【完結】たそがれより世紀末まで〜98×99三強カップリングがイチャイチャしたりするかもしれないしドロドロするかもしれないしの幻覚話〜   作:春華ゆが

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セイウンスカイとナリタトップロードの親和

 

「はい、プリント集めますよー!」

 朝日の溜まった空間、始業前の教室に、私の声を響かせた。朝といえば通学。通学といえばみんなが集まる。だから、つまり……ともかく、私、ナリタトップロード、クラス委員長にとっては、色々と元気よく声を出す時間帯。色々と。理由とか意味はこれまた色々とあるけれど、

「はい、これ。おはよう」

「ありがとうございます! おはようございます、アヤベさん!」

 多分、挨拶する、というのは大きい。何につけても挨拶だ。今日も今日とてみんなと一緒に、そういうことだ。ちなみにこの人はアドマイヤベガ。アヤベさん。クラスメイトであり、トゥインクル・シリーズでの私の同期。……今は、お休み中だけど。

「昨日のレース、見たわよ」

「……あ。ありがとうございます」

 珍しい、と思った。アヤベさんから話を振ってくることが、だ。まあでもその内容は、私からは振らないだろう、と言われたらそうかもしれない。そういう内容の話をアヤベさんから振ってくることは、やっぱり珍しいかもしれない。今年最初のGⅠレース。今年三回目の勝負。勝負はいつでも私たちを繋いでいて、走っているから繋がりがある。

 だから、走りたい。走らなきゃいけない。だとして──負けるのは辛い。

 また、負けた。それが昨日の、天皇賞(春)。勝ったのはテイエムオペラオー、オペラオーちゃん。これまた私の同期で、学年は……スカイちゃんと同じか、と、スカイちゃんのことも思い出した。負けるのは辛いな、みたいな話も「昔の話」としてしていた覚えがある。ああ、その通りだとも。

 だけど、それでも、だからこそ、

「アヤベさんとまた一緒に走れるの、待ってますから!」

 だからこそちゃんと、楽しみを見つけよう。走ることは、楽しい。楽しいことだと、楽しかったことだと、知っているから。置いていかれないように。努力が、過去が、私を傷つけないように。ほんの少し大げさに、また朗らかに、それでよかった。あなたは少し戸惑うけれど、

「待ってて」

 そう言ってくれた。暖かく、安らかに、笑ってくれた。嬉しかった。本当に嬉しいと思えている、実感があった。私の中に、輝く気持ちは残っている。たとえくすぶっていようとも。

 そういうことから、一日が始まった。毎日毎日、違うものを見つけていた。立ち止まっていなかった。大丈夫、進んでいる。置いていかれなければ。待っていてくれる。みんな、みんな。私の周りには仲間がいる。それを繋ぐのは、寂しくならないのは、走っているからだ。そう思う。今でも変わらず、そう思う。

 ……でも、だからこそ次がある。そして次があるからこそ、また立ち向かわなきゃいけない。また。また、負けるかもしれない。負けるのは怖いけど、走りたいから走る。そういう怖さはもちろんあって、

 それだけじゃない気がしたから、もっと怖い。

 待ってて、と。アヤベさんは言った。

 待っている、と。オペラオーちゃんは多分言う。

 私は、その通りに、動けているだろうか。

 正しい自分が、少しずつ揺らいでいく感じがあった。

 

 

 

「それで、私のところに来た……んですか?」

「はい……なんというか、スカイちゃんなら、というか」

「そんなことはないと思いますけどね」

 その日の放課後は、自然と保健室に向かっていた。スカイちゃんと話すために。私ではどうにもわからないから、彼女ならわかるかもしれないと。このもやもやの内側を。

 同期のアヤベさんに、待っていて、と言われたこと。そしてこれまた同期のオペラオーちゃんは、言うまでもなく私を待っていること。そしてそんなみんなのことが、言葉にできないすわりの悪さを生むこと。

 根拠はない。なんとなく。だから、そんなことはない、と言われると、返す言葉もない。とはいえなんとなくそれは違うなんて、待っていたり追いかけてくれたりするみんなに直接言うわけにもいかない。期待された通りになるかは、ちゃんとやれば大丈夫……なはずだ。

 だから何もないならそれでよかった、と思う。けれど私は、今日の私は、今の私は少し強情で、

「そんなことないことないですよ!」

「ややこしい言い回し」

 スカイちゃんにはするりするりとかわされるのに、食らいついてみようとしていた。声が久しぶりに大きい。そんな私らしくはない(私は他人を引っ張ることはあるけれど、こんなしがみつくようなやり方はあんまりしない、と思う)理由になるとしたら、心当たりはなくはない。

 なんとなくどうにも、他人事じゃない気がしたからだ。私の悩みは、スカイちゃんにとって、語る価値があるものな気がしたから。なんとなく。感覚で、根拠がなくて、言葉にならなくて、なら二人で紐解こう。そういう相手に、多分スカイちゃんはなってくれる。聞き上手、だと思った。

 そんなことない、大丈夫。スカイちゃんが私に言ったことと、私がアヤベさんに言ったこと。二つとも同じだ。構う必要がない、他人を頼ることではない、そう言っている。

 あなたの昔の話を聞いたのだ。今の私と重なる気もしたのだ。だから、スカイちゃんなら、私が「他人を頼らない」ということの意味が、わかる気がしていたから。

 だから、問いかける。そういうことだった。

 構わないでほしいんじゃない。いつもそう言っていたら、それ以外がわからなくなってしまった。それだけだ。

 それだけのことで、私はアヤベさんの言葉から、

「で、逃げてきたと」

「はい。わからなくなって」

 そう、逃げた。真正面からそう言うと、スカイちゃんは真正面で目を伏せ、一つため息。呆れられた。逃げた、なんて、堂々と言うものではない。それでもそうしてしまうから、私はつくづく不器用だ。不器用なまま。

 逃げることは覚えたのに、わからないことは減らない。相変わらず、人を頼れない。私の中の私は、そんな今の私を置き去りにしたがっている。逃げ癖だけついて頼り下手な私など、人に話せない弱さが増えるだけ。それなら捨ててしまおうと、捨ててしまいたいと、思った。

 今の私は、いたい場所にいない。どうしたら今いる場所、果てしない暗闇の中で歩いていけるか、わからない。

「自分が元気か、わからないんです」

 だから、だけど、なぜか、あなたに訊いた。たそがれに霞む、保健室の先輩に。今更ながら、一つ自覚した。スカイちゃんと話したい理由を。理屈を。本当になんでもない。

 私があなたのことを知りたいのは、あなたと接点を持ったからだと、それだけのことだ。でもそれくらいのことが、私にとっては繋がりを持つ理由になる。そこから、始まるから。関係が始まれば、名前がついていなくても。頼るようになったら頼る。捕まえるようになったら捕まえる。

 私はいつでも、自然と動いていた。だからある意味、なんでもわかっていた。その場その場、目の前さえわかれば、それでよかったから。

 なのに、今はうまくいかない。目の前がわからない。一寸先が闇とはこのことだ。今の私は、生まれて初めて立ち止まっている。

 だから、どんなに暗い道のりの中でも、出逢ったから。あなたとは木陰で立ち止まった時に出逢ったから、今の私でも手が届く。そこに座っているから。

「落ち込んでいるような気がしても、そのあとどうすればいいのかわからないんです」

 あなたの前だから。スカイちゃんの前だから、不安は、言葉になっていた。

「勝てなくて。でも、惜しくて。次こそは、みんなそう思ってて」

 布団の上に座って話すと、体重の掛け方で簡単に身体は傾く。私がゆらめく。ふらり、ふらり。こんなにしっかりしていない。言葉になっても、文章にならない。不安はもやだ。暗くて黒くてわからない。はっきりさせるには何かをしなきゃいけないのに、今はその何かがわからない。わからないことばかりだ。一つもわからなかったら立ち止まるしかなくて、立ち止まったままから不安ばかりが漏れ出てくる。堕ちていく。

「私も、そう思っていて」

 まだ。次は。まだ。そして、また。終わりがなくて、結論が出ないから、努力する余地がある。あってしまう。走り続けない理由がない。やるべきなのはわかるのに、何をやればいいのかはっきりしない。やればやるほど不安が大きくなる。どこかにいるらしい。先にいるのか、前に進むのか、わからない。目標はあるのに、方角がわからない。

「ふむ」

「だから、待っててって、どこで」

 一歩目が、ものすごく重かった。

 たまに挟まれる相槌。私の方を少しだけ向いた心。スカイちゃんは聞き流してくれる。だからこれは独り言。私は今、今の私は、独り言を言っている。

 独り言を、誰にも言いたくないことを、みっともなくて取り留めのないことを、どこでもいいどこかに吐き出すのが、

「私は、今の私は、なんなんだろうって」

 とても、怖かった。

 私の不安が、声になるのが、怖かった。

 怖かったけれど、

「……はぁ。なんか、そんな感じです」

 ほっと、吐いた。

 言い切った、と言うには、呟きに近い独り言。か細い声で、震える声で、抑揚のない声で、感情が乗っているのかもよくわからない。どこまで行っても、自分ではわからない。今の私が、どれほどの気持ちを抱えているのか、なんて。どれくらいみっともないのか、取り返しのつかない場所にいるのか、そういうことも考える。がっかりさせていないかと。

 スカイちゃんにさえ、そう思った。あれだけ情けないところを見せても、こんなの流石に困るんじゃないかと。私がどうしようどうしようと言いながら質問にならない質問をして、適切な答えはしっかり欲しがってしまっている。なんともわがままだ。わがままで済めばいいけれど、わがままのままで落ち着かせる方法がわからない。

 色んな人を裏切って、そうなるのは怖い。スカイちゃんの前なら話せた理由は、だからすごく浅ましい。本当に、情けなくなるくらいで、しかも絶対にバレている。

 裏切るほど期待されていないはずだから、こんなわやくちゃが投げられるのだ。

 並んだベッドのもう一つ、狭い空間のすぐそばにいるあなたは、どうだろうか。同じ形で座って、鏡のように私を見て、どうだろうか。幻滅する元もなく、「今の私」しか知らないあなたは、元に戻れとは言わないし言えないと思う。だとして、そんな返答に困るだろうことを聞かれて、どうしてくれるのだろう。

 やっぱり甘えていた。

 私をわかるだろうか。私は私にならないのに。あなたのことを知りたいと言っているうちに、致命的なことに気づいた。それだけ知りたいあなたは私の鏡で、私はあなたの鏡みたいに。どれだけ話してもあなたの心を開けないのだから、それはつまり自分までわからなくなってしまっていたのだ。大切なものが、大切なはずのものになってしまっていた。

 自分自身を見失ったから、代わりに同じ場所にいたあなたを見つけたかった。そういう最初の場所を、ようやくちゃんとした言葉にできた。

 そこから先の「今」は、わからないまま。過去が私を捕まえようとして、少しずつ理解を進めているみたい。この弱さを言語化したいのは、「私」がそれを捨てたいからだろうか。わからない。

「難しい、ですかね」

 躊躇って、引き戻そうとして、

「いや」

 そこは、当たり前みたいに、捕まえられた。手じゃなくて、気持ちで。

 笑っていた。ちゃんと笑っていた。

 スカイちゃんは、優しかった。

「簡単なことですよ」

 ゆったりと、時間の流れに微睡むように。私は寝かしつけられている気がした。そういう声音。でも多分そういう穏やかな投げ出しが、一番効いてしまう。

 だから私は、スカイちゃんに訊いたのだ。答えは出さない。決めつけない。進めない。進ませないでいてくれる。立ち止まっていいと、今の私のために言葉をくれる。嬉しい。そんな後ろ向きが嬉しくなる私が、ここにはいた。

 そして彼女は、しめやかにこう述べた。

「私と、一緒にいてください」

 そう、告げた。

 なんの返事にもならない言の葉を、私の前に押し付けた。こうすればいいと、言ってくれた。

 眩しかった。夕焼けが滲んでいるみたいに、眩しかった。彼女の笑顔は眩しいものだったと、私はあなたを一つ知る。そしてあなたを知る時、鏡の中身もわかるのだ。

 ああ、私も、私もだと。

「スカイちゃんと」

「はい」

「それで、いいんですか」

「私は一緒がいいですよ」

「……なんで」

「なんだっていいと思いますけどね」

 またはぐらかす。どうして、どうして、どうして。そう思う。今日は、私は、そう思う。あなたと一緒にいる私は、スカイちゃんにやきもきしていた。思い通りになってほしいなんて、わがままがあった。

 今も私の悩みに対する答えだって、しっかり返事をしていたわけじゃない。聞いてくれたのも話したのも全部私のわがままだとわかっているけれど、それでも拾ってくれて嬉しかった。嬉しい。嬉しいんだ。

「教えてくださいよ、ちゃんと」

 だから、もっと嬉しいのがいい。

 やっぱり、今日は逃したくない。

「一緒にいますから」

 私は、するりとそう言った。

 最初は口をつぐみそうになって、それからどんどんわからなくなって、そんな中身を一生懸命に喋って、さらに何が何だかわからなくなってきて、それでも目指すものはわかった。あなたが答えにならない答えを返したから。

 そう、わかったのだ。

「私も、スカイちゃんと一緒にいたいです」

 私も、ここにいたい。

 この二人きりの時空で初めて、二人の言葉が一致した。

 鏡だからだけじゃなくて、お互いが相手という人に求めるものが、一緒だったのだ。

 ああ、私は恵まれているだろう。かけがえのない人がたくさんいて、誰も私を見捨てたりしない。捕まえてくれる。私も、みんなが大好きだ。一緒にいたい、あそこにいたい。なのに今はいつもの場所に苦しいから、本当に本当に嫌なのだ。

 そうやっていつもを苦しんでしまう気持ちを、いつも通りじゃなくなった私を、あなたに重ねる。そうしたい。そうすべき。一致している。世界はままならないくらい大変なのに、この小さな世界は居心地がいい。だから、

「私を、休ませてほしい」

 それだけのことを言うのに、こんなに時間がかかってしまった。思えばずっと、本当にずっと、この保健室ではそうしてきたのに。通う日が増えるたび、私たちは休息を共にする。何もする元気がないくらい疲れても、一緒に寝ることはできる。そしてそれは、

「……スカイちゃんも」

 答えはなかった。

 なら、私が私で継ぎ足すだけだ。息を吸って、吐く代わりに言葉にする。ため息に似た、呼吸と同じ、生きることとそれほど変わらない、言葉。

「私たちで、休みたいんでしょう」

 独り言だ。私とあなたが言いたいのは、誰にも聞かせられないような、形の整っていない言葉。自分のために、色々なものを投げ出して、

 私たちは、自分勝手になりたいんだ。

「……参ったな」

「当たり、ですね」

「何も私のことを知らないのに」

「そのつもりでしたけどね」

 そこは不思議なものだ。私はスカイちゃんのことを知りたいと思っていて、色々なことを考えて、結局ここまで何もわかっていない。いつもいつもやり込められて、一緒に眠気に負けるだけ。一歩も進めず、立ち止まっていてばかり。私の鏡も、あなたも、私自身も、何もわからない。

 でも、それでよかったのだ。考えてみれば、それが一番。わからなくていい。だって私はいつだって、くよくよする前にぶつかっていた。昔の私はそうだった。それができなくなっていた。ぶつかるべき壁の方向がわからなくなった私の前に、壁を作ってくれる。目標を作ってくれる。繋がりを作ってくれる。

 見つめあって、座っていた。

 「スカイちゃんのことを知りたい」と、目標と関係がここにあるんだ。小さいけれど、今進められる未来の話が、ここにある。

 わからない、知らない、そういうことで悩む時間を、一緒に休んで奪ってしまう。スカイちゃんがやったことだ。多分自分を隠すために、居心地のいい時間を守るために、おもむろに時間を過ごしていたのだろうけど。

 だけど、それは鏡。合わせ鏡。お互い一緒。なんとなく、そう思えた。今になってなんとなく思っていたことは、それしかなかった。他は一つもわからなかったのだから。

 何があっても、今日でさえも、スカイちゃんがいる方向にだけは、いつも目指して行っていた。

 「今の私たち」は変わってしまったけれど、この保健室が居場所なんだ。

「ずっと一緒にいたら、色々なことがわかりますから」

 すごくすごく当たり前のことに、やっとたどり着いた。

 私とあなたは、同じ場所にいるということだ。

 同じ時空を、共有して生きている。

「辛いことはありますか?」

「お互い様ですね」

「解決しない、ですね」

「いつになるんでしょうね」

「困りましたね」

「はい」

 困ってしまった。本当にその通り。わからなくて、解決しなくて、ぼんやりして、立ち止まる。ここにいる。休む場所に、いる。多分スカイちゃんはスカイちゃんの事情で、私は私の事情で。自分でも言語化できないのだから、そう思って悩んでいた。

 でも本当は、それこそ根本。本質。今の私と昔の私が違うことが、私がわからないことが、何より苦しい。私が私をどうしたいのかも。この先どうしたいのか、今この瞬間どうしたいのか。

 その中でか細く思うのは、考えない時間がほしいということ。どうしても、休みたい。休みたかったんだ、私は。

 そしてあなたも、私と一緒の方が休めたら、と。いずれ訪れる未来に向けて、今だけは一緒に止まるのだ。

 もちろん、未だ悩みは取れないけれど。

「だから、一緒にいましょう」

 取り方は、見つけたかもしれない。たとえそうでなくても、解決しなくても、あなたとの時間は大切にしたい。理由や目的がなくても、なんとなく。思えば最初から、なんとなくでこの保健室に立ち寄ったのだから。私たちがどうするかとか、とりあえずもうどうでもいい。ちゃんとしたことは、ちゃんとした時の自分に任せる。だから、今は一緒にいよう。

 そう言ってみて、

「じゃあ」

 スカイちゃんは諦めたような、でも少し嬉しそうな、私がそう思いたいだけかもしれないけれど、少しだけ元気になったような、そういう気がした。また笑っていた。また。まだ、しっかり笑えていないかもしれない。まだ。私たちは、まだ止まっている。またここに来る。それでいいのだと、後ろ向きでもいいんだと、今言った。

「今日も、寝ましょうか」

 やった。

 今日も、一緒に休めた。

 まだ。

 まだ。

 行かなきゃいけないところはあるけれど、まだ行きたくない。

 

 

 日差しを穏やかに感じた。昔のように。私はそこには戻れないのに。だからここにいる。病人の寝床だ。世界は素晴らしいから、私のいる場所じゃない。簡単な理屈だ。綺麗なものを見つけられないのは、私の視界が汚いから。私の世界が。そこまで考えて、

 横で寝ているトップロードさんの方を見た。

 安らかに眠っていた。そのままでよさそうだった。そんなわけないのに。今の私によく見えていいものはない。こうならない方が、いい。

 いつか無理に前を向いたツケは、あとで揺り戻しを持ってくる。バランスというものが、人生には存在する。今の苦痛のぶんも、いつか未来で笑い話にできるように。だから大丈夫だと思った。なんでもないと言った。そのはずなのに、引き回された。この人はそういう人らしい。自分がわからないと言っていたから、おかしい時のトップロードさんなのだろうけど。

 それなら無意味だ。今の私たちは、いずれ回復する。病人が回復すると、病気は消え去る。病は気から。気も病から。今の気持ちがいつか消えてなくなるのだから、それは「私たち」が消えてなくなることに等しい。病原菌が懸命に生きても、治し方を見つけた時に殺すだけだ。

 時間があれば治る。あるいは別の未来を見つける。落ち込んだらその日をピークに上がっていくし、走れなくなったらいつか次の人生を見つける。悩んだことと苦しんだことは、何もしなくても結果を持ってくる。ならばいくら休んでも、それ自体は大したことはない。休息は努力の揺り戻し。まともな私がやってくれたことを、落ち込んだ私が引き受ける。そしていつか、元の世界に送り出す。立ち止まるということはそういうことで、「私」は何も得るものはない。

 なのにあなたは、この時間に何を見出すのだろう。

 考える必要のないことを、考えていた。

 




 いとま

「……休養か」
「はい。今の私がほしいものは、それだと思いまして」
「ふむ。珍しいな」
 トレーナーさんは、私が休養を告げたその瞬間より、休養がほしい、と言った時の方が、意外そうな顔をしていた。そういうものかもしれない。
「休まなきゃいけない、じゃなくて、休みがほしい、か」
「確かに、私はあんまり言わないことかもしれませんね」
 言われてみれば、だ。私が休みたがるなんて、やっぱりおかしい。でも自覚してみると、あえてそういう選択肢を取った気もする。難しい。なんとなくばかりで、根拠がない。やっぱり、今の私はわからない。でも後ろ向きに進むより、前向きに立ち止まる方がいい、らしい。これも憶測。わからないまま、進まないまま、時間を過ごす。
 休養だ。
「教えてもらったんですよ、先輩に」
「なら、たまには自由にするんだな」
 自由。また難しい。こうなってから難しいことばかりだ。やりたいことを見つけるより、やるべきことを楽しむ方が簡単だ。いい悪いじゃなくて、私はいつもそうしてきたから。
 でも、たまには。今は違う。今の私は、別のことを考える。やりたいと思ったことが休むことで、自由であることが嬉しいらしい。自由だなんて言われたら逆に困ってばかりだと思っていたのだけど。おかしい。笑えないくらいおかしい。私は私じゃない。過去の私は、こんなことは言わない。
「たまには、ですね」
 だけど、別の道を行こう。
 まだ。
 まだ。
 まだ。
 まだ、私は潰えない。
 だから、今の気持ちも大切に。
 堂々巡りでふらつくのも、道の一つだと思う。

あなたのイチオシの幻覚症状は?

  • アヤスペ
  • キンオペ
  • セイトプ
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