───目を開ける。
地面は───ない。
地平線は───ない。
重力は───ない。
そこは見渡す限り白しかない世界だった。
男は浮遊していた。
「───ようこそ、#コンパスへ。」
電子音がこだまする。
それを始点に、CとP、二つの文字を弄った構造体がさっと現れる。
"異様にして見慣れた、いつもの光景"だ。
「"桜華忠臣"(おうか ただおみ)さん。」
彼の名前は、桜華忠臣。
刀と軍服を身につけた、妖華帝国の総統である。
管理人のVoi dollは、忠臣へと話しかけた。
生憎と忠臣は返事を返すことはできない。
ここに存在している彼は、実体を持たぬもの。
データの泡に等しい。
「あなたを、ある世界に転送します。」
「シミュレートの結果、それが最も効果的な方法であると判明しましたので。」
あいかわらず、何を言っているのかよくわからない、と、忠臣は思った。
何について語っているのかも。
「貴方には現状を打破するための助けとなってもらいたいのです。」
「争乱ではなく、安寧をその地に与えてください。」
「導きを。」
「では、サヨウナラ。」
───目を、閉じた。
───目を開ける。
即様、周囲を見渡す。
蒼き空。
空に浮くサイレン。
五つの鍵。
そこは間違いなく、でらクランクストリートであった。
だが、様子がおかしい。
"味方"がいない。
#コンパスは3対3のハイスピード陣取りバトル。
だが、ここには味方もいなければ、敵もいなかった。
これは明らかな"不具合"であった。
「なんだこれは。」
桜華忠臣は呆れてため息をついた。
自称、#コンパスの管理人であるVoi dollは何をしているのか。
最近は模造品(irregularタイプ)も出てきている。
少し弛んでしまったのではないか。
「おい、Voi doll!聞こえぬか!我だぞ!」
虚空に叫ぶ桜華忠臣だが、Voi dollからの応答はなく、何も起きない。
ま、それも道理か、と忠臣は思った。
敵味方がいない今の状況が、なんてことない程度の不具合であれば、一瞬にして解決されているはずだ。
(Voi dollは潔癖だからな。)
「ふん。」
この状況が示すことは、Voi dollですら対処に手を焼く"不具合"が発生したということだ。
(あのBug doll何某でも崩すことができぬ城塞《セキュリティ》が、いかにして崩されたのだろうな。)
Bug dollによってirregularが発生した時でも、#コンパスは正常に稼働していたというのに。
「これも何かの機会か。」
忠臣は取り出していた刀を鞘にしまい、無人のでらクランクストリートを散歩してみることにした。
「クッ。ハハ。戦場で戦いがないというのも、殊更愉快───。」
そこで言葉に詰まった。
転移地点である、青い台座を降りたその時、彼の視界の端に映ったのは、"都市"。
でらクランクストリートは超高高度の空中に浮遊している浮島だ。
だから、本来、"ステージの外にビルなどが見えるはずがなかった"。
「羅針───番街?」
標識が示す街の名。
羅針盤街。
#コンパスに現れたirregular。
忠臣の呟きに同調するが如く、でらクランクストリート全体にとてつもない量の水飛沫が轟音と共に湧き上がった。
(なるほど、でらクランクの高度が、海面に着水するほどに下がっていたのか。)
でらクランクストリートが、その高度を普段より遥か下へと落としていた事に、桜華忠臣は気づいた。
そして時間を置かずに水没する事にも。
「…ククッ。」
「セェン!!」
桜華忠臣は妖華穿突刃(剣を突き出し、前方に突撃する技)を使って、でらクランクストリートから脱出した。
(明らかな異常だ。"これ"は。)
(でらクランクが降下し、沈没するなどな。)
(これでは戦闘どころではない。)
羅針盤街へと落下する忠臣は、その最中に歪な光景を見た。
霧のような、白い仕切りだった。
どこまでも高く伸びているような、白い壁。
それによって分断された、さまざまな───"土地"。
現代、近代、中世、古代。
時代、背景がごちゃ混ぜな土地が、サラダボウルよろしく碁盤の目のように"置かれて"いた。
間違いなく、世界は狂ったのだ。
これは、irregular。
そして、桜華忠臣は、異世界へと着地したのだった。