいつはもっと、高みを目指せる。俺達はもっと速くなれるんだ。

 

嗚呼―――トキ、それでも君は走るのか。この先のバ生を棒に振ってまで、このレースに勝ちたいのか。

 

『トキノミノルたった一人が第三コーナーに入ります!……えっ?』

『あの速度でコーナーは、かなり負担がかかるはずですが……』

 

ああ、そうだろうな。足の負担は計り知れないだろうな。

 

けどな。もう取り返しがつかないとこまで来てるんだよ。

 

異常な速度でコーナーに入り、その速さを殺さないためには体を左に大きく倒さなければならない。軸足にかかる負担は大きくなる……というか、あそこまで上体を傾ければバランスを維持する事すら至難。少しでも怯んで速度を落とせば体を支える遠心力が弱まり、直ぐに足を滑らせて転倒、間違いなく軸足は折れるだろう。そうでなくとも足首や膝関節に掛かる力は相当に大きくなり、高確率で負傷する。

 

普通ならこんな無茶をする必要はない。けどたった一つ、この暴挙を暴挙としてみなされないシチュエーションがある。

 

それが今。既に足を壊しこの先のバ生を放棄した今なら、通常なら曲がらない角度まで足首を捻り、膝をねじ切り最大効率で曲がりきることが出来る。当然、途方もない痛みは伴うだろう。

 

だが……それでもトキはその笑顔を崩さない。否、その笑みは更に深まる一方だ。

 

それが余計痛々しさを際立たせる。素人は気付かないかもしれないが、その道に携わる者の目には流石に違和感が映っているだろう。足を異様なまでに捻り切り、負担が一層増した状態で尚、笑顔を浮かべる彼女に。

 

 

 

 

 

 

 

         ピシッ

 

 

 

   パキッ

 

 

 

              ギリッ

 

 

 

  ブチッ

 

 

 

                 バリッ

 

 

 

         ボキッ

 

 

 

 

 

俺の耳が、幻聴で埋まる。

 

亀裂が走り、広がる。折れた断面がガチガチと鳴り合い、こぼれ出た破片が骨を包む肉に突き刺さる。軟骨は擦り切れ、筋は伸び切り、ブチブチと繊維が捩じ切れる。ゴキリ、と再度骨が弾ける。

 

彼女が力強く大地を踏みしめる度に、その幻聴が俺に訴えかけてくるのだ。

 

―――もうトキノミノルの足は限界だ

 

―――これ以上走れば、二度と復帰出来なくなるぞ

 

―――今すぐ止めさせろ

 

 

 

でも、もう止まらない。止められない。

 

彼女がゴールへと駆ける一歩一歩が、着実なる『破滅』へ伸びていても。

 

それが手に取る様に分かっていても。

 

 

 

「止めてくれ……」

 

 

 

掠れた声で懇願するしか、俺には出来なかった。

 

 

 

『二番、曲がり切りましたね……』

『いや……すごいですね』

 

たった一人、第四コーナーを曲がり切って直線に入る。残りは上りの三ハロン。

 

目に見えて明らかなハイペース。だがそれでも更なる加速をその折れた足で生み出していく。

 

『後方、第四コーナーを曲がり切りましたが……何バ身離れているか、見当もつきません』

 

後方で湧き上がる歓声。現状はまだ『大逃げ』と言われて納得する範疇だろう。彼らの目にはここから上がってくる後方から逃げ切れるか否か、という風に映っているのかもしれない。

 

だが、それは大きな間違いだ。

 

『さあ、直線に入り後方の順位争いが激しくなってきました!一番―――、十二番―――、六番イツセイ、勢いよく上がってきています!このまま先頭を捉え切れるかーーーえ?ど……どういう事でしょうか……?』

『差が……寧ろ開いてる』

『こんな事、有り得るんですか?』

『…………』

 

トキはここから『上げて』くる。それも生半可な差しでは逆に差が開く位には、速く。

 

一見スタミナが桁違いのように思えるかもしれない。だがそれも間違い。

 

真相は至って単純。然程スタミナを消費せずとも、トキは十二分に速く走れるのだ。本当にそれだけなのだ。

 

圧巻。その一言に尽きる。心の底から称賛できる。

 

「…………」

 

だからこそ、己の矮小さが身に染みる。君が壮絶な苦痛に身を焼かれながら、それでもなお先に進む事が出来るというのに。俺は君の足が折れたその時から、なんにも出来ていない。

 

「晶?」

「席を外します。トキを、迎えにいかないと」

「分かった、面倒ごとは俺達に任せとけ。お前はトキノミノルの下に行ってやれ」

「ありがとうございます」

 

席を立ちあがり、ふらふらとした足取りで歩いていく。向かう先はゴール地点。

 

何も出来なかったんだ。ならば何かを成した者を称賛し、支え、そしてトレーナーとして全てを受け止める。それ位しか俺に出来る事は残されていない。

 

依然として幻聴は俺の頭の中を搔き乱している。それこそ不快感で思考が全て塗りつぶされてしまう位には。

 

…………もう、俺に出来るのはこれしかない。

 

『これは一体……確かに、後方は追い上げてきているはずなんですが』

『異様……という他ありませんね』

 

ハロン棒が示す数字は4。にも拘わらず、未だ先頭と後方の差は縮まらない。

 

『さあ、後方を抜け出してきたのは六番イツセイ!どんどん追い上げて来ていますが……』

『しかし……この距離を詰めるのは至難ですよ』

 

イツセイも十分に速い。後方集団から頭一つ抜け出し、尚も加速していくのだ。追い込みのウマ娘もいるにはいるが、トキノミノルがいなければ彼女の一着は濃厚だっただろうな。

 

『っ!尚も加速する二番、トキノミノル……』

『圧倒的、ですね』

 

残り200。それでも差は、大きく開いたまま。

 

引き離す。まるで磁石が反発するかの如く、追いついてきた二着を寄せ付けない。

 

駆ける。苦痛を塗り潰す興奮と笑顔を携えて。

 

駆ける。己の全てを棚に上げて。

 

駆ける。取り巻く世界を置き去りにして。

 

駆ける。

 

 

 

駆け抜ける―――

 

 

 

 

 

          バキッ

 

 

 

 

 

―――さようなら

 

 

 

 

 

「はああァぁあァああぁあッっ!!!」

 

吠える。

 

最後の一歩。

 

そのボロボロの左足で。

 

 

 

トキは誰よりも早く、そして誰よりも速く、そこに辿り着いた。

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

『二番トキノミノル……他を寄せ付けず、一着でゴールしました……』

 

憑き物が取れたかのようにその勢いは異様なほど急激に落ちていき、ふらふらと数歩前に出したかと思えば、彼女はその場で足を崩した。……否、崩れ落ちたのだ。

 

「トキっ……!」

 

軸足を失い、その場で倒れ込む。

 

今の制度では、ウマ娘全員がゴールにたどり着くまで誰も邪魔出来ない。出走妨害をした時点で出場ウマ娘は失格扱いにされ、最悪レース自体が無効となる場合すらある。

 

トキは最後までやり遂げた。最後の最後で俺がその邪魔をすることなど、許されるはずもない。

 

そう、頭では理解できる。

 

「ッ……!」

 

だが、納得できるはずがない。

 

アドレナリンが止まり、急激に襲ってきた苦痛に顔を歪めるトキ。その場でのたうち回り、折れた箇所を手で抑えるトキ。

 

生憎……目の前で苦しんでいる担当を前で黙って見過ごしていられる程、俺は大人じゃないんだ。

 

『――――――』

『――――――』

 

放送席はトキの事など目もくれず、今も尚レースにいるウマ娘の実況をしている。

 

こうやってレース終わりに体力切れで倒れ込むウマ娘は腐る程いた。単純に足の疲労や痛みを訴えるウマ娘もいた。

 

「フ―――ッ……フ―――ッ……」

 

早く終われ。早く終われ。早く終われ。

 

トキが倒れた時点で後方集団の先頭であるイツセイは残り100を通過している。恐らく全員が走り切るまでは多く見積もっても十秒はかかるまい。

 

 

 

その時間が―――惜しくてたまらない。

 

 

 

『――――――』

「ッ!」

 

悠久に思えたその時間は、実況席から聞こえた最後のウマ娘がゴールする旨を話す声により終わりを告げる。

 

「トキッッ!!」

「トレーナーさん……」

 

柵を乗り越え、ターフに降りる。そのまま一直線でトキがいる方へ駆けていく。

 

「私、勝ちましたよ……凄いでしょ?」

「……ああ、見ていたよ。……だけど先ずはその足だ。きっと先輩が救護班を呼んでくれているはずだ」

「……やっぱり、バレてましたか」

「当然だ、俺はお前のトレーナーだからな。……良かった、解放骨折まではいってないな。足を上げてくれ。負荷が掛からないように、そのまま固定する」

「すいません、トレーナーさん」

「謝らないでくれ。お前は何も悪くない」

「違うんです」

 

固定する手は止めないが、目線はトキの目に向ける。何が、違うんだ?

 

「実は……トレーナーさんの声、聞こえていました」

「……え?」

「幻聴かもしれないんですけど、私の耳にはっきりと『止まれ』と。そう聞こえたんです」

「……幻聴じゃない。確かに、そう叫んだ」

「でも私はそれを、無視しました」

「気にしないでくれ。トキは悪くない。非なんて、有るはずもない」

 

君が走りたかったから、走ったのだ。このレースで勝ちたかったから、勝ったのだ。それのどこにも悪い所なんてない。

 

「今日は何故か不安が拭えなくて。きっとレース前から予感していたんです。私はこれ以上速くなれない、と」

「っ……そんな事……」

「でも……トレーナーさんが私を信じてくれましたから」

「…………!」

 

俺が……信じていたから?

 

「嬉しかったんです。貴方の信頼が、そして貴方の信頼に応えられる事が」

「へ……?」

「トレセン学園に入ってから私は、貴方に色々なものを貰いました。レースの技術は勿論ですけども、それ以外にも一緒にレースに向けて頑張ったり、お休みには一緒にお出掛けしたり。色々な経験を貴方から貰いました。沢山の楽しい時間を貴方から貰いました」

「ぁ……」

「だからこそ―――貴方と一緒に夢に見た、このダービーで……どうしても勝ちたかったんです」

 

 

 

「貴方の信頼に応えるために。貴方に貰った恩に報いるために」

 

 

 

………………………おれの、ため?

 

 

 

ふと、顔を上げる。

 

電光掲示板に映し出されていたのは、レコードを示す光。

 

『2:19:6』

 

二分三十秒の壁を誰が破るか、という話で持ち切りだったこの界隈を突き放すが如く、その次の見えない壁である二分二十秒の壁さえも超えてきたのだ。

 

まさに天が作り上げた傑物。歴代の最高傑作。

 

 

 

「……そうか。俺の為、か」

 

ならば―――その罪は誰にある?

 

 

 

勿論、俺だ。

 

 

 

この日、天が作り給うた最高傑作は、俺の手によって破壊されたのだ。

 

「トキ」

「……はい」

「ありがとう」

「いえ……そんな」

「それと……ごめんな」

「え?」

「本当に、ごめんよ……」

「……?」

 

 

……俺の中で、何かが止まった音がした。

 

 


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