「…………好きです」
閑散とした部屋に響く、そんな台詞。
少しばかり震える唇を意識して強張らせ、たった四文字の言葉を一文字一文字ひねり出す様にして紡がれた、そんな台詞。
心臓の音が異様なほど五月蠅い。先程までうっすらと聞こえていた外の喧騒は遂に跡形もなく消え去り、心臓を、首を、頭を、そしてこめかみを流れる血液が循環する音だけが鼓膜を揺らす。
駟不及舌。一度その言葉を声に出してしまった以上、それはもう戻ってこない。今できるのはただ、目の前にいるあなたから返事をもらう事だけ。
嗚呼、驚いておられるご様子。それもまあ当然の事かな。何せこうやってはっきりと自分の気持ちを口に出したことなんて、今の今までなかったから。
さあ…………どうか。
あなたの返答を、聞かせてください。
「………………えっ……?」
理解不能……と言うより、まるで信じられない物を見たかのように目を大きく開けて固まってしまう。
ならば……信じてもらうまで訴えかけるまで。
「好きです。他の誰でもない、あなたの事が好きなんです」
「う、うそっ……」
「嘘じゃありません。心の底から、本気で、あなたを愛しています」
「っ…………!」
口をパクパクさせたと思えば、その場で俯いてしまい、小さく、小さく呟く。
「嘘、です。また貴方は、私を傷つけないように、嘘を言ってます」
「いいえ。……信じられないと言うのであれば何度でも言いましょう。俺は、あなたの事が……」
「嘘ですッ!」
顔を勢いよく上げ、その語気で、その目で激しく抗議の意を示す一方で……それでも小刻みに震えている姿が、まるで昔に戻ったかのような気さえ起こさせる。
まだ時間が止まっていなかった、あの頃のような……そんな気が。
「貴方の本心は『トキノメグルをスカウトしたい』という想いでしょう!?私には分かります!貴方をずっとトレーナーとして見てきた、私なら!なら……なんでっ!どうして私を切り捨てないんですか!」
「今日は……やっとの思いで覚悟を決めて、貴方と話をしてるんですよ!婚姻届なんていう無理難題を押し付けて、少しでも後腐れの無いように私を切り捨ててもらう為に、頑張って耐えて、ここまでやってきたのに!……どうしてそこで、私を選ぶんですかッ!」
「どうして今、この場で……一番言って欲しかった言葉を掛けてくれるんですか……」
嗚呼、やっと分かった。
どうして駿川さんがあそこまで冷静にいられたのか。それは駿川さんが自分から裏切られようとしていたからだったからだ。
彼女は最初から……自分が選ばれない気でいたんだ。
「確かに、俺がトキノメグルを担当にしたいという気持ちも、本心です」
「っ!なら、どうして!」
「でもそれは、俺のトレーナーとしての側面です。俺……紫月晶という人間の本心はまた別ですよ」
「え……?」
「俺が今まであなたを『自分の失態でバ生を閉ざされた被害者』と見ていた様に……あなたも私をトレーナーとして……いえ、『本当の自分を見ていてくれた頃の紫月晶』として見ていたのでしょう……?」
「ぁ…………」
気付いてみれば、何てことない話だ。俺達の想いは一見すると矛盾の中に閉じ込められていたようで……実のところは、案外ちっぽけな逆説に過ぎなかったのだ。
彼女は俺をトレーナーとして見ていた。俺は彼女から向けられる俺のトレーナー像が、認められなかった。だから俺は今の今まで彼女の想いに応えなかったのだ。彼女の想いを受け入れて、彼女を幸せにできる気がしなかったから。
でも本当は……駿川さんは俺に彼女のトレーナーとして居て欲しかったんじゃない。
俺に見てもらいたかったんだ。競走バとしての『トキノミノル』だけではない。彼女自身の内面……言うなれば『駿川たづな』としての側面を。
それに気付けなかった俺は、何時までも彼女の想いから逃げ続けていた。それこそが……この六年間、ずっと停滞していた時間の正体だ。駿川さんが踏み込んできても、自分の欲望に従ってその想いに逃げ続けた愚かな自分が、この停滞した時間を生んだのだ。
でもそれは、ほんの少し俺が勇気を出して踏み込めば、直ぐにでも動き出す時間だった。
……彼女が俺を、トレーナーとして見ているだって?彼女自身を見ていた頃の俺……その影をずっと追っているだって?
……それがどうした。ならば振り向かせれば良いだけの事。昔よりも沢山、足の壊れたウマ娘としてではなく、彼女を……たづなさんを、見ていれば良いだけの事。
昔の自分じゃない。トレーナーとしての自分じゃない。今の俺を見てもらう為に……彼女の心に一歩踏み込めば。
それだけで、俺達の時間は簡単に動き出すのだ。
「俺はもう、あなたのトレーナーじゃない。あなたはもう、『トキ』じゃない。今まで気付けなかったけど、俺は一人のちっぽけな人間である『紫月晶』で……あなたももう、たった一人のウマ娘である『駿川たづな』だ」
「もう、逃げたりしない。何度だって言ってやる。……俺は、あなたが好きだ。『トキ』じゃない、『駿川たづな』を……俺は、愛している」
カチリ、と。
たづなさんの中の時間が動き始める―――そんな音がした。
幻聴だ。でもそれは……何時ぞやの様に、虚構である事を示すものでは無い。
「っ…………ぅぅぅ…………!」
心の内から湧き出る気持ちを抑えようとして、唇を固く噤み、目を潤ませ、顔を見られないように、俯いて。……それでも堪え切れずに、机の上に涙を落とす、あなたを見て。そうやって生まれた確信が音となって俺の下へとやってくる。
カチ、カチ、と……淀みなく動く時間は少しずつ、しかし着実に俺の中を流れる時間に同期していく。トキノメグルによって一方的に動き出した、俺の時間―――それに追いつかんとばかりに、針は休むこと無く回り続ける。
そしてそれは、まるで歯車のように俺の時間と噛み合って、同じ時間を刻んでいく。
「たづなさん」
「……!」
もう二度と、止まりはしない。止めさせやしない。
「どうか俺と―――お付き合いしてくれませんか」
これからもずっと、俺はあなたと同じ時を刻み続けていたいから。
「……………………はい、喜んで」
ずっと、あなたの涙には弱い自分だけれども。
今だけは、その弱さがどこか心地いい。
顔を上げたあなたの……涙に濡れた笑顔を見ていると。
どこか救われたような気がするから。
「ところで……今日は五月二日、あなたの誕生日ですね」
「え?……あ、そういえば……」
「すいません……プレゼント、用意できてないんです」
「いえ、そんな……」
「なので」
「へ?………………っ!?」
椅子から立ち上がり、向かいに座っているたづなさんに近づいて。
その額にそっと、口づけをする。
「…………………………えっ???」
「婚姻届はもう少し時間を下さい。けど、俺が本気だという事を……信じてほしかっただけです」
「えっ?あれ?……えっ!?」
「それでは……少し用事が出来たので、失礼します」
「~~~~~!?!?!?!?」
■□■□■□
小会議室の扉を閉める。ドア越しにたづなさんの声にならない悲鳴がうっすら聞こえてくるのを、努めて無視する。
「…………」
少々、冷静さを欠いていたのは認めよう。遠い昔にトキノミノルをスカウトした時の様に、心の内から漏れ出た言葉をそのまま口にしてしまっていたな。
まあでも、恥ずかしいとは思わないのだが。
「……っと」
いけない、感傷に浸るのはまだ早い。俺にはまだすべきことが有る。
急いで玄関で靴を履き替え、校舎を後にする。向かう先は学園内のトラックだ。
既に一面は赤色に染まり、あと一時間もしない内に日は落ち切るだろう。学園内のウマ娘が利用する練習場所は様々あるが、それでも夜遅くまで空いているのはトラックくらいだ。
だからこそ、まだトレーニングをしているであろう彼女は……そこに残っているはず。
「はぁっ……はぁっ……」
思えば、何時ぶりだっただろうか……こんなにも全力で走るのは。
すれ違うウマ娘達からの視線が刺さる。彼女らからすれば、男の教官が自分たちよりもはるかに遅い速さで走りながら息を切らしている姿は……どこか珍しいというか、変なのかもしれない。
革靴で舗装された道の上を走る。地面の堅さが、足の骨にずんずんと響いていてくる。
「はぁっ……っ……けほっ……」
肺がどんどん質量を帯びていく。空気が少しずつ重くなっていき、吐き出すのも一苦労だ。
けれど、それを不快だとは思わない。
「居たっ……!」
トラックに辿り着く。膝に手を突き、息を荒らげ、血流でぼやける視界を凝らしながら……やっとの思いで彼女の姿を見つける。
今も尚、狂ったようにトラックを周回するトキノメグルを、見つける。
「っ……!」
見ていられない。疲労が溜まりすぎて、碌に足が持ち上がっていないじゃないか。このままでは疲労骨折の前に転倒による足の故障がやってくるだろう。
それに視界が極端に狭くなっているようだ。走っている最中に他のウマ娘に接触しそうになる事が今見ているだけでも何回かある。それも接触する寸前になって慌てて避けている辺り、何時事故を起こしても不思議じゃない。
今すぐ止めなければ、大惨事に繋がってしまう。
そう。あの時のような、大惨事に。
「っ…………はぁっ……」
連打される深呼吸。それは全力疾走による息切れだけでは説明がつかない程で。
明滅する視界。一時的な酸欠くらいで起こる限度を超えていて。
フラッシュバックする記憶。いつか見た東京優駿で足を故障したウマ娘とトキノメグルが……やけに重なる。
苦しい。苦しい。苦しい。
苦しい……けど。
「お前はこの六年間……何やってたんだよっ!」
過ちは消えない。俺がトキノミノルの足を壊したという過去は、どうしたって消えない。
それでいい。元より自分の犯した過ちを忘れる気なんて微塵も無いし、これから先もずっと俺の中に残り続けるだろう。
大事なのは……そう。大きな失敗を犯してから、俺がどうするかだ。
罪を償うなら、そうすればいい。でももし、万が一、やり直せる機会があるのなら…………その失敗を繰り返さないのが一番大事なことだ。
もう二度と、繰り返さない。あんな悲劇は一回で十分過ぎる程だ。
ならば、どうする?紫月……いや、『紫月トレーナー』よ。
このまま放っておけば、トキノメグルは間違いなく壊れるだろう。今すぐ彼女を止めなければ、また『終わる』ぞ。
「………………」
落ち着け。落ち着いて、為すべき事を、為すんだ。
―――なら、私に命じてくれよ。トレーナーになって、私を担当にして、それから『休め』と、命じてくれよ。そしたら喜んで足を休めるさ
嗚呼、今日の出来事だけど……随分前の様に思える。
あの時の俺は、何も言えなかった。たづなさんの事もあったからこそ、彼女のトレーナーになる覚悟がこれっぽっちも無かったからだ。
でも、今は違う。
―――東京優駿の場でだって、どこでだって、止まってやる。君が『止まれ』と叫べば、その場で止まってやる。トキノミノルが無視した君の言葉に、私は絶対に従うと誓おう
そうか。それは有難い。なら今は、君の誓いに甘えるとしようか。
六年前……何もできなかった東京優駿とは違う。足を壊したトキノミノルを、ただ見る事しか出来なかった俺とは……違う。
証明するんだ。今こそ……過去の自分にけじめをつける時。
…………欲を言うのであれば、他の誰でもないトキノミノルに証明して見せたかったんだけども。
―――そしていつの日か……『トキ』と、そう呼んで欲しいな
……分かったよ。
君が言った事だ。ならば今日くらい……君には『トキ』になってもらおうかな。
大きく、大きく息を吸う。
「止まれぇぇェエええエええッッ!!!トキィぃぃィイイッッ!!!」
あの日出来なかった事を、今、取り戻すのだ。
「ッッ!?!?」
俺の声に気づいたのか、トキノメグルの足がみるみるうちに止まっていく。
「ッ―――」
柵を乗り越える。
練習中で他のウマ娘もトラックの中を本番さながらの速さで走っているが……そんな事、知ったことではない。
「お、おい!危ないぞ!」
「戻ってこい!ぶつかったらただじゃ済まねぇぞ!」
周りのトレーナー数人から制止の声がかかる。
そりゃあ危ないのは百も承知だ。使用中のトラックの中を横切るなんざ、体の頑丈なウマ娘でさえ堅く禁止されている程危険な行為だ。それが人間となれば……衝突すれば命の有無すら天秤に掛けられるだろう。
だが……そんな事、些細な事だ。
バックストレッチで完全に停止したトキノメグルに……俺は今、近づけている。
今の俺には、その事実さえあれば十分だ。
彼女の姿はどんどん大きくなっていく。そして遂に、トラックの中に居る君に、触れる。
……まだ足の壊れていない『トキ』に、触れる。
「紫月……トレーナー?」
「取り敢えず、安全な場所に行こう」
「あの、君さっき私の事、トキって……」
「詳しい話は後にするぞ」
俺という乱入者がトラックの中に居る事とトキノメグルが止まった事も有り、他のウマ娘やトレーナー達も少々動揺している。おかげさまで今度はトラックの中を安全に移動できそうだ。
「え……きゃっ!?」
「悪いが、医務室までこのまま運ぶぞ」
「おっ、下ろしてくれっ!」
「それは出来ない相談だな」
足に負担を掛けないように、彼女を横抱き……まぁ俗にいうお姫様抱っこで来た道を引き返していく。
トラックを抜け、そのまま校舎へ戻っていく。さっきとはまた違う意味でウマ娘達の視線が突き刺さる。時折聞こえてくる黄色い声とトキノメグルの「うぅ~~」という唸り声はしっかり無視。
何とか手首を捻らせて医務室のドアを開け、空いているベッドの上に彼女を座らせる。そしてそのまま彼女の足を触診。
「ちょっ!いきなり何なのさ!」
「頼むから、少しの間動かないでくれ」
「っ……」
やや熱っぽい部分があり、筋肉もかなり張っている。骨の位置も万全とは言い難い。
でも、それだけだ。
「良かった……本当に、良かった……」
重大な病気や損傷は見当たらない。勿論後で精密検査は受けさせるが……それでもこの先彼女のバ生が消える様な、そのような事にはなるまい。
「で、いきなり何なんだい?やけに強引じゃないか」
「それは……済まなかった。だがあの状態で走っていれば、直ぐに足が故障するか事故をしていただろうからな」
「……で、態々『トキ』だなんて呼んだと。……そこで止まってしまう私も大概だが、君もそう易々とその呼び名を使わないでおくれよ」
目に見えて明らかに不機嫌な顔を浮かべるトキノメグル。どうやら彼女は俺が練習を止めるために都合よく呼び名を利用しただけだと思っているらしい。
「そうだな。まだ、トキと呼ぶには早かったな」
「反省してよね?全く…………………………………………ん?『まだ』?」
なればこそ……その勘違いは正してやらんとな。
たづなさんから渡された二枚の書類、その片方を鞄から取り出し、トキノメグルに渡してみる。
「これ……って、まさか、専属契約書!?」
「ああ。とはいっても、まだトレーナーじゃないから受理なんてされないけどな」
「そんなのどうでもいいよ!そんな事より、これを私に渡すってことは、もしかしなくても……」
「おっと、その先を言うのはストップだ」
トキノメグルからは散々逆スカウトを受けてきたからこそ、今から俺がすることは所詮出来レースに過ぎない。
だが、俺は今まで彼女の想いを受け流し、自分の気持ちを伝えてこなかった。だからこそ……ここで俺から彼女をスカウトする事に、大きな意味がある。
俺が彼女の要望に流れるまま従った訳じゃないという事。延いては、俺が嘘をついている訳じゃないという事。
それをどうしても、トキノメグルに知って欲しかった。
「トキノメグル―――君を、スカウトしたい。俺の担当になってくれないか?」
「~~~!はいっ!喜んで!!」
今度こそ、俺は育て切って見せる。
だがそれは、『トキ』を育てるんじゃない。他の誰でもない、『トキノメグル』というウマ娘を……俺は担当するのだ。
目標は大事だ。だから彼女の『トキを超える』という動機にいちゃもんを付ける気は無い。
でも……いつか君が、『トキ』という存在を凌駕した時に、今度は自分自身の目標を立てられる様に。その姿を夢見て。その姿を楽しみにして。
俺は、トキノメグルのトレーナーになる。
こんな俺だけど、それでもトレーナーになって欲しいと言ってくれた君に。その笑顔に。その……緑色に輝く瞳に。
俺は、そう誓ったのだった。
■□■□■□
五月二日、あの日を境に俺は勿論、俺を取り巻く環境が大きく変わった。
たづなさんとは正式にお付き合いする事になり、トキノメグルとは事実上の専属契約を結んだのだ。
そして急かされるままにトレーナーライセンス更新試験の申込用紙を窓口に提出。有難いことに、試験が終わるまで教官としての職務はある程度抑えられ、何故か引き継ぎが主となった。……たづなさんはまぁいいとして、秋川理事長からのその妙な信頼は一体……
そして約一ヶ月の間、教官としての業務をしながら試験の勉強をするという少々ハードなスケジュールをこなしてきた。久方ぶりに開いた教材は思いの外重かったのを覚えている。
更新試験が有ったのは丁度一週間前。そしてその結果が今日……六月二十日に開示される。
その結果を聞きに行くために、今俺は朝っぱらからトキノメグルと生徒会室まで態々足を運んでいるという訳だ。
「なぁ、ちゃんと結果は午後に発表されるんだから、朝からそれを聞きに行くのは迷惑じゃないのか?」
「大丈夫だって。ルドルフ会長にも話はつけてあるし、何より私も生徒会役員だからね」
「あのしっかり者のシンボリルドルフが許可を出すとは思えんのだが」
「しっかり誠意と熱意をもって話したら首を縦に振ってくれたんだ。本当に優しいよ、ルドルフ会長は」
「…………菓子折り案件だな、これは」
絶対強引に迫っただろ。うわぁ、一気に生徒会室に行きづらくなった。おかげで生徒会室まで伸びるこの廊下が妙に長く感じる。
……そう言えば、四月の最初あたりにもこうやって生徒会室まで来たっけ。
「許す、ね。……まだまだ難しいよ」
何時か零した独り言を拾い上げる。
……なあ、過去の自分よ。
自分の事を許さなくたって、それはそれで別にいい。反省しないよりはする方がマシだからな。
でも……だからって同じ過ちを繰り返さない為に何もしない、っていうのは勿体ないぞ。折角反省したんだったら、その反省を活かした方が良いからな。
俺だって誰かに背中を押してもらわなきゃ何も出来なかったから、偉そうには言えないけども。
意外と勇気を出して一歩を踏み出すのも……悪いもんじゃないぞ。
「?……どうしたんだい?」
「いいや、何でもない」
……なんてな。少々格好つけすぎたかな。でも、お前は昔の俺なんだから大目に見てくれ。
じゃあ俺は……行くよ。
「ほら、ついたよ」
「……ああ」
恥ずかしい妄想はすっぱりと断ち切り、促されるがままに生徒会室に入る。
「やあ。久方ぶりだね、紫月トレーナー」
「……シンボリルドルフ」
…………あれ?
「今『トレーナー』って言ったか?」
「………………………………………………あっ」
■□■□■□
「ルドルフ会長でもあんなミスするんだね」
「まぁ……昔は結構おっちょこちょいだったしな」
「えっ」
「彼女がまだ中等部一年の時の話だよ。あの頃はまだトレーナーにべったりだったし」
「へぇ……想像できないな」
「……これ、シンボリルドルフに言うなよ。絶対後で不味い事になる」
今はしっかりと皇帝として頑張っているんだ。ならばその一面を評価してあげるのが正当だろう。
「まぁちょっと拍子抜けしちゃったけど、試験、合格して良かったよ!」
「ああ、有難う」
更新試験は筆記、実技の二つに分かれているが、問題なのが筆記の中でも倫理に関する部分だ。
明確な答えや配点が存在していない領域。答えの無い問に対し、受験者がどう答えるかでその人の人格や思想を評価する。
俺みたいな凡人では『試験の時だけ綺麗ごとを並べてくる奴もいるだろうに』とつい考えてしまうが、どうやら秋川理事長によると嘘はバレバレらしい。
そういう内部情報もあって、今回俺はバ鹿正直に答えを書いておいた。もしかしたらそれが功を奏したのかもしれないな。
「で、これからどうするんだい?」
「午後になったら恐らく秋川理事長から何らかの連絡が来るはずだ。それに備えておくよ。……ああ、トレーナーバッジは探しておかないとな」
トキノメグルが部屋に突撃してきたのは早朝。たづなさんによる部屋の強化が相まってドアが破壊されることは無かったのが幸いか。
シンボリルドルフもこんな早朝から生徒会業務を始めていたわけではなく、送られてくる書類に目を通して粗方の予定を立てていただけだ。本来なら直ぐに切り上げて早朝トレーニングをするのだろうが、トキノメグルが無理を言って少しの間留まってくれていたらしい。本当に申し訳ない。
何が言いたいかというと、正式に俺がトレーナーとして復帰できるのは早くとも明日。つまり、今俺とトキノメグルは正式には契約関係に無く、従って朝のトレーニングも出来ない以上こうやって授業が始まるまで時間を潰している訳だ。
そう言えば、朝一番のコーヒーを飲んでいなかったな。
近くにある自販機に硬貨を入れ、適当に缶コーヒーを選ぶ。下の口から落ちてきたそれを取り出し、カコッ、という音と共にプルタブを缶の中に押し込む。
「へぇ、紫月トレーナーってブラック飲めるんだね。私は苦くて無理だな」
「ん……ああ、間違えた」
朝は糖分を頭に入れておきたいから、結構甘い奴を飲むんだけどな。
まあ、いいか。
「俺は微糖の方が好きだよ」
「そうなのかい?」
「でもまあ、たまにはこんなのも悪くないな」
近くのベンチに座り、ほっと一息…………
「紫月トレーナー~~~!!」
「んぐっ!?」
「……駿川さん」
一息つけなかった。
超特急でこちらに向かって走ってくるたづなさん。正門前で挨拶は……まだ時間が有るか。
「何ですか、いきなり」
「それはこっちの台詞ですっ!貴方、なんてこと試験に書いてくれたんですかっ!?」
「試験……?そんなに不味い事、書きましたっけ?」
「どうせあなたたちならもう試験結果は知ってますよね!」
「ああ、はい」
「なら、これを見てくださいっ!」
怒り……というより、どこか恥ずかしそうにしながら彼女は俺の目の前に試験の解答用紙の写しを見せつけてくる。
「ここです、ここっ!」
「ん?どれどれ……」
筆記、問題範囲は『倫理』。
Q. あなたの担当が何らかの理由で再起不能に陥ったとします。その時、あなたなら担当にどう対応しますか?
A. 後日指輪と共にプロポーズをして、引退後の担当バの人生をサポートする
「何ですかこれぇぇぇ!?」
「ああ、こんなことも書きましたね」
ううむ。俺としては満点解答なんだが……
「恥ずかしかったんですからね!?理事長、朝からこの解答を見てずっとニヤニヤしながら私の方を見てくるんですから!『愉快ッ!この解答、たづなが採点してれば満点だったんだがな!あっはっはっは!』とか言ってくるんですからね!?」
まぁ……確かにこれは少し恥ずかしい解答をしたのかもしれない。
「正直に書いただけなのになぁ……」
「……………………えっ」
「ん?……………………あっ」
これって……ひょっとしなくても、俺も先程のシンボリルドルフみたいに盛大なネタバレをしてしまったか……?
「あ、あの…………」
「まぁ……何というか。楽しみにしておいてください」
「~~~~~ッッッ!?!?」
林檎の様に頬を真っ赤に染めるたづなさん。……俺ももしかしたら、同じような顔をしているかもしれないけど。
「はい、ストップ」
「ん?」
「全く、私がいるのによくそんなイチャイチャできるね。あれかな?そんなに私を怒らせたいのかな?」
「うっ……」
まあ怒るのも無理ないか。俺だって自分が無視されたままカップルが二人の世界に入っていたら気分は良くないし。
「トキノメグル……さん」
「こうやって間近で見るのは選抜レースの夜以来かな?駿川さん」
「そうなりますね」
言われてみれば、二人が直接話をしている場面ってあまり見たことが無いな。トキノメグルがライバル視しているだけあって、見るからに穏やかな雰囲気ではない。大丈夫かな?
「紫月さんから聞きましたよ。何やら現役時代の私を超えると、そう明言したらしいですね」
「そうだね。特に東京優駿のレコード、あれ邪魔だから私が更新して元の記録は粗大ごみにでも出しておいてあげるよ」
粗大ごみって……
「それだけじゃない。その内お前の愛称である『トキ』だって……すぐに奪ってやる。今はその場所に甘んじていればいいさ。いずれ私は……」
「ふふっ♪」
「…………あ?何が可笑しい?」
「いえ。私はもう『トキ』ではありませんので。はっきり言ってしまえば、既にその愛称はどうでも良いのです♪」
「……へぇ」
「まぁでも、貴女がその名前を欲しいというのであれば、どうぞ差し上げますよ?そして貴女は一生『トキ』のままで満足していればよいのです。だって……」
俺をそっちのけで話が展開され、正直ついていけなくなっていた所で。
たづなさんはいきなり俺の右腕を両手で絡めとり、引き寄せてくる。
「私は既に『駿川たづな』として、別のレースを走っていますので♪」
「…………上等だ。ならばその場所も……いつか奪ってやる」
「ふふ、その前にまずは……本当のレースを勝ち抜いて下さいね?」
「無論だ。覚悟しておけよ、『駿川たづな』」
「ふふ、まあ貴女が引退しても彼の隣が残っていれば……相手をしてあげますよ、『トキノメグル』さん♪」
「ふんっ」
何故か話に決着が着いたようで、トキノメグルは苛立ちながらも校舎の方に向かい、その場を後にする。その目は何時にも増して深い紫色だった。
「一体、何の話ですか?」
「ん?いえ、何でもありませんよー?」
「えぇ…………」
はぐらかされた気が拭えないまま、たづなさんはベンチを立ち上がる。そろそろ正門前で挨拶をする頃合いか。
「ねぇ、紫月さん」
「何ですか?」
「『恋はダービー』って……聞いたことあります?」
「まあ、知識程度には」
「それは良かったです」
ベンチから立ち上がったたづなさんは、こちらを振り返り。
「私って、ダービーウマ娘なんですよ」
「ええ、そうですね」
「レコードも取って。誰よりもダービーが得意と言っても過言では有りません」
「そう……ですね」
「おまけに、生涯無敗です」
「………………」
「ええ、ですから」
「覚悟しておいてくださいね?紫月さん」
「今度のダービーも……『駿川たづな』として、勝って見せますから!」
眩しい程の笑顔と、透き通るようなエメラルドの瞳で。
彼女はそう―――宣言したのだった。
「駆け抜ける『 』」 終わり
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
この話はここで完結です。続きを書く予定は有りませんが、あとがきとして設定や小ネタを集めたものを後で載せようかと思います。
では。