【完結】たそがれより世紀末まで〜98×99三強カップリングがイチャイチャしたりするかもしれないしドロドロするかもしれないしの幻覚話〜 作:春華ゆが
気がつけば、私は荒野に投げ出されていた。硬い地面、荒れた大地、草木は生えずいのちの気配はない。つまり荒野。妙に熱を持ったざらざらの地表から、私は起き上がる。手のひらに土がついて、服も汚れていた。こんな場所で制服だ。どういう状況か、確認するまでもなかった。目に飛び込んでくるのは、
遠く遠くの地平線と、
赤い赤い空が見えた。
ここはまともな世界じゃないらしい、そう当たり前に気づけた。セイウンスカイはついに地獄に落ちたのか、そう思ってみたりした。そんなに悪いことはしていないつもりだったが、心当たりがないわけではない。誰かを裏切ったりはしていたかもしれないから。
今も。
追いかけてくる人たちを振り切って、一人になるふりをして、また誰かをそばに置こうとしている。トップロードさんのことだ。どうしてまた人を犠牲にするのか、とか、どうして私でなくあの人を選ぶのか、とか。色々。嫌な脳みそだ。
数えきれない人たちを思い出すのも憚られたのに、一人ずつ思い出した。数えきれないことが悪い。誰も悪くないのに何かを押し付けるのが悪い。どうしてもどうしても、そうじゃなくちゃ生きていけない。しんどいのだ。本当に嫌気がさす。
あんなに優しくていい人たちがそんなふうに責めるはずがないのに、そう思うことこそ悪かった。地獄に落ちる理由がそれならば、納得だ。目を覚ましていたら地獄だった、それを受容するくらいには私はどうかしているらしい。はは。まあ、仕方ない。地獄なら本当に一人だから、私以外の誰かが地獄に落ちるなんてありえないから、絶対にこの方がいい。
だから歩いた。ここにいるべきだと思ったから。歩けば、ここは私の場所になる。足を馴染ませる。飛び立てなくなる。そうなってしまえばいい。罰だからではなくて、私の未来の話だ。ふさわしい道というものがあるのだ。未来は、将来は、人生は。進んだ先にある。ほしいものに届かなくても、どこかで落ち着くことができる。いつか、馴染む。止まった場所が、いるべき場所だから。
だから、前向きに地獄を選ぼうか。地獄だって、人生の先にあるものには違いない。やっぱり未来の話だ。光り輝く未来が、地獄行き。そういうこともあるだろうと、なんでも納得していた。そう、私はなんでも納得できる。できてしまう。納得する以外の選択肢がない。伽藍堂。
歩いて、歩いて、歩いていた。走るのは嫌だった。それも自由。こんなところでもまだ自由に縛られている。だからできるだけ仕方ない方を選ぶ。後ろ向きな方を。
前に進むけれど、私自身は後ろ向きがいいから。どうにもならないくらいが、一番いいから。
そして、いつのまにか。瞬きをした。唐突に目の前に崖が現れた。吊り橋が一つ渡されていた。当たり前のように壊れかけていた。限界が、具現した。
今にも渡れなくなるから、今渡るしかない。
地獄に落ちるにはこの橋を渡り切らなければならない、ということだ。
「いかなきゃ」
なるほど。その時にはなんとなく、この世界の仕組みがわかっていた。地獄というものは、責苦を与える。与えて与えて、罪を精算する。許されるわけではなく、ふさわしい在り方を与えられる。
酷い思いをして、苦痛と疲弊を重ねて、その先にゴールがあるのだから、これはレースのようなものだ。いつも通り一人で走ればいいのだから、これでいい。望んだ世界だった。碌なものじゃないから、呟いた。「いかなきゃ」と。
不快だ。気持ちの中にもやがある。間違いなく望んだものだったのに、どうして嫌な気持ちになるのだろうか。
もちろんわからない。ここも一つの世界だから、私の望んだ世界のあり方だから、わからないことの方が多い。私のことはわからない。世界のこともわからない。私が知っていることなんて何もない。頼れることなんて何も、何も、何も。世界が素晴らしいのは、私の知らないところに素晴らしさが隠れているからだ。
ああ、素晴らしき世界かな。私が自由で役割のない世界は、故に欠落が起きずに素晴らしい。うまくいくから。そこにたどり着きたかったけれど、逃げ癖は治らないものだ。昔は向き合えていたのに、いつのまにか向き合えなくなった。世界に。
だから置いていかれる。
進むしか、ない。
一歩、軋む木の板に足を差し伸べる。乗ってみても音はしなかった。体重を少しずつかけてみて、それでも橋は壊れない。もう、一歩。両足の下が揺らぐ。崩落が目の前だ。時間はない。なら進むしかない。順調であることはいいことだからだ。進む先が嬉しくなくても、進みたいから進んでいる。望んでいる。
望んだものはもちろん希望という。
私というものに重みがなくなることを、密かに期待し恐れているのだ。その恐れを断ち切れないから、
どうにも歩みは遅かった。壊れかけた橋は慎重に進んで、壊れないように怖がらなければならない、というのもあるけれど。怖がり、恐れ、だから遅い。走れない。
走り切ってしまえればどんなに楽か、私はどうしてそれができないのか、私の橋はどうして壊れかけているのか、どうして、どうしてどうして、そう自問しながら進む。答えはやはりない。歩くので精一杯だから。それなのに今日も問い続ける。どうしても。止められないことが、自分を苛むことが、自分に「しっかりしろ」という前向きな自傷が、どうしても終わらない。
諦められないから、
そうして、渡り切った。その先も荒野だった。ああ、と思った。嘆息した。ゴールはなかった。苦しい苦しい橋の上は、ただの道のりに過ぎなかった。末路はまだ遠い。地獄には行かなくて済む。果てしないから、ゴールを目指し続けられる。見えない未来を。
いかなきゃ。
そう突き動かすのは、未来を目指すのは、地獄を目指すのは、どうしてこんなに前向きなんだろう。
ああ、なんて幸せなのだろう。
※
「──大丈夫、ですか?」
目を覚ますと保健室のベッドだった。下着の裏は汗がびっしょり。そこまではすぐわかって、一寸あと。まぶたを開いて最初に飛び込んできたのはトップロードさん。ウマ乗り。一番乗り、だ。
「大丈夫じゃなさそうでしたか」
「うなされてましたよ」
らしい。まだ意識が朧げだ。夢を見たことは覚えているけれど、どういう夢だったかももちろん朧げ。寝ていたらしい。眠っていたらしい。よろしい。眠っていたのはよかったと思う。
「あはは、そりゃまた」
悪夢だったのは覚えているから。
全身の感覚で、だ。
あれが悪夢だったなら、現実じゃないのなら、よかった。
目と鼻の先にある顔は少し心配そうな表情で、当然のように私のベッドに乗り込んできていた。この前から二人の距離は若干近くなりすぎた気もするが、ともあれ私のうなされ方、悪夢の程度はそれほどだったらしい。
でも、目と鼻の先のあなたからいい匂いがした気がしたから、現実に戻る価値はあったのだろう。ということにする。夢の中には多分においがないし、トップロードさんもいない。誰もいない。迷惑をかけなくて済む。一人になりたいのだから、少し前の保健室と同じ。そう言えば悪夢は悪くないかもしれないけど、
だけど、起きた方がいいのだ。悪夢より現実がいいと、時と場合によってはそういうもの。少なくとも、「今」は。
「……でも、何を見たかはさっぱり」
残念ながら、質問には答えてやれないのだけど。大丈夫かというと、そういう状況判断から大丈夫と思うしかない。何度も言ったけれど、全部推測だ。かもしれない、だろう、そういうの。夢の中のことなんて、本当に覚えていないから。目を覚ませば忘れている。寝ている間は正気じゃない。夢とはそういうものだから、心配しなくてもいい、ということでもある。
「まあ、そうですけどお……」
落ち込む。また落ち込む。この人はここにいるとよく落ち込む。それでも表情は豊かだし、今日は顔が近い。綺麗な目をしているな、と思った。夜明けの色だ。日暮れの色かもしれない。私ではまだ見分けがつかない。
でも少なくとも、やはり太陽だ。私にとって、この午後の、マジックタイムの太陽のような人だ。逃したら消えてしまって、あちらから強烈に照らしてきて、
「それでも、つい」
「でしょうね、そういう人ですから」
短い時間しか、一緒じゃない。
心配性で気を配れる。誰にでも優しい。トップロードさんについて、そういうのは聞いたことがある。実際私にもそうだった、そういうことだ。それ以上はわからない、ということにしておこう。
私の前でのトップロードさんは、よく落ち込むし、不意に泣き出す。それでも、明るい。態度が凪いでいる私とは対照的だ。私にそれでも話しかけて、話しかけない時もリラックスしている。耳でわかる。声音でわかる。そもそも声が控えめだし、言葉も少ない。多分、相対的に。ここ以外のあなたは知らないから、私が捨てたはずの感覚なのだけど。なんとなく、保健室のあなたは違う気がした。
それにしてもさっきから近い。どんどんと覆い被さっているような体勢になっていると気づいた。心配が体勢に出ている。影にすっぽり入れられて、トップロードさんが傘になってしまいそうだ。
そんなに私はうなされていたか、不安か。寝ている当人はもちろん知らないし覚えてもいないわけだが、悪夢だという感覚は残っているから納得するしかない。……それにしたって、そんなに心配するほどか。
というわけで、だった。そもそも自分が知らないことでてんやわんやをされると、どうにも気になるというものでもある。話題としては明るくもないだろうけど、まあ私たちは明るい話題を見つけるタイプでもない。心配事、不安、それをなだらかにするために吐き出す。うなされるのもそのうち、私から吐いた何か。
あなたが聞き取ったのは何かと、
「何か言ってました? 私」
つい、聞いてみた。
寝言。夢の中でさえ喋りたいこと。そんなものが何かあったなら、私の本質的な望みなのだと思うから。特に悪夢の中では、私は望みを吐くだろう。追い詰められているのだから、逃げ場がないのだから、進むしかないから。なんとなく、そんな気がした。
今日は感覚に頼りがちだ。それもいいか。
悪夢を見るようになって、一つ気づいたことがある。目を覚ました時の感覚は、まず安堵だ。なんとかなって、なんともなくて、さっきのは夢だった。覚えていないのに、そのことを喜べる。夢は現実で手の届かない望みを写すのに。根拠がないのに、どうしても安堵する。
希望が見える世界より、希望がわからない世界の方がいい。そういう認識で起き上がるから、夢は夢でも悪夢なのだ。悪い。よくない。こうじゃない方がいい。どうか、こうはならないで。
悪い夢だから悪夢だったことだけは覚えているし、
「いかなきゃ、って」
本心を剥き出しにしているから覚えている。
「どこかに、いかなきゃ、って。言ってました」
「……なるほど」
一寸、多分気づかれないくらいで、言葉に詰まった。やっぱり悪夢だったから。言いたくない、言わないようにしたい、折り合いをつけたい、大人になりたい、色々あって封じ込めていた望みが、悪夢の中では簡単に顕になってしまう。隠すことも逃げることもできなくなってしまう。だから悪夢だ。
望んだことを望んだように言えて、だけど決して満たされない。感情の発露だけで世界が構成されていて、成り立ちからして狂った世界観だ。脈絡なく、不条理で、私のやりたいことをやらされて、絶対にうまくいかない。だから悪夢だ、と。
「なんでもないですよ」
そう思いながら、また逃げた。現実の未来は閉ざされていないから、逃げる先があるのだ。誰にでも同じ世界が広がっている。これも現実。努力と才能と、気持ちの差。これが現実。平等とは無慈悲である、とも。前向きに進まなきゃいけないから、人生はみんな苦しい。それぞれの人生があるのに、同じ世界で生きていく必要がある。誰とも噛み合わないとわかったなら逃げるしかない。
逃げられるけど、逃げるしかない。押し潰されないのが現実の良し悪しだ。どうにかなって生きていける。幸せかどうかは自分が自由に決められる。未来にはそれぞれのゴールがある。正解が決められないと永遠にたどり着けない。
そういう様々を、なんでもないことだと言った。
「なんでもないことはない、と思いますけど」
「そう言っても実際、夢の内容なんて覚えていませんから」
「む。それはそうかも」
「だから案外見当違いですよ、悪夢だなんて」
だといい、と思ったか、そうじゃないのに、と嘘をつきながらだったか、実際どちらかはわからない。自分でも。寝起きだからそういうものだと思う。
悪夢ではないのだけは嘘だけど。経験則だ。この気持ちは、なんとなしの居心地の悪さは、寝覚めの悪さは、悪夢だ。もう一度眠るのが少し怖くなる。現実がどうしてこんなに、そう思う。現実からはやっぱり逃げられないから、現実を写した悪夢を見る。それでも、まだマシだった。忘れられるのだから。現実ではないのだから。矛盾するかもしれないけれど、私の感情が掻き乱されても、それは実在しないなら。
まだ、マシだ。
まだ。
まだ。
まだ、今日はあなたといる。
まだ昼寝の時間だ。今になってから昼寝はずいぶん浅くなってしまったし、そもそも夢を見るのは珍しいことじゃない。というわけで意味のない夢もある。たまに覚えている時もあるけれど、もちろん変な夢だって見る。夢に見る内容が全部自分の欲求だったら、私は人格破綻者だ。夢占いなんて嘘っぱち。
とはいえ、悪夢だったから。悪夢は望み。悪夢は本質。一番怖がっていることを、最悪の精神状態を、まだそこまで落ちきっていない未来を、悪夢は見せる。その感覚を、経験則と感覚の二つに支えられた悪夢に対する私というものを手綱にするなら、
「多分、ですけどね」
本心かもしれない。
いかなきゃ、って。
行かなきゃ。
逝かなきゃ?
まさか。
まあ、わからない。シチュエーションも覚えていないし、覚えていたとして不条理だろう。全部全部夢で解決するなら、現実が必要なくなってしまう。あくまで吐き出し先。本心の発露の一つ。できるだけ前向きなのが本心だといいなと、そう思った。
「もう一眠り、しましょうよ」
だからその日はそれで終わり。何事もなく、もう一度眠ることにする。おやすみなさい、いい夢を。夢を見ないなら、それが一番いいけれど。
羨ましいなと思った。
起きてから、悪夢について語って、また二人で眠る前、思った。ああ、羨ましいな、と。
起きているうちに泣いてしまえるなんて、辛いことが一つに吐き出せたのだから、羨ましい。私とは違う人、なのだろう。同じことは起こらない。なんとでもなる。それならとてもいいと思った。
わからなくなったら、また吐いてくれたら。
その時だけ、私は何かになると思う。あなたの何かに。
※
スカイちゃんに付き合った日、帰りは夜道だ。一人だ。あの子は別々に帰るし、そもそも保健室から帰らない日もあるみたい。いつも私が先に保健室を出るから、わからない。彼女の生活が何でできているかなんて。
「……はぁ」
こつ、こつ、こつ、こつ。夜道を歩く中に、私の分かりやすいため息が混ざる。最近ため息が増えた。閉じ込めていたぶんが抑えきれなくなった。抑えなくてよくなった。わからないこと、届かないこと、辛いこと、そういうものが吐き出せるようになった。もちろん、スカイちゃんに会ってから。
だから今も前を向く。たまに後ろを確認するから。後ろ向きなことが、私にあってもいいと、許せるようになったからだ。
まあ今日気にしているのは、もちろんスカイちゃんのことだけれど。
なんだかんだと、スカイちゃんと話すことは増えた。友達の話、レースの話、怪我の話、昔の話。昔の話はたくさん聞いた。クラシック戦線とか、友達と昔交わした会話、喧嘩、慰める人。全部の話が、昔の話、という前置きから語られた。
今は何もない、そういうことを言っていたのだ。だから彼女は未来を見ているらしくて、そのために安静にしている。もう一度走れるかはわからないですけどね、笑って言っていた。痛々しい笑い方に見えた気がしたけれど、やっぱり私はスカイちゃんを知らなかった。昔の話は昔の話だから。
今のあなたは知らないのだ。私は、今のスカイちゃんを知らない。少しずつしか。保健室で一人の時間を過ごして、何故だか私を引き込んだ、そんなことをしたあなたのことはわからない。推測するしかない。観察するしかない。不意に見せる本当を、ちゃんと捕まえるために。
「いかなきゃ」
あなたの言葉を、多分どこかの本心を、私も呟いてみた。呟きは響かず、夜の空気に消えていく。だからあの保健室じゃなきゃ、あなたの呟きも聞き取れなかったと、そう思った。
あそこは大切な、二人の場所になっている。ほとんど私物化だ。優等生の私と許可をもらったスカイちゃんだからなんとなく許されていて、実態としては少し悪いことをしている。二人だけの世界を作っている。勝手に手を繋いでいる。かけ離れた私たちが、同じようになっていく。
だから、いかなきゃ。私もあなたと同じ言葉を吐けるのだろうと、そんな気がした。言えるように、吐き出すように、行かなきゃ。そう言えるだけのものがある。目標がある。目指したい気持ちだけで、無限に頂点は遠くなる。だから諦めないまだ、諦めないように、走り続ける。勝てないことは諦める理由にならないから、私たちは走り続ける。生き続ける。人生の先へ、行く。
多分そういうことだった。夢を見ているうちも生活の一部だった。一日の中に、スカイちゃんは何かを呟いた。本心か、吐けない言葉の代わりか。私の涙に似たものかもしれない。私もあなたも、吐き出すのがうまくない。ひとまとめに言葉にできない。なんでもない、自分でさえそう思ってしまう。近くにあなたがいるから、鏡のようだから、吐き出せる。
そういう場所。
いかなきゃ。二度と聞けないかもしれないから、ずっと忘れないようにしよう。こういうことから、「今のセイウンスカイ」を知れるから。自分でもうまく言えないことを、漏れた何かを、一つだって逃さないように。あなたのことを、私はもっと知りたいから。
それが、私のやりたいこと。やるべきかはわからない。一致していなくても、今、望むこと。いつもの私が頑張っていることとは別で、あそこにいる時の私が望むこと。その延長だから、帰り道ならこの願いを食んでもいい。これも目標。「あなたといる私」の未来。
そう思って、歩き続けて、
何も思わず、眠りについた。
──だから、その夜悪夢を見たことは、あの子とは関係ない。
※
見上げるような夢だった。ずっと遠く、すごく遠く、届かないくらいに遠く。崖の上、赤い空の下、そこには誰かがいて、
私は奈落の底にいた。お行儀よく座ってしまって。へたり込んでいるとも言えるかもしれないけれど、とにかく立ってすらいなかった。制服はズタズタに汚れていた。もう頑張りきったあとらしかった。それでも届かないところがあって、崖の上を見上げる夢だった。
断崖絶壁。崖はそういう直角で、けれどとっかかりはたくさんあった。でこぼこだ。私が登るための道なき道だ。刺々しい岩肌を、傷つきながら登ることはできそうだった。これは道だった。暗い暗い闇の中で、周囲の状況とその先は見えた。あの影は待ってはくれないとも、わかった。
……ああ。でも、私は、
怯えてしまった。
追いかけなくてはいけないのに。
もう全身が傷だらけだったのだ。果てしない崖を堕ちてきて、最底辺に叩きつけられて、痛くて、痛くて、まだ上しか見えなくて、進むとすれば登るしかないから、立ち止まりたくなってしまった。立ち止まらないことは、痛い。
どうしようもないことが、世の中にはある。越えられない壁、届かない天、妥当な場所、選べない妥協。それでも、このままは嫌だった。そう思ってしまう。そう思うしかない。追い詰められて追い詰められて、そこで休む選択肢は私にはない。立ち止まるように見せて、心は動きたいと思ってしまう。
傷だらけで、立ち上がれなくて、何もできないからこそ、何もできないのは嫌だった。嫌で嫌でたまらない。どうしようもないのに。気持ちは、止まらない。まだ。
まだ。
壁に触れる。手がまた切れる。痛い。痛みが増える。また怯える。努力するから、苦労するから痛いのかと、原因と結果を紐づける。
前に進むことが、怖くなる。
次は、次も、次は、もっと。うまくいかないことはどんどん増えていって、耐えられなくなってもだめにはなれなくて、好きだったり光っていたりしたはずのものが、苦しかったり眩しくなったりしてしまう。昔の私が、今の私と違うと、わかってしまう。
それでも、崖に手をかけた。血まみれの手を、冷たい岩に突き立てて、一歩。その一歩が積み重なれば、この崖の先で待つ誰かにたどり着く。そう信じて、進んだのだ。一歩。果てしない一歩目。そのぶん、ゴールに待つものが見える。崖の上から、私を見捨てようとする──。
「行かなきゃ」
崖の上の「私」が、そう呟いて踵を返す。
なりふり構わず、それでも進むから。
奈落の底まで響いていた。
※
「春の天皇賞、一着は──」
また、勝てなかった。
また。
また。
また。
まだ、今年は勝てていない。
まだ。
まだ。
まだ。
本当に、「まだ」?
あの日の夢を思い出す。私は、追いかけていた。過去の私を、追いかけていた。悔しくても大変でも"勝っていた"、過去の私を。
前には進めないのだ。過去の私の方が、前にいるから。今の私は、じりじりと落ち続けている。
いかなきゃ。
そう言った私は、「今の私」を捨てたがっている。
始業式
※
年度の初めは四月。桜が咲いて、舞って、散るまで。そのうちの最初が、始業式だ。トレセン学園を含めた学生にとっては。社会に出たら変わるのかもしれない。未来のことはまだわからない。
「おはようございます、ポッケちゃん」
反対側からは返事がなかった。まだ寝ているらしい。しまった、と思ったが、そのまま起きてこなかった。起こさなかったからいいか。
つい挨拶したのは、多分、あまりに綺麗な日差しだったからだ。そういうことにしておくわけではなく、不思議と綺麗に見えた。照らされている世界も素晴らしいといいな、みたいな。みんなの日常が。
朝は綺麗だな、と思うのだ。好きな時間だ。今日も頑張るぞ、と思える。しかも今日は特別な朝だ。なんといっても始業式。つまりは、頑張るぞの範囲が違う。今日も、どころか、今年も、なのだ。特別だ。未来を決める一日目だ。毎年あるけれど、今日もあっていい。特別な日は人生にたくさんあって、どれも取りこぼしたくない。レースもその一つ、かもしれない。
「……目標があるといいかもしれませんね」
ちょっと早起きな朝、そんなふうに独りごちる。特別な朝なので、唐突な思いつきも許されるし、むしろいいことかも。
とはいえ、今のところは目標を立てることそのものが目標だろう。何せ一年で起きることは色々あるし、やらなきゃいけないことも色々あって、急にやりたいことが増えたりもする。
それこそ、スカイちゃん。スカイちゃんと仲良くなるのはもちろん目標だとして、一年のスローガンにするのは……小っ恥ずかしい。一年の目標なのに、他人頼りみたいでよくないし。
他人を頼ることが悪いわけではもちろんないけれど、自分の目標は自分のことだ。というか元をたどれば、スカイちゃんに対して私からほとんど何もできていないのが問題なのだけれど。他人頼りになることがもう明らかな目標立ててしまうというか、スカイちゃんからの歩み寄りにも期待しないと厚かましすぎるので、他人頼りであるべきというか。まあつまるところ、あの子が関係ないことも私にはある。達成できてもできなくても、頑張らなきゃと思えるような。
進むためのものだ。
……そうだな。始業、始まり、今日からすぐできること──心構えのようなものとすれば──、そういう条件を満たしているといい。一年かけられて、一年いつでも見つめられる。目標なら、「これから」なら、そうだといい。そう思って、一つ。
「将来のこと、考えてみましょうか」
将来。卒業のあと。レースのあと。人生の設計。職業やら諸々。つまるところ、生きていくこと。
これから進んでいく、未来の話だ。
そういうことにした。その時は深く考えていなかったけれど、今でも何かを決めようとしている。今年、何かちゃんと繋ごうと、一年をふいにしたくないと、もがいている。
明日も未来だ。一秒先も未来だ。
私は進むしかないから、進みたい理由を探している。
今もだ。
あなたのイチオシの幻覚症状は?
-
アヤスペ
-
キンオペ
-
セイトプ