少し長いかな?
「…………」
目が覚める。
普段は脳の芯まで覚醒するのに数十分を要するのだが、こういう悪夢を見て起こされた後は例外だ。
体を襲う異常なまでの倦怠感、胃の中を這いずり回る吐き気。
「うっ…………」
何も考えられないままその場で飛び起き、部屋のトイレに体を滑り込ませる。
「うぇっ…………はぁっ、はぁっ……」
トイレの便器に顔を突っ込み、言い様も無い不快感と共に胃を収縮させる。
「おぅっ……はぁっ……」
だが、出ない。吐瀉物が一向に見えてこない。
昨晩は飲酒したせいもあってか普段より食事量は少なめであり、既に昨日食べてものは消化されて腸まで行ったようだ。加えて窓から見える外の暗さを鑑みて、今は朝と呼ぶには少々早すぎる。恐らく四時半近くだろうか……少なくとも普段朝食を取る時間とはかけ離れている分、胃液の分泌も控え目だ。
「糞っ……」
何も吐き出せない分、不快感はずっと胃の中に残り続ける。いっそのこと吐き出せた方がどれだけ楽だろうか。
「…………」
いや……もしかしたらこれは、吐き出してはいけないものなのかもしれない。
全てを投げ捨てて楽になる事なんて幾らでも出来る。それこそトレセン学園を辞めるなりすれば、簡単に。
でも、それじゃあだめだ。それじゃあ罰になんてならない。
トキノミノルの足を壊した罪は、こうやって俺の中に留まっているべきなのだ。のうのうと一人逃げ出して楽になろうなぞ、虫が良すぎる。
「…………」
不快感を腹の中に残したままトイレを後にする。部屋に戻って充電器に接続された携帯を確認する。
五時二分。日の出を控え、空がほんの少し暗闇から藍に変わりつつある頃合い。いつもの起床時刻に比べればまだ一時間ほど猶予があるものの、吐き気のせいで頭は強制的にクリアになった。
今日は昨日に引き続き、選抜レースが開催される。
今年は例年よりも調子が良く、既に三分の一程度は昨日の時点でスカウトを受けた。このままいけば全員がスカウトを受けるのだって夢じゃない。
教官はトレーナー以上にウマ娘との距離感には注意しなければならない。トレーナーを持つことが出来ずに気を落としているウマ娘のやる気を上げる一方、もしトレーナーが出来ても後腐れなく教官の下を去れる位には距離を置く。
そしてこれは複数のウマ娘を担当に持つ中堅以上のトレーナーにも言えるのだが、特定の子に肩入れをするのは禁忌中の禁忌だ。教官なら他のウマ娘からの信頼を失い、トレーナーなら血を見る羽目になる。……冗談でも何でもないぞ?
だから俺も、あまり一人だけを気に掛ける訳にはいかないんだが……どうにもそれが出来ない子が一人。
トキノメグル。中等部からトレセン学園に在籍しており、三年が経過して今年からは高等部なのだが……トレーナーが未だついていない。
だが決して実力不足という訳でも無い。それどころか、正直あの子を一目見た時に俺は素直にあの子を担当にしたいと思ってしまったくらいだ。そしてその勘に狂いはなく、たまに行う併走トレーニングや模擬レースであいつは同年代に対して十分以上に渡り合えるほどの走りを見せていた。
また素行が悪いという訳でも無い。あいつは生徒会役員にも抜擢される程勤勉、且つ割り当てられた業務をこなせるだけの能力もある。人当たりや会話能力といった普段の素行にも特に問題は無い。
下世話な話、トキノメグルの様に教官の下で基礎をしっかりと固めているウマ娘は、トレーナー側からしても扱いやすい。その年の内からデビュー戦を熟すことが出来る分、もしレースで好成績を収めようものなら名誉と特別報酬が楽に手に入る。まあそんな理由でウマ娘を担当しようとするトレーナーはそう多くはいないが。
「これ以上は……耐えられないな」
でも、もし今年も彼女がスカウトを受ける事が出来なければ……確実に出遅れる。同世代の他の子達がクラシック級やシニア級を受ける中一人だけジュニア級を走るとなれば、情報も不足し、モチベーションを刺激し合うライバルとも出会いにくい。
今更俺がどうこう出来る問題では無いのは分かってる。彼女らのメンタルケアを適度に行い、後は選抜レースの健闘を祈る位しか俺に残された道は無い。
それでも……何か出来ることは無いか、探してしまう自分がいる。
「……」
胃の不快感は大分薄れてきた。
何気無く。別に深い意味も無いまま取り敢えず携帯を手に取り、時刻を確認しようとして電源を入れると……
『大丈夫ですか?』
『もしその二日酔いが酷いのであれば、他の教官に業務を委託することも可能ですよ』
『……本当に大丈夫なんですか?』
『やっぱり、無理に連れ出した私のせいですよね?』
『その、すいませんでした』
『……あの、『耐えられない』ってどういう意味ですか?』
『本当にごめんなさい、悪気は無かったんです』
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
……勝手に人の部屋を盗聴して、勝手に掛かり気味になるのはやめてくれ。
「怒ってませんから安心して下さい」
傍から見れば野郎が部屋の中で独り言を呟いているという、何やら不気味な感覚に苛まれるだろうが、盗聴しているのであれば会話は通じる。……ほら、通知が来た。
『……本当ですか?』
「本当ですよ。でも盗聴は別件なので後でお話があります」
『安心しました。次からは気を付けます』
「お酒の席では仕方の無い事です。ちゃんと反省出来ているのであれば今更咎めはしませんよ。ですが盗聴の件はまだ許していません」
『ではお大事に、トレーナーさん♪』
「盗聴の件は……」
それ以来通知は来なかった。
■□■□■□
午後。
昨日と同じ様に教官としてウマ娘達の気合いを充填させ、選抜レースに向かわせた。今はその様子を観察中だ。
昨日選ばれなかった分やや焦り気味ではあったが、十分許容範囲内。うちからは既に三人、先程トレーナーに声をかけられていた。
九人のウマ娘がゲートに入っては、出走していく。途中何度か自分の担当するウマ娘が走りながらも、その繰り返しを何度か見ていると次第に慣れてしまうのが人間という生き物だ。
選抜レースの期間中でも最初の三日間はスカウトが頻繁に行われるが、その内容は大きく異なる。
言い方は悪いが、基本的に最初の一日の時点で「天才」と称されるウマ娘はスカウトされ尽くす。そして二、三日目にスカウトされるのは殆どが「凡才」だ。
別に凡才だからと言って恥じる事は何一つ無い。何せ天才なんてこのトレセン学園という場においてでも同世代に片手で数え切れる位しかおらず、そしてトレーニング次第でその天才を喰らう事も十分すぎるほど可能だからだ。事実、遠距離への適性が乏しかったミホノブルボンだって、壮絶なトレーニングの結果菊花賞を見事なまでに走り切ったのである。
だがそれでも、天才は突飛だ。突飛だからこそ目に残るのは凡才では無く、天才だ。
故に二、三日目に開催される選抜レースでは大器晩成型のウマ娘がスカウトされる。そしてそのスカウトの風景は一日目の様な賑やかさは抑え目であり、突発的と言うよりは寧ろ計画的なものが多い。
だからであろう。そこにいる一人のウマ娘に、会場の誰もが注目したのは。
「おお?今日はまた一段と気合入ってるな、トキノメグル」
特段優れている部分がある訳でも無い、平々凡々なウマ娘―――昨日の走りで植え付けられたその偏見を無に帰す威圧感を放ち、トキノメグルはゲートに身を収める。
『今日の選抜レースに天才は居ない』と、そうトレーナー陣が勝手に思い込んでいた所で急に現れたのだ。新人からベテランまで、一人残らずその目を奪われるのも道理である。
また、異様な雰囲気を感じ取ったのはトレーナー陣だけでは無い。トキノメグルと同じくゲートに入っている他のウマ娘達も突如として現れた異様な怪物を横にして、先程まで滾らせていた闘志を引っこ抜かれていた。堪え切れずにゲート内でそわそわし始める子だっている。
ふと我に返ったスターターが急いでゲート開閉の準備にかかる。それに呼応してゲート内のウマ娘達も出走体勢を取り始めて。
ガコン、という音と共に、どろり、と「それ」は滑り出る。
禍々しい漆黒の陽炎を身に纏い、トキノメグルは少し先の地面を蹴りつけ、そして引き寄せる。唯のその繰り返しが着実に他の子達との差を作り出していくのだ。
精々が距離500程。スタミナをあまり気にする必要は無く、それ故に全員が全員スプリントを決め込んでいる筈。それなのにその隙間は滞りなく開いていく。
光の無い滅紫の瞳でゴールを見据え……彼女は瞬く間にゴールテープを切った。
静寂。だがそれも直ぐに終わり、ベテランを含む多くのトレーナー達が立ち上がるのを確認する。
「おいおい、すげぇなアイツ」
「おかしいな、あれくらい圧倒的な子なら昨日見落とした筈がないんだけど……」
「ベテランも何人か行ってるし、惜しいけど俺らの出る幕は無さそうだなぁ」
周りが一斉にどよめき出す。話題は勿論、トキノメグル一色だ。
「よしっ」
良かった。この流れならほぼ確実に誰かしらトレーナーは決まるだろう。それに見合うだけの走りを彼女は成し遂げたのだ。
そのままトキノメグルは数人のトレーナーに囲まれる。会話は聞こえないが本人は少々困惑している模様。そりゃあいきなり何人ものトレーナーがスカウトしに来たら「誰を選ぶべきか」という今まで味わった事も無い疑問が湧いてくるはずだ。
トキノメグルは苦笑いを浮かべながら、数人のトレーナーの話を捌いている。だが選抜レースはまだ残っている事もあり、この後走るウマ娘を気遣って彼女は直ぐにその場を離れた。トレーナー陣も納得したように元居た場所に戻ってくる。恐らくどのトレーナーにするかは保留にしたのだろう。正式な返答は選抜レースがひと段落ついた後だろうか。
……そうか。トキノメグルも、遂にトレーナーを持つのか。
「何というか、感慨深いな」
似たような感覚は昨日も味わったのだが、その中身は全く違う。彼女と共に過ごして得た思い出は決して少ない訳ではなく、時には衝突する事や、距離が近いと駿川さんに怒られた時も多々あったが……今こうして思い返すとなかなかに感慨深い。
だが……その思い出に、このままでは影が落ちる。
惜しむらくは昨日の夜、喧嘩別れの様になってしまった事。
「それは、嫌だな」
彼女と一緒に作った思い出を、灰にしたくない。最後は笑って彼女を送り出したいんだ。
……会って、話をしよう。昨日彼女が機嫌を悪くした原因は終ぞ分からなかったが、それでも謝意は伝えないまま終わりたくない。言葉だけの薄っぺらいものだと笑われてもいい。許しを貰えなくとも、甘んじて受け入れよう。
でも、今何もしなければ、きっと後で後悔する。
「その為にも、今やるべきことはきっちり熟すか」
個人的にはすぐさま彼女の下に行きたいところではあるが、まだ選抜レースは終わっていない。まだ走っていない子の中に、俺が担当している子も当然いる。
後腐れの無いように―――それはトキノメグルにも、他の子達にも当てはまる。今彼女を優先して他の子を放っておけば、今度はその子との軋轢が出来てしまう。
「メール、しておくか」
内容は……『午後六時、昨日いたベンチ付近に来て欲しい。君と話がしたい』……こんなところか。
メールを送信した途端既読がついた。えぇ……?
『分かった。けど、時間と場所はこちらが指定してもいいかな?』
取り敢えず一安心。会話も出来ない程怒っている訳ではないようで良かった。
『大丈夫だ。詳細が決まったら折り返し連絡してくれ』
『いや、それには及ばないよ』
『どういう意味だ?』
『左を見てくれ』
意図は分からないが、取り敢えず指示通り左の方を見る。
目を凝らして何かないかと探してみると、遠い向こうにレースを終えたトキノメグルが校舎の方に戻ろうと、ターフを背にしている様子が目に入る。どうやら最初から彼女は俺がどこにいるのか知っていたらしい。
表情までは見えないが、わざとらしく地面に『何か』を置いていた。
『手紙を置いた。ゴミとして捨てられないように軽く土と草をかけておく。選抜レースが終わり次第回収してくれ。そこに集合時刻と場所を記してある』
少し間をおいて、そんなメールが俺の下に届いた。
何故にこんな手間を、という思考を阻む様にターフの上でウマ娘達がレースの準備をする。そしてそのままゲートから飛び出すウマ娘達を眺めながら、担当の子の番が回ってきていない合間を縫って返信する。
『どうして手紙を使ったんだ?』
『今それは言えないな。だがお互いの為にもこれは必要な事なんだ』
メールを送ってからほんの数秒で、この決して短くない文章が返ってきた。どうやら俺の疑問は先読みされていたらしい。
『了解した』
簡潔に、そう返答する。それ以来ピタリと通知は止んだ。
再度左側に視線を向けてみるも、既にそこにトキノメグルの姿は無かった。
「……」
思えば、手紙にしたって妙に用意が良すぎる。その場で認めるには少々時間が足りなかったはずだ。俺がこうやって話を持ちかける事も想定済みだったのだろうか。
「……いや」
流石にそれは無いだろう。もし先の推測が正しければ、彼女は自分にスカウトが来る事が予め分かっていた事になるはずだ。何せスカウトが来なかった昨日は電話という選択肢を俺が取っていた訳だから……常識的に考えて、そんな未来予知じみた所業は不可能だ。
だが、万が一、彼女が、予知ではなく、確信を持っていたとすれば?
それが意味するのは―――
「!」
いけない、レースに集中していなかった。
既にゲートの中にはウマ娘達が揃っており、その中には俺が担当する子も一人いた。
つまらない妄想はよそう。今は彼女らの勇姿を見届けるのが優先だ。
若しかしたら―――こうやって俺の妄想が遮られる事も、トキノメグルからすれば想定済みだったのかもしれないが。
■□■□■□
本日の選抜レースの全行程が終了した。
今日は合計五名の担当バがトレーナーから声掛けを貰った。内一名はトキノメグルでまだ誰をトレーナーにするのかは聞いていないが、まぁそれは大きな問題ではない。
順調も順調。二日目にして俺が担当している子の半分以上がスカウトを貰ったのだ。例年と比較しても今年はかなり出来が良い。
「さて」
少し緩んだ思考を矯正する。
大気中の障害物がスペクトルから単波長を奪い去り、お陰で網膜まで到達する光は赤一色。このままでは直ぐに辺りは黒に染まる。その前にトキノメグルが地面に埋めたという手紙を回収せねばなるまい。
まだ新しい数時間前の記憶を引っ張り出し、トキノメグルがいたであろう地点まで足を進める。
数分、地面に細心の注意を払いながら辺りを散策していると。
「ん……」
少しだけ、不自然に草が散らばっている箇所を見つける。しゃがんで土を払ってみると、土の湿気でやや崩れた紙がそこにはあった。
破れない様に慎重に開くと、目的不明の注意喚起が二箇条。
『手紙の内容は決して口に出してはいけない』
『読み終えたら、直ちに携帯の電源を切ってから指定の場所に来るように』
何だこれ、と口に出しそうになるが、一応押しとどめておく。
彼女は意味もなくこんな事をする子ではない。真意は測りかねるが、別に難しい事でもないし一々疑問を挟むのは止めておこう。
注意喚起から目を下にずらしていき、そこに記されていた場所と時間を確認していく。
黙読を完遂し、しっかりと携帯電源を落としてから腕時計を横目に見る。門限もあるから早めに設定したのだろう、時間は十分程度しか残されていなかった。
目的地は学生寮近くの裏手。休日はウマ娘達の落ち着ける公共スペースとなっている反面、平日の夜は人通りが極端に減る。そして何よりこの辺りは寮長の目が届きやすい分、職員やトレーナーがほとんど顔を出さない場所だった。
そこに向けて少々早歩き気味で移動する。遅れるよりは早く着く方が気楽だからね。
昼の日差しには暖かさを感じる一方、夜風は皮膚を冷たく撫でる。深呼吸をすれば肺の中が冷気で埋まり、思わず白息を吐く所作をしてしまう。
普段あまり顔を見せない学生寮が見えてくる。入口付近にはまだウマ娘達の姿が多くあるが、その横を抜けて建物の側面に回ってみるとその賑やかさは遠いものとなった。
次の建物の角を曲がると集合場所が見えてくる……という時に。静かなはずの裏手で人の声がするのに気付いた。
「……理由を、聞いてもいいかな?」
「ん……」
声の主はあまり交流の無い新人トレーナー。確か今年から複数担当を持つ様になったんだったか。そしてその話し相手をしているのは俺をここに呼びだしたトキノメグル。
状況から察するに……俺が来る前に彼女は此処にいて、その姿を見かけたトレーナーがスカウトをしている……といったところか。そしてトレーナーの声色を伺う限り、トキノメグルは彼の申し出を断ったのかもしれない。
彼には酷な話だが、ベテラントレーナーも一人か二人、彼女に声を掛けていたのを俺は覚えている。トキノメグルからしてもベテランを自分の担当トレーナーにする方が信頼と実績がある分安心できるだろう。建物の陰に隠れながら、そっと心の中で彼に慰めの言葉を掛けておく。
「理由、か。……そうだな、申し訳ないが既にトレーナーにしたい人は決めてるんだ」
トキノメグルは苦笑いをしながらトレーナーにそう告げる。やはりベテランを選んだのだろうか。今日声を掛けていたベテランと言えば……確かチームレグルスのトレーナーだったかな?
教官ながら、誇らしい気分になってしまう。たまに自分が昔教えていた子がレースに出て勝っている姿を見るが、とても嬉しくなってくるものだ。それがましてやG1ウマ娘をよく輩出しているチームレグルスとなれば……期待してしまうのも無理は無いはず。
そうやって少々、浮かれていた所に……まるで冷や水をぶっかけられたかのような衝撃がやって来た。
「いや、先輩方から聞いたよ。どうやら君、今日受けたスカウトを全部断ったらしいね」
……………………は?スカウトを、断った……?
「どのトレーナーも口を揃えて言っていたよ。トキノメグルは『先約がある』と言って断ったと」
「そうだね。でも嘘は言ってない」
「でも、君のトレーナーになれた人の話を全く聞かないんだ」
「わざわざ言いふらす事でも無いと判断したんじゃないかな?」
「謙遜を。今日君が走ったレースは我々トレーナーの中でかなり印象的でね。おまけに誰がトレーナーになったか不明なんだから、今日はその話で持ち切りさ」
「ならトレーナー側が嘘をついて隠しているんじゃないのか?」
「どうせすぐばれるんだ。そんな事をしても無意味なのは聡い君なら分かるだろう?」
「…………」
話が、頭の中に入ってこない。
「君にも何か事情があるのかもしれない。だから君が話す気が無いなら構わないんだ。こうやって質問攻めにしているのも、言ってしまえば僕の身勝手な興味が故だからね」
「すまないね」
「でも、君はもう高等部所属だ。老婆心ながら言わせてもらうが、今年中、それも夏までにはトレーナーは決めた方が良い。今年の内からデビュー戦を終えてG3の舞台を経験しておいた方が、クラシックのG1を目指しやすくなるからね」
「ああ、理解しているつもりだ」
「それなら良いんだ。じゃあ、もう僕は行くよ。時間をとって悪かったね」
「では」
三年間。
彼女は確かに努力してきた。それは断言できる。
レースに勝つために。ひいてはその前段階として、トレーナーに認めてもらう為に。彼女は三年間ずっと努力してきたはずだ。
それなのに。どうして今になって……そのスカウトを断るんだ?
彼女から希望のトレーナーがいるだなんて話、聞いたことも無い。他のトレーナーに逆スカウトをする素振りなんて、今の今まで一度も見たことが無い。
もう何が何やら……分からなくなってきた。
トキノメグルは一体、何がしたいんだ?
「おや、紫月教官。盗み聞きとは趣味が悪いね」
「ぇ?」
トレーナーが俺のいる方とは別方向に帰っていったまでは良かったが、そんな事は関係なかったらしい。とっくに気づかれていたようだ。
「さて、どこから見ていたのかな?教えてくれると有難いんだが」
「っ……」
言葉の節々に圧を感じる。返答をミスれば前みたいに掛かり気味になるかもしれない。
「君が「何か」の理由を、トレーナーから聞かれている所から」
「ふむ。ではその「何か」は……もう察しがついているかな?」
「スカウトの謝絶、か?」
「ああ、正解だ」
威圧感は少しばかり鳴りを潜め、今度はどこか遠くを見ながら自嘲するような笑みを浮かべていた。
「想定外だ。別に君にあの場を見せようだとか、そんな邪な考えは無かった。ただ君とのお話に邪魔が入らない場所を選んだに過ぎなかったんだ。……でもまさかそれが他の人に見つかり、あろうことかスカウトされるとは……思いもよらなかった」
「……仕方ない。今日の選抜レースの結果を見れば、注目されるのも納得だ」
「そうだね。……本当にそうだよ。少し気が立っていたな」
ぐるり、と首が回る。そしてその瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。
「さあ、君のお話はなんだい?」
正直自分が何を話しに来たのかなんて、先の衝撃によって脳から振るい落とされていた。それを慌てて拾い上げ、口を動かす。
「あ、ああ。俺は君に、昨日の事で謝りに来たんだ」
「……は?」
昨日の様に、怒りを含んだ返答では無かった。その代わりにまるで理解できない未知の生物を見るような、そんな眼差しを向けられた。
「本当に、分からないのか?」
「え?」
「さっき君が盗み聞きしていた問答を経て尚、私が昨日君に怒りを見せた理由が、分からないのか?」
「…………」
分からない。何の関連があるというのだ。昨日の出来事と先程の事は、無関係では無いのか?
「はははっ……本気で言ってんのかよ…………はは、はははははっっ!!」
辺りが静寂だからだろうか、嫌に彼女の声が耳に残る。その笑い声に、どんな感情が混じっているのだろうか。何が発露しただろうか。怒っているのか、嘲笑っているのか、呆れているのか、悲しいのか……そのどれもが有り得そうで、同時に見当違いにも思える。
彼女の笑い声には、そんな異質さがあった。
「はははははっ!ここまで鈍いとは!道理で三年間、何をやっても気付いてくれない訳だよ!ははははっ…………まるで私は、道化じゃないか…………はは…………」
彼女は糸の切れた人形の様に力なくよろけてしまい、近くの椅子に勢いよく体を投げ出す。顔が項垂れており、笑い声も止んだ今は彼女が何を考えているのかが分からない。
「大丈夫か、トキノメグル……」
「『トキ』だ」
「…………え?」
「『トキ』と、そう呼んでくれ」
「それは……」
「出来ないのかい?まあ、そうだろうね」
「君の担当バ―――トキノミノルが、黙っちゃいないだろうからね」
「――――――」
何故それを、という言葉が喉から出ない。
「何故知っている、と言いたげな顔だね。ふふっ、驚いたろ?もう隠す必要も理由も無くなったからね」
項垂れた顔を上げてトキノメグルは真っ直ぐ俺を見つめ……彼女の持っている小さなバッグから、それを見せつけてきた。
微糖の缶コーヒー。
「君、これを置いたまま駿川さんに連れていかれたじゃないか。中身がまだ残っていたし、かといって放っておくのも嫌だったから回収したんだ」
勿論中身は飲んじゃったよ、と軽く微笑んでいるが、そこにはほんの少し怒りの色があった。
「これを返すために、実はあの後待っていたんだよ」
「っ…………」
あの時の会話か。あれを聞かれたから、バレたのか。
「おっと、勘違いしないで欲しいな。陰に隠れて盗み聞きしていたのは確かだが、別にその前から駿川さんがトキノミノルだとは知っていたし、君の担当バだった事も知っている」
「なっ…………」
有り得ない。
百歩譲って、駿川さんの正体がトキノミノルだという事はバレるかもしれない。彼女が現役だった頃に彼女のファンで、且つトレセン学園に入ることが許されて、更に生徒会役員等の駿川さんと関わる機会が多い人物なら気付ける可能性も十分にある。
だが……俺が彼女のトレーナーだった事なんて、知る由もないはずだ。
俺は元トレーナーである事は公認しているが『トキノミノルのトレーナー』だったとは一度も言ったことは無い。少なくとも俺が教官になってからは。
そしてトキノミノルは確かにメディアに顔を出したことも何度かあるが、トレーナーとして俺が一緒にインタビュー等を受ける事は一度として無かった。単純に必要性が無かったし、そんな余裕なんて無かったからだ。
また、既にトキノミノルの担当を外れてから六年は経つ。高等部三年であるシンボリルドルフがこの学園に入学した時だって、既に俺は教官だったんだ。現高等部一年のトキノメグルが知る方法なんて、無いはずだ。
「私の父はトキノミノルの大ファンでね。私が小学生の時、よくレースの会場に連れて行ってもらったものさ」
「…………?」
……何の話だ?
「私の競争バとしての名前だって、トキノミノルのファンになった途端に役所に行って改名したくらいさ。元々あった『メグル』に同じ『トキノ』を付け足して出来たのが、私の今の名前。ほんと、迷惑な親だよね」
「特に東京優駿は酷かった。彼女の勇姿を間近で見たいと、母も一緒になって前日からの場所取り戦争に巻き込まれたっけ。眠気もあったし、正直帰りたかったのが本音だったよ」
「で、実際に会場に入ってもやっぱりあんまり面白くなくてね。父は入場してくるトキノミノルに釘付け、母はウマ娘だけどダービーには出られなかったらしくて、別の意味で興奮していた」
「レースが始まって……トキノミノルは確かに速かった。でも別に憧れる事なんて無かったし、逆に毎度レースが有る度に連れ回されていたから、彼女が疎ましかったくらいさ」
「でもね。あの時私は君を見つけたんだ」
「目の前の席に座っていた君が立ち上がり、あろうことか叫んだんだ。『トキ!止まれ!』……とね」
「正直訳が分からなかったさ。おかしな人、というのが第一印象だった」
「でも、その理由は直ぐに分かった。レースが終わった後、トキノミノルは足を壊していた。そして君が彼女の下に駆け寄り、彼女を抱き締めている姿を見て。子供ながら私は感動したんだ。『嗚呼、なんて美しい関係なのだろう!』……とね」
あの姿を見られていたからバレたのか。普通のファンなら怪我をしたトキノミノルを心配して、彼女のトレーナーなんて眼中に無かっただろうに……この子だけは、トキノミノルではなく俺を見ていたのだ。
「トキノミノルの怪我を、トレーナーである君が誰よりも早く気付き、人目なんて気にせずに叫び、彼女の事を想う。……実に、実に感動的じゃないか!」
「極めつけは走り終わった後の君さ!トキノミノルが倒れた後、歯を食いしばり、拳を握りしめ、今にも駆け寄りたい気持ちを抑えて耐える姿!他のウマ娘との接触なんてそっちのけで担当に駆け寄り!レコードタイムを見て絶望に浸り!そして!担当バの為を想い、全ての罪を背負う覚悟を決めた、君の顔!嗚呼……嗚呼ッ!!君は本当にッ……!!」
ついていけない。そんなの、別に大した事では……
「ッッッ~~~!!その顔だよ!!!」
いつの間にか立ち上がっていた彼女は、頬を上気させながら俺の顔を見ていた。
目の色が、紫から緑に変わっていた。
「あの時から、君以外を担当に持つなんて考えられなくなったんだ!あんなに真摯に私達を見てくれる誠実な人なんて、他にはいないからね!」
「そんな事……」
「他のトレーナー達は、気付きもしなかったのにかい?」
「っ!」
「あの場で君が何を言っても、更には走行中のトキノミノルを見ても、彼らはまるで取り合ってくれなかったじゃないか。まあベテランの人は君を信じてくれていたようだけど、自分で気付けないんじゃあ話にならないね」
あの場にいた他のトレーナー達を、明らかに見下すような仕草。だがそれでも……殊あの場においては、俺ははっきりと感じていた。
同じトレーナーなのに、何故トキノミノルを見ても怪我が分からないんだ……と。
だから強く言えない。それは偏に、後ろめたさがあるからだ。
「唐突だが……君はあの女にプロポーズしたらしいね」
「はっ?」
「昨日あの女が発情しながらのほざいていたじゃないか。『君が欲しい』……そう言われたと」
「違っ……!それに訂正したって後から言ったよな!」
「分かっているさ。君が恋愛感情から言ったわけではないことくらい」
「ほっ……」
「だが、気に食わない。実に気に食わない」
先程まで緑色だった彼女の瞳は紫へと戻り、ついでにハイライトまで失われていた。
「この三年間、私にとっては毎日が選抜レースの様なものだった。君に少しでも私を担当に持ちたいと、そう思わせる為だけに走って来た。逆に本物の選抜レースは正直どうでも良かったんだ。君以外のギャラリーに目を付けられたくは無かったからね。……今日はちょっと昨日の事が有って気が立ってしまって、本気で走ってしまったけどね。お陰様でスカウトの嵐だったけど……そのせいで逆に惨めな気持ちになったよ」
だから選抜レースの一日目、普段通りの走りじゃなかったのか。
「それに君は今年でトレーナーライセンスの期限が切れる。君には何としても更新して欲しかったんだけど……ルドルフ会長から聞いたよ。ライセンスを放棄するんだって?」
「もしかして、君が生徒会役員なのは……」
「こういう時の為に情報を得る為さ。勿論守秘義務の観点から重要な事までは教えてくれないよ。でも後で結局広まる情報を先に察知するくらいは出来る」
「皆して職権乱用しやがって……」
「更新試験は六月中旬と十二月中旬の二回、申し込み締め切りはその約一か月前。つまり夏にデビュー戦をしたい私にとっては、既にデッドラインは一か月先まで来ていた。多分その焦りもあってか、昨日はなりふり構わず本気で走っちゃったのかもね」
今までの彼女の行動すべてに合点がいく。もしかしたら俺が知らぬ間に彼女が望む方に誘導されていたのかもしれない。
「『君が欲しい』……だっけ?君は彼女の走りを一目見てそう言ったらしいな。でも私は言われていない。これは明らかに君の中で、私が競走バとしてトキノミノルに劣っていると思っている証左じゃないか」
「そんな事ない!俺が教官だから君を担当に持つ気が無かっただけで……」
「なら、教官を辞めてトレーナーに戻ってくれよ。そして私をスカウトしてくれたならば、君の言葉は本当だったと信じるし、君に喧嘩を売るような言葉を言った事を謝罪しよう」
「なっ……!」
教官を辞めて、トレーナーに戻るだと……?
「『そんな事、駿川さんが許すわけがない』」
「ッ!」
「図星だね。ふふっ、本当に君は分かりやすい。そしてその誠実さに私は惚れたのだ。それ自体に文句は有り得ないよ」
彼女は手に持っていた微糖のアルミ缶を見せつける様に俺の前に差し出し。
「だから、奪い取るんだ。君の中の『トキ』は今から、私に塗り替えてやる」
メキッ、と音を立てて、握り潰した。
「トキノミノルの無敗記録は十戦だっけ?なら私は十一戦、生涯無敗を目指そうか。レコードだって、八回更新してやる。無敗の三冠だって取ってやろう。そして何より、君を縛り続けているあの東京優駿のレコードだって、更新して見せよう」
無謀だ、なんて言葉は彼女を三年間見てきた俺が言えるはずも無かった。本気でそれが出来る可能性があると、そう納得させるだけの強さと気概が彼女にはあった。
「そして―――もし君が望むのならば、先に挙げた私の目標なぞ溝に捨てて、止まってやる」
「……ぇ?」
「東京優駿の場でだって、どこでだって、止まってやる。君が『止まれ』と叫べば、その場で止まってやる。トキノミノルが無視した君の言葉に、私は絶対に従うと誓おう」
「はっ……?え……?」
「私は君を信頼している。だからこれは『当然』の事なんだよ」
理解不能。
まだ……まだ、トキノミノルを超える為に走ると言うのであれば、十分理解出来た。その原因が俺にあると言われても、納得は出来ないが理解は出来た。
だが、彼女は俺が止まれと言えば止まると、そう言った。
それじゃあ彼女は……何の為に走るんだ?
俺の為か?はたまた彼女自身の為か?
……分からない。
彼女が俺をトレーナーとして欲している事は分かった。そしてその発露として、トキノミノル……もとい俺の元担当バの記録の悉くを更新する気でいるのも分かった。
これは彼女自身が望んだ事だ。
だがその一方で、俺の命令一つで彼女は自身の望みを捨てると言った。
これは彼女からすれば俺の望んだ事だ。
ああ、そうか。
彼女はきっと、自分の望みよりも俺の望みを優先してしまっているのか。
『トレーナーはウマ娘を支える杖である』……その考えを至上命題として遵守する者ばかりがトレセン学園にいるからこそ、頭から抜け落ちてしまっていた。……いや、それも見苦しい言い訳か。
そうだ。そうだよ。
かつて俺の下にも、居たじゃないか。
俺達が君達を支えたいと思う以上に、その杖に恩返しをしたいと思ったウマ娘が。
酷い矛盾だ。道具を道具と割り切れば、互いの信念は確固たるものとなるだろうに。
でも、その矛盾が存外、悪いものじゃ無くて。
悪いものじゃ無いから、その矛盾に憧れるウマ娘が生まれたんだ。
「私は君の下で走るために、トレセン学園にやってきたんだ」
「君が教官をしていると知った時は、終わりだと思ったよ。まだ幼かったこともあって一時期自主退学すら視野に入れていたものさ」
「でも、出来なかった。専属契約は結べてなくても、君が私をただスカウトされなかったウマ娘の内の一人としか見ていなくても、私は君の教えの下で走る事に、嘗て無い程の喜びを覚えたんだ。一度味わってしまえば、もう抜け出せられなかったんだ」
「時間を追うごとにその気持ちは徐々に膨らんだ。もっと、もっと、と抑えきれなくなってきた」
「そして今年の冬、このままでは君のトレーナーライセンスが失効してしまうと聞いて……遂に私は形振り構わなくなって来た」
「だから……今日こうやって自分の秘め事を吐露しているのは、必然だったんだよ」
「ねぇ、紫月トレーナー。どうか私と専属契約を結んでくれよ」
「そしていつの日か……『トキ』と、そう呼んで欲しいな」
彼女の目は再び、緑色に輝いていた。
それがどこか……誰かにそっくりな、エメラルドを思わせるようで。
錆び付いた何かが、軋む音がした。