『一之瀬帆波は犯罪者だ』
少し前から放火されていた炎が学校中に燃え上がっていく。
現状からこれをした人はもうわかっているけど、いつも私の胃をギュンギュンさせてくれる誰かさんに倣ってやり過ごそうと思う。正直、いつかこうなるんじゃないかって予感もあった。そう考えると、私の自業自得でもあるのもあってか、燃え広げている人達がどうでもよくなってくるから不思議だ。
私のクラスは良い人ばかりだし、消火してくれる人の心当たりもあるから、じきに鎮静化するだろう。
でも───別の意味で怖くなった。
みんな、私のことを良い人や善人と言ってくれる。私が本当は違うと言っても謙遜みたく見られて信じてくれない。私自身はそうじゃないとわかっているのに、そう見られてしまう。
これまでの16年で私に面と向かって「それはどうでもいい」と言い返してきたのは、たった一人だけ。
私はその現実に恐怖していた。
いや、厳密には恐怖と言えないかもしれない。嬉しさも感じていたからだ。
しかし、今は過去に犯した罪と再び向き合うことになり、間の悪い体調不良もあって1週間以上も学校を休んでしまっている。
必然、ネガティブな思考に支配されて、みんなに合わせる顔がないように感じていた。
こういう時、直感で突き進む異質で滅茶苦茶な人もいるけど、流石に私の部屋までは来れないだろう。……来ないと思っていた。
「おっ、できた」
「ホント!? すごーい! 左京君って結構危ない特技も持ってるよね!!」
「……おい櫛田。誉めてんのそれ? 猫かぶりと邪悪の合わせ技やめろ。ともかく僕にできることはしたし、そろそろ帰らせて」
「は? なに言ってるの? ここからじゃない」
「え?」
私が悩み始めてどれくらい経った頃だろうか。色んな感情が私の中でぐちゃぐちゃに暴れまわっていた時分、部屋の外からも様々な音が聞こえてきた。
「……おわっ、なにをする! てか、網倉までだと!?」
「左京君じゃないと駄目なの! 千尋は言いくるめるからお願い! 帆波を……!」
話し声やガチャガチャいう音、なにか揉み合うようなやり取りだ。
だけど、もっと整理してからじゃないと、心配をかけてしまったみんなを安心させられないと私が空回りしていたから、その声を聞き流してしまっていた。
「お前ら、いい加減にしとけよ。
もしも僕がそれをやり遂げた時は、女子は全員裸エプロンで僕に傅かせてやるぞ? それでもいいのか?」
「は、裸エプロン先輩ぃいいい!!? って、現実でそれやったら紛うことなき犯罪者だからねっ!? むしろ実行した女の子が!」
「僕には関係ない。それに誰が先輩だ。裸エプロンの王と呼べ。そして櫛田と早苗は前払いで傅け。今から君らの制服は裸エプロンだ」
「そこじゃない!! つーか、なんてこと連呼してんのよ!? 3バカ越えでも目指してんの!?」
「ほう? 神であるこの私に裸エプロンで傅け? 愛里ちゃんのいないこの場で良い度胸ですね」
「サイッテー左京君! 冗談でも今の帆波にそんなこと言ったら許さないからねっ!」
それにしても、さっきから外?がそこはかとなく騒がしい。
「なら、男の僕にやらせるな。いくらその気にならない一之瀬とはいえ、調子悪い女子の自室に放り込もうとするとか、網倉ももっと友達の貞操について考えてやれよ」
「とはいえって、この人ほんっとぅに……!」
「でも左京君に一之瀬さんを襲うような精神性はないでしょう? それなら投げ込むだけ得なのでは?」
「「うんうん! そうだよね!」」
「お、お前ら……僕をなんだと」
「どっちの台詞? 左京君はたまには自分を省みた方がいいよ」
「省みとるわっ。僕ほどの完璧紳士に何を言う!」
今は悩み事の方に集中したいのに、聞き覚えのある声が口々に騒いでいる。そろそろスルーできないレベルになってきた。
「それに愛里ちゃんを裏切るような真似を夢月さんがするわけないじゃないですか。いいから行ってきてください」
「だから押すなって!
……わぁーったよ! やるだけやりゃあいいんだろ!? 夢月、行っきまーす!……止めるなら今しかないよ?」
「「「さっさと行けっ!!!」」」
「はぅあっ! 尻が、尻がああああっ!!」
綺麗に揃った掛け声、そして2発の打撃音と悲鳴。
「割れたんですか?」
「元から割れてるでしょ、お尻は」
「僕の尻を蹴りあげといてなんという言い種……! まさに邪悪というに相応しい」
「「もう一発カマしてほしい? 夢月さん(左京君)が望むなら」」
「……椎名や網倉も止めてくれないし。クソッ、なんでまともな女子がいないんだ」
「……類が友を呼んだんじゃないですか? 知りませんけど」
「この人っ……! 帆波や神崎君の苦労がわかってきちゃったよ……わかりたくなかった」
何か大きな物が転がる音と変な会話を最後に、ようやく静かになった。紛いなりにも病人の部屋前で何をやっているのか。
鍵をかけてるから、本当にただ騒がしいだけだけど、今まさに考えていた本人の声も混ざって騒がれると、なんというかこう……落ち着かない。
話してみたい。でも今は会いたくない。怖い。何をすればいいのかわからない。
この時の私の心中を端的に表すと、こうだったからかもしれない。
いけない。どうも冷静でいられない。
冷静になるために一旦整理してみようと、まずは思ったことを独り口に出してみた。
「どうすればいいの?」
「一之瀬の『好きに』すればいいんじゃね」
「シャ…シャアアアアーーー!!?」
「休み中に野生に還ってしまったか。猫じゃらしを持ってくるんだった」
「にゃっ!? にゃにゃにゃん……で???」
「ま、コイツならこれはこれで需要あるか。でも話が通じないと困るな。……まずは挨拶から入ってみるか」
そんな状態だったから、入って来れないはずの彼が涙目で何故かここにいて、変化した答えが返ってきたことに疑問符で頭が一杯になった。つい四つん這いになって威嚇の声を上げてしまう。
おずおずとした態度ながら無自覚に私の心を掻き乱し続ける彼も、怒涛の常識外れをぶつけてきて混乱に拍車をかける。
「あ、一之瀬。お邪魔してます。ちょっとの時間、部屋の扉をピッキングした犯人が滞在するけど見逃して? 本当はここに来るのは男の僕じゃなかったはずなのに、網倉や早苗達“4人”が僕を蹴り入れやがったから、クレームは後でそっちにまとめて頼む」
「え…ピッキン……え? は、クレーム……?」
ガチの犯罪者じゃない、とはならず、彼ならおかしくないな、ってなるのは夢月君の人柄ゆえだろうか。呆然とした頭でそんなことを考えた。
「夢月…君……? 本物?」
「はい、本物の夢月ですよ~。途方に暮れてるけどね」
言葉通りにヤケクソ感を漂わせつつも、まったくいつもと変わりない態度。
左京君のことだから気にもしないかも、とは思っていたけど……こうして目の前にすると、こう───不思議とすごく安心してしまう。わけのわからない感情の奔流付きで。
私らしくない、よね。でも、困ってる人のところにいつもピンポイントで現れるこの人は。
───当然のように私のことも見逃してくれなかった。
入学したばかりの頃、夢月君が私にしてくれたことがある。
たしか何かの用事で先生にプリントを職員室へ持ってくるよう頼まれた時のこと。階段の踊り場で私は誤ってプリントをばらまいてしまったのだ。
次が移動教室だったこともあり、急いで回収していた時に彼は現れた。
その時、遅刻しちゃうから拾うのを手伝わなくていいと言う私に返された彼の言葉は、不思議と今も記憶に残り続けている。
「気にすんな。困った時はお互い様だ。それに放っとく方が飯が不味くなる。自分勝手でも偽善でも、助けられる奴は助けといた方が気分良いだろ」
私がそれになんと返したのかは覚えていない。
それでもそれからどうも彼が気になってしまうようになったのは事実だ。毎回のように色んなやらかしをするから、というのも勿論あるけども。
尤も、彼にとっては大したことでもなかったようで、後に改めて自己紹介をされた時も私を覚えてなかった。
案外、本当の優しい人は誰かが助けを求めている時に来てくれる……そんな夢月君みたいな人なのかもしれない。私と違って……。
だからこそ過去に罪を犯した『助けを求めてはいけない私』が、必死に抑えつけていたモノが溢れ出してくる。
言葉を交わすだけじゃなく、どちらかが少し動けば触れ合える距離だ。意外、でもなく鋭く本質を突いてくる彼にはそれも見えているかもしれない。
わけもわからないまま逃げ出したくなる。
そしてそれ以上に、何かのタガが外れてしまった気がした。
これがこの時だけの感情だとわかっている。明日と言わずとも数日抑えつけた後だったら、私の経験上、もっと落ち着いて対応できただろう。
でも抑えていたモノを圧倒的な安心感で塗り潰されては、私が反射的にそこへ飛びこんでしまうのもわかってほしい。
「い、今だけ…今だけでいいから───少しだけ夢月君の胸を貸し……ん?」
懇願するような言葉とともに勝手に動いた身体の言い訳のようなモノをしようとしたら、突然目の前が真っ暗になった。次いで頭?顔面?に襲ってくる痛み……痛み!?
「あだっ、あだだだだっ!! え、なにこれぇ!? すごく痛いっ!!」
「どうだ一之瀬? ジェンダーフリー・アイアンクローの味は? 涙目の水分を拭うと見せかけて、鼻水を同行させようとしただろ、お前。んなの、まっぴら御免だわ!」
「『鼻』京院扱い!?」
何も言わずにいきなり抱き着こうとした私も悪かったけど、だからってこんな容赦なく力を込めて顔面を握り潰してくるなんて……!
すぐに力を弱めてくれたから余裕ができたものの、考えてたこと全部吹き飛んだよ!
「そんなこと言ってるとまた炎上するよ!?」
「うるさい。僕は男女平等を体現する男。誰が相手だろうと奇襲は通用しないと知れ」
抱き返してくれるとかは性格的にもなかったかもだけど、夢月君は常識に囚われてなさすぎる。
「前から思ってたけど、夢月君って私のこと絶対女の子扱いしてないよねぇ!?」
「されたいのか? ハッ、他を当たれ。僕は不適格だ」
「むぐっ! またそういうこと言うっ……」
「でもまぁ、部屋は独り身の女子っぽいな。全体がほどほどに汚く、料理してないから台所だけ綺麗っていうね。うんうん、あるある、ふっ」
「鼻で笑ってきた!? こ、これは風邪で掃除する余裕がなかったからだから! いつもはちゃんとしてるもん! 女の子の部屋になんてこと言うの!」
まぁ、私から見てもそれはそうなんだけどね。一応お見舞いに来ておいて図星を突いてくることないじゃない。
夢月君のこういうところ、デリカシーがないというか遠慮がないというか……『わざと』こういう風に振る舞っているというか。
「てか、むしろ女扱いしてたら問題だろ。お前、現状を考えろ。一之瀬の部屋で二人だぞ? 僕がお前を女として見てたら、とっくに襲ってるよ。危機感を持った方がいい」
「も、持ってるよ! 夢月君がそんなことしないってわかってるから」
「それが危機感ないって言ってんの。野郎が許可なく自室に入ってきてるんだし、さっさと僕を追い出せよ。扉前で封鎖してる網倉達にも、お前が一言注意すれば軽く実現可能だろ」
密室で二人きりなのだから、私にだって意味はわかる。
だけど……他の人ならともかく、夢月君がそんなことするなんて到底あり得ない気がしてならない。
「麻子達が扉を封鎖? 夢月君を送り込んだ上で……?」
ああ、そうか。
私が知る夢月君は、思考や理性というか本能的に他者を笑顔にするための最適解を選ぶ人だ。ここに連れてきた麻子達も、そう思っているから安心して“託した”のだろう。
「普通に心配してんだろ。ま、一之瀬には関係ないか。自己肯定感低いポンコツだもんな」
「うぐぅ! またポンコツって言った! だけど強引に女の子の部屋に押し入った上で、私の顔面を握り潰してきた夢月君の方がポンコツじゃないの!?」
「ふっ、何を愚かな……あ、あれ? でも確かに?
…………い、いやいやいや。これはポンコツってより、外道とか盗人猛々しいとかなんじゃないか……?」
「より酷いじゃない! しかも自分でわかってるし!」
「ご、ごめんなさい? し、鎮まりたまえ。常日頃お優しい一之瀬が、何故にそうも荒ぶるのか?」
「謝罪の言葉にさらっとアシ○カを混ぜないで!? というか、私を荒ぶらせてるの夢月君だからねっ!」
だから、夢月君に顔面を掴まれたまま私らしくなく言い争う?落ち着くまでの数分間は───以前の“私が望んだ形”で心が軽くなる時間になった。
それが私のその後に影響を及ぼしていたのだろう。
仕切り直して、自分のベッドに座る私。
時にいつもの軽口を叩きながら、勉強机の椅子に腰かけ、一定距離を維持する夢月君。月に一度、話し合う時と同じ距離感だ。
お喋りな時と無口な時をランダムに入れ替える完全にいつも通りの彼は、慰めもなく責める風もなく私をじっと見つめている。
「夢月君」
「ん、あれ? ま、いっか。なに?」
私が呼び掛けると、何か引っ掛かることでもあるのか夢月君は少し困惑した顔になった。
人が悪いかもしれないけど、私にとっては安心できる顔だ。
でも当然かな。いつも私の方がこの顔をさせられていたもん。ちょっとお返しできたみたいで、逆に落ち着ける。
「今更だけど、なんで私の部屋に?」
だから、ようやく用件を聞けた。
「あー、なんかツラいことあって放置プレイして欲しかったんだろ? 邪魔してごめん」
「そ、それはいいんだけど……いや、よくはない。放置プレイって」
いやいや、やっぱり今はそこは置いておこう。
まさかとは思うけど、この人……学校中に広まっていた私の噂をほとんど知らないまま、麻子達に投げ込まれた? うん、こっちが正しい。
以前に私と似た状況に陥った時の夢月君の振る舞いや、興味のないことにはとことん無関心な彼『ら』だからこそありえる。流石に全く知らないわけじゃないだろうけど。
「悪いけど、僕は一之瀬どころか女子のことよくわかってないらしくてさ。なにすればいいとか全然なのに、何故かこんな現状になってるんだ」
何気に夢月君は非常時、うちのクラスで精神的支柱になっていることが多い。私が休んでいる間、この人ならなんとかしてくれると思われて今ここにいるのかもしれない。
「だからまぁ、なんか吐き出したいことがあるなら僕にどうぞ? 急に動かれるとさっきみたく反射的に反撃しちゃう可能性はあるし何もできないだろうけど、一之瀬が楽にはなる…ような気がする。勘だがな。
ああ、もちろん話したくなければ、ほとぼり冷めるまで部屋の片隅を貸してくれるだけでいい。それと僕を追い出したいなら、外の連中をなんとかして。個人的には最後を推奨」
それは一時彼が槍玉に上げられていた体育祭の頃でさえそうだった。自分のことでいっぱいいっぱいになって硬直してしまい、私が動けなかった僅かな間に全て彼自身で片付けていた。それどころかどうしても調子が悪くなっていたあの時の私を逆にフォローまでされた。
……あんなやり方で信頼を示してくるのは本当にズルいと思う。何度も『あの動画』は見返してしまった。真剣な顔した夢月君が私の…その、胸を揉んでるってだけの……。いや、本当に客観的には酷い動画なんだけどね。
「……んじゃ、外の連中が飽きるまで僕は寝させてもらうわ。ちょっとの時間お世話になる。悪いが一之瀬は諦めてくれ」
夢月君は困惑を瞳に滲ませつつ、何も反応を『返せなかった』私を見て口を閉じ───行儀悪く椅子からズルッと床に寝転がった。
直感的にわかった。
本気で有言実行するつもりだ。
本当に駄目な人だ。締まらない人だ。わけのわからない人だ。
「ぁ……」
元気付けようとしたり、慰めたりの言動が一言でもあれば……下心の一つでも見えれば、警戒心を持つこともできたかもしれないのに、決して近づいてはくれない夢月君。
自分の腕を枕に寝転がった彼に、なんというか少し強張りの残っていた身体から力が抜けた。
そしたら何故かわかった。
近づいてこれないのだと。
苦手な私と二人きりなのが怖くて。
よく見たら、2月の寒さとは違う緊張による震えらしきモノも見える。
夢月君は裏表がないから、わかってしまえば簡単だ。
不思議と心の中がスッキリしていた。
嫌悪や恐怖とは違う『苦手』という印象。
この印象を覆すのは難しいけど、夢月君と友達以上になりたいならこれはおそらく必須条件だ。東風谷さんや櫛田さん、椎名さんが粘り強く積み重ねて得た前例もある。
多分、私は夢月君の友達になりたいと思った。
最初はただそれだけだったのかもしれない。でも今では……どうしても頼ってしまう。余裕がない時に本人を目の当たりにすると、支離滅裂な思考がどんどん変な方向に行ってしまう。
「じゃあ…あの。私の話、聞いてくれる?」
「ん、いつでもいいよ。好きにしなー」
なぜなら転がりながら半目を開けて私を見る夢月君は、態度や言葉とは裏腹に───。
「私ね。中学の時に……」
気づけば、私は胸につかえていた黒いモノを吐き出すように、ここしばらく学校に蔓延していた噂の一部が事実だと告白していた。
中学時代にしてしまった万引き。お母さんにこっぴどく叱られて謝りに行った事。お店の人は許してくれたものの引きこもった半年間。
南雲先輩に話したのよりも深い部分まで洗いざらい……。
私が話してる最中も話が終わっても夢月君は口を挟まず、興味ないと態度で示しているような『演技』をしつつ、真剣に聞いてくれた。
全部吐き出し一息入れると、今度は視界が歪んで知らずに握り締めていた私の手の甲に水滴が落ちていた。
「う、うぅ……」
夢月君は全てを受け入れてくれるような独特な雰囲気がある。それはとても残酷なことでもあると思えた。
だってそんな資格は『咎』を隠そうとした私にはないから。ないはずだから……。
「……ひっく…夢月君は……私を…助けてくれる?」
それをわかっていたのに、気づいたら感情が溢れてきて止まらない。ボロボロと零れ落ちてくる涙と、喉の奥から情けない言葉が私の口から漏れてくる。
それでも。身勝手で厚かましく私が悪いのは承知の上で、今は。今だけでいいから───私に乗り越えるための力を貸して欲しいなんて……。
「当たり前だ。
お前は人に頼るの下手すぎなんだよ、馬鹿め」
「当たり前、なんだ……。夢月君にとっては…うぅ、うっ……」
きっと私は自分の想像以上にツラかったんだろう。
それでも我慢は……時間をかければ、おそらくできたと思う。独りで心を沈めていくのは一度経験している。だから今この瞬間でなかったら、こんなみっともない姿を晒すことはなかっただろう。
しかし私の近くには、いるはずのない人がいた。
そう。左京夢月という何故かいつも、必要な人の前に、必要な時に、必要なモノを持って現れる人が。
それはまるでヒーローのような在り方で……。
「そ、そそそれにどっかで、そうなる前に逃げろって言っただろ」
「うぷっ…うー☆」
一方、私がこうなって驚いたのか寝転がっていた夢月君はムクリと起き上がり、恐る恐る近づいて私の顔にハンカチを強く押し付け、不器用な『気遣い』とともにゴシゴシと拭ってくる。その私以上に動揺しているのがわかる姿に、可笑しさがこみ上げてきてちょっと落ち着く。
場違いだけど、なんか野生動物がやっと少しなついてくれたような嬉しさも湧き上がって色んな感情と混ざり、私に更なる変なスイッチが入った。
「て、てか、ツラい時はツラいって言えよメンドクサイ。不適格な僕じゃなくても、お前を助けたいって奴なら多数いるからな」
「…………ふ、ふふ。そう、だね。ここしばらくの私、馬鹿だったかも」
「……あー、もう…えっと、ふぅ。……ヨヨヨヨシッ! こうしよう!
い、一之瀬が『次』に駄目になったら、おっぱいもぎゅもぎゅの刑かおしりペンペンの刑に処す。ドMの変態的には嬉しい刑罰かもだが、本気で僕が執行しに行くからな? その年齢とドスケベボディだ。楽しみでしかたないな、げ、げへへ?
…………セクハラされるのが嫌なら好きな奴でも親友でもいいから、素直に誰かを頼れよ?」
「ぁ……夢月…君……あ、う……」
そして当たり前のように、私が一番欲しかった言葉をくれる。
本気が見えないセクハラ風味に。『次』というさりげない言葉に込められた意味に、せっかく抑えられたモノが再び溢れてくる。
私の最後の引っ掛かりと一緒に……。
「ごめんなさい…お母さん……ごめんなさい」
「お母っ…はぁ。いいさ、見ない振りしとくから、今は好きに泣け。僕はなんとかして帰るから…って、お、おい一之瀬?」
あんな台詞を言っていたのに距離を離そうとする夢月君に、私は思わず手を伸ばす。
「……うん。好きにする。だから、今だけは───」
顔を拭ったら、空気も読まずに速攻で離れようとする夢月君の背後ろから腕を回して抱きつき、星之宮先生を見習って離さない。
せっかく蓋をしようとしてたのに、この人が物理的にも精神的にも抉じ開けたんだからこれぐらいは当然だろう。頼っていいって言ってくれたんだから、最後まで頼らせてもらう。
今の夢月君からは彼の好む煽りや論理を感じない。厭らしい下心もだ。ただ私が苦しんでるからこうしているとしか伝わってこない。そこに自己犠牲や善行といった気高い思想はない。
なぜなら私が知る夢月君は、他人に手を差し伸べる躊躇いを考える前にまず動いてしまう人だからだ。
…………というか、ここまで私を助けておいて、なに普通に帰ろうとしてるの? こういう時って、黙って胸を貸してくれるものじゃないの? 私の心を全部晒け出させておいて、自然体でいつものまま変わらないのはホントどうなの? 改めて考えると、どんな印象を持てばいい人なのかわからなくなる。でもそんな夢月君の身体は男の子らしく広く硬めで、されどとても暖かかった。素直すぎる彼が口に出してないのに、心から思っている事が伝わってくるから───。
「……………………妹の次は母かよ。僕っていったい……」
だから落ち着いたら、後で絶対伝えよう。
心配してくれてありがとう、そしてごめんなさい、と。
ボソッと零す夢月君の背中に顔を埋めながら、私は彼の周りに変わった人が多く集まってくる所以を理解し始めていた。
どんな形であれ、この人は絶対に受け入れてくれる。裏切らない。
不思議とそう確信させてくれる夢月君の近くは居心地がいい。
……ただ、それはそれとして。
……………………今日の私のこと、全部忘れてくれないかな。
我ながら困ったことに、すがりついてしまったのが恥ずかしすぎて夢月君の顔が見れない。たくさん泣いて酷い顔なのを差し引いても、途中から耳まで真っ赤になってた自覚があった。次からどんな顔して話せばいいのかも皆目見当が付かない。
涙が止まって少し冷静さを取り戻してからも、しばらく顔が上げられなかった。
自分で言うのもなんだけど……認めたくないものだよね、若さゆえの過ちって(夢月君風に)。
過去をぶちまけたことと、謎テンションの変なスイッチが入ってやってしまったこの代償が、私の内心に大きな変革をもたらしていたことに。
知らず知らずのうちに、最初から自然と下の名前で夢月君を呼ぶようになっていた自分自身に。
この時の私は気づいていなかった。