もうそれが熱をもつことはないのだと思うと、妙な寒々しさを覚えた。
堅い顔をしながら口を開いた真一郎によると、俺がきたらすぐに整備を始められるようにあらかじめハーレーを店内に運び込んでおいたらしい。今日「特別なバイク」の整備があることを知っていた羽宮と場地は、真一郎が少し目を離したすきにそれを持ち出そうとしたと。 真っ黒のメタルボディに白く浮く傷を指でなぞりながら、続きを促した。
「それで?」
「……よりにもよって工具箱を下敷きにして、転倒させちまった」
「……なるほど」
この傷やへこみはそのときについたものだろう。丁寧に丁寧にこいつを扱ってくれていた真一郎が、こんな傷を許すはずがない。
跨がっていたハーレーから下りた俺は、今も正座で項垂れているふたりの前に立つ。目線を合わせるように膝を折ると、羽宮は俯いたまま、場地は覚悟を決めたように前を向いた。目は潤んでいるが、自分のしでかしたことと向き合おうとする意地だけは見て取れる。
相変わらずタフなやつだ、と心の中だけで少し笑った。
「怪我は?」
「……えっ」
「、」
「ハーレー、重かっただろ。足挟んだりしてねーか」
大型バイクは二百キロを超えるものも珍しくはないが、このハーレーは三百キロ近い。そこそこ鍛えている男でも慣れない奴は扱いに苦労するというのに、ガキふたりの力ではそりゃきついものがあっただろう。しかも、真一郎に見つかる前にと焦っていればなおさらだ。
転倒時に巻き込まれなかったかと改めて問えば、震える口で場地はだいじょうぶ、と答えた。その答えに少し安心して、そうか、と頭を掻く。
「で、何で持ち出そうとしたんだ」
「……きょ、う、マイキーの、誕生日で、」
「ああ、今日だっけか。それで?」
「特別な、バイクっつーから、……見せて、やりたくて、」
「圭介、」
「真一郎」
口を挟み掛けた真一郎を制すと、真一郎はぐっと唇を噛んだ。この状況である意味いちばんきついのは真一郎だとわかるだけにちょっと申し訳なかったが、ここはガキどもを優先させてもらおう。成人済みの野郎は後回しだ。
いまだ小動物よろしくぷるぷると震えているガキどもに目を戻す。
馬鹿のクソガキに考えなしの行動はつきものだし、それで失敗をすることも、もちろんひとに迷惑をかけることもあるだろう。俺だって真一郎だって、他の誰だって、そうやって成長してきた。
だが、だからこそ、ちゃんと伝えなければならない。それは別に教師としてではなく、その「失敗」に立ち会ってしまった「先輩」として。
「……あのな、たとえあとから返すつもりだったとしても、ひとのもん勝手に持ち出すのは窃盗、盗んだのと同じだ。ハーレーが大事なもんとかそういうの関係なく、ひとのもので勝手すんのはダメだろ」
「う、」
「……」
「第一、そうやって持ち出したハーレー見て喜ぶようなやつなのかよ、万次郎は。お前らの総長ってそういうやつなわけ」
まあ言わなきゃわかんねーとか思ったんだろうけど、と続ければ、どうやら図星だったのだろう、唇を強く噛んだ場地はまた俯いた。
羽宮はずっと、何も言わない。
「……場地、前にお前、俺にやりすぎはどこからかって聞いたの覚えてっか」
「、」
「俺ァ多少のやんちゃは、まあ教師としてやめろとは言うけど、好きにやればいいと思ってるよ。無免運転だろうが喧嘩だろうが、関係ないやつ巻き込まない範囲なら勝手にしろ。……けどな、」
オラ俯くな、とガキふたりの頭をひっつかんで前を向かせる。ちゃんと目を見て言わないと、伝わらないこともある。
「ダチにも言えないことは絶対にするな」
お前ら、ちゃんといいダチ持ってんだから、と。場地の目から、涙が一筋伝った。
万次郎も龍宮寺も三ツ谷も林田も、不良ではあるが善悪の区別も筋の通し方もちゃんとわかっている。そういうやつらにダチと認められていることが、どれだけ幸運か、どれだけ誇らしいことか。それをちゃんと、わかっていてほしい。
それは間違いなく、自分に後ろめたい気持ちがあるということだから。
「ダチの誕生日祝いてーなら正々堂々やましいことのない方法で胸張って祝え。妥協して手軽に悪いことしようとしてんじゃねえよ、ダセェだけだぞ」
ぐ、とふたりは同時に唇を噛む。
返事、と言葉を落とせば、血が出そうなほどに噛みしめられた唇がわずかに緩んだ。ごめんなさい、と嗚咽混じりの小さな声が場地の口から漏れる。よし、と場地の頭から手を離したが、もうひとりの声がまだ聞こえてこない。ガチガチに固められたリーゼントを握ったまま、改めて羽宮の顔に目をやる。
俺としたことが、目が合った瞬間に背中に冷たいものが走った。
「……羽宮?」
涙の張った大きな目。そこに浮かんでいるものは、これは、いったい何だ。
場地のそれとは全く違う。後悔や反省でもなければ、俺に対する反感でもない。かといって人形のような無感情かと言われればそれも違う。何だっけ、
時に人間は、自分を守るために全てを諦めたような目をすることがある、と。
「……殴んねーの?」
ようやく口を開いた羽宮は、確かに俺を見てそう言った。え、と驚いた顔で場地が羽宮の方を見たのを視界の隅に捉える。
俺が女子どもに手ェあげるクソ野郎に見えるならそっちの方がショックだとか、何かそんなことを軽いノリで適当に返してやるべきなのかもしれない。いくら相手が子どもでも、軽率に相手の事情を尋ねるのがいいことなのか俺にはわからなかった。だが、見逃すことだけはしてはならないと思った。
俺は、必死に動揺を押し殺して、言った。
「……殴らねえよ」
「何で? 大事なバイクだったんだろ。傷もだけど、エンジン死んだじゃん」
「あれはもともと死にかけのエンジンだったんだよ。いつ動かなくなってもおかしくない心臓だった。限界がきたのが今日だったってだけ」
「でも俺らのせいかもしんねえじゃん」
「仮にお前らのせいだったとしても、俺は女子供に手はあげねーよ」
いっそ不思議そうに言葉を重ねる羽宮に、胸に浮かんだ疑念が形になっていく。
頭を握っていた手を緩め、ガチガチに固められているリーゼントを柔く撫でた。そのまま手を滑らせて、日に焼けた頬を弱くつねる。いつもよりさらに幼く見えた子虎は、特に抵抗する様子を見せなかった。
「羽宮お前、女子供に手ェあげる野郎に心当たりでもあんのか」
子虎は答えない。が、少しだけその瞳が虚ろになったような気がした。構わず、俺は言葉を重ねる。
「そいつは今、お前の身近にいるのか」
覗き込むように瞳を見つめて、ようやく目に少しだけ光が戻る。ひとつ瞬きをした子虎はわずかに躊躇って、今はいない、と小さく答えた。
会話がきちんと成立したことに安堵して、ぐにっと頬を引っ張る。うに、と子虎の口から変な声が漏れたことに少し笑って、手を離す。
「なら、まあ、今はいいわ。オラ羽宮、悪いことしたら言うことがあんだろが。場地に言えてお前に言えないなんてことはねえな?」
「……ゴメンナサイ」
「おー。もうすんなよ」
よっこらせと立ち上がれば、まだ堅い顔をした真一郎と目が合う。これで手打ちだと目だけで伝えれば、不満げな顔を見せるものの何も言わなかった。いいんだよと、ただその肩を叩く。
いくらバイクが大事でも、感情のままに動くことを俺は格好いいとは思わない。
「とりあえずお前ら、散らばった工具くらい片付けろ」
「お、……う?」
「あ、」
「……足しびれたんなら無理矢理立つなよ。怪我すんぞ」
大した時間正座していたわけでもないだろうに、これが最近のガキというものだろうか。子猫と子虎が子鹿になっているのを眺めながら、いい加減顔面を取り繕えと真一郎の足を踏みつける。イダッという悲鳴をスルーして、足下に転がっていたドライバーを拾った。
サヤ、と恨みがましく飛んできた目線を鼻で笑い、顎でいまだ蹲るガキどもを指した。うっと言葉を詰まらせた真一郎は、大きく息を吐いて頭を掻く。
「あ~~~~もう、わあったよ。ほらふたりとも、とっとと片付けんぞ!」
そうそう、お前はそうやって馬鹿面を晒していればいい。真一郎には真一郎の言いたいこともあるだろうが、ふたりに伝えるべきことはもう言った。あとはふたりが自分で考えるべきだろう。誰に何を言われるよりも、自分の頭で考えることに価値があると俺は思う。
それにしても、とドライバーを工具箱におさめながら俺はカレンダーを見た。
「今日だったか、万次郎の誕生日。お前ら何か約束とかしてんの?」
「……昼過ぎに神社で集まるって話はしてる」
「そうか。まあハーレーは諦めてどら焼きでも持ってってやれよ」
「どら焼きならいつもドラケンが買ってっし……」
買ってんのかよ龍宮寺、お前は餌係か。というか何貢がせてんだ万次郎。ついその兄貴に目をやれば、さっと真一郎は目をそらした。お前弟の躾くらいちゃんとしろ。
万次郎の将来が心配だなと思いつつ、確かにものをもらい慣れてる人間相手に何かプレゼントするのってハードル高いよなとぼんやりと思った。特別な何かをプレゼントしたい、と考えすぎて暴走してしまったのかもしれない。
まったく、もう少しガキらしく「特別」を考えればいいものを。やれやれと思いながらどこかから転がってきたボルトを手に取る。
「じゃあ作れば」
深く考えずに言った言葉だったが、ガキふたりには刺さったらしい。レンチを拾い集めていた小動物たちの顔が、ばっとこちらを向く。
「え、どら焼きって作れんの?」
「……小さいホットケーキ作って餡子挟めば実質どら焼きじゃねーの?」
「ホットケーキはわかる。え、餡子は?」
「餡子なら缶詰とかで売ってるだろ」
顔を見合わせたガキどもは数秒黙った後に、三ツ谷に聞こう、と声を揃えた。なるほど、三ツ谷が全員分の特攻服を仕立てるに至った経緯が見えたような気がした。
ふたりは焦るように工具を片付け、思い詰めたような顔でハーレーを見つめる。いーから、とその背中をぽんとはたいた。
「時間ねーんだろ。さっさと行け」
「サヤがそう言ってんなら俺も言うことはねーよ」
また一瞬泣きそうな顔をしたふたりは、ばっと大きく頭を下げて店を出て行った。まったく、と息をつきながらその背中を見送る。
すっと真一郎が俺の隣に立つ。あえて目を向けることはしなかったが、何を言おうとしているのかくらいはわかっていた。
「……サヤ」
「もう謝んなよ」
「けど、ハーレーから目を離したのは俺だ」
「お前は気を遣いすぎだ」
いいんだよ、と改めて傷だらけのボディを撫でる。じんわりと手のひらに伝わってくる冷たさはいっそ心地よかった。
「……逆に諦めがついたよ。こいつ、じーさんが死んでから急にエンジンの調子悪くなったからさ、……本当はじーさんと一緒に眠りたかったんだろうなって思ってたんだ。それを俺が、いつまでも未練がましくメンテするから」
「……そういう言い方すんなよ」
「いいんだよ、これはじーさんのバイクだ。俺のじゃない」
「強がりか?」
「……強がらせろよ」
俺のひとつの夢のかたち、その具現。それが失われるとなれば、言いようのない寒々しさは胸に残る。けれど、本当ならそれはさっさとケリを付けなければならないものだった。
俺は、じーさんのように格好良いバイク乗りになりたい。が、じーさんになりたかったわけではなかった。じーさんのバイクを乗りこなすことが「格好いいバイク乗り」なのかと言われれば、決してそうではないのもわかっていた。
「いい加減、自立しねーと」
じーさんの影ばかりを追ってはいられない。だからいいんだ、と言い切れば、真一郎は小さくわかった、と言葉を落とした。
「サヤ、これが最後。……悪かった」
「おー」
「けど、今日のことは万次郎たちにもちゃんと話すからな」
「別に言う必要ないんじゃねーの?」
「ある。あいつらが万次郎のためにやったことならなおさらだ」
後日改めて万次郎からも詫びを入れさせる、と真一郎は譲らなかった。
黒龍の元総長曰く、チームの人間の不始末にトップが頭を下げるのは当然のことらしい。相変わらず不良の考えることはよくわかんねーなと首をひねるが、まあ真一郎がそうだというのならそうなのだろう。
そういうのはちゃんとしねーとダメだ、と真一郎は難しい顔で言い切った。
「圭介や一虎にも、自分らが総長の頭下げさせるようなことをしたんだって理解させなきゃなんねえ。そんで、そのケジメをどう付けるかは万次郎が決めるべき。……って武臣なら言うぞ、絶対」
「あー……言いそうな気がしてきた。まあ俺
「おう」
「でも一応俺が怒ってねーとは言っとけよ」
「お前さすがに教え子に甘過ぎな」
怒ってねえもんは怒ってねえんだよと言えば、ようやく真一郎はいつも通りの気の抜けた笑みを見せる。
お前意外と怒らねえんだよなあと、いつものように肩に腕を回された。ふわりと漂う慣れたオイルの匂いに、心の空虚が少し埋まる。
「なあサヤ、今日はさすがに万次郎の誕生日だから無理だけどさ、今度あいつらもここに呼んで酒盛りしよーぜ。ハーレー、盛大に見送ってやんなきゃだろ」
「ここでか? 俺はいいけど、店ん中が酒臭くなってもしらねーぞ」
「だいじょーぶだろ、多分」
俺らだってこのハーレーには憧れてたんだよ、と。
すぐ近くで落ちた囁きに、鼻の奥がつんと痛んだのを感じた。
***
この数日後、龍宮寺をともなった万次郎はちゃんと俺に詫びを入れに来た。
聞けば、真一郎から話を聞くより先に、場地と羽宮からハーレーのことを聞いたのだと言う。傷だらけの黒い車体を痛々しい目で見て、ふたりしてしっかり頭を下げきった。その姿は何となく真一郎と武臣に重なるものがあって、ちょっと笑った。
ふたりの後頭部を見下ろしながら、そんなことより誕生日おめでと、と言ってやれば、ちょっと不満そうな顔の万次郎が顔を上げる。
「……ありがとなんだけどさ、そんなことよりじゃねーだろ」
「そんなことよりだよ。気にすんな、済んだことだ」
「……場地と一虎にはちゃんとケジメつけさせるから」
「お前らの気の済むようにすりゃいーけど、ケジメって何させんの?」
「それはまだ秘密」
にやりと笑った万次郎には不安しかなかったが、センセーは心配しなくていいからと龍宮寺も笑っていたので深くは聞かないことにした。俺はお前の常識を信じてるぞ龍宮寺。
あと、と今度こそ万次郎は嬉しそうに笑う。
「
「ああ。良い
「サイコー」
「当然。ただし俺の前では乗るなよ」
「センセーまじでそのへん頭堅いよな」
「うるせえ俺は教師なんです」
俺には俺の筋があんだよと笑って言うと、背後から気配もなく回される腕。わずかに漂う酒の匂いに、飲むペース早すぎねーかと苦笑する。振り向かなくても誰の腕なのかはとっくにわかっていた。この足音のなさはかえってわかりやすい。
「お前もう何本飲んだんだよワカ、酒くせえぞ」
「今日は飲むっつー話だったろが、いつまで話してんだよ。あ、お前らも飲む?」
「未成年に酒勧めんな」
久しぶりに集まったワカにベンケイ、それに武臣、もちろん真一郎も店の床に座り込んでいる。傷だらけのハーレーを囲んで買い込んだ缶ビールとつまみを並べ、乾杯もしてねーのにすでに空の缶が転がっていた。
お前な、と俺が振り向く前にひゅっと万次郎がつまみ目掛けて飛び込んでいく。うわあ猫まっしぐら、その様子に爆笑したベンケイが面白そうにつまみを差し出していた。するりと腕を離したワカもそれを追って、また缶ビールに口を付ける。
いつの間にか始まっていた馬鹿騒ぎに、もはや笑うしかない。
「……センセー、俺追加のつまみでも買ってくるか?」
「ガキが気ィつかってんなよ、龍宮寺」
せっかくだからお前も混ざってけ、と柔くその背中を押す。ただし酒は飲むなよと念を押せば、わかってるってとそいつはガキ臭く笑った。
ちなみにこの後、酔ってガキふたりに酒を飲ませようとした真一郎を全身全霊で締め落とすことになるのだが、意識を失った兄貴を見て万次郎は腹を抱えて笑っていた。全く仲の良い兄弟だと思う。
***
そして、夏が終わる。
いや夏は終わったのだが、俺の頭はもしかしたら夏の暑さでやられてしまったのかもしれない。夏休みが終わってもいまだ残暑は厳しい。俺は幻覚でも見ているのだろうか。
「……信じられねえって顔してんじゃねー!!」
「……いや、うん、そうだな、そうだよな、夏休みの宿題も何とか出してたし、頑張ったんだろうなとは思ってたんだけど」
ちょっと恥ずかしそうに喚く子猫の顔には、治りかけの殴られた痕。たぶん「ケジメ」なのだろうと予想がついたので、それについて尋ねることはしなかった。俺が心底驚いているのはそんなことじゃない。
俺の手にあるのは、夏休み前に補習に使っていたプリントの数々。どれも居残りのときに解説まで行っていたが、答えを渡してはいなかったしちょうどいいからと夏休み前に同じ内容のプリントもう一通り渡していたのだ。場地の理解度にあわせて作っているから復習に使え、と。
だけどまさか、二十枚以上あるそれらの答えを全部埋めて持ってくるとは思わなかった。
「……どしたのお前、殴られて頭イカれた?」
「それが生徒に言う台詞かっつーの!」
「お前普段の素行考えてから言えよ」
「そこうって何だ?」
「よーし辞書を引け」
すると場地は大人しく国語辞典を開き、「素行」を調べ始めた。お前たまにびっくりするくらい素直で可愛いの何なの。
いやとにかく落ち着け俺、どんな気まぐれであれ、ちゃんと場地は勉強をしてきた。そう、だからまず俺の頭とか場地の頭を疑う前にまずは褒めてやるべき。そうだ、その努力をちゃんと認めてやるところからだ、たとえどれだけ答えが間違っていようとも。
そう思いながら、ぱらぱらとプリントをめくっていく。だがプリントの束を見れば見るほど、俺は混乱しかなかった。
「……場地」
「あ? 何だよ」
「俺は今、何年かぶりに泣きそうだ」
「……は!?」
何せこのプリント、ほぼほぼ答えがあっている。もしかしたらケアレスミスくらいはあるのかもしれないが、ちゃんと理解して問題を解いていることは途中式を見れば一目瞭然だった。小学校レベルで躓いていた場地が、まさかこんな短期間で。
つい目頭をおさえた俺を見て、場地は慌てたように教壇に駆け寄った。どうしたんだよセンセーって、それは俺の台詞だ馬鹿野郎。
「お前、ちゃんと勉強したんだな」
「え、」
「偉い。まじで驚いた」
「そ、れは……マイキーが、ケジメは付けろっつって」
俺に迷惑をかけたのだから、何でもいいから俺に言われたことをちゃんとやれと、万次郎はそう言ったらしい。
それで場地は宿題とこの課題を片付け、一虎は自分の宿題もしつつ場地に勉強を教えていた、と。それどころか、レンタイセキニンがどうとかで東卍勢揃いで勉強会なんて可愛いことまでしたとか言うのだから、先生はまじでそろそろ本気で泣きそうです。お前らって不良じゃなかったっけ。
「……俺も、ちゃんとベンキョーしねーとやべーのは、わかってっし」
「やめろこれ以上泣かせにかかるな」
「センセーさっきから何言ってんだ?」
いやもう本当場地が馬鹿で良かった。心底不思議そうな顔をしている場地をよそに、プリントの束をうちわのように仰ぎながら火照ってきた顔を冷ます。ばたばたと仰いでいると、ふとプリントの裏に何やら書かれていることに気がついた。
「……何だこれ」
「え? あ、あいつらいつの間に!」
場地とはまた違う筆跡の走り書き。字が汚すぎて読みにくいのもあるが、場地の悪筆にも慣れてみせた俺にはこの程度朝飯前です。
まるで寄せ書きのように、思い思いに書かれた文字にはひどく個性が見える。
『よく場地に勉強教えられるね 結構きつかったわ 三ツ谷』
『俺らに勉強会とかさせられるのたぶんセンセーくらいだぞ ドラケン』
『おればかだからわかんねーけど ばじがんばってたぞ ぱー』
『これでケジメにしてゆるしてやって マンジロー』
そして、プリントの下の方、見落としそうなほどに小さく書かれた最後のひとり。
『ごめんなさい 一虎』
まったく、もう、何なんだこいつらは。問題児でクソガキで不良で暴走族のくせに可愛すぎじゃねえのか。
いろいろな感情が胸の中で渦を巻いて、もはや肩が震えてきた。こんな訳わかんねえ感情、笑う以外の何が出来るというのだろう。さっきまでちょっと泣きそうになってたのに、今はもう過去イチくらいで笑っている。さすがに声を上げるのはまずいと思って必死で堪えるが、堪えすぎて腹が痛い。
いやもうマジで、可愛いにもほどがある。
「……は、場地、」
「な、何だよ」
「ふ、……あー、やべ、笑う、」
「あ? 何だよ笑ってんのかよ、つかどこに笑うとこあったよ」
「いや、ぜんぶ」
「はあ?」
訳わからんという顔をする場地の頭を、思いっきり掻き回した。少し伸びてきた黒髪がぐちゃぐちゃと絡む。何すんだ、と嫌がられるのも構わずに、ただただ可愛い教え子の頭をなで続ける。
俺は別に俺が思う「教師」をやるだけで、たとえば生徒の卒業を見送ろうと、それで感情を揺らされるような人間ではないと思っていた。教師だろうが何だろうが、自分がやるべきと思ったことを粛々とやっていくだけだと。
ところがどうだ、蓋を開けてみればクソガキどもにかつてないほど爆笑させられ、嬉しいんだか面白いんだかよくわからない感情に襲われ腹を抱えている。
俺こんなキャラじゃなかっただろと口の中だけで呟くと、乱れた髪を手ぐしで整える場地がまた不審そうに俺を見上げた。
「……センセー、まじで大丈夫か? 疲れてんの?」
「あー、……ああ、そうだな、そういうことにしとく。場地、手ェ出せ」
「んだよ」
「いーから」
そうして出された、俺より少し小さな手のひら。喧嘩をするせいだろう、少し骨張ってごつく見えるが、それでもまだ幼さが残る。
すぐ成長期がきて手も身体もでかくなるんだろうな、と思いながら、俺は赤ペンを手に取った。右手の中でくるりとペンを回して、場地の手のひらにペン先を乗せる。
「あ、てめ、何、……くすぐってえ!」
「ほーら大人しくしろー。……おし、いいぞ」
普段は滅多にこんなもの書かないのだが、たまにはいいだろう。ちゃんと頑張ったやつには、頑張った証を見える形を残したかった。
「レアだぞ、俺の花丸」
「……花丸って、ガキかよ」
「ガキのくせに何言ってんだ。ちゃんと頑張ったからな、トクベツ」
皆にも礼言っとけよ、と笑えば、ちょっと恥ずかしそうな顔をした子猫はきゅっと花丸を握りこみ、顔を上げる。
「……センセー、あいつらと約束あるし、帰ってい?」
「ああ、プリントはまた採点しといてやるよ。だいたい合ってるみたいだけど、一応な」
バツじゃなくてマルつけられるのがこんなに嬉しいとはな~と笑ってみせれば、適当に鞄に荷物を詰め込みながら場地もうっせ、と八重歯を見せる。
がらりと教室の戸を開けた背中は、入学当初より少し大きくなったように見えた。
「気を付けて行けよ。やんちゃすんなら俺にバレないようにな」
「は、うるせーよ不良教師!」
誰が不良教師だ、と言い返す暇もなく問題児は走り去っていく。廊下は走んなって何回言えばわかんだろうな、ともはや無駄なことを思いながら手元のプリントをまとめ直すと、ふと窓の外に目が向いた。
だいたいの生徒がすでに下校し、閑散としている校門前に見えるいくつかの影。
「……あいつら……」
場地を待っているのだろう、金髪や銀髪、それに黒のリーゼント。上から見るとマジで目立つというか、あいつらに比べればちょっと伸びた場地の髪くらい全然マシだなと改めて思う。まあ肩につく長さになりつつあるので、場地も校則的にはアウトなのだが。
ふと、玄関の方を見た三ツ谷が何かに気づいたように軽く手をあげる。どうやら場地が到着したらしい。俺が花丸を書いた手をぎゅっと握ったまま駆け寄った場地は、見せつけるように五人の前で手を開く。どう見てもそれは花丸を自慢しているようで、ちゃんと嬉しかったのかと小さく笑った。
「……ガキかよって言ってたくせに」
多分、良かったじゃんとか、センセーそんなん書いてくれんだとか、そんなことを言い合っているのだろう。プリントの裏のあれいつ書いたんだよとか、お前気づかなかったんかとか、ガキらしく無邪気に笑いながら。
万次郎が先頭を歩き、龍宮寺がそれに続き、林田はパピコをくわえながら三ツ谷に片割れを渡し、三ツ谷はしょうがねえなって顔をしながらそれを受け取り、場地は羽宮の首に腕を回して、手のひらを見せ続けている。羽宮はちょっと呆れながらも、笑いながら場地の話を聞いてやっているように見えた。
そんな「いつも通り」の様子の問題児どもを眺めながら、らしくもなく思う。
バイクに関わる職に就くのを諦め、猛勉強に猛勉強を重ねて意地だけで教員免許を取り、まじで面倒くせーなと思いながら「大人らしい」立ち居振る舞いまで何とか身につけ、こうして今、教師なんて苦労ばっかりの職に就いているわけだけれど。心から面倒だと思うけれど。
それでも、あんな顔を見ているだけで、何故か。
「……教師なって、まあ……良かった、かな」
教師一年目にしてそう思える生徒に出会えたことは、きっとひどく幸運なことなのではないだろうか、と。
じゃれるように歩いて行った問題児たちの笑い声が、ここまで聞こえてくるような気がした。
鞘谷佑(さやたにたすく)
◆身長:179cm ◆体重:68kg ◆年齢:23歳(原作1年前)
◆誕生日:1980年12月14日 ◆星座:射手座 ◆血液型:AB型
◆通称:サヤ ◆イメージカラー:濃紺
◆好きなもの:バイク ◆嫌いなもの:喧嘩
◆特技:エンジン音でバイクの調子がわかる
◆尊敬する人、憧れの人物:じーさん ◆苦手な人、怖い人:父(ウマが合わない)
◆夢:じーさんのような格好いいバイク乗りになること
◆武勇伝(または失敗談):21回告白されて付き合った彼女がいる
◆お気に入りの場所:じーさんのガレージ、S・S MOTORS
◆ある日の日常(起きてから寝るまで):早朝に起きてバイクを流し、近場の温泉に行ってひとっぷろ浴びて戻る。本屋で数冊教育書を見繕い、S・S MOTORSで勉強と授業の準備が済んだらスーパーに寄って家に帰る。深夜までビールを飲みながらバイク雑誌を楽しむ。わりとショートスリーパー。
お付き合いありがとうございました。