長いです。けど、諸事情で一話に纏めたかったのでご容赦を。
あの日から、トキノメグルは変わった。
今までは駿川さんの策略と俺の「担当ウマ娘達には出来るだけ平等に接する」という考えもあり、トキノメグルは特段目立った行動は起こさなかった。事実そのお陰?で俺は先日まで彼女の秘めた思いに全く気付かなかったんだから。
そもそもトキノメグルが中等部一年の時は彼女の担当をしていた時間の方が短い位だった。駿川さんもその時はまだ彼女を警戒対象として認知していなかっただろう。
思えば異変に気付くべきだったのはトキノメグルが中等部二年になった時だった。駿川さんによる「俺の担当ウマ娘を頻りに変更して互いに癒着するのを避ける」という策略は、後から思えば殊トキノメグルに対しては効力を劇的に弱めていた。
きっとこれはトキノメグルが中等部二年で生徒会役員になった事が原因だろう。書類等が生徒会役員の目にも入る以上、駿川さんがあからさまな職権乱用を行えば、例え他の生徒会役員がスルーしてもトキノメグルは絶対に見逃さない。職権乱用が公になれば謹慎は免れないだろうし、何よりこれ以上俺に干渉する事が出来なくなる。まぁ駿川さんなら何かしら対策はしているだろうが。
かと言ってトキノメグルが優位に立った訳では無い。トキノメグルが俺に「トレーナーになれ」と言えば、盗聴器越しにそれを聞いた駿川さんが拡大解釈の後に「脅迫」と断定して謹慎処分を下すだろう。程度が酷ければそのまま退学にもしかねない。……トキはその辺りの容赦が無いから。
だからトキノメグルは自らの走りで俺を魅了し、俺の方から「トレーナーになりたい」と言わせる必要があった。
だが幸か不幸か、俺には嘗て「トキノミノル」と言う名の緑の悪魔を担当していた経験がある。単純に俺の目が肥えてしまったのも有り、更には駿川さんからの要望もあって、どれだけトキノメグルが優れていても余程の事が無い限り彼女を担当する気にはなれないだろう。
要は互いに牽制し合いながら三年間が過ぎたのである。そんな事俺は一切知らなかったけれども。
だが、その均衡は一方的に崩された。
あの日を境にトキノメグルのアプローチは表面化したのだ。
たったそれだけ、と思うかもしれないが、彼是三年間秘めてきた彼女の思いは熟成に熟成が重ねられており、それが一気に顕在化したのだ。
例えるなら……そう、キンキンに冷えたコーラを入念に振った挙句、ダメ押しと言わんばかりにメントスをぶち込んだ後の様な状態だ。果たしてペットボトルから出てきた泡は「たったそれだけ」で済ませられるだろうか?……まぁそういう事だ。
しかもその泡は時間が経てば治まるどころか、さらに勢いを増していくのだ。止まらないメントスコーラなぞ悪夢以外の何者でもない。
さて、今までの鬱憤を晴らすように俺にアプローチを重ねるトキノメグルだが、それに呼応して猛烈に機嫌を損ねている方が一人いる。
何を隠そう、駿川さんである。
実を言うとあの日の俺とトキノメグルの密会はそれなりに長い時間行われていた。時間にすると十分から二十分程か。
短いと思うかもしれないが、逆に考えてみてほしい。あのトキが警戒対象のウマ娘と俺を十分以上も二人きりにするだろうか。しかも門限スレスレの夜に、人気の無い場所で。……常識的に考えて有り得ない。
実際俺がトキノメグルから壁ドンされた日だって、俺が電話を掛けてから駿川さんが現場に到着するまでに五分と掛かっていない。
なら何故今回に限り十分以上も俺を放置していたのかと言えば、答えは単純。トキノメグルによる小細工が原因だ。
今から思えばあまりにも簡単な事だと思うが、要は携帯の電源を落としてしまえば位置情報は遮断される。盗聴はそもそも俺が口を開かなければ良いだけの事。後は集合場所に盗聴対策に妨害電波なりを予め準備しておけば良い。加えてあそこは学生寮の近くだからこそ電波が煩雑に飛び交っており、数分程度の妨害行為がバレるリスクはかなり少ないだろう。
後から聞いた話によると、俺達が丁度話し合っている時に駿川さんがトレセン学園内を猛烈な速さで走り回っている姿が目撃されたらしい。今は既に現役の時の七割程度の実力しか出せないだろうが、それでも元が異常なのでかなりの速さだっただろう。そんな高速巡回でも俺達の場所が見つからなかったあたり、学生寮近くを選んだトキノメグルの悪知恵が輝いたと見受けられる。
よって駿川さん視点からすれば「数十分の間紫月トレーナーの位置情報が消えて盗聴も効かなくなる時間が有り、その翌日からやたらと彼と警戒対象であるトキノメグルの距離感が近くなっている」という事態が起きている訳だ。怪しまれない方がおかしいだろう。
だが、意外なことに駿川さんは俺を問い詰める様な事はしなかった。
俺としては、彼女はいつかの日の様に俺を問い詰めると身構えていたのだが、何故か駿川さんは俺に何も言わなかった。
だが、納得はしていないらしい。彼女の機嫌はあの日から悪くなる一方で……それでもどこか、寂しそうな顔をしているのだった。
率直な感想、今の駿川さんは色々な意味で危険だ。日々蓄積されていく彼女の不満が爆発すれば、骨の一本や二本は覚悟しておいた方が良いだろう。
しかしその不満が俺に向くのであれば、それはむしろ有難い事だ。もしトキノメグルにその矛先が向けば……トキノメグルのバ生はへし折られ、駿川さんの人生は警察の手によって終わりを迎える。
また、その不満をずっと貯め続けていれば、いつかきっと駿川さんは壊れてしまう。そんな姿は、見たくない。
更には、トキノメグルに以前の余裕が無くなっている事も事態を悪化させている。
彼女は何とかして俺にトレーナーライセンスを更新させたがっている。従って更新試験の受付締め切りである五月の中旬までに俺を説得する必要があった。
だが、俺がトレーナーになる事は、俺が駿川さんを裏切る事を意味する。
だからトキノメグルがやろうとしている事は俺にトレーナーとして戻る様に説得する事ではない。俺にトキノミノルの足を壊した罪を忘れさせ、駿川さんを棄てさせる事だ。
……そんな事、出来る訳がないじゃないか。
俺はトキノミノルの未来を奪った事を罪だと認識していても、それ自体を疎ましく思った事なんて一度も無い。互いに停滞した時間の中で傷を舐め合っていた頃を、客観的に抜け出すべきだと認識しつつも……今から思えば、心のどこかでは歓迎していたのだ。あの止まった時間の中で少しずつ、俺は贖罪が出来ているのではないかと、そう勘違いしていられたんだ。
だが無情にも、俺の中にある時間はトキノメグルによって無理矢理動き始めようとしている。未だ止まったままの駿川さんを差し置いて。
しかし、もしトキノメグルを無視して駿川さんのいる止まった時間の中に戻れば、今度はトキノメグルにトレーナーが就かなくなる。あの子が妥協する姿なぞ、あの日の彼女の目を見てから俺には想像できなくなってしまった。
駿川さんを尊重すれば、トキノメグルのバ生に傷がつく。
トキノメグルを尊重すれば、駿川さんの人生に傷がつく。
どうしたらいいんだ。
何が正解なんだ。
俺は……
■□■□■□
時は既に五月に突入した。
結局今年の選抜レースは個人的に成功で終わった。うちからは合計十五名のウマ娘がトレーナーからのスカウトを貰い、俺の下を笑顔で去って行った。中でも中等部三年が全員スカウトされたのは大きい。
残念ながらスカウトされなかったウマ娘も当然出てくる。基本的にそう言った子達は中等部二年なので、悔しさを糧として次の選抜レースにてしっかりとスカウトをもぎ取って欲しい。まだまだチャンスは残っているのだから。
選抜レースが終わり、俺の受け持つ担当の子も一新されると思っていたのだが、まだその旨の通達や辞令は来ていない。他の教官の大半は既に新しく持つ担当の子のデータを渡されているのだが……何かあったのだろうか。
だが正直な事を言うと、今の俺にはウマ娘を指導する気力と余裕が無かった。だから現状を不思議には思っていても素直に有難かったのだ。
何とか上手く場が収まらないだろうか―――そんな事を頭の中の隅々まで巡らせた挙句徒労に終わる、その一連の流れを幾度となく繰り返しているのが今の俺だ。
「あの子、また模擬レースで勝っているな。確か未デビューじゃなかったか?」
「ああ。名前は……そう、『トキノメグル』だ。レグルスのトレーナーからのスカウトを断ったって、専ら噂になってるぜ」
「レグルスで無理なのかよ。そうなるとリギルを志望しているのかな?」
「いや、あそこはチーム加入に試験が有るだろ。あの子って確か試験の場にいなかったから、それは無いんじゃないか?」
「う~ん……分からんなぁ」
風に乗って、トレーナー達の会話が聞こえてくる。その声に促されるまま閉じた思考を一度断ち切り、視線を目の前に映るトラックへと向ける。
視界の先、トラック外部の一角を占める数人の集まり……その中にトキノメグルはいた。その横には呼吸を整えながらも悔しがるウマ娘の姿も。
あの日からトキノメグルは俺にアピールすべく、模擬レースを積極的に行っていた。
始めの内は可愛らしいものだった。俺に自分を担当バにしてもらうべく、同世代の中でもトレーナーを持つ、或いは既にデビュー戦を済ませているウマ娘達とレースをする姿は、仲間と切磋琢磨する青春真っただ中の健全な生徒に変わりなかった。その中で自分の実力を高め、いずれは俺にスカウトされる事を目指す……本当に健全な姿だった。
だがそれも、数日のうちにその様相を大きく変える。
模擬レースで勝ちを重ねていくうちに、いつしか彼女の元には挑戦状が届く様になった。ある者は面白半分で、ある者はその連勝記録を本気で止める気で、ある者は敵情視察で……動機は多々なれど、数々のウマ娘が勝負を挑んできた。中には重賞を勝ち抜いた者さえいた。
だがあろう事か、トキノメグルは未デビューであるにもかかわらずその全てを返り討ちにし……そして俺は、勝ちを重ねるトキノメグルの姿を間近で見せつけられて尚、彼女をスカウトしなかったのだ。
その頃からトキノメグルの焦りは目に見えて明らかになった。
徐々に増えていく練習量。模擬レースも引っ切り無しに行われた。……そして何より、彼女はレースに勝っても笑わなくなった。
このままでは、歯止めが利かないまま心身共に磨り減ってしまう。このペースで足を酷使すれば怪我は免れないだろう。そうなれば仮に俺以外のトレーナーが就いたとしても、恐らく年内のデビューは……
「紫月トレーナー、ちゃんと見てくれていたかい?」
「……トキノメグル」
暗い思考を遮ったのは、いつの間にか俺の目の前に来ていたトキノメグル本人だった。
嗚呼、しまった。もう少し早く気づいていれば、この思考に苛まれて生気を失った男の顔を見せずに済んだだろう。その証拠に彼女の顔も瞬く間に曇ってしまっている。
「……その顔じゃ、スカウトする気にはなってないんだね」
「……すまない」
「謝らないでよ。私が惨めになってくるじゃないか」
「…………」
少し笑みを浮かべながら冗談めいた口調で話しているものの、目が笑っていない。
「ねぇ、見てたでしょ?さっき模擬レースをしてた相手、この前のG2で二着だった子だよ?ウイニングライブの舞台にも上がっていたし、知ってるよね?」
「……ああ」
「ッ!……私、勝ったんだよ!?まだデビューすらしてない高等部一年が、中等部一年からトレーナーに鍛えてもらってる高等部二年の子に!そりゃあたった一回の勝負で優劣が決まる訳じゃ無いのは理解してるし、自慢するのはあまり好きじゃないけどさぁ……でも、でもっ!私、頑張ったんだよ!?少しくらい褒めてくれても、いいじゃないか!」
「……凄いよ、本当に」
「それだけ、って…………ねぇ、まだ、ダメなのかい?まだ私を、スカウトしてくれないのかい?」
「…………ごめんな」
「~~~ッ!」
胃が瞬時に冷却されたような、そんな感覚に陥る。心拍数は上がってないのに、一つ一つの鼓動が肋骨を内側から圧迫している気がする。
謝る事しか出来ない。例え彼女がそれを拒んでも、今の俺には謝る選択肢しか頭に浮かんでこない。
「……そう、だね。まだ私は『足りてない』って事だよね」
「っ……」
「不満を口にするのは、まだ早いよね。トキノミノルは、憎らしい程強かったもんね。じゃあそれを超える為には……G1ウマ娘くらいデビュー前に倒しとけって、そういう事だよね。それくらい将来性とインパクトが無いと、紫月トレーナーは認めてくれないって事だよね。……そう、言いたいんだね?」
「違うっ……君は何も悪くない!今の君だって十分すぎる程強いと思っているよ!」
「でもスカウトしないって事はそういう事だよね?」
「違う!俺の、俺自身の問題なんだ!」
「……仮にそうだとしても、私は紫月トレーナーに選ばれるための努力は止めない。いや、止められない。何もしないでいる時間が、苦痛でしかないんだ」
「それは……」
「じゃあ、行くね。今日はこのまま休むつもりだったけど、五月中旬までにG1ウマ娘に挑むとなれば……時間はいくらあっても足りない。今から練習を再開するよ」
「待ってくれ!前から言っているが、もう君の足は疲労が溜まりすぎているくらいなんだよ!明らかなオーバーワークだ!頼むからもう休んでくれっ!」
トラックに戻ろうとしていたトキノメグルはその足を止め、首だけこちらに向ける。その目は何時ぞやの夜とは違い、片目だけを紫から緑に変色させていた。
「なら、私に命じてくれよ。トレーナーになって、私を担当にして、それから『休め』と、命じてくれよ。そしたら喜んで足を休めるさ」
「ッ……!」
「……もういいかな。じゃあ、またね」
トキノメグルはこれ以上振り返る事無く、トラックの方に戻っていった。
「どうすれば……良いんだ……」
このままでは、同じ過ちを繰り返すことになる。トキノミノルの時同様に、何もできないままウマ娘の足が壊れていく様を見続ける事になる。
「はは……」
何も変わっていない。停滞した時の中を駿川さんと共に過ごしておきながら、俺は何も学んでいない。
何か、手を打て。取り返しがつかなくなる前に、トキノメグルを止めろ。
―――理事長に事情を話して、トキノメグルのトレーニングを禁止にするか?……恐らく可能だが、根本の解決にはなっていない。体が壊れるのは防げても、心が壊れるだろう。今度こそ自主退学しかねない。
―――いっそのこと羽交い絞めにでもして無理矢理にでも練習を止めさせるか?……最終手段としては有りだ。ウマ娘に人間の膂力では敵わないだろうが、やらないよりマシ。可能ならば反撃を喰らった俺が重傷を負って、彼女にほんの少しだけ罪悪感が生まれて練習を控える様になるのが一番有難い。だが、彼女は優しいから……罪悪感を過剰に植え付けてしまい、彼女のバ生に重しが出来るかもしれない。……なるほど、見込みの薄い博打だな。
どれもこれも、凡策ばかり。物理的に練習を止めさせることはきっと出来るだろうが、彼女の心も一緒にケアする方法が浮かんでこない。……全く、本当に度し難い奴だよ、お前は。
……自嘲は止そう。それをしたところで得するのは俺だけだ。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。凡策を練っていれば、幾つかマシなのは出るだろう。そう信じて頭を動かして……
「……?」
ポケットの中で携帯が震えているのに気付く。取り出して画面の電源を入れると、駿川さんから通知が幾つか来ていた。
『トレーナーさん、大事な話が有ります』
『今日の夕方五時に、時間を空けています。小会議室を一つ押さえてますので、取り敢えず本校舎のエントランスに来てください』
『万が一来ないようであれば、夜に直接貴方の部屋に伺いますので悪しからず』
……大事な話、と来たか。
俺とトキノメグルとの会話が終わってから通知が来た辺り、会話は盗聴されていたと見て間違いないだろう。だが部屋を予め準備しているのであれば、突発的に掛かり状態となって通知を送ったわけではあるまい。それに部屋を取るという事は他人に聞かれたくない話である事は明白。
「行くしかないな」
新人トレーナーへ送られるベテランからの注意喚起として、『ウマ娘と二人きりで密室に誘われたなら警戒すべし』というものがある。具体的には鍵の開閉の権利を与えず、窓の高さや位置の確認、そして部屋に入る前には必ず学園から支給されたスマートフォン内にある緊急通報用のアプリを立ち上げておく様に言われる。
そしてトレーナーの被害現場ランキングで堂々の第一位に輝く『専用のトレーナールーム』には、幾つもの緊急脱出路や通知システムの起動スイッチが備え付けられている。流石にウマ娘側もそんなものを見せつけられればいい気分にはなれないだろうから、いい具合に隠されてはいるが。
それ程までにウマ娘と二人きりになるのはトレーナー連中にとっては危険な事だった。
おまけに最近まで不気味な程干渉が無かった駿川さんが、今このタイミングで俺を招集してきたのだ。本人も大事な話と言っているし、これらを鑑みて尚何も起こらないと思えるほど俺は楽観的な性格はしていない。
だが、文句を言うのはあまりにも烏滸がましい。有効な手を何一つ見出せない俺に、与えられた選択肢を無下にする権利なぞ何処にもないのだから。
五時まで残り数十分。覚悟を決めるには十分すぎる程の時間だ。
まあ…………覚悟なぞ、彼女が足を壊した時から毎日繰り返しているのだが。
■□■□■□
「紫月トレーナー」
「駿川さん……大丈夫ですか?」
「何がですか?」
「いえ、その……少し足取りが覚束ない様でしたので」
エントランスの端にある目立たない椅子に座って待っていたところ、丁度五時に駿川さんが入口の扉から一直線に此方にやって来た。
目に見えて明らかという訳では無いが、彼女のトレーナーだった俺から見れば今日の駿川さんの足取りはいつもと違う。どこか力無いというか、重いというか。
「大丈夫ですよ。……さあ、行きましょうか」
「……はい」
エントランスを抜けて小会議室へと足を進めていく。先程から聞こえる喧騒も目的地に近づくにつれて遠いものとなり、物音は駿川さんのヒールの音だけ。
「…………」
「…………」
無言。
普段なら何かしら会話をするものなんだが、彼女から話しかけてくる気配は皆無、そして俺から話を振れる雰囲気でも無い。
別に無言の状況は今までも幾度となくあった。だが……こうも気まずい沈黙は初めてだ。
「ここです」
案内されるがままに部屋の中へ入っていく。鍵を閉めた後にドアノブを破壊されないよう、さりげなくドア側の位置を陣取ってしまうのはある種俺の悪癖だった。
そういうちょっとした警戒に気付かないウマ娘ならば問題ない。だが……
「……そんなに警戒しないで下さいよ」
「っ!すいません、つい……」
「無自覚の方が傷つくものなんですよ、全く……」
駿川さんは普段からトレーナー達に警戒するよう呼びかけている側だ。バレるのは必至、よってこれは信頼を失う悪手だった。
はぁ、とため息を一つ。それで彼女も矛を収めてくれたらしく、机の上に手に持っていた資料を置き、向かいの椅子に腰掛ける。
「かけてください。きっと長話になりますので」
「はい」
椅子に座り、丁度真っ直ぐに駿川さんと向き合う形となる。エメラルドの瞳にはいつもの落ち着いた柔らかさも俺を糾弾する時に見せるキリリとした輝きも無く、ただ揺れていた。
「…………」
「…………」
駿川さんは何も切り出さないまま、目を伏せて資料を凝視する。角2封筒に入っているのでその中身までは分からないが、その封筒を掴む駿川さんの手が些か震えているのを俺は見逃さない。余程重大な話なのだろう。
「……ふぅ」
深呼吸を一つ。割れ物を触るかのように駿川さんは封筒を開けて、中にある書類を二枚取り出す。そのまま俺に見える様に向きを変え、机の上に並べていった。
一枚は専属契約書。
もう一枚は、婚姻届だった。
「は……?」
訳が分からん。専属契約書の時点でかなり衝撃的だったのに、もう一方のインパクトが強すぎて…………えっ?
「大事な話はこれです。今日貴方に……どちらを選ぶのか、決めて欲しいのです」
選ぶ……?
「彼女……トキノメグルを選ぶのであれば、そこの専属契約書を記入して下さい。私を選ぶのであれば、同様に婚姻届にサインしてもらいます。両方選ばないという選択肢も無い訳では有りませんが……それでどうなるかは、想像出来ますよね?」
「冗談……ではありませんよね」
「勿論です。今すぐ書いて提出しろ、とまでは言いませんが……どちらを取るかの決断はしてもらいます」
まさか駿川さんからこの話題を積極的に切り出してくるとは。俺が駿川さんを裏切ってトキノメグルのトレーナーになる、という選択肢を俺に与えている時点で、正直意外だ。
「私らしくない……と言いたげですね」
「……すいません」
「いえ、むしろ嬉しいです。貴方は普段から私の想いを軽く流すものですから……ちゃんと伝わっていたとしれて安心です」
「そう……ですか」
くすり、と笑う駿川さん。だがその顔にいつもの余裕は無い。
「きっかけは……そう、二日目の選抜レースの夜。携帯の電源が切れた十七分間、貴方はトキノメグルと接触していますね?」
「……ええ」
これは取り繕っても意味のない事。駿川さんだってそれ位は容易に推測出来るはずだ。
「そして貴方は……彼女に『トレーナーになって欲しい』と言われ、保留にした。そうですよね?」
「…………はい」
あの場で断る勇気が無かった。かといってすぐさま承諾する訳にもいかず、今の今まで保留にしていたのだ。……いや、単に逃げていただけかもしれないか。
「私の事も有り、すぐさま返答をしない貴方にトキノメグルは焦りだし、そして今まさに躍起になってスカウトしてもらおうと練習している。貴方はその姿を見て、どうすれば一番場が丸く収まるか考えている。……そう、ですよね?」
「っ…………はい」
見透かされている。何もかも、全て。
なら何故……駿川さんはこんなにも、冷静を繕っているんだ?
「あの日を境に、貴方も変わりました。いえ、正確には変わろうとしている、でしょうか。トレーナーを辞めてからの貴方は、なんだかんだ言いつつも私の行いのほとんどを許してくれました。教官への転職、盗聴の黙認等……色々有りましたね」
「そう、ですね」
「でも貴方はあの日から『揺れて』います。今までの行いからすれば、私という存在すら天秤に掛けている今の貴方は……はっきり言って『異常』ですらありますから」
「……言われてみれば」
今までも俺の下に『トレーナーになって欲しい』と言ってくれるウマ娘もいない訳じゃなかった。トキノメグルだってあの子達と何ら変わらないはずなのに、トキノメグルだけは即決で断ることが出来なかった。『駿川さんを裏切る』という行為を有り得ないと認識しつつも、トキノメグルを切る事が出来ていない俺は、確かにいつも通りでは無かった。
「今の貴方は揺れています。つまり貴方がトレーナーとして、トキノメグルを他のウマ娘達とは明らかに別の存在として見ているから。そうですよね?」
「……いえ、それは単にトキノメグルが他のトレーナーを拒んでいるからですよ」
「それでもです。それでも貴方には放置するなり他のトレーナーに丸投げする選択肢もあったはずですが、それをしなかったのは……貴方が彼女を他のトレーナーに預けられる気がしなかった……いえ、預ける気が無かったから。なんだかんだ言って、貴方は彼女に魅入られているんです」
「……分かるんですね」
「当然ですよ。私は貴方をずっと『トレーナー』として見てきましたから」
彼女を一目見た時。俺は素直に彼女を担当にしたいと思った。
言葉で説明できるもんじゃない。何というか……そう、ビビッと来たのだ。トキノミノルをスカウトしたあの時と、同じ感覚を確かに覚えたのだ。
だから教官としている時も皆と分け隔てなく接しようとしても、ほんの少し、彼女を優先してしまう所があったのは否定できない。選抜レースの一日目終了時に、他の担当ウマ娘を差し置いてトキノメグルに真っ先に電話を掛けたのも、今から思えばその気持ちの表れだったのかもしれない。
「揺れている貴方を見て……私は何度も考えました。今まで通り、貴方を取られまいと繫ぎ止めておくのが果たして本当に最善なのかと」
「私が貴方を『トレーナー』として見ているからこそ、貴方には良いトレーナーであって欲しいのです。私がまだ現役だったあの時を否定するなんて、私には出来ませんから」
駿川さんの目は俺を見ているようで……それでも何か、遠くにある別の物を見ているようだった。
「貴方が私の告白を断ったあの日……貴方の目に私は映っていませんでした。貴方は私の事を、一人の担当ウマ娘である『トキノミノル』としか見ていませんでした」
「あの日、初めて自分の足を呪いましたよ。……勘違いしないで欲しいんですが、もう走れなくなったこと自体に未練は有りません。ですが貴方はダービー以来、私の事を一人の女としてではなく『足の壊れた被害者』としてしか見てくれませんでした」
「それに、ウマ娘達にとってのトレーナーを手に入れる常套句である『トレセン学園卒業後もレースを見てほしい』という言葉……その伝家の宝刀を抜けなくしたのも、私の壊れた足でした」
「頭では理解していました。この足が貴方から私を担当バとして見る以外の選択肢を奪った事も、この足のせいでこの先貴方が私を担当バとしてすら認識できなくなる事も。……理解は、出来ました」
「……でも、それでも……それでも!納得なんて出来ませんよ……!」
俯いた顔は見えなかった。その代わりに、彼女の絞り出すような声が……悲痛な叫びが、全てを物語っていた。
「手放せないんです。想像すら、したくありません。貴方が他の女の所に行く姿を見るくらいなら……いっそのこと消えてしまいたいと、そう思えるほど!この『好き』という気持ちに、歯止めが利かないんですよ……!」
「っ……」
「だから、貴方を手放せないから、私はトレセン学園に今度はスタッフとしてやってきました。貴方が私を担当バとしてしか見てくれないのであれば、せめて貴方の元担当バとして見られたかった。私の足が壊れたことを自分のせいにして責め続ける貴方の、その優しさに付け込んでまでして、私の事を見てほしかった!」
「忘れられたく……なかったんです」
机の上に落ちる数滴の雫。
嗚呼―――あなたが自分の為にこれ程まで心を痛めてくれているにもかかわらず、気の利いた言葉一つ掛けられない自分が、情けなくて仕方が無い。
「……幻滅、しましたか?」
「いえ、そのような事は、微塵も」
「驚かれないあたり、貴方も私の心の内を分かっていたんですね。私が貴方の考えている事が手に取る様に分かるのと同じ様に」
「そう……かもしれません」
方向性は粗方、予想通りだった。
それでも俺が思っているよりもずっと、彼女の想いは深く、濃密で……そしてその想いを今まで抑え込んでいた一種の優しさも……俺の中の小さな定規では測れない程、大きかった。
「……貴方はいつもそうやって、私に嬉しい言葉を掛けてくれます」
「そんな事……」
「でも私がそうやって貴方の優しさに甘えている分……貴方は苦しんでいるのだと、気づきました」
「……!」
「私の本心に従うのであれば、今すぐにでも貴方をここから連れ出して別の場所にしまい込みます。それでも……あの日を境に目に見えて憔悴していく貴方を見て……やっと気づきました。私の我儘で貴方が苦しんでいるのだと」
「そんな事、言わないでください……!それにこれくらい……」
「『あなたの足に比べれば、大したこと無い』……ですか?」
「っ……」
「その気持ちは嬉しいです。けどもう、それに甘えていられなくなりました。一度、たった一度でも貴方が私の我儘で苦悩している姿を見てしまえば……もう、耐えられません」
「貴方なら……分かってくれるはずです。私の告白を断った貴方なら。例え相手が望んだことでも、この先自分の大切な人が自らの手で苦しむくらいなら……いっその事その願いを断りたいと思った、優しい貴方なら」
「だから今度は、私の番なのです」
机に置いてある二枚の紙。専属契約書と婚姻届、それらを指で滑らせ、駿川さんは俺の目の前に差し出してくる。
「貴方は私が足を壊したあの日から、自分を罰し続けています」
駿川さんは、涙で濡れた頬のまま、泣き腫らした目で俺を真っ直ぐに見ている。
「能動的に何かをするのだって、極端に減りました」
震えていても、はっきりと紡がれた声。
「私のお願いを叶える為に、いつも受動的になって、自分を殺して。何時からか貴方は、私の話の返事ばかりをしていました」
それは正しく、覚悟を決めた人の声。
「私を……気遣って。私が怒っている時は、不満も面に出さずに、謝って。私が悲しんでいる時もっ……慰めの言葉を、掛けてくれて……!」
必死に堪えて、覚悟を滲みださせる、そんな声。
「だからっ……!今くらいは、貴方の『本心』を、言ってくださいッ!」
「貴方がっ……私以外の女をっ…………え、選ぶので、あれば…………う、うぅゥううぅぅっっッ……う、うけ、いれますっ……!」
「あな、たが……わたしを、すてると、いっても……!わたし、はっ…………だ、だいじょうぶ、ですっ……!」
「だからっ!せめて…………せめて、あなたのこころを、きかせてください…………」
本心。
俺の、本心。
そうか……うん、確かにそうかもしれない。
何時ごろからか、あなたに本音で話す事が無くなってしまっていたのか。
あなたに傷ついてほしくないと願う一方で……あなたに喜んでほしいと思う気持ちを、無くしてしまっていたんだ。
それだけじゃない。今から思えばトキノメグルにだって、本音で接した事なんて一度も無かったな。
俺は……そう。一目見た時から彼女を担当にしたいと思っていた。
でも、教官だからと言って、俺はその気持ちに蓋をした。駿川さんが許さないと思い、その気持ちを受け入れなかった。かと言って、拒む事さえしなかった。
今の今まで一度も彼女に、自分の本心を見せたことなぞ無かった。だからこそ、俺のトキノメグルへ向ける本音は……そう、『担当バになって欲しい』という、純粋な気持ちだ。
でも……それだけか?
お前が本音で接していなかったのは、何もトキノメグルだけじゃないだろう?
そうだ。駿川さんにだって、本音で話していないじゃないか。
彼女が『トキノミノル』から『駿川たづな』になってから……俺は一度も本音を話していない。
なら……お前の心は何処にある?
―――そんな事、言わないでください……!
違う。
―――誓って疚しい事は何も
これも違う。
―――あなたのトレーナーになれた事……本気で、誇らしいと思っています
これは返事だ。嘘じゃないが、心の奥底、その発露じゃない。
―――本当に、ごめんよ……
心の奥底では有るが、そこじゃない。それは駿川さんに向けた言葉じゃない。足の折れたウマ娘に掛ける本音だ。
―――だから、何もない新人の俺は誠実でありたかった。
…………誠実で、いられたら。
―――君が欲しい
嗚呼……そうだったな。
―――俺には君しかいないと、そう確信したんだ。君こそが最高のウマ娘に違いないと、そう確信した
それは彼女が、才能あふれるウマ娘だったからか?
……違う。
―――君を、一目見た時に
そうだよ。
俺はスカウトしたのは、才能溢れるトキノミノルではない。
たった一人のウマ娘であるトキノミノルだ。
彼女の担当になってからの日々は、そんなにも淡白なものだったか?
彼女と過ごしたあの日々は、足を壊した罪で帳消しになる程、脆いものだったのか?
俺の彼女との関係は、たった一つ嫌なことが有ったくらいで断ち切れるほど、細いものだったか?
俺の彼女への想いは、そんなに薄っぺらいものだったか?
ふざけるな。
そんな事、あってたまるか。そんな事実は認めない。断固として、認めない。
……ならば、どうする?
認めないのだろう?ならその想いは、伝えないとな。ちゃんと声に出さないと、誤解されてしまうぞ。
……有難い事に、今この瞬間、俺はこの心の内を話していいらしい。
嗚呼、実に有難い。今だけは、あなたの足を壊したことも棚に上げて、自分の本心をありのままに話せるのだから。
じゃあ、どんな言葉にしようか。
……いや、止そう。言葉を選ぶ必要なんて、何処にもないのだから。
覚悟は出来ているな?ならば口を開けろ。
空気を吸い込め。頭を上げろ。相手の目をしっかり見るのも、忘れないように。
さあ、行け―――
「好きです」
この溢れんばかりの愛を、あなたに届けるために。
次回、最終回です。