体育館を出て1人となった僕。
目的に掠ることすらなかった説明会については頭から消去しつつ、体育館を出るまでは早足で歩き、外に出てからは最短経路を頭に描いてショッピングモールへと駆け抜けた。
別に駆け抜ける必要性は全くないのだが、四方に天体観測について語っていたら天体望遠鏡が欲しくて欲しくて我慢できなくなかった。理由はそれだけである。
息を整えながら、コーヒーとお茶は後日に回して天体望遠鏡が売っているカメラ屋や電気屋、中古屋などの場所を巡って品定めをしていると、ある電器屋で最新技術を使ったトラス式天体望遠鏡を見つけた。
空気を通すことで減退するレーザーによる視界を、揺らぎがほぼ0の状態でクリアに見せる天文関係者垂涎の品だ。数字を見る限り補正光学装置はそこまでではないが、持ち運びできるサイズでこの性能は破格といっても過言ではない。実家で使っていた望遠鏡は勿論、前の人生で大枚はたいて買った天体望遠鏡すら遠く及ばない。
今まで気づいていなかったが、どうやら科学技術に関しては前より微妙に進んでいる部分もあるらしい。値段も120万程度で今は厳しい値段だが、不可能な額ではないだろう。バイトをする際の良い目標が出来た。
……それにしても欲しい。
あまりにも欲しすぎる物が目の前に出てきた為に、思考停止と思考放棄の境界線で反復横飛びしながら見ていると、いつの間にか後ろのカメラ売り場にいたらしい女子が後ずさりしていたらしく尻がぶつかってきた。
「ご、ごめんなさい!」
「ん。高価な売り場だからなるべく気をつけろよ。
……あ、やっぱ今のなしで。」
ほぼ何も考えてなかったから普通に返してしまったが、入学2日目に交流も部活動説明会もほっぽってこんなところにいる新入生などそうはいないだろう。つまり、この真ピンク髪の俯いて謝っている女子は先輩に違いない。
「此方こそすいませんでした。先輩こそお怪我などはありませんか?」
「ごめんなさ………………えっ? 先輩?」
「僕も少し思考放棄していたみたいで注意力がなかったみたいです」
「え? うえっ?」
「はい? 上ですか? ああ、上級生とかそういう……」
「ちがっ、ちがくて!」
そう思い至ったところで態度を270度回転させて慣れない敬語にしたのに、なぜか余計に混乱度合いを上昇させたこの先輩が非常に面倒臭い。なにやら行き違いが発生しているような気はしているのだが、原因がわからないことにはどうしようもない。
僕としては、たいしたことは起こっていないのだから冷静に謝りあってさようならが理想的なのだが、この先輩にいま冷静さを求めるのは難しいと考えざるを得ない。もういっそ敬語より慣れない軟派な態度でお茶でも誘って、さらに混乱させた上で嫌われて別れる方針で接するかとヤケクソ気味に口を開こうとして───此方を見ているソレに気づいた。
「あ」
思わず、開きかけた口から音が漏れてしまったがそれどころではない。
形容するのは難しいのだが、あえて表現するならソレは負の感情の塊……のようなお化けの欠片だ。以前に僕が見たことがあるソレは、赤色の靄が猫にまとわりついていたが、今回は緑っぽい何かが絡みついたような人間だ。
そう人間である。
あれがそうして、ナニかがどうにかなったら襲ってくるようなお化けの欠片が人間にくっついている。
そのことに気づいたら怖くなってきた。
僕はここに来てまだ2日目で、敷地内の地理をほとんど把握していないから、地元では逃げ場にしていた神社や寺なんてあるのかすら確認していない。守ってくれる可能性がある神様っぽい存在というと東風谷を確認しているが、現在どこにいるかどころか連絡先すら知らない。今更ながら、四方をはじめ誰とも連絡先を交換していない自分自身への無能さと怒りを感じる。
しかし今は僕の恐怖と焦燥の元凶の方が優先だ。
幸いといっていいのか、狙いの中心は目の前にいる先輩っぽい。だが、いくら初対面かつ面倒臭くても、この先輩を見捨てて逃げるのは矜持に反する。かといって、あまりお化けの狙いの中心近くにいると、僕にもターゲットが移る可能性を上げることにはなるのだが……。
僕が黙ってしまったせいなのか、いまだに「あの」だの、「あわ」だのしか口にしないこの頼りない先輩をチラ見する。
うん。状況を正しく認識しているかは怪しい。それに認識が正しくなくとも、成人男性の通り魔、もしくはストーカーに狙われているのがお化けの事を抜いた場合の高確率な事実だ。今は見ているだけでも、どの事実であっても、先輩が危険なのは変わらない。
……やるしかないか。
さっきは冗談みたいな考えだったが、僕は本気で下種なナンパ男の演技をして、この場から『先輩ごと』逃走することを決意した。
まずは先輩の立ち位置と手の場所を確認。
それから身長や歩幅をざっと割り出す。
手に持っている袋から、壊れやすい精密機械の類を持っていて、激しい動きは難しいと仮定。
僕がいきなり動いてじろじろ自分を見てくるからか、混乱と慌てた精神状態。
顔・胸部あたりに目線を走らせた時に微量の警戒感あり。
詳しい性格や心理は不明。
先輩の状態を確認したら、これから最低限、店を出るまでは現時点で斜め横にいるお化けの方を注視し続ける。くっ付いている人間は目を向けていないが、お化けが此方を見ているのが僕には分かるからだ。万が一、跡をつけられたら逃げる意味がかなり薄くなるので、可能な限り監視してるぞという意思だけはお化けに示して牽制しておく。学生寮という終着点以外の情報は、なるべく落とさない方がいいだろう。
ナンパ行為自体については、先輩の方を向いていない上に意識の大半がお化けにいっているから変だと思われるかもしれないが、それこそ今さらである。
ともかくこれで準備はできた。あとは実行だけだ。
───さぁ、左京夢月渾身の演技をこの世に知らしめてやる!
「あ~……ねぇちゃん、オイラにぶつかっておいて…え~と、謝罪だけってのはないんじゃあないんですかぁ? ……せ、誠意。そう誠意をみせてもらおうかい。ぐ、具体的には、う~んと、ワシ、じゃない! あ~と、それがしに茶でも馳走になっても罰はあたらんぜよ。返事はハイかイエス以外認めねぇぞ、オラ」
演技は少し詰まって、途中からもうなに言っているのか自分でもわからなくなってしまったものの、後半の要求が通じればいいので先輩が返事をしてもしなくても後ろ手で無理やり手を繋ぐ。僅かに意識を割いている先輩の反応は唖然として動きを止めているようで、抵抗しないのは助かった。
幸運に感謝しつつ、お化けの方に視線を固定したまま、先輩のざっと推定しておいた歩幅に大きなズレが生じないように、慎重に斜め歩きして店の出口に向かう。
……あと少し。
汗が目に入って鬱陶しい。
繋いでいる手もきっと震えと冷や汗でひどいことになってる。
ああ、向けられる悪意がこんなにも怖いとは思わなかった。
…………出口まであと数歩。アレをまだ見てはいるけど、動いてはこない。最後まで動かないでくれ。
こんな時なのに、汗まるけになってしまったから洗濯の心配が頭を掻き乱す。
自動ドアを斜め後ろを向きながら先輩を引っ張ってくぐり、まだ絡み付いてきてる気がする視線の方角を睨み続ける。
今はもう外と店を隔てる壁や自動ドアがあるのに、まだ意識を逸らしちゃダメな気がする。
店を出てからも見られている気配はあったので、僕は意識を先輩を見ている視線の元に集中して慎重に歩いていたが、小さな広場にぽつんと佇む喫茶店の前に来て、何故かいきなり視線が消えた。
そんな時に、バシャッ、という水音が聞こえて反射的にそちらを向く。
先輩と手を繋いだままだったのを忘れていたので、少し振り回してしまった。
喉が渇ききっていて掠れた声になっていたが、悪いと思ったので何とか先輩に謝り、一先ずもう大丈夫と判断して手をほどく。
「すいません」
「……うん」
先輩は僕を責める雰囲気でもないが、ほどいた手を見てみるとそれなりの力で握り続けてしまっていたのか少し赤くなっていた。
僕はなんか一人で空回りした挙句、引っ張りまわした思いが湧き上がってきて再度謝ろうとしたが、安全だと体が判断してしまったのか、よりによってそこで―――腰が抜けて崩れ落ちた。
「えええっ!? ちょ、大丈夫ですか?」
「……うん。ちょっと腰抜けただけで大丈夫だから。あんまり言わないでくださいね。情けなくて死にたくなるので」
その時の僕は、見ようによっては女子の先輩に道路の真ん中で土下座してたように見えるだろう。
だが個人的に見れば、実際はもっとかっこ悪い。
お化けから逃げきって安心した結果、腰を抜かした。助けていたつもりの一緒に逃げてた先輩は普通に動いてるのに。
「お二人とも。その様子だとしばらく動けないみたいですし、うちのお店に寄って行きませんか? サービスしますわ」
オマケに打ち水していた人妻風美人のお姉さんには、一部始終を見られていたのが僕の精神的ダメージを更に増大させる。
現実逃避の為に見上げると、そこには喫茶店の看板らしきモノが風に揺られてカタカタと音を立てていた。
『喫茶・芳香』
入学2日目。
後に僕にとって高校時代最良の喫茶店となる場所との出会いは、そんな情けない成り行きが始まりであった。