僕が『俺』だった頃、戸籍を失くせとか変な事を言い出す人達がいた。
ナンセンスとしか言いようがない。戸籍を廃止したら先祖を辿れなくなることや犯罪歴や相続人調査。あるいは別居している家族の身分証明ができなくなることに気がつかないのは思慮が欠けている。
たしかに戸籍は世界でも東アジアにしか存在しないのは事実だし、その部分だけを見たら欧米にはない、となる。だが、代わりにキリスト教圏では、生まれたら洗礼のために教会に登録する風習がある。それが家系を記録する戸籍になっているのを知らないで失くそうとしていたのだろうか。
先進国には戸籍かそれに類する物があって当たり前なのに、もし本気で言っているなら本質を理解せず、目先の損得でしか物事を考えていない奴らということなのだろう。
あれには天才を自分達のレベルまで下げて理解したつもりになる奴らと同質っぽい不快さがあった。そんな奴らなら、何も気にせずスルーでかまわない。
せめて自分が凡人である自覚は持ってほしいものである。口先だけが達者な奴は大局を考えられない。まぁ、大して優れたモノを持っていない僕が言うなって話でもあるが。
合宿から約1ヶ月後の2月中旬。
CPが伯仲する中で行われる学年末定期テスト直前、学年最後のトラブルが発生しようとは数人しか想像しえなかった。
爆弾をせっせと仕掛けていた誰かさんの策略で学校内を駆け巡っている誹謗中傷によってか、僕のクラスのリーダー・一之瀬帆波が1週間以上を病欠する事態になっていたのだ。
それがうちのクラスや学校内はおろか、愛里や早苗、友達連中ほとんどまで巻き込み、僕をも呑み込んで拡大していくことになろうとは読めなかった。僕の目を持ってしても……!
いやまぁ、この元ネタの軍師って実績はほぼ皆無だから、むしろ読めないのが正解なのかもしれないけども。
ただ早苗や櫛田、椎名まで網倉達に協力して一之瀬の部屋に投げ込まれたが、僕は結局なにもできなかった。
シャツの背中に、一之瀬の目から出た液体が染み込み、貼り付いて不快だったのを我慢したくらいだ。勿論、自室に帰ってから即風呂に入って洗濯機を回した。
入浴しながら、改めてさっきのやり取りを思い返す。
あらかじめわかっていたことだが、情報も表面的にしかわかっておらず、一之瀬のことすらほとんど知らない僕では、相談者として不適格だったのだろう。
何故、そんな僕をあいつらが投げ込んだのか理解に苦しむ。
一之瀬との会話?の流れも、最後までどうしてああなったのかわからず終いだ。せいぜい僕の下の名前を呼び始めたことと「今だけ」とやけに言うな、ってのが引っ掛かった程度。本当は何がツラくて、何に苦しんでいたのか。助けは求められたものの、本心の理解にまでは到達しなかった。
僕はただ泣いている一之瀬の体温を背中に感じながらオロオロしてただけだ。泣き終わってそこそこの時間を経て落ち着いたら、お礼と謝罪されただけという体たらく。
引きこもった奴への対処や心情なら、それなりに理解できるという自負は木っ端微塵である。
しかし、泣き止んでしばらく静止した後の彼女はもうジメジメしておらず、真っ直ぐ僕を見て言葉を発していた。いつもの陽キャとまではいかなくとも笑顔で、涙の跡も気にならないくらいスッキリした顔だった。
あの雰囲気を見る限り、もう一之瀬は大丈夫。きっと、たぶん、おそらく、めいびー。曖昧にも見えるかもだが、僕が確信を持てる程度には安心できる雰囲気になっていた。
だからやきもきしながら待っていただろう“椎名”にメールを送り、思いのほか滞在時間が延びてしまった一之瀬の部屋を後にした。部屋の外に陣取ってるかと思ってたら、僕を一之瀬の部屋に押し込んだ奴らが誰もいなかったからだ。おかげで普通に出られた。
ま、テスト前で時期が悪かったとはいえ、1週間くらい休むなんてあっても別に不思議ではないし、網倉達の取り越し苦労でもあったのかもしれない。心配するまでもなかったんじゃないかと思うほど普通に立ち直ったのだから、本来は僕もいらなかったのだろう。
……僕が彼女持ちの案パイとはいえ、一之瀬に手を出そうとしてたらどうするんだ。愛里や早苗もそうだったが、一之瀬含めて妙に危機感のない奴らが多すぎる。いや、モテない男に彼女ができた時の心理をわかっているというべきか。早苗の言っていた愛里にフラれる可能性を考えると、他に手を出すリスクは到底許容できない。
女子とは、なんとも男の純情を利用する非道な生物である。
僕が一之瀬の部屋に投げ込まれたのは金曜(2016年2月19日)だったので、次にクラスメイト達と顔を会わせたのは約3日後。端末を基本放置してた上に、バイト以外の外出はせずに寝て過ごしたから、愛里以外の誰とも会わなかったのだ。
月曜、いつものようにギリギリの時間に登校したら、何故か出入口にいた一之瀬から「キターンッ!!!」って感じの挨拶をされた。
迸る聖属性攻撃によって朝から灰になりかけた。コイツの奇行は疲れるので勘弁してほしい。
愛里や早苗の奇行が感染でもしてるのか、意味不明な挙動をする奴が最近になって増えている。由々しき事態だ。
尤も、珍しくはあっても何が変わったわけでもなし、元からパワーアップしただけならなんの問題もない。一之瀬は、僕との関わりもそう多くないしな。
ただ、一之瀬はお礼だとか謝罪だとか“らしくなく”モゴモゴ言いながら、昼休みになるとお菓子をくれた。細かいところは置いとくと、餌付け目的だったとしても義理堅いものだ。
すると白波が網倉から羽交い締めにされつつ、謎に睨み付けてきたので、一之瀬にもらったお菓子を何粒か摘みながらこれ見よがしに褒める。
「美味い。良い物を選ぶ目を持ってるな一之瀬。きっと君は気遣いのできる良いお母さんになるよ」
「ウッ、ウニョラー!? トッピロキー!!」
「千尋ぉーー!! 気軽に人間やめようとしないで!?」
「お母さん……」
複雑な表情を浮かべる一之瀬を置いといて、みんなにも聞こえるよう言い放ったら、白波はいつかの清隆のように人語を失って暴れ出しかけた。何人かの狂信者も共に。
「ハッハッハ、僕が羨ましいか? ざっまぁ、一之瀬のファン共! むはははっ! と煽りたい欲求を僕はなんとか抑え込んだ」
なので、僕は当然のごとく無駄に煽り散らした。なんとなくのノリである。
中でも柴田と白波の反応が特に良く、やめられない止まらないかっぱえびせん的な味わいがある。
「抑えてねぇんだよ! 〆るぞこの野郎!!」
「こきかきこきくけきききっ!!!」
「気持ちは大いにわかるが抑えろ柴田!! 左京を殴るのは試験が終わってからだ! 今はマズイ!」
「千尋、抑えて!? すっごい怖いから!」
「にゃ、にゃはは……。みんな相変わらず元気だねぇ」
嗚呼、イケメンや狂信者どもが囀ずるのを見るのは実に心を豊かにしてくれる。今なら妬みエネルギーを集めた元気玉も作れそうだ。
網倉はいつもツッコミ&ブレーキ役ご苦労様である。
てか、何気に物騒なこと言ってたりするのに、元気の一言で包み込んでしまう一之瀬の包容力よ。改めてドン引きである。
一之瀬は苦笑しながら平常運転に戻ったようなので、僕もなにも気にせず教室を抜け出し、そのまま屋上に行って一人で昼食と昼休みを満喫した。冬のピリッとした気温や空気も吹き飛ばす晴れ晴れとした気分だ。
それにしてもあの菓子。数日前にも自室へ訪ねてきた愛里と早苗、他数名にも貰っているし、女子の間でそういう風習が流行っているのかもしれない。『俺』の時は多分なかった流行だし、いい時代に当たったものだ。
一応アフターケア目的で、無理してないか何度か一之瀬の様子を窺ってみたが、数日前と違って不安を感じる雰囲気は彼女から消え失せている。ついでにクラス内も完全に、とはいえなくとも中心が戻って来たことで元の明るさを取り戻していた。
僕は当たり前のことしか言えず、理解すらできなかったのに……精神的にはおっさんなのに、無様なものだ。
それでも2月末にある定期テストの約1週間前に復活してくれたのは、一之瀬が1年間で築き上げてきたモノを裏切らなかった証明でもあるだろう。これならテストもきっと大丈夫。
それとおそらくだが、一之瀬が自分で自分を立て直した結果だと思われる。もしくは確率は低そうだけど、誰かが僕が去った後に復活させたか。
なんにしろ強い奴だ。
言葉責めとかすると時々嬉しげな態度で対抗してくる生粋のドM&ドSなど多属性ハイブリッドの変態だが、陽キャの頂点に立つカリスマ性は間違いなくある。なら、なんらかのきっかけや刺激を与えれば充分なのだろう。
坂柳さんや龍園……それに清隆は、前に一之瀬には甘っちょろく欠けてるモノがあってリーダーには向かないとか言ってたが、僕はそう思わない。
一之瀬の部屋に行く前に何人かから聞かされたところから想像すると、足元を崩されていくような感覚を味わってた中で、ほぼ自力で壁を乗り越えるなんて普通ならできないと思う。少なくとも僕には無理だ。
相違はあっても、あれは前の『俺』の退社後の状態に近かった。
ちなみに、その時の『俺』が自分の立て直しに要した期間はおよそ数年だ。それと比べれば僕との差は歴然としている。
やはり一之瀬は聖人型異常個体だという認識を強くした。
さて、それからしばらく経過し───来るべき3月14日である。
「うぇえ~。あ゙、吐ぎぞゔ~」
「ちょっ、また教室で吐かないでくださいよ!?」
「がんば…うっぷ。無理がも」
「……一之瀬。星之宮先生はもう諦めろ。放置しておくのが一番だ」
「流石にそんなわけにはいかないよ……どこか適当に安置させておく場所は」
「適当に安置って……委員長、実は結構面倒に思ってるよね?」
「そそそそんなことないよっ!? 良い先生……だとは思ってるし! た、多分……」
「そこで多分とか付けちゃうから、帆波は良くも悪くも素直なんだよねぇ」
「う、そうかな?」
「う、うぅ~。またヒドイこと言われてるぅ~」
朝のホームルームにて、昨晩飲み過ぎたのか担任が濁点多めで一之瀬達数人から介抱されていた。神崎は遠い目で諭してたが。
一之瀬が『また』とか付けたように、なんだかんだで彼らは以前の大災厄を再び起こさないよう努力する優等生の鑑である。いつも感謝している。
僕は絶対近寄らないが!
まぁ、うちのクラスの平常運転っぽくはなった。
「なんでいつもそんなになるまで飲んじゃうんですか、星之宮先生……」
「……うぇっぷ。お、お酒ってね、大人になると生まれる将来の不安とか嫌なこととかを全部忘れさせてくれるの。私はこれを幸せスパイラルって呼んでるんだけど」
「悲しすぎる幸せ……美人なのに」
なんだ、ただの時代を先取りした某酒カス擬きか。いや? これ系っていつの時代もいるから、たまたま発想が似通っただけか。
あんなのは放っといて、僕は自分のことに集中しよう。本日は決行日なのだ。
僕には覚悟を決める必要があった。即座には心の準備ができず、だいぶ機を逸した感は出てるがまだ取り返しは付く。
というわけで、昼休みの教室で一人、僕は呪文詠唱を行っていた。
「臆病は許されない」
1ヶ月くらい前、僕はお菓子…チョコレートを何人かからもらった。
それが先日の早苗の誕生日、「バレンタインのお返しも期待してますね」とネタバレされて存在を思い出したためだ。一之瀬からチョコをもらって煽った時のクラス中からの注目とその後の無意味な襲撃は、これが原因だったと思われる。
しかし両方とも僕と縁遠すぎて存在ごと忘れていたが、このイベントは約1月後の目立たない男子にとって地獄イベントとセット。
つまり本日が決起すべき日時である。
乗りきるには、不退転の決意をもって突き進まねばならない。
「体温と脈拍の上昇はなんとか収まった。だが、手には僅かに発汗が見られる」
なにやら教室中から奇異な視線を浴びているものの、そんなことは関係なく自分を鼓舞する。手はズボンでゴシゴシしておいた。
「ふ、ふはははっ。心躍るものだな! この僕がプレッシャーを感じているのか……面白い!」
実際にそう思っているかはまた別の話だが、今はブーストが必要なのだ。
窮地を笑い飛ばすことこそが僕の美学である。
「こんな素晴らしい経験ができるなら、恐れや躊躇いなんか考えてる暇はないな」
ミッションの達成条件を整理し、やることを明確にしていく。
「できる……! 僕ならできるに違いない! やること自体は実に簡単なことなんだ!」
というわけで、自己暗示も兼ねた心の一方は完了。今の僕は鵜堂刃衛だ。
さあ、往くぞ……緋村抜刀斎、じゃなくて一之瀬帆波!
髪の色が近いからつい間違えそうになった。口に出してなくてよかった。
愛里と早苗、他数名なら、こんな覚悟を決めなくてもいいが、大々的に教室で義理チョコを渡してきた一之瀬相手だとそうはいかない。
チョコを貰った日はまだ普通だったのだが、それ以降は一度たりとも話もしてないし、目が合うこともない。合いそうになると、いきなり忙しそうな素振りを見せて何処かへ行く。最近は、会話どころか接触自体がなくなっている一之瀬なのだ。
一時期はこれが通常だったから、元に戻ったと言えなくはないものの、月イチの会話さえ成立しなくなっている…露骨に避けられている現状である。
おそらくだが、ついに完全に一之瀬から嫌われたのだろう。
度重なるセクハラやおちょくりに煽り、逃亡・痴漢・不法侵入。この1年で彼女に降り積もらせてきたモノを思えば、ある意味当然であるし、納得もできる。
しかしチョコを貰ったタイミングで、というのが問題だった。最近では全く話さなくなった人気者女子である一之瀬と接触する必要があるからだ。
こういうのはきちんとお返しをしないと、釣った魚に餌をやらない某人物達と同類と見做されるらしい(櫛田談)。有象無象はどうでもいいが、流石に友達連中から南雲や清隆のように見られるのは最悪すぎる。
チョコを美味しく頂いている時には見抜けなかった。この僕の目を持ってしても……(2度目)! もし一之瀬がこれを狙っていたとすれば、大した策謀家だ。
ともかく人でなしの評価を避けるには、まずなんとかして男女問わずいつも囲まれている一之瀬への道を切り開かなくてはならない。
ゆえにこそ、僕はホワイトデーによって賑わう人並みが落ち着く昼まで待ち、擬似的な英雄ムーブであえて周囲をドン引きさせた。そしてモーゼが海を割るように人並みを割って一之瀬の元へ直進し、ブツを差し出す。
「お返しだ一之瀬……! お前の策は破ったぞ。残念だったな」
「さ、策? むむむちゅき、くんは何を言って……」
「……またこの男は妙な勘違いを」
「……だろうね。左京君、いつも致命的に変な発想に辿り着くから」
「ふっ、ハッピー?ホワイトデー一之瀬。次は上手くやるんだな」
すると策を破られ、狼狽えた素振りを見せる一之瀬。と、おかしな呟きを溢す白波&網倉。
逆に僕は、困難なミッションをやり遂げた達成感を露わに勝ち誇った笑みを浮かべる。
陰キャが陽キャ集団の只中に突っ込むのは、高く険しい心理的ハードルがあるのだ。達成感が凄まじいのも理解できるだろう。
「ありがっ……ん?」
「んん゛っ!? え、なにこれ??? タッパー?」
「うむ。中身は手製の月見団子と餡・きなこの詰め合わせだ。お好みでどうぞ」
「「「団子……」」」
「ホワイトデーにこれって、どういうセンスよ……」
気分上々でお返しを渡しながら聞かれた内容物を説明すると、一之瀬含む3人は仲良く鳩が豆鉄砲を食ったような顔で半透明のタッパーを覗き込む。
なんかいた姫野にはダメ出しされたが、お菓子にはお菓子を返すべし、と早苗がニヤニヤしながら教えてくれた。
怪しくは感じても、性格が腐り果てていても、生物学的には一応女子の助言だ。できることなら従っておくべきだろう。
そもそも手の込んだ洋風お菓子とか僕に作れんし、昨日の日曜にデートがてら覗いたショップの売り場は、リア充カップルの結界が張られてて愛里と一緒に敵前逃亡したくらいだ。あんなところにはとても行けない。僕と愛里もカップルだという正論は捨て置く。
だから最適解が不可能ならばと、一之瀬には月見の時によく作る団子セットをお返しにした。和風な菓子でも、お返しはお返しだし問題ないだろう。
ちなみに、友達連中からはチョコをくれた人の要望に応えた物品を、暇な時に工作室で製作してたモノの中から(愛里にはボトルシップ、早苗と椎名には模型とブックカバー)選んでもらっている。ただ借り1ね、と言ってきた櫛田は保留。それと一之瀬は前述の理由で要望を聞けなかったため、団子にしたわけだ。
「夢月君らしいね……。改めて、ありがとう」
「どういたしまして。
ああ。今晩、天文部で月見するから、よかったらそれ持って参加して。醤油とかのしょっぱい系も準備してるからさ」
「…………ふふっ。にゃはははっ! うん、私も是非っ!!!」
ともあれ悟ったような顔でお礼を言われたので、こっちの方が好みかと月見への参加と別の味を示してみたら、一之瀬は久しぶりにいつもの明るい笑顔を見せて力いっぱい参加表明をしてきた。
そういうイベントだからチョコにしただけで、しょっぱい系の食い物の方が好きだったのかもしれない。次があるようなら、みたらし団子や五平餅も選択肢に入れておこう。
これで許された……和解は成ったのだろうか? まぁ、この聖人から避けられてたのは微妙に面倒だったし、表面だけでも普段通りに持ち直したのなら言うことはないが。
僕はブラック的なモノや負属性っぽい雰囲気が嫌いなのだ。
誰かがそれを漂わせてたら、できることをして払拭するのが楽しく過ごすコツだろう。
優しい奴には優しい未来の道筋が想像できるのが僕の好みである。