あたりに漂う、独特のオイルの匂い。金属の部品と部品がかみ合う音に、時たま響く
昔はそれがじーさんのガレージで、今はこの悪友が開くバイクショップだった。
「……いつも思うけどサヤ、お前よくそこで本読めるよな」
「ほっとけ」
店のいちばん奥にあるカウンターの影に隠れるように座り込み、本屋で選んできた本を順番に開く。
学校で教えるべき学習内容について、何をどのように教えていくか。生徒にはどのように接するのが良いか。こんな教え方がある、こういうのは良くない、そんなことを書いた教育書が実は山のように出版されていて、結構教師は自力で勉強しなければならないことが多かったりする。特に俺のような新米の教師からすれば、正直生徒より教師のが勉強してんじゃねーのと思うくらいには勉強しなければいけないことばかりだった。
ところどころに付箋を貼りながら、気になった部分は床に開いたノートに書き出していく。俺のペンが走る音に、真一郎が喉の奥で笑う音が重なった。
「……何だよ」
「いや? まじでちゃんとセンセーやってんだなって」
「あ?」
「別にからかってんじゃねえよ。お前はやるっつったら絶対やるやつだもんな」
いい先生やってんだろ、と軽く言われて、思わず手元の本から視線を浮かせた。
「……どうだかな。そもそも『いい先生』が何なのかもわかんねえし」
「相変わらず小難しく考えるよなーお前は。生徒に慕われてんならそれでいいんじゃねえの? 圭介羨ましがられてたぞ、俺もあんな担任がいいって」
「不思議なほどに褒められてる気がしねえな」
本心からそう返せば、真一郎は声を上げて笑った。
どうせバイク好きとかうるさく説教しないとか、俺のそういう部分を指して言っているのだろう。いや俺だって説教が効く相手ならそれくらいのことはするが、言っても聞かない類いの人間とよくよく知っているからやらないだけだ。生憎と不良という生き物の生態は知り尽くしている。
かちゃり、と真一郎がパーツを取り付ける音を背中に聞きながら、少し息を吐いてまた視線を本に戻す。
「……つくづくあいつらが同じ学校じゃなくて良かったワ。場地ひとりで十分、それ以上は俺の手には負えねえ」
「圭介はサヤの言うこと聞いてんの?」
「聞かねえから乗せて煽って転がしてる。馬鹿は可愛くていいよな」
「いや~俺お前が担任とか絶対やだね!」
「心配すんなよ、俺もお前の担任なんか絶対ごめんだ」
他の
脳裏によく連んでいた初代黒龍の連中の顔が浮かぶが、どいつもこいつもそれぞれ違う意味で絶対に面倒くさい。しばらく顔を見ていないが、どうせ元気に馬鹿をやっていることだろう。アイツらが好き勝手をやっていないイメージの方が湧かないのだから、いっそ大したものというか何というか。
やれやれと息をつきながらまたページに付箋を貼り付けると、そういやさ、とまた真一郎が口を開く。
「万次郎たち、チーム組んだって。聞いたか?」
「……ああ、小耳に挟んだ。黒龍とやる気なんだろ、いいのか」
「俺が口出しすることじゃねーって」
「強がりか?」
「……ちょっと複雑」
「素直でよろしい」
まあそうだろうと。黒龍が真一郎にとってどれだけ大事なもんだったのか、それくらいは俺にもわかるつもりだ。いつかは弟に、とか言っていたチームをその弟自身が潰すとなれば、そりゃあ複雑な気持ちにもなるだろう。
とはいえ、羽宮ひとりに集団でリンチをかけるようなやつらを放っておく訳にはいかないのもまた事実だった。
「……サヤこそいいのかよ。教え子が抗争やる気だぞ」
「……考えねーようにしてんだから言うなっつの……そりゃ本来止めなきゃなんねーんだろうが、この状況で俺に出来るのは警察に相談することくらいだ、が……」
「……サヤ?」
「俺がちょっと見聞きしただけでも今の黒龍はかなりやべえ。それでも警察に捕まってねえのは、まーいろいろと一筋縄じゃいかねえ事情があるからだろ。となると警察への相談ですぐに解決するとも思えねえんだよ」
羽宮が目を付けられている今の状況で、あいつらに「待て」などと言えるはずもない。となると手詰まり、
こういうとき、大人というのはひたすらに不自由だ。
「……
「おいおい落ち着けよ鞘谷クン、喧嘩なんざ大嫌いだってのがお前の口癖だったろ?」
「今でも嫌いだよ。するやつの気が知れねえ」
「はは、そう言って
読む気も失せて、本を閉じた。
勝手をやれないことなど百も承知の上で教師という道を選んだが、やっぱりどうしたって思うところはある。ガキのやんちゃくらいでいちいちビビるつもりはなかったが、チーム同士の抗争となれば度を超すことだって有り得るのだ。
かたん、と背後から物音がした。近寄ってきた足跡の主が、俺の頭上に影をつくる。
「久しぶりにツーリング行くか? サヤ」
にかっと笑うその顔は、昔っから変わらない。全く、いつもながら見るだけで気が抜ける間抜け面だ。
ふ、とつられて笑い、持っていた本を床に積んでいたそれに重ねる。
「お前は店あんだろーが。客がいねーからってサボんなよ」
「いーだろたまには臨時休業くらい。走り確かめてえ単車もあるしさ」
「明日の授業の準備もあんだよ。かわりに真一郎、」
「ん?」
「昼飯付き合え。ラーメンな」
「……しょうがねえな~。いつものとこ行くか!」
「おう、ごちそうさん」
「奢るとは言ってねえけど!?」
ぎゃーぎゃーわめき始めた真一郎に構うことなく立ち上がり、床に積んであった本の山をカウンターの上にのせた。今日はこれを読破して、明日の授業の準備をして、場地の補習のプリント作成、ついでに他の教科や小学校の算数の内容の見直し、それに来週の小テストの内容も案を練っておきたい。
やらなきゃいけないことはたくさんある。結局俺は、俺にできることをやるしかない。どれだけ考えたって、その事実は変わらない。
「餃子もつけるか~。お前はやめろよ、接客業なんだから」
「俺はチャーハンにするわ。……いやだから奢んねえぞ?」
「ラーメン久々~」
「サヤてめっ聞こえないふりしてんじゃねーぞオイ!」
馬鹿と話すと脳天気がうつるものなのか、いつも考えるのが馬鹿らしくなる。考えすぎのお前にはそれくらいの方がいいと真一郎の女房役にはよく笑われたものだが、実際こうして肩の力が抜けているのだから否定は出来ないのかも知れない。
鞄の中から財布と携帯だけを抜き取り、ポケットに入れる。
「さっさと行くぞ真一郎~」
「あ~ったく……ハイハイ行くって!」
CLOSEの札を掛ける真一郎を尻目に、俺は「S・S MOTORS」を出る。だいぶ強くなった日差しを浴びながら、ぐっと伸びをした。
考えても仕方のないことを悩んでも疲れるだけで、俺には結局「俺に出来ること」しかできない。俺の思う「教師」として、あの馬鹿たちを見張って、見守って、信じて、手を伸ばし続けるしかない。
たとえそれが、どんなに歯がゆくとも。
もう、夏が近い。