【完結】たそがれより世紀末まで〜98×99三強カップリングがイチャイチャしたりするかもしれないしドロドロするかもしれないしの幻覚話〜 作:春華ゆが
スペシャルウィークとアドマイヤベガの一日
きっと、この未来はたまたまよりもっとか細い。もし別の世界のそれぞれが私たちを垣間見るなら、ありえないと言い切れるくらいの極小の可能性。
たまたま。偶然。運命でない、奇跡。どう言い繕っても今の私たちはありえなくて、ひょっとしたら全部夢なのかもしれない。きっと、そうに違いない。そう思うのだって、何にもおかしくないくらい。
だって、夢のような毎日だから。
だって、夢を掴むための日常だから。
だって、夢でも現実でも構わないから。
奇跡でも、夢でも、とかくありえざる空想夢幻に墜つれども。ありえないことはどこにも存在しないなんて、それこそありえないのだと私たちは知っている。
私とあなたは、知っている。
だから。だから必要なのは、きっと、一つだけ。
私とあなたが、ここにいること。
泡沫でも夢幻でも、夢か現かわからなくとも。
きっと、それが真実だ。
こつ、こつ。とん、とん。じゅう、じゅう。てと、てと。朝を揺らすさまざまの二重奏が、今日も私たちの眠気を柔らかく拭い去っていく。生活音を鳴らすことも、隣から別の生活音を聞き取ることも。
なにより決して狭くないキッチンであっても二人で歩き回れば、手や尾がつい触れ合ってしまう瞬間も多いというもので。二人分の朝ごはんを作る私と二人分の昼のお弁当を作るあなたの役割分担ももう慣れたものだから、いちいち感触に気を使う方がくすぐったくなってしまうし。
じゅう、じゅう。てと、てと。ふわふわもこもこのファースリッパから僅かな足音を立てながら、フライパンの上のベーコンエッグを眺める私。半熟がいいのだ、半熟が。味噌汁はできあがっているしバターロールなんて食べる直前に焼けばいいから、あとは卵とベーコンさえ適切な焼き加減を……だいたい毎日やっているから慣れたものとはいえ、食事には気を遣っちゃいますね、私。
「……そろそろかなあ……」
なんて、いつものようにフライパンを凝視する、私スペシャルウィークがいて。
「こっちはできたから、お皿出しておくわよ。……そろそろいいんじゃないかしら」
──なんて、そんな私を見ていてくれる人が隣にいるのも、いつも通りで。
「……はい! じゃあ朝ごはんにしましょうか、アヤベさん!」
そう私が振り向いた先には、またいつもと変わらぬ緋色の瞳。だけどこの一年で初めていつもになった、私とあなたの新しい朝。
あれから二年。その先から、一年。私の同居人になった、正確には寮を出た私をこのマンションに迎え入れてくれた、大切な人。
アヤベさん。アドマイヤベガさんの姿が、いつものようにそこにあった。
ちゃんと、離れていなかった。
「そうね。味噌汁だけ注いでおくわ、あなたのはちゃんとにんじん多めで」
「ありがとうございます! ああでも、ちゃんとアヤベさんのぶんもたくさん具は入れてありますから、しっかり食べてくださいね、しっかり! 今日も大学、ですからね!」
「……まだ走ってるあなたの方が、よっぽど体力を使うと思うのだけど。まったく、本当に心配性ね、スペは」
むう。軽くため息を吐かれてしまったけど、そのあとに少し嬉しそうな表情をするのは難しい人だ。世話を焼くのも焼かれるのも、どちらも好きなのはお互い様かもしれないけど。
「……じゃあ、座りましょうか、アヤベさん」
「ええ、もちろん」
とりあえず、まずは。色々考える前に、まずは。
「いただきます」
「いただきます」
一日を始めよう。
私とあなたの、なんでもない一日を。
かけがえのない、一日を。
味噌汁にベーコンエッグ、ミルクの入ったアメリカンコーヒーといくつかのパン。パンの種類は菓子パンから食パンまで日によって違うけれど、私とアヤベさんの朝食は毎日こんな感じだ。
二人とも、同じもの。もちろん二人で味噌汁の具の量やミルクの入れ具合、パンの数(たいてい私の方が多い)には差異があるとはいえ、二人で同じものを食べること。そのことは二人で暮らすようになったこの一年で生まれた新しい習慣なわけだけど、馴染みはすれど飽きはしない。日常を日常のまま特別にしてくれる、得難いパズルの一ピース、みたいな。
もちろんアヤベさんが私にルームシェアを持ちかけてきたからこそだから、感謝してもしきれないことだと思う。家賃などもあらかた払ってもらっているということも含めて。金銭面については本当にアヤベさんに頼りっきりだ。アヤベさん曰く「家からの仕送りもあるから、バイトのぶんはだいたい自由に使えるわよ」とのことなのだけど、そうなると結局アヤベさんの家計に私が養われているということには変わりなくて……申し訳なく思わないと言えば嘘になるだろうな、はい……。
ぱく、ぱく。というわけで、なのだ。私なりにこの生活に貢献するべく、今みたいに料理は覚えた、というわけ。そうしてこうやって二人で食べるのが一つの日常、でもあるというわけ。正確には一緒に暮らし始めたこの一年からではなくて、高等部に上がるちょっと前あたりからちょくちょく料理は勉強していたのだけど。アヤベさんは相変わらずというか、料理については関心が薄めだったので、そこにすっぽりおさまる形でなんとか私はこの家での役割を持っている。
主婦? というには全部はできていないのだけど。買い物とか、洗濯とか、料理もなんだかんだで手伝ってもらっている時は手伝ってもらっているか。うーん、そうなると私の役割とは。……なんて、それくらいのことで不安にはならないのだ。だってそんな塞ぎ込むような不安より、紛れもない事実が一つあるから。
アヤベさんは、私と一緒に暮らしたいと言ってくれた。
ならば二人でいるだけで、ずっとずっと幸せだ。
私はそう思う。
そしてあなたもそう思うから、二人を選んでくれたはず。
きっと、じゃない。
絶対に、そうなんだ。
……とはいえ、不安のない生活というわけではない。たとえば一つ、毎朝毎晩不安になることはある。お昼はアヤベさんの作ったサンドイッチだから、朝と晩。
もぐ、もぐ。味噌汁を啜り、ベーコンエッグを食む。……うん、舌で転がすお味噌の味は具までしっかり染みているし、お揃いの花柄の箸で割いてみれば目玉焼きもしっかり半熟だ。つまり問題はない、と思う。……私の味覚では。あくまで、私の方は。つまり、問題なのは。
テーブルの反対側、私と向かい合わせに座る人の姿を見やる。簡素な組み立て式の椅子だけれど、ちゃっかりクッションを敷いて柔らかさを確保しながら朝食を嗜むその人の。それほど大きくない二人がけのテーブルの上にもきっちり厚めのテーブルクロスが敷かれているし、「布」については本当にこの家の配置できるところすべてに配置されていて、そこら辺は言うまでもなくアヤベさんの趣味なのだけど……と、それはともかく。
さて、どうだろうか。ぱく、ぱく。もぐ、もぐ。音もなく丁寧に味噌汁を飲み込み、コーヒーを喉に通して一息つくあなた。バターロールにバターナイフを通してジャムを差し込むところまで、ついつい目で追ってしまう。いや、正確にはパンやコーヒーは既製品なのだけど、つまるところ私が気にしているのは。毎日毎日、ついつい気になってしまうのは。
美味しいと、思ってくれるかな。
私の料理で、幸せを感じてくれるかな。
人肌みたいにゆっくりと熱を伝えてくれる、そんな温かい不安だった。
自分の食事も噛み締めながら、狭間狭間であなたを垣間見る。こうするのも慣れたものだけど、おかげで目線に気づかれることは少なくなった。あなたが控えめに口を開いてこんがりと焼けたベーコンを噛みちぎるのに合わせて、私の方も同じようにざらついた肉の味を咥内に染み渡らせてみる。そんな動作の同期までさせてみるのは、お遊びのようなものだけど。同じ時間に同じ空間で、同じことをして過ごすなら。どこまで寄り添い重なったって、無限に満ち足りてゆけると思うから。
だから、私はあなたに美味しいと思っていてほしい。
だって、私は美味しいと思っているから。
あなたとする食事だから、美味しいんだって。
願わくばあなたにも、私との食事を楽しんでほしいんだ。
私とだからって、そう思ってほしいのだ。
なんて、朝ごはんからそこまで手の込んだものは作れていないのだが。かちゃ、かちゃ。食器の音が鳴るだけで、取り立てて会話もないのが朝食の時間。ともすれば事務的、いただきますとごちそうさまだけで閉じる世界かもしれないけど。もちろん私だって、寝ぼけ眼の朝からしっかり色よく返事がなくちゃいけない、なんて思わないのだけど。
「……うん、美味しい。今日も美味しいわね、スペ」
……それでも毎朝きちんとそう言ってくれるから、ついつい私はあなたの言葉を待ってしまうのだ。あなたの幸せを、幸せをしっかり口にできるようになったあなたを、どうしようもなく嬉しく思ってしまうのだ。
「ほんとですか! よかったです、いやーよかった、よかったあ」
「毎度のことだけど、よくそんなに私の同じような反応に喜べるわね」
「そりゃあ美味しいって言われたら嬉しいですよ、何回だって。それに何回言ってもいいことだってわかるから、アヤベさんもきちんと言ってくれるんじゃないんですか?」
「……それは、そうだけど」
ぷい。少し顔を逸らすアヤベさん。避けられてるみたいにも見えるけど、私にはそうじゃないのがわかる。これは避けているんじゃなくて、恥ずかしがってるだけ。むしろそんなわかる人にはわかる所作を私に見せてくれるのは、親しさの証みたいでちょっと嬉しい。なんて、こう考えるのは独占欲みたいでアブナイかも。
「えへへっ、でもやっぱり嬉しいです。だってアヤベさんは今日も頑張らなきゃいけないんですから、少しでもエネルギーをつけてから行ってもらわないと」
「頑張らないといけないのは、あなたもでしょう。それにエネルギーをつけるだけなら、別に美味しくなくたっていいじゃない」
「えー、でも今のアヤベさんはちゃんと食事のこと楽しんでるじゃないですか、そのことも嬉しいんですよ」
「……もう」
また、ぷい。まあ確かに昔に比べたらずいぶんな差だと思う、アヤベさんの食事情に関しては。いつもスティック状の栄養食かサンドイッチ(今もサンドイッチは作っているけど、心持ちが雲泥の差だ)で空腹を凌いでいるイメージしかなかったような人を、しっかり朝昼晩の食卓に繋ぎ止めている存在が私なのである。恐れ多くも、といった感じだけど。
なんであれ食事を楽しんでもらえるのなら、私でよければその手助けという役割を持てることはまた嬉しいことではあるのだが。うん、嬉しい。今日もまた、美味しいと言ってもらえた。それはとっても、嬉しい。
「今日は茄子が入っているのね」
「はい、茄子のお味噌汁です。毎日同じ味噌汁ですけど、やっぱりちょっとずつ差はないと」
「……にんじんは毎日入っているようだけど」
「あはは、それはまあ……でもでも、アヤベさんもにんじん好きでしょう!」
「そう、ね。うん。好きだから、味噌汁に入れてくれるのは嬉しい。……ありがとう」
ぷい。今度そっぽを向いたのは、アヤベさんじゃなくて私の方だった。流石に私も、恥ずかしかった。アヤベさんの「ありがとう」はいまだレアなので、ぎこちなくて唐突だ。当人の中では何度も咀嚼してから吐き出しているのだろうけど、はたから見ればいつも不意打ち。なので、受け止める側はまったく用意ができないのだ。……何度やっても慣れないことだって、嬉しさの一つに数えてしまいそうなんだけど。
「……もう、アヤベさんったら」
「何かしら。それよりあなた、私に合わせて食べていたら遅刻するわよ」
「へっ!? ……って、まだ時間あるじゃないですか、びっくりしました」
「このままじゃずっとのんびり食べていそうだったから先に言っただけ。私とおしゃべりしてくれるのは結構だけど、ちゃんと自分のことはしっかりしなさい」
「……はい。いけませんね、他人のことばかり見てちゃ」
「それはあなたのいいところ、だけど。自分のことも大切にしてもらわないと、危なっかしくて見ていられないわ。頼むわよ」
そんなのはアヤベさんもそうじゃないかと言いたかったけど、その言葉は心のうちに留めておいた。ここは大人しく甘えておこう、みたいな。甘えたいし、甘えを受け止めさせたいし。
「仕方ない人」みたいに吐くあなたのため息がふわふわして柔らかいことを、私だけは知っている。
「……ほら、またぼーっとして」
「あっ、えへへ……。すみません、食べますね」
「そうよ。冷めるわよ、せっかくできたてなんだから」
「それならアヤベさんも、しっかり食べてくださいね」
「はい、わかったわよ」
というわけで、再びの沈黙。こくこくと味噌汁を飲み、多めに入れておいたにんじんも茄子もお腹に蓄える。火の通った柔らかい野菜は味噌の味をよく吸っていて、その上でちゃんと味噌汁側にも野菜の味が滲み出ていて美味しい。ここら辺は料理の腕前というより、私のわがままできっちりいい食材を揃えさせてもらっているからだけど。味噌も具材もこだわって、ちゃんと美味しいものを届けたい。優しい味で、一つあなたの優しさに報えたら。
ぴこ、ぴこ。ゆら、ゆら。遠くで囀る鳩の鳴き声を捉えた耳は微かに踊って、同居人に櫛を通してもらったばかりの新品の尻尾が弾むように揺れる。静かだけど、あなたといることは変わらないから。今の私が爽やかな朝を迎えられるのは、紛れもなくあなたといるからだ。もちろん味噌汁もベーコンエッグもパンも美味しく用意できたと思うけど、あなたが美味しいって言ってくれるからもっと美味しい。
朝の食卓は、緩やかに。音は無くとも、幸せは満ちている。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
「……ふふっ」
「何よ」
「いや、ちょっと嬉しくって。それだけです」
「露骨に隠されると困るわね」
「なんですかー、いいじゃないですかー」
「はいはい。それはそうと、ちゃんと遅刻しないようにしなさいよ。スペが遅刻したら、私の監督責任だもの」
「はーい、ちゃんと用意してきますね」
てと、てと。またふわふわのファースリッパから柔らかい色の足音を鳴らしながら、私は二人の寝室へ向かう。二人の寝室。二人一緒の部屋。一応机は二つあるけれど、部屋は二人で一つぶんだ。もっとも寮にいた頃だってスズカさんとそうしていたわけだし、何らおかしなことではないと思うけど。それでもそこまで生活を共有することを選んだという事実は、編んでも編んでも糸がなくならないマフラーみたいに暖かい。暖かさを作り続けて、これから先も続けていけるような。今日だって、そんな一日だ。
ちなみに先程嬉しかったのも、似たような理由といえば似たような理由なのだ。「ごちそうさま」って、当たり前みたいに二人で同じ言葉を揃えられること。もちろんまだまだ私に釣られてって感じで、大学で一人で食べる時には言わないんだろうなとは思うけど。
それでも私といる時は、そこにあった食事という空間に感謝してくれる。私と同じ時間と空間を共有したことを、何回だって喜んでくれる。きっと、その発露。きっと、その開花。
かつては棘すら孕んでいたあなたが丸みを帯びていくのが、たまらなくたまらなく嬉しい。たくさん嬉しいことがある中で、きっと、これが一番だ。
「じゃあ、気をつけて。毎日言っていることだけど」
とん、とん。荷物を揃え、靴を履いて。高等部に上がったとて、トレセン学園に行くことは変わらない。その点ちゃんと近場のマンションを選んでくれたのだから、アヤベさんの気遣いが家を出るたびに身に沁みる。だからしばしの別れだって、優しく嬉しく迎えられる。
「はい。いつもありがとうございます、アヤベさんも気をつけてくださいね」
「私は電車だから、あなたほど危なくはないわよ……って、これも今更ね」
「じゃあ、もう一つ今更ですけど」
「何かしら」
「今日も頑張りましょうね! お互いに!」
「……ええ。お互いの、夢のために」
がちゃり。ドアノブを捻って扉を開けて、最後に視線は交差する。薄い笑みを浮かべて私を見送るあなたを目に焼き付けて、そんな瞳に映る外の世界は。
いつも通りの少し高い四階の景色。
いつも通りの綺麗な朝の空気。
一日は、いつも通り特別な輝きで瞬いていた。
高等部に上がってからの一、二年は、それなりに波乱を含んだものだった。とはいえまだ二年目は五月も初め、正確に学年で区切れば一ヶ月とちょっとしか経っていないのだけど。まあそもそも私にとっての大変動は中等部の終わり頃からあったから、「高等部に上がってから」という表現は適切ではないのかもしれない。
日常の変化。変わりゆく距離。変わらない関係。喜びばかりが存在しているわけではないけれど、今の私は今を楽しんでいる。
きっと、それで十分だ。
きっかけは多分、お互いの変化。それぞれが抱えた世界での、それぞれが相手に見せるものの変化。私はこの数年で一年ごと一ヶ月ごとに変わったし、アヤベさんも季節ごと一日ごとに変わっていったのだと思う。
だから、提案があった。去年の五月の半ば、アヤベさんからだった。アヤベさんが大学に上がって、トレセン学園で会うことも当然なくなって。喪失に慣れきるより前に、繋がりはもう一度括り直されたのだ。
『スペシャルウィークさん、一緒に住まないかしら』
スズカさんがアメリカに行って独りきりの部屋を持て余していた私は色んな理由を持ってその提案を快諾したとはいえ、私の意思のあとに寮を出る手続きやお母ちゃんとアヤベさんの私を挟んでの電話対談やら色々あったけど、結局一緒のマンションで住み始めたのが五月の末。去年の五月二十七日からだということくらいは、ちゃんと今でも覚えている。
永遠に忘れない、二人の記念日だ。
……なんて、アヤベさんの方はそういうことを気にしてくれているのかはわからないけど。まあ気にしていないならいないで、気づかせてあげればいいと思う。かけがえのない関係であることくらいは、きっと、わかってくれているのだから。あなたの優しさとその優しさをほんの少し上向けさせることが私にできることくらいは、きっと、わかっているのだから。
まあそんな支えるかのような言動をしてみたところで、現在の生活はアヤベさんに頼りっきりなのだけど。お母ちゃんからの仕送りは少しばかり家賃やらの生活費に使わせてもらっているといえど、結局私自身の貢献は先述の通り料理洗濯その他家事どまり。もちろんバイトくらいしますよ、とは言ったのだが、アヤベさんには「あなた、学業をおろそかにできるほど他のことに時間を割けないでしょ」と一刀両断されてしまったという過去もある。アヤベさんについては日頃の休みから去年の夏休みなどずっとバイトをしていた上でちゃんと単位も取っているみたいなので、レースから離れてもあいも変わらずストイックなままだなあ、と感心するばかり。大学生になっても生活ががらりと変わっても、アヤベさんはアヤベさんのままなのだ。
とはいえもちろん、あなたにはあなたなりに変わったこともあって。ルームシェアを申し出てくれたのはそんなあなたがもっとも表れている事柄と言って差し支えないけれど、そうやって誰かのために踏み込めるようになったのは、アヤベさんがトレセン学園を卒業する前から見えていた変化だった。私たちがたまたま出会ったあの頃より、二人で初めて星を見たあの頃より、そのあともう一度わかりあえたあの夜より、変わっていた。
前より笑うようになったし、友達のことを話してくれるようになったし、純粋な趣味の共有として天体観測に誘ってくれるようにもなった。他にも細やかな変化が色々とあったけれど、多分アヤベさんにとってもこの数年でさまざまなことがあったのだろう。全部を窺い知ることはできないけれど、親しい人が進んでゆけていることは嬉しい。未来を目指せていることは嬉しい。そしてもしその歩みのほんのひとかけらに私がいるのなら、なんてわがままが通っていたらもっともっと嬉しいのだけど。
新しい生活において一緒に日常を過ごす相手として私を選んでくれたのだから、大事にはされているだろうな、なんて自惚れくらいはしていいのかな。もっとも私を誘った理由なんて、卒業前にいかに私が寂しそうにしていたか、ということに集約されてしまう気がする。昔より更に世話焼きになったアヤベさんとしては、二年前の私はさぞ世話の焼きがいのある……とどのつまり露骨に不安定に見えたのだろう。グラスちゃんやキングちゃん筆頭に同期のみんなにもたまに心配されていた気がする。いい言い方をすれば、私もまた変わっていたってことなんだろうけど。
レースを走ることについて、「日本一のウマ娘」というトレセン学園に入る前からずっとの夢について、中等部の終わりとともに一つの区切りがついたこと。生みのお母ちゃんと育てのお母ちゃんに胸を張れるだけのウマ娘には、幾多の季節と闘いを超えてある程度なることができた……と思う。一つ、夢に触れられた。時間の流れが運んでくる出来事は、私のことも前に進ませてくれた。言うまでもなく、周りのみんながいたからなんだけど。競い合った同期のみんなにいつも部屋で出迎えてくれたスズカさん、そして時たまだけどやっぱり私に寄り添ってくれていたアヤベさん。他にも色んな人がいて、そのおかげで私は成長したのだろう。そのことは、私の変化の一つ。
そのスズカさんがアメリカへ発ったということもまた、私に変化をもたらしてしまったのは事実なのだが。これも中等部の終わり頃、私たちの部屋は私だけの部屋になった。連絡はちゃんと取っているとはいえ、寂しかったのは否定できまい。むしろ今でも連絡を取っている(寮を出てアヤベさんと住み始めたあと最初のテレビ通話は背景の変化とその後の説明でかなり驚かせてしまったものだ)のだから、まだまだスズカさん離れはできていない。
それどころかスズカさんについては一つ新しい発見があって、なんとアヤベさんとスズカさんは知り合いだったらしい。夜の練習コースで互いを見かける仲、だったとか。私にとって大切な人同士に私とは別のところで縁があったというのは、言葉にしづらいくすぐったさがある事実だった。そういうわけで今スズカさんと連絡を取る時は結構アヤベさんも交えて話をする……みたいなことは置いておいて。
そんなこんなで中等部の終わり、高等部に上がる少し前の私は結構な激動の人生だったのだ。今までやってきたことが節目を迎え、今まであった日常が姿を変えて。その状況に翻弄され、あとから見ればやはりあの頃の私はずいぶんと周りには危なっかしいやつだったわけである。アヤベさんがわざわざ寮長のフジ先輩とお母ちゃんに話をつけてまで引き取りに来るに至った直接の原因は、そんな私の頼りなさだと、改めて。面目ない。
……とはいえ、私の弱さを見つけてもらえたからこそ今の日常があるのだけど。高等部に上がってアヤベさんと一緒に暮らすようになって、それが今の私の新しい日常。中等部の頃も幸せだったけど、今だって幸せに違いない。形を変えて、本質は変わらなくて。私とあなたが変わっても変わらないから、素敵な毎日を過ごせているんだ。より深く、されど方位は違えず。互いのためなら秘密の傷さえ分かち合えるのは、私とあなただからこそ。
きっと、私たちだからこそなんだ。
閑話休題、そんなふうに私が物思いに耽るのは、それなりに一人の時間だから。いや実際にはグラスちゃんからツルちゃんまで同期のみんなと一緒にいるのだが、それでも私は一心不乱というやつで。高等部に上がってクラスが分かれても変わらない、私たち同期が集まる時間、すなわちランチタイムだった。食堂のご飯が美味しいことと故についつい夢中になって食べ過ぎてしまうこともまた、今も昔も変わらないことの一つなのだ。
そんなふうにみんなで食卓を囲む時間の中でも、舌の上で料理を味わう間はちょっとだけ一人の時間、というわけ。今この瞬間で言うなら、残り二十個ほどの唐揚げを平らげるまでは少しばかり考え事をしてもいい。もちろん、食べる合間にみんなとお話しはするんだけどね。それに結局一人の時間に私が考えるのなんて誰かのことだから、私は独りには向いていないのだろうけど。そういう意味でもやっぱりアヤベさんと一緒の今は好きだなって、離れている間さえ思うのだ。
「あっ、スペちゃん何か考え事してますね! 手が止まってます!」
「えっ、止まってたかなエルちゃん……。いや、考え事はしてたんだけど」
「まあ私たちの付き合いの長さなら、完全に止まらなくともゆっくりになったくらいで何かしら気が逸れてることはわかるわね。特にスペシャルウィークさんの場合、普段は食事こそすべてって感じだから。そこの異変くらい、全員気づいてはいたわよ」
「あはは、気を遣われちゃってたかな。ありがとうキングちゃん、みんなも」
「どういたしまして。まあエルコンドルパサーさんはその点、物思いに耽るあなたに気を遣えなかったわけだけど」
「ケ!? アタシが悪いデスか!?」
「あはは、悪くない悪くない。要するにに気遣ってるのはキングもエルも一緒だからねー。もちろんこのセイちゃんだって、もしもスペちゃんに悩み事があるなら聞いてあげたいし」
「いやいやセイちゃん、そんな大したことは考えてなくて」
とんとん拍子とはこのことか。一人の時間とは言ったものの、やっぱり独りにはなれていない。むしろみんなに見守られていたみたいで、エルちゃんを皮切りに次々と私の方に注目が向く。本当に大したことは考えていないのだけど、などと思いながらもう一つ、二つと唐揚げをぱくり。こんな感じで本当に手は止まっていないのだが、わかる人にはわかるというやつらしい。
「でもスペちゃんの悩んでる姿は、二年前にすごく見てたから。その頃に比べたら多分今は大丈夫かなって、私は思うな」
「そうですね、私も今のスペちゃんは大丈夫かと〜。むしろ毎日楽しそうで、見ているとこちらまで気持ちが暖かくなってくるかも、ですね♪」
「ええ、そんなにかなあ」
ツルちゃんとグラスちゃんにフォローというか、若干羨ましそうな目で見られている私。まあ二年前は返す返すもアレだったので今そうではないというのがみんなから見ても同じなら喜ばしい限りだけど、毎日楽しそう、とまで言われると恥ずかしいかもしれない。そのグラスちゃんの言葉を誰も否定しそうにはなかったので、どうにも全員から近頃の私は楽しそうに見えていたようで。……近頃というか、結局いつからかと言われたら。
「でもほんと、寮出てから変わったよねー、スペちゃん。アドマイヤベガさん、だっけ。先輩と二人部屋って考えたら、私とローレルさんと同じようなものなのかもしれないけどさ」
「そうデスね、スズカ先輩もですけど、スペちゃんは先輩と一緒に過ごすのが性に合ってるのかもしれないデスね!」
「えへへ、やっぱりそうなのかなあ……。実は今考えてたのも、自分でもアヤベさんと住むようになって変わったなあって」
つまりは、そういうこと。口にしてみると頭の中で想うのとはまた違ったくすぐったさがあったけど、やっぱり今の私はあなたありきみたい。面と向かって言ったら、お互い恥ずかしくなってしまうかな。
「……あなたの食費を思えば、養うって結構勇気がいることだと思うけど。面倒見がいい人を捕まえられるのは、スペシャルウィークさんの才能よね……」
「い、一応料理とかは私がしてるし……」
「全部じゃないでしょう。言われなくても自分が一番よくわかっていると思うけど、ここ一年毎日持って来ているそのケースの中身は誰が作っているのかしら?」
うぐっ。この会話の間に残りの唐揚げは全部平らげて最後の締めを食べようという感じの私だったのだが、そういう目的で傍らから取り出したケースを指さしてキングちゃんがぴしり。……はい、そうです……。このケースの中身は、もうみなさまとっくにご存知でしょうが私の手作りではありません……。
ぱか、とプラスチックの容器を開ける。みんなこの一年で見慣れたろうに、自然と私の手元に注目が集まっていた。うう、ごめんなさいアヤベさん。ものすごく見られてます、自分のことみたいに恥ずかしいです。
とはいえこうなっては仕方ないので、半ば見せびらかすみたいにケースの中身を広げることとなる。耳のついた食パンを二つ折りにして、その間にいっぱいの食材が入ったボリューム満点の食べ物。今日は……ハムときゅうりにトマトとチーズ、色とりどりで目にも優しい。もちろん味は、食べる前から疑う余地もない。
そんな、両手いっぱいに抱えるサイズの大きめなサンドイッチ。一緒に暮らし始めてから毎日欠かさずアヤベさんが作ってくれている、私のための贈り物だ。
「わあ、今日も相変わらず美味しそうだね!」
「そうでしょツルちゃん、アヤベさんのサンドイッチは本当に美味しくて」
「マメだよねー、毎日作ってくれちゃってさ」
「……うん。本当、ありがたいよね」
セイちゃんの言う通り。自分のぶんだけでもいいのに、アヤベさんは毎日私のサンドイッチも作ってくれている。世話を焼くのは好きなんだろうけど、甘えてしまっているなぁとは思う。もちろん私から何も返せてないとか、そこまで卑屈にはならないけど。私にとってあなたが大切なように、あなたにとっても私は大切。その想いの結晶の一つが、このサンドイッチなのだから。
かぷり。というわけで、依然衆目に晒されながらサンドイッチにかぶりつく。脂身の少ないハムとしゃきしゃきのレタス、瑞々しいトマトまで一口に重ねる。色々なものをまとめた味が、さっぱりと口の中を洗い流すみたいに埋め尽くす。……うん、美味しい。優しさのこもった柔らかい味。噛み締めたパンの表側がほのかに温かいのは、きっとあなたの手のひらの温度を閉じ込めていたからなのだろう、と。いつも通り、そう思った。
「スペちゃん、やっぱり最後のサンドイッチが一番美味しそうに食べますね〜」
「うん、美味しいから。……本当、アヤベさんにはよくしてもらってるなあ……」
「スペちゃん、今日はずっとそれデスね!」
「あはは、そうかも」
などと立て続けに言われて、否定は一つもできなくて。本当は、今日だけじゃないかもしれないけど。あなたと一緒に暮らして、あなたと同じものを食べて。だから離れている時さえ心はあなたのそばにいて、あなたのことを考える。そういうものかもしれないななんて、密やかにまたあなたを想うのだ。
きっと、いつでも。
いつでも、あなたと一緒だ。
昼ご飯の時間はいつも通りそうやって過ぎた。いつものみんな、いつもの時間。変わり映えがしないなんて言い捨ててしまうには惜しいくらい、これも大切すぎる日常だ。むしろ私たちが変わっていくからこそ、その中で変わらないものは大切にしたい。とはいえもちろん、変化が悪いという意味ではないのだが。この一年で芽生えた新しい幸せは、間違いなく変わったからこそ手に入ったものだから。
私と、アヤベさんと。今みたいに離れていても繋がっていると言い切れるようになったのは、奇跡の先に踏み出したからこそ。未来を、夢の先を、新しく描いていけるからこそ。誰も知らない真っ暗闇の中が、一番綺麗に星を見られる場所なんだ。
「──えー、というわけでこの公式が──」
……と、昼休みも終わったのにあまり幸せ気分に浸っていてはいけない。今は授業中、授業中。相変わらず勉強が得意などとはとても言えない私なのはまた変わらないことなのだから、しっかりと集中しなくては。万一補習に引っかかりでもしたら、程度によっては帰ったあと晩ご飯を作る時間と体力がなくなってしまう。そうなれば私だけではなくアヤベさんの食生活にも関わる事態なので、今の私は自分だけのために勉強しているわけではないのだ。
なんて、そんな単純な理屈の他にも、「自分だけのためではない」と言える私はいるのだけど。相変わらず得意ではないけれど、中等部の頃よりも難しいはずの高等部の勉強に食らいつくだけの心持ちみたいなものはある。些細なことだけど、まったく変わっていないわけじゃない。少なくともこの一年は補習に引っかかっていないわけだから、不得意なりの努力の成果はあったのだ。そして、努力するだけの理由も。
それはやっぱり、アヤベさんの影響だった。近くにいる先輩についつい憧れてしまうこと自体は中等部の頃と変わらないのかもしれないけど、少なくともあなたは変わっていたから。
夢を一つひた走った先にある、新しい夢を見つけること。そんな変化を間近に見たから、私も変わろうと思ったのだ。
『私、星を仕事にしたいと思ってるの。だから、天文台で働きたくて。そのために三鷹にある国立天文台の本部にも行ってきて、それで……うん。相当な量と時間の勉強は必要みたいだけど、それが今の私のやりたいこと。……まだ先は長いから、あまり他人には言いふらしていないのだけど』
そうアヤベさんが言うのを初めて聞いたのが、二年前のことだった。レースに一区切りをつけたあとのアヤベさんは、あれだけ力を入れていた走りへの熱量をそっくりそのまま勉強に移したみたいに毎日分厚い参考書や問題集と向き合っていた。ちょうどその頃の私は先述した諸々で半ば抜け殻のようになっていたわけだけど、そんな私に命を吹き込むような言葉だった。あなたの、新しい未来の話だった。
『夢なのだと思う。難しいことなのだと思う。親しい人にも、まだなかなか言えていない。でも、スペシャルウィークさんには言っておきたかったの』
夢を語るあなたは、微かに笑っていた。照れ臭そうに、愛おしそうに。だから努力するのだと、自分なりの道を見ていた。その時の笑顔は、あなたとの間にあるたくさんの思い出のうちの一つだ。
そうして一年前、アヤベさんは都内有数の大学に進学を決めた。もちろんあなたが学園を去ることへの寂しさはあったけれど、それ以上に夢に近づくその一歩を祝福したいと思ったのを覚えている。流れ星のような煌めきが私の目の前にあったのを、覚えている。私も頑張らなきゃ、そんなふうに勉学への心持ちを変えたのはアヤベさんがきっかけだ。卒業したら実家に帰るのかなあ、くらいのことをぼんやり考えていた頃よりは少し前に進んでいる。しっかり未来を選べるように、その準備をしているつもり。
あなたと共に歩める、そんな未来を。
「──以上の式を使って、ここに当てはまる数値は──」
……まあ、まだまだ私の将来については、まさしく一寸先は闇なのだけど。そもそも先程までの話には、結局別れから一ヶ月ほどでアヤベさんから誘われて一緒の住まいで暮らし始めるというオチはついているわけだし。未来を見据えるにはまだ私は子供で、とはいえそろそろ考え始めてもいいくらいの時期で。同期のみんなも時たまそんな話題をするし、アヤベさんにだって「あなた進路はどうするの」って聞かれたことはある。そう聞かれた時に「アヤベさんと一緒がいいです」と言うには流石に学力が足りなかったし、ちゃんと自分自身の道を選ばなきゃいけないのだろうとは思う。というわけでそういう話は笑ってごまかし、アヤベさんにため息を吐かれること数回。「私はあなたの保護者みたいなものなのだから」と言われるたびに申し訳なくはなる。でもやっぱり、答えを出すのは難しい問いだ。
私は、あなたと一緒がいい。きっと、そう思う。だけどそれだけの気持ちじゃ、ずっと一緒にはいられないのだろうか。たとえば夢を持つならば、離れ離れでもお互い満ち足りるのだろうか。今の私には夢がないから、一緒にいることを一番にしてしまうだけなのだろうか。あなたより優先する夢を持てば、独り立ちをする運命なのだろうか。
そんな不安がないと言えば、嘘になってしまうのだろう。だけど今が幸せなのは、絶対に嘘じゃないから。今の私にとっては、あなたと一緒の未来が一番だから。
きっと、これからも。
夢は一人で描くものだなんて、誰も決めていないのだから。
それに一つ、私の気持ちを補強する事実がある。一緒がいいって願っていい、その理由が一つある。
『スペシャルウィークさん、一緒に住まないかしら』
何度でも抱きしめ直せるその言葉からちょうど一年ほど、あの時あなたがその未来を選んだこと。
夢に一歩近づいた先で、私とあなたの未来を選んでくれたこと。
きっと、そのことは。
きっと、永遠にしてもいい。
『今日は早く帰れるから、買い物付き合うわよ』
というわけで、私はトレセン学園最寄り駅の改札口前にいる。アヤベさんがそんなLANEを送ってくるのは週に一度あるかないか。課題を済ませるかバイトをするか、とにかく割とレアなのである。なので電車のよく見える場所に陣取って、アヤベさんを待っているのだ。わくわく、ぴこぴこ。あなたを待つのは初めてではないけれど、ついつい耳は揺れ尾は跳ねる。初めてじゃないから、この先が楽しいものだとわかるのだ。
早く、来ないかな。待っている時間さえ幸せだから、待ってなんかいられない。一分だってあっという間に感じられるから、一秒だって待ち遠しい。そういう午後。
私の帰り道。
あなたの帰り道。
私たちだけの、時間。
ちなみに付き合ってくれる買い物というのは、もちろん今日からのご飯の材料のことだ。そりゃあ買い置きもしているが、冷蔵庫の空き具合くらいは二人とも見ているのでわかってしまう。そろそろ再び買い溜める頃合いなのはお見通し、なら早めに帰って買い出しを手伝おうか、みたいな気配りをアヤベさんはしてくれている、というわけ。つくづく甘えてしまうけど、まさかそんな申し出を断るわけにもいかない。
だってまあ、嬉しいし。それにまあ、多分あなたのわがままでもあるし。お互いに望むことならば、どうしたって一つになるまで歩み寄るしかない。どうしようもなく、仕方ない。
ぎぎぃ、しゅう。ちょっぴり甘い私の思考は、そんな機械の大仰な音で閉ざされた。なんでもない電車の止まる音。これで三度目。反対車線に一回、改札側に二回。その二回目が今なので、否応なしに意識がそちらに向いてしまう。アヤベさんが降りてくるなら改札側、手前だ。つまり扉が開けば目当ての人が出てくる可能性があるというのは駅に着いてから扉が開くまでの数十秒で十二分に覚悟できることであり、結果が確定する頃にはがっかりする準備も心躍らせる準備も完了している。もちろんそこまでの数十秒は、瞬きだって忘れてしまうくらい長い永い時間を過ごすわけだけど──。
(──あ)
──微かに手を振るあなたが、見えたから。安らいだ笑みで頬を染めるあなたが、そこにいたから。どれほど遙かに感じても、あなたに私の手は届くから。
ホームに降りる。まだ、遠い。
改札を抜ける。まだ、足りない。
目の前にいる。まだ、切ない。
「……待たせたかしら」
「いいえ、全然!」
言葉を交わした。手を繋いだ。同じ歩幅で歩き出した。
きっと、織姫と彦星のように。
運命は閉ざし奇跡は拙くても、私とあなたは真実だ。
「ただいま!」
「……ただいま」
「おかえりなさい!」
「それならあなたも、おかえりなさい」
がちゃり。エレベーターに乗って四階まで昇って、廊下を少し進んだところに私たちの家がある。駅前から買い物中から扉の前までずっと並んで歩いていたわけだけど、玄関をひとまずのゴールとして二人の足取りは止まる。また、私たちのいつもに一区切り。
閉じる寸前外を見遣ると、もう夕日がだいぶ落ちていた。帰ってくるまで時間が結構かかった、ということだ。まず私がずいぶん食材を買い込んだ上にアヤベさんもサンドイッチ用の食パンやら新しいノートやら買いたいものがあって、律儀に二人とも相手の買い物に付き合っていたのでショッピングモール中をうろうろした。トレセン学園から家までの道のりのうちに大きめのショッピングモールがあることはありがたいことなんだけど、流石に一つの建物とはいえ結構な距離を二人で歩いた。私の左手とアヤベさんの右手は大きめのエコバッグ(普段は一人で二つ抱えて帰るのだが、こういう日はアヤベさんが自分も持つと言って聞かないのだ。ウマ娘にとって別に買い物袋の一つや二つも重いものじゃないなんてそりゃあわかりきってるだろうに)で埋まっていて、空いたそれぞれの右手と左手は示し合わせたように繋いで結ぶ。空白は星色でいっぱいになる。私の手のひらの隙間から、あなただけの輝きが暖かい光を放つ。そしてそれを包む私の方も、あなたにとっての煌めきになれていたら。手を繋ぐたびに曖昧に、だけど確かに思うことだ。
さて、とはいえ帰宅した。ゆっくり惜しむように歩いたとて、私たちは必ずゴールを目指して足を動かすほかない。そしてゴールは待ち遠しいもので、ゴールの先が幸せの本番だ。毎日変わらず、最高のもの。私とあなたは今、そこに手が届いている。
「じゃあ、バッグちょうだい。中身をしまってくるから」
「はい、お願いします! なら、お風呂洗ってきますね!」
「ええ、お願い」
そうして、手を解く。温度まで等しくなっていたから、大丈夫。
手のひらが離れる瞬間は、ハイタッチに似ていた。
ごし、ごし。プラスチックの掃除用サンダルだけ制服に付け足した不恰好な装いで、とりあえずは風呂洗い。まあ毎日ちゃんと洗っているので、スポンジとシャワーで前日分の汚れを取るだけで済むのだが。ちなみにこうして帰ってきて風呂をすぐ洗う理由は簡単で、我が家は晩ご飯の前にお風呂を済ませるタイプだから。こう言うとあの私がご飯より優先することがあるなんて、などと言われがちなのだが、そこは共同生活故、という感じだ。
つまり、アヤベさんに合わせたというか。もちろん私も今では意外とそういうやり方にしっくり来ているけれど、主にアヤベさんのため、みたいな。これはおそらく寮にいた頃はアヤベさん当人すら気づいていなかったのだが、この人はしっかりお風呂に入るとずいぶんとリラックスできる人だった。端的に言えば、風呂好きだ。あとはさっさとラフな部屋着に着替えた方が露骨に落ち着いていたので、着飾るのが苦手な相変わらずの性分も関わっているかもしれない。もちろん昔に比べたら、私服の種類は増えたのだけど。「大学ってなんで制服がないのかしら」といつだかぼやいていたのを、私はしっかり覚えている。
……まあとりあえずそこら辺は今から言ってもみたいなことでもあるし、とりあえず、じゃばー。シャワーで洗剤を洗い流せば、ぴかぴかの湯船が顔を出す。あとは栓をつけて、「ふろ自動」をぽちり。我が家のバスルームは追いだきも完備だ。他の設備も割としっかりしていて、エアコン二台にIH式で広めのキッチン、居間と二人の寝室だってちゃんと広めにある2DK。
当然ここまでしっかりした部屋を選んだのはアヤベさんで、そしてアヤベさんの性格からして自分のためじゃなくて私のため、だったんだろうけど。今ではたとえば大きくて分厚い絨毯を部屋の真ん中に敷いたり二人分のファースリッパを用意したり、生活水準を上げることに関して躍起なのはどちらかと言えばアヤベさんの方、みたいなオチもついている。元々意外とこだわるところはこだわる人だったから、驚きはそれほどないのだけど。
強いて言うならきっと、きっと私は嬉しいのだ。あなたがあなたを大切にすること。あなたが私を大切にすること。それが嬉しい。ここに関しては、私だって他人のことは言えないし。ついつい自分を疎かにするおせっかいが二人集まって、ようやく自分を大切にできる。あなたが見ていてくれるから、私は私を見れていた。
「アヤベさーん、お風呂入れてますよー!」
「ありがとう。麦茶を淹れておいたから、スペもどうぞ」
「あっ、ありがとうございます。いやあ、今日もおつかれさまでした」
「そうね、疲れた。早くお風呂に入りたいわね」
「……ふふっ」
「何よ、急に笑って」
「ああすみません、嬉しくなっちゃって。アヤベさん、素直になりましたねえ、なんて」
「……もう」
それは本当。誰にも依らないと天頂で孤独に瞬いていたあなたは、いつしか地上にその輝きを落としていた。手の届かない憧れから、手の届くひとりになってくれた。あるいは己の価値を揺らがせることかもしれないのに、あなたはその道を選んだ。どこにでもある弱さが自分の中にもあるのだと、見せてくれるようになった。そのことが嬉しい。
そして、もう一つ嬉しいこと。そんなあなたを今一番間近で見られるのが、私であること。ちょっぴり欲張りで恥ずかしい、あなたにも言えない嬉しさだ。でもいつかその気持ちを伝えたら、きっと、あなたははにかんで応えてくれるのだろう。そうわかっているから、私はまだ秘密にしている。
デザートは最後まで取っておくのが、一番美味しいものだから。
と、麦茶を啜りながら十分ほど。ぴーっと、音が鳴って、音声アナウンスが一つ。
『お風呂が沸きました』
「沸いたわね」
「そうですね、冷めないうちに」
うん。二人でいればお風呂が沸くまでなんてあっという間だ。気がつけばアヤベさんは着替えとタオルの入ったカゴを持ってきていて、準備万端。待ちきれない、と言った感じだ。
「じゃあ、先に着替えてるから。早く入ってきなさいよ」
「はい! アヤベさんを独りにはしませんから!」
「大袈裟ね」
「えーっじゃあ、一緒に入りたくないんですか、お風呂」
ちょっと意地悪く、そんな問いを引っ掛けてみる。まあ実際湯船も洗い場も一人用の広さなので、二人で一緒に入るものでもない、といえばそうだろう。というか当初は一緒に入ってなかっただろう。いつからだっけ。誰から言い出したんだっけ。アヤベさんからは言い出さないかな、照れ屋さんだし。うん、照れ屋さん。だって──。
「……ちゃんと入ってきて。待ちぼうけを喰らった私が風邪を引いても、あなたの責任だから」
──こんなふうにしか甘えられないんだもの。
「はーい、すぐ入りますね!」
「うん。待ってる」
「なんか大袈裟ですね、アヤベさん」
「あなたには言われたくない」
そんなふうに言って、ぷい、と顔を背けながら洗面所に向かうアヤベさん。なんというか、素直だけど素直じゃない。まあそこら辺がアヤベさんの可愛らしいところなので、しっかり甘えさせてあげなくては。いつでもしっかりしていて、私のことも捕まえられるくらい優しくて。そんなあなたにだからこそ、私が思うことは。
私もあなたを、捕まえて。ここからの夜は、あなたの弱さを撫ぜてあげる時間。あなたがいなくてはいけない私と、私がいなくてはいけないあなた。
きっと、それが支え合うということだ。
「お邪魔しま〜す!」
「はいはい、どうぞ」
ちゃぽん。風呂場に入ると同時に、水の跳ねる音がした。湯船から入り口に向けて、あなたから私に向けて反応があった証だ。身体を洗うためのタオル一枚を除けば、湯気とお湯だけが二人を区切るこの空間。そしてその二つのぬくもりは、同時に私たちを一つの空間に閉じ込めてもいるのだ。特別。いつも通りの、特別。
「……ふぅ」
と、私に一寸目を向けたあと、アヤベさんはすぐに自分の世界に戻っていった。芯まで身体を温めてくれるほかほかのお湯が詰まった、一人用の湯船へと。ちなみに私がいるのが、その反対側にあるとも言える一人用の洗い場。アヤベさんがシャワーだけ浴びたあと先に湯船に浸かっている間、私が身体を洗う。洗い終わったら二人の場所を交代して、アヤベさんが身体を洗う。これが私たちのお風呂のルール。明らかに一人用のお風呂なので、無理やり二人で共有するとどうしても狭いのだ。狭苦しい、とは言わないのだけど。あなたとだから、苦しくはないのだけど。いつだったかもう少し広かったら二人で一緒に浸かれたんですけど、とぼやいたら、二人で湯船に入ったりなんかしたらべたべた触ってきそうだから今の広さがちょうどいいわ、なんて返されたのを覚えている。うう、アヤベさんだって二人でお風呂自体はまんざらじゃないくせに。狭かろうが断らないんだから、絶対絶対そうなのに、素直じゃないというか、恥ずかしがるラインがあるというか。私からすれば、今更なんだけどな。
「スペ、今日は学校どうだったの」
「ああはい、特に変わりなく」
「特に変わりなく、どうだったの」
「……ほんと、毎日聞きますよね……」
「それはそうよ、あなたの保護者なんだから」
なんて会話も毎日か。一緒にお風呂に入って、そこで初めて一日の終わりを実感する。二人の時間が、やってくる。それは毎日。今日はアヤベさんと一緒に帰れたからこうしてそのまま入ったけど、アヤベさんが遅い日も含めて、毎日。そういう日は先に晩ご飯を作ってアヤベさんの帰宅に合わせてお風呂を沸かすけど、まずは二人でお風呂なのは、毎日。遅くとも帰宅を待つのは単に私のわがままなので、良妻賢母とは言いがたいかもしれないが。それでもわがままの内容はアヤベさんに任せたら冷めたままの風呂に入ってしまいそうだとか、あったかいお風呂がすごく好きなくせにそれだから困ったものだとか、二人でのお風呂を楽しんでるのは何も私だけじゃないんだからとか、だから素直じゃないあなたのためなんですよとか、まあわがままとはいえそういうわがままだ、と思う。
そしてそこでトレセン学園のことを聞かれるのも、毎日。もちろん私の保護者だから、というのも本当だけど、アヤベさんなりに昔を懐かしんでいるのかな、なんて思ったりもする。とはいえその声音に寂しそうな色は混じっていないから、あなたはしっかり未来を向けているのだろうけど。未来を目指し、過去を愛する。ありふれた人生の歩き方を、今のあなたなら選べるんだ。
「そうですねえ、勉強は順調です。相変わらず、というにはまたけつまずくかもしれないですけど」
「そうなったらまた教えてあげる。昔のあなたもそうだけど、意外と頭は悪くない」
「意外とってなんですか、意外とって」
「事実だったと思うけど」
「一見するとバカってことですかあ……」
「何枚か皮を剥かないと出てこないわね、賢いあなたは」
「うぅ、言い返せないのが悔しいです」
「……でも、努力すれば身につくタイプ。レースは割と感覚型だったのに、勉強となるとこうなのは面白いけれど」
「ふーん。アヤベさんはレースも勉強も変わらずストイックにやれちゃいますもんね」
「こら、ちゃんと褒めたんだから拗ねない」
そう言いながら、湯船の縁越しにちゃぱっと軽くお湯をひっかけてくるアヤベさん。洗っている最中だった私の身体を包む泡が、あなたに撫でられたみたいに少し剥がれた。温かい。そう、思った。
「あとはそうですね、お昼は美味しかったです。から揚げが食べ放題で」
「毎日聞いている気がするわね、それ。……これも毎日だけど、あなた、本当に食事が好きね。作るのも、食べるのも」
「そりゃもちろん。でも作るのが好きになったのは、作る理由があるからですよ。食べるのと同じです」
「……そう。なら私も、あなたと同じ」
「それなら嬉しいです。アヤベさんのサンドイッチも、美味しいですよ」
食べてもらえるから。美味しそうに、食べてもらえるから。自分の中に取り入れることに、喜びを感じてもらえるから。あなたのために作るから、幸せを届けられるのだ。そのことは常々思っているし、アヤベさんのサンドイッチも同じ気持ちなら嬉しい。同じ気持ちを持てていることも嬉しいし、幸せを感じる理由に互いを置けることも嬉しい。
……ひょっとして、これが新しい、私を導き翔ける夢。あなたのおかげで気づけた、将来の指針というにはまだ拙いけど。必ずたどり着ける。食事の幸せを探求することは、私たちが日常を過ごすことに等しいのだから。
私とあなたの道は、同じじゃなくても交わっている。
夢は双星。流れ星よ、願いを叶えたまえ。同じ願いを二人分、重ねて束ねて届かせたまえ。
きっと、それが天頂。
きっと、未来の結実なのだ。
「さて、じゃあそろそろ代わらせて。茹ってしまいそう」
「はいはい、どうぞどうぞ。では失礼して、入れ替わらせていただきますね」
「毎度のことなのに、そこだけ妙に仰々しいわよね」
「そーです……ふぁぁ。あー、湯船は最高ですぅ〜……」
「そこで思いっきり気が抜けるのも、毎度毎度飽きないわね」
ざぷん、じゃぱん。四肢をお湯に浸せば、文字通り全身を熱が包んでくれる。それくらいの広さの湯船ではあって、肩までしっかり水位がある。……くんくん。さっきまで浸かってたとはいえ、あんまりアヤベさんの匂いはしてくれない。普段はたっぷりの柔軟剤で紛れてしまうから、どこかでちゃんと、それこそ布のない今ならというか、そういう試みは密かに続けているのだが。
いや、そんな変な意味ではない。ただ単に、アヤベさんの匂いは落ち着くから。その理由も簡単で、この家に満ちる空気はどうしても私たちの色がついてしまうから。そこで過ごしてそこで笑って、そこで幸せが一番多いなら。私たちの生活に紐付けされた互いの匂いがついつい気になるのも、致し方ないというか。こんなことを口に出しては流石に変態じみているけど、アヤベさんの方だってちょっとは思っていてほしいことだ。口に出さず思うだけなら、ありふれた幸せの一つだから。
(──と)
だから、自然と顔を上げる。いつもではないけど、初めてでもない。時々、無性に。無性に、ただ。
ちゃぽん。少しだけ肩を水面から出して、私の視線は一つの物体を捉える。芸術というにはいのちの色がして、生き物というには綺麗で繊細。だから、なんと呼べばいいのかわからない。たくさんあなたについてわかることは増えたけれど、ここはまだわからない。
あなたのしなやかな背中を時たま目で追う私がいる理由は、わからない。
トレセン学園を卒業して、アヤベさんは都内有数の大学に進んだ。けれどそれはつまり、もう走ったりする余裕はないまったく新しい生活をしているということ。鍛える理由も時間もなくて、だんだんとあなたの身体は新しい生活のために作り変えられていく。……全盛期を過ぎた、そんな残酷な言い換えも容易だ。
だけど。
だけど、そこには確かにかつての残滓があって。わずかに薄くなったのかもしれないけれど、女性らしい丸みを帯びた背中には、丸みだけじゃない強さを秘めた筋肉がついたまま。足元まで視線を落としてみても、脚はスラリと伸びる中にふとももなどしっかり肉が詰まっている、とか。泡と水と湯気越しの艶やかな肌の上からでも、あなたのことを綺麗だと思えた。
この辺りについつい着目してしまうのは、やはりまだまだ現役で走っている身分だなという感じだが。別にもう走らないんだからアヤベさんが多少だらしない体型をしていたっていいのに、そうはなりそうに見えないことが理屈もなく嬉しいのだ。ほらほら、前の腹筋だって──。
「ぶっ」
──不意打ちに対して出せた声はそれだけだった。私の顔に、思いっきり、シャワー。気づけばアヤベさんは立ち上がって、鉄面皮で熱湯迸るシャワーを私の顔面に。
「あっぶっ、ちょっと、ひどっ」
「いや、バカ」
じゃー。勢いが止まらない。逃げるとそっちに丁寧に合わせてくる。水責めである。
「べんめっ、けほっ、弁明を」
「人の身体を覗き込もうとする理屈って、よっぽどじゃなきゃデリカシーのなさで説得力がないわね」
「げほっ、はい、すいませっ」
うーん、やりすぎたか。こっそり眺めてるのはバレてると思ってたから全部じろじろ見てもいいかな、というのは甘えすぎだったらしい。いや本当になんとなく見たいだけではあるが、確かにデリカシーがないかも。
「私はアヤベさんに見られても平気ですよ、ほら……わぶっ!?」
「湯船で立たない。人にあんまり恥じらいなく見せびらかさない。大事な身体でしょう、あなたはまだ走るのだし」
「ならアヤベさんは走らないから、見てもいいんですかー?」
「……はぁ。子供みたいな言い訳ね」
「そりゃあ、アヤベさんが保護者役ですからね」
「はいはい、一本取られたわ。それでもそんなあけすけじゃ、幻滅されて嫁にもらってもらえなくなるわよ」
「……じゃあアヤベさんは、今ので幻滅しましたか?」
「今更あなたへの印象は変わらないわね」
……なら。
「なら、いいです。やりすぎはまあ良くないですけど、アヤベさんにはあけすけでいいです。アヤベさんがその方がいいなら、それでいいです」
ちょっと冷め始めた湯船と、こちらに向けていたシャワーを握りしめてうつむくアヤベさん。アヤベさんの感情表現はうつむきの中にパターンを作るものだというのはまあ流石にわかってることだが、この場合はどのうつむきだろうか。柔らかでしなやかな肢体が一つ、私の目の前で揺らめいていた。なお、繊細に。
うん、やっぱり。
「……それなら、好きになさい」
やっぱり、あなたは優しい。結局私を肯定してくれるから、そう思わざるを得なかったのだ。
まあ確かに、アヤベさんの言うことは一理あるのだけど。アヤベさんとの生活に適合しすぎて、寮など他の生活どころか実家に帰っても違和感がありそうなのは事実なんだけど。でもそれだって私からすれば、まるで問題のないことだ。
だって、たとえ果てまであなたと共にいても。
きっと、私たちは幸せだ。
私とあなたは、結実したのだから。
「ほら、じーっとして」
「はい、止まってます」
「首を傾けない」
「少しは勘弁してくださいよう、触られたら動いちゃうのは生理現象じゃないですかあ」
柔らかく髪の毛を握られている。私の髪型は編み込みを解くともみあげが結構長いのだ。というわけで、そこをつーっと。アヤベさんの手のひらで、滑らかに。もちろん無意味に触られているわけではなくて、ヘアオイルを塗る、という目的があるのだが。いやあこれくらいなら自分自身の手でもできるのだけど、なんだかんだとアヤベさんに塗ってもらうのが常態化している。そもそもヘアオイルなんてものを用意したのが、アヤベさんの発案だし。香り漂う大人のアイテム、私には思いもよらなかったものだ。
『スペ、あなたもうちょっと毛並みを大事になさい』
いつ言われたんだっけ。一緒に住み始めてからだから一年以内なことは確かだが、まあこの一年色々なことがあったので正確な時期は覚えていない。ともかくアヤベさんは、いつか私にそう言った。それで持ち出したのが、ヘアオイル。買いに行きましょう、と半ばむりやり手を引かれたはずだ。
『あなた、編んでいるところは長いじゃない。それに尻尾。ちゃんと手入れした方がいいわ』
次いでそう言われた。化粧品売り場に着いてからだった。そんな感じでいそいそと前を行くお節介なお姉さんの後ろ姿を見て、ようやく私は一言言えた。
『それならアヤベさんは今まで、使ってなかったんですか?』
そう聞いたら、振り向かれた。滅多に見ない顔をしていた、と思う。今に至るまで、だ。つまりオチとしては、アヤベさんこそ全然手入れに気を配っていなかったということだ。他人のことばっかり気にして、そんなのは相変わらず。
まあ私も自分のことを気にされたタイミングで他人のことをつついたのだから、お互い様なのかもしれない。世話焼きで危なっかしい、誰かが隣にいた方が幸せだと。
そんなこんなで、二人で使うヘアオイルを買った。髪の毛と尻尾で別のやつ。毛の質が少し違うから、みたいな理屈があるらしかった。アヤベさんから聞いたことだけど、アヤベさんも又聞きみたいだった。自分についてしっかりするのが下手な人間が集まってしまったな、という感じだった。けれど二人なら生きていけるのなら、なんの問題もないのかもしれない。こうしていれば、いいのなら。
「はい、次は尻尾。力を抜いてちょうだい」
「優しく、お願いしますね……」
「わかってるわよ。いつものことでしょう」
……そして、こうしている。敏感な尻尾の表面で、あなたの手のひらを感じ取る。根本から毛の一本一本まで、慈しむような熱が染み渡っていく。
「そういえばアヤベさん、アヤベさんは今日どうだったんですか? 大学」
「普通よ。ちゃんと順調。だから、珍しく早く帰れたし」
「それはよかったです」
「……普通よ」
「普通だから、よかったんですよ」
あんまり詳しくは話してくれないけど、それも普通のいつも通り。なら安心。ほっとした気がする。そのぶん力が抜けたのか、あなたの指先をより身近に感じられた気がした。
うん、嬉しい。今日もあなたは、生きている。
そのまま、しばらく。全部終わってドライヤーの熱を受けても、あなたの温もりは残ったまま。
心の芯が、あなたで揺れる。
「……さあ、これで終わりね」
「はい、ありがとうございます」
「どういたしまして」
「じゃあ、交代ですね」
「……うん。よろしく」
立って、座らせて。それで入れ替わって。部屋着に着替えて髪は乾いて、私はすっかり風呂上がり。ならばちゃんともう一人も、風呂上がりにしてやらねばなるまい。
「ああやっぱり、アヤベさんはちゃんと髪の毛拭いてください」
「……慣れないのよね」
「慣れなくても私が拭きますけど、自分は大事にしてくださいよー」
「……善処はする」
というわけで、髪の毛を拭いて。
「……んっ」
みたいな声は、いつも通りなので無視してあげて。
「はい、オイル通しますね」
「ええ、どうぞ」
そこからだって、やられたことのお返しなんだけど。いつものように、恩返しなんだけど。
「……ひゃん」
……尻尾まで行くと絶対こういう声が上がるので、私の方もなれないものだ。なんだか悪いことをしているみたい。もちろん逆で、いいことなんだけど。あなたがそれくらい、隙を見せてもいいと思ってくれているんだから。
「……はい、じゃあこれで」
「ありがとう。……ふぅ」
「お疲れ様です、アヤベさん」
「あなたもお疲れ様、スペ」
ドライヤーでぶおーっと乾かせば、二人とも出来上がり。私たちのお風呂はこんな感じ。そのままリビングに移動して、二人でテーブルについて。またお茶を飲んだりしながら、一息ついて。
夜が、やってきて。
「じゃあそろそろ、晩ご飯を作りましょうか! アヤベさんのリクエスト、にんじんハンバーグ!」
「ええ。楽しみに、してる」
緩やかに、一日は終盤に入るのだ。
星のような希望はいつだって、私たちのそばにある。
じゅう、じゅう。とて、とて。キッチンでは朝ぶりにファースリッパの柔らかな音とタンパク質の焼ける音が協奏をつくる。朝は卵で、今はひき肉。にんじん玉ねぎパン粉などはもう混ぜ込んだので、火を通せば完成だ。……フライパン二つに。仕方ない、仕方ないのだ。私の食べる量的に、フライパンは二枚あった方が便利だという結論が生活しているうちに出たのだ。たとえば今作っている、にんじんハンバーグを用意する時とか。にんじんを細かく切って混ぜ込む、お母ちゃん仕込みのにんじんハンバーグ。アヤベさんがリクエストする料理だと一番多いかもしれない。私の二人のお母ちゃんから教わった味だけど、今となってはもう一つの意味を持つ。私とアヤベさんが初めて一緒に食べた、「家庭」の味だ。
……まあアヤベさんが今日みたいに自発的に晩ご飯のリクエストをくれるようになるまでにも、それなりの時間がかかったのだけど。以前は毎日「何か食べたいものはありますか?」「何もないわ、好きにして」のやり取りを繰り返していたものだ。お姉さんからは、わがままを言ってもらえるようにするのも一苦労。なんて、わがままを言ってほしいというのこそ私のわがまま、とも言えてしまうのだろうけど。ともあれそうして心を開けてもらえたのだから、今のアヤベさんが正解だ。私とあなたが組み上げた関係なら、なんだって正解なのだから。
そういうわけで、私はアヤベさんのリクエスト通りのにんじんハンバーグを作っている。もうすぐ出来上がる。楽しみに待っていてくれたらいい。……いいんだけど。
(……落ち着かないなあ)
うん、落ち着かない。なんでって、理由は明白。でも素直に言うと傷つけてしまいそうなので、どうしようかな。こういうところで甘えられない人なのは、困ったところで愛らしいところだ。
とて、とて。正確には今のキッチンでは、もう一人ぶんのファースリッパの音がする。私の後ろ。シンクとコンロを行ったり来たり。無言で、手を出さず。だけど心底、手を出したそうに。……アヤベさんがこうなのは、一度目じゃないけど。早く帰ってきてリクエストをして、そうだったらいつもこう。その条件が揃うのがまだ珍しいから、慣れないんだろうというのはあるのだが。私も、アヤベさんも。人に任せるのは慣れてない人と、任せてほしそうな人にすぐ仕事を振れない人。うーん、似たもの同士か。私とアヤベさんが似たもの同士というのは、なかなか信じてもらえない話だろうなあ。
……それにしても、どうしようかな。
すごくわかりやすく邪魔にならないように動いてはくれているのだけど、視界にも極力入らないようにはしてくれているのだけど。そういう気配りの上で我慢できないって感じのうろうろがあるので、かえって落ち着かない、と言ってしまうと可哀想な気もする。だからと言って何か振れるわけではない、ダメな私。なまじ一人の料理が上手くなってしまったぶん、最初みたいに上手く頼れていないのだろう。ここはつまり、二人の生活において発展途上。一人でなんでもやればいいなんて、そんな寂しい結論は出したくないもの。
……けど、もう焼きあがっちゃうなあ。いい匂いがしてきた。多分、後ろのアヤベさんも感じられるくらいの。そうなると俄然我が仕事はないかと焦るのがこの世話焼きさんなので、更に後ろをふらふらり。落ち着かない、かける2。アヤベさんに対して落ち着いてください、なんて言いたくなる側に立つとは一体いつ想像できただろうか。申し訳ない、申し訳ない。こんな状態で手持ち無沙汰、そんなふうにさせてしまうのがとても申し訳ない。
なんとかなんとか、探して……そうだ──!
「……あの」
「あ、あの!」
──そこで「あの」が重なってしまうのも、噛みあわないというよりは似たもの同士ということにしておきたい。
「え、えーと」
「えーと、その、アヤベさん」
……これも。
まあ、うん。タイミングが合ったので、そのまま。
「あの、お皿! 焼けたので、お皿に盛り付けお願いします!」
「……え、ええ! わかった、任せて、スペ。……うん、フライパン借りるわね」
とて、とて。二人のファースリッパは入れ替わり、ここで役割交代。ちなみにちゃんと二人ともエプロンはつけていた。エプロンまでつけて待機させて、やらせるのが盛り付けだけなのはなんとお詫びすればいいのやら、だけど。なんだかんだで頼まれたことはしっかりやってくれるアヤベさんがフライ返しを使って丁寧に二枚の平皿にそれぞれのサイズのにんじんハンバーグを盛り付けるのを見ながら、そんなことばかり思ってしまうのだった。……一応自分も、お茶碗に炊き立てのご飯を盛り付けながら、だった。
というわけで、なんやかんやで。二人ぶんのご飯とにんじんハンバーグ、二種類だからシンプルといえばシンプルな晩ご飯の出来上がり。とはいえ私の方は言わずもがな、アヤベさんのぶんもハンバーグが結構なサイズなのだが。野菜も入っているので、お米を食べればしっかり三色、みたいなことくらいは考えています。だって私が考えないと、アヤベさんは相変わらず食事に気を配るのを忘れがちなんだもの。そりゃあ昔よりはマシとはいえ、まだまだ一人にするには危なっかしい。……むしろ私の料理に慣れさせてしまったぶん、一人に戻すのはより危なっかしい、かも……。
なんて、ね。
とて、とて。ことん、ことん。二人でお皿を運んで、丸くて広いテーブルに座る。椅子の上にふわふわクッションが敷かれているのは、言うまでもなくアヤベさんのこだわりだ。
「じゃあ、これにて」
「ええ。美味しそう」
「はい。保証します」
「……いただきます」
「いただきます!」
うん、美味しいから。絶対に、美味しいから。
今日も明日も明後日も、美味しいご飯を作ります。
あなたと私の、日常を。
「家庭」の味が、作るのだから。
何事もなく、にんじんハンバーグは美味しかった。何事もなく、そのあとは二人で一緒に食器を洗った。何事もなく、同じタオルで濡れた手を拭いた。何事もなく、そのまま手を繋いでソファに向かった。何事もなく、寄り添って座った。そして何事もなく、一日が終わろうとしている。劇的でないこと。ありふれていること。だからこそ運命でないのなら、奇跡よりもありえないのなら。
私とあなたは、真実だ。
見上げる天井に星はなくとも、煌めきは互いの手のひらに。
ふかふかふわふわのソファより、あなたの熱が眠気を呼んでいた。
夜が、終わる。
もう、朝は微睡み始めている。
ならば最後まで、一日という世界の終わりまで。
あなたを感じていたい。
私を感じてほしい。
だって、だって私たちは──。
「……ねえ、スペ」
「なんでしょうか、アヤベさん」
「そろそろ、一年ね」
「はい。五月二十七日が、二人で一緒に暮らし始めて一周年ですね」
「うん。……それでね、一つ提案があるの」
「はい。聞かせてください」
「私ね、ずっとバイトしてきたじゃない」
「そうですねえ。早く帰ってきてほしいって思う時もありますねえ」
「……ごめんなさい。でも、でもね」
「はい。それで、バイトして」
「ええ。バイトして、そろそろいいかなと思って」
「もう、もったいぶらないでくださいよ」
「ごめんなさい、そうよね、言うから」
「謝らないでくださいよー」
「わかった、わかったわ」
「はい、黙ります。どうぞ」
「あの、あのね」
「……はい」
「しっかりこれからはバイトばかりじゃなく、すぐ帰る日も増やすから」
「嬉しいです」
「……だから」
「だから」
「……猫を、飼わないかって」
「……ぷっ、あははっ!」
「……もう。笑わなくても、いいじゃない」
「すみません、だってえ、アヤベさんがずっと我慢してたんだろうって思ったら、可愛くって可愛くって」
「そりゃあ、そうでしょう。命を預かるってことは大変なことだもの、しっかりお金は貯めなきゃいけないと思って。それに、やっぱりあなたにも世話してもらうわけだし」
「それは当たり前じゃないですか、むしろ喜んでアヤベさんより懐かれちゃいます」
「なんでそんなこと言うのよ」
「じゃあちゃんと帰ってきて、猫ちゃんに顔を覚えてもらうことですね」
「……じゃあ、いいのかしら」
「何がですか、はっきり言ってください」
「……猫を飼っても、いいのかしら」
「もちろんです。大歓迎、ですよ」
「……ありが、とう。新しい、家族、ね」
「はい。そうですねえ、『新しい』家族です」
「何かしら、その含みのある言い方は」
「だって、アヤベさんからそういうことを言ってもらえるとは思えなくて。新しい家族が、私たち二人にとっての新しい家族がもうすぐ増えるなら──」
──私たちは。
「──私たちは、とっくのとうに家族になってたってことですから」
──私たちは、家族なんだ。
「……ええ。もちろん、よ」
「はい。もちろん、わかってましたけど。今日言われたから変わることって、特にないんですけど」
手のひらは二つ、ぴったりと重なっているまま。変わらない。より、温かくなるだけ。より、一緒になるだけ。
今日も何事もなく、未来に向けて歩んでいただけだ。
「家族。……これからも、よろしく」
「こちらこそ。新しい家族が増える前に仲違いなんて、まっぴらです」
「気をつける」
「それも、こちらこそ。私も、頑張ります。これからも、のために」
「そうね。……お互いの、夢のために」
あなたの夢。
「はい。一番星が、運命を導かなくたって」
私の夢。
「ええ。流れ星が、奇跡を叶えなくとも」
きっと、それは。
「一緒に」
「いましょうか」
今だ。
今が、永遠だ。
もう夜の十一時、二人の一日は長くてあっという間。
本当に長かった。
本当にあっという間だった。
本当に満ち足りていた。
だけど、これで終わりだ。
理由は簡単。
明日が、待っているから。
ふぁあとあくびを一つこぼすと、それを私より少し大きな両の耳で聞き取って、こちらを振り向くスカーレットの瞳があった。そんな小さな生理現象にまで反応しなくていいのに、つい、みたいな感じで。手は繋いだまま、瞳と瞳も交わりゆく。どこまでも、重なりは増えてゆく。
近い。まだ近づけるけれど、きっとあなたにとっては一番近い。私にとってもそうかもしれない。ならば、まだ近づける。今日はここまで、だけど。今ですら贅沢すぎるくらい、あなたを感じていられるけど。そんな思考と共にある私の視線を細かく追って合わせてくれる瞳があって、この人は本当に私のことを気にかけてくれてるんだな、と思う。それこそ、一緒に住むくらいに。家族に、してくれるくらいに。
今更だけど、最後に一つ大事なことを噛み締める。あなたはそのくらい心を許してくれて、多分そのくらい一緒にいて嬉しいと思ってくれている。ぶきっちょで時折ぶっきらぼうでも、やっぱりあなたにとっての私は、私にとってのあなたのように。
真実、なんだ。あの日見た三日月のように、白く眩しく揺るがない。
だから私も、少々大それた提案ができてしまうのだ。あなたとだから。こんなふうに。
「じゃあアヤベさん、そろそろ寝ましょうか」
「毎度思うのだけど、同じベッドで寝るからって寝る時間まで合わせる必要はあるのかしら」
そう言うのはほぼ毎回で、その度のそんな返答も何度か言われたこと。まだまだアヤベさんの方から一緒に寝よう、とは数回しか言われたことがない。この一年毎日一緒に寝て、その三百日以上でたった数回。なかなか頑固な人だけど、毎回断りはしないから優しいな、と思う。
でも次の一年はもうちょっとあちらからの誘いが増えるなら、それが一番嬉しいかも。新しい家族たる猫ちゃんが間に挟まってくれれば、少しはこういう時も素直になってくれるかなあ。素直な時間も増えたけど、まだまだまだまだ物足りないや。
「えー、だってその方が……」
「その方が、何?」
「……もー、秘密です、秘密! ちゃんと今日も、一緒に寝ましょうね! ほら」
そう言って、私はあなたの手を握り直す。指まで包んで、ゆっくりと引き上げる。ソファもずいぶん居心地がいいけれど、ベッドだってあなたが選んだふわふわだ。
なら、ちゃんと。ゆっくり立って、寝室へ。
たそがれから世紀末まで、一緒にいよう。
「……これも毎度思うのだけど、いくら灯りが暗いからって、もうちょっと隠して着替えられないのかしら」
「むー、それなら着替える時だけ部屋を分けるってことですか? 寂しいですよ、そんなの」
「……そうは言ってないけど。なんというか、心配になるわ」
部屋着を脱いで、パジャマに着替える。そんなに時間はかからないけれど、まあ人前でやることではないかもしれない。お風呂に入っておいて何を今更、みたいなツッコミもしたくなるが、そんなことを言って万一一緒の風呂を断られるようになったら悲しいので我慢我慢。
確かに寮で暮らしていた頃は、もうちょっと私にも恥じらいがあったかも。あの頃だってそりゃ、スズカさんとの二人部屋だったし。ひょっとして成長したといいながら、大人が持つべきそういうものを捨ててしまっただろうか。いや、でも部屋が同じなのは仕方ないし。それにそもそも、アヤベさんだって平気で私の前で下着姿になってるじゃないか。今だって。
「それならアヤベさんも、もうちょっと気をつけた方がいいんじゃないですか? なんで同じように着替えてるのに、私だけ注意されるんですか」
「……私はその、あなたを信用してるだけよ。……悪いかしら」
……ああ、もう。普段素気ないのに、たまにそういうことを言うんだから。頼れる先輩というアヤベさんのファーストインプレッションは、間違いではないけどそれだけではなかった。時々会って、時々話して、いつしかその頻度が増えて、ある時から一緒に過ごすようになって。そうしてようやく、この人はそれだけじゃないんだとわかってきた。甘えたがらないだけで、案外甘えん坊なのだと。もちろん意外ではあったけど、知れたことはきっと嬉しいことだ。今の私にとっては、一番の幸せだ。
だってそれは、私と何かを分かち合ってくれるということ。楽しいことを話してくれて、苦しいことを吐き出してくれる。その相手に、私があなたの特別になれているということだから。
家族、だから。
それなら、やることはとうの昔から決まっている。これまでもこれからも、私とあなたは永遠だ。今がずっと変わらなくて、幸せはどんどん増えていって。そんななんでもない一日が今日もあったから、明日も明後日も夢を紡ごうよ。
私はそうやって少し遠慮がちに私への気持ちを口にしてくれる、あなたのその気持ちに。
「じゃあ、今日も手を繋いで寝ましょうね。信用してる人となら、きっとぐっすり寝れますよ」
応えたいし、引き出したい。心の底から、そう思うのだ。
今が夢だから、夢の中でこそのわがままだ。
「……ありがとう」
「いいえ、元は私からのお願いじゃないですか。こちらこそ、ありがとうございます」
そう言って、一瞬だけ結んだ手を離して。そのまま左右から座り込めば、二人分の重量で、大きなベッドが微かに軋む。これもアヤベさんが選んだ高級ベッドだ。そんなに入れ込んだものを私も一緒に使わせてもらえるというのは、少しくすぐったいような気持ちがあるけれど。でもこの大きさを選んだのって、そもそも私が前提なんだもんな。そう考えるとやっぱりあなたは、私なしなんて考えてはいないのだ。
永遠しか、考えていない。
私もあなたも、ずっとずっとそばにいたいんだ。
「……じゃあ、また、手」
「ん。……そうね」
刹那の別れを惜しむかのように、再び手のひらは重なって。あなたの緋色混じりの瞳が、わずかにとろんと微睡みながらこちらを見つめる時。そうして私と、大きな一つの枕の上で目が合う時。
今日溜め込んだ気持ちはすべて、幸せに変わるのだ。
なんでもない感情の起伏。
美味しいご飯の味。
ただそこにあるだけの語らい。
二人で一緒にいただけの時間。
全部。
幸せだ。
最適気温の空調よりも、高級極まれりの羽毛布団よりも、あなたが一番、暖かい。
「……んっ……すぅ……」
「……アヤベさん、もう寝ちゃった。いつも、お疲れ様ですね」
色々と可愛らしいところはあるけれど、やっぱりアヤベさんは歳上だ。きっと私より苦労しているし、だから大体私より早く寝てしまう。バイトも然り、とんでもなく可愛い理由だったけどストイックに頑張っていたのは変わらない。
とはいえ二人で星を眺める日は、徹夜せんという勢いのアヤベさんとだんだん眠くなる私で逆になったりもするのだけど。そういうところも頑張りやさんで、支えがいがある、なんて。
そうしてアヤベさんが寝静まると、その眠りの深さに応じて手を握る力が強くなる。ぎゅっと、ぎゅーっと指先の一つ一つまで眠ったまま絡めてくる。人差し指、人差し指。中指、中指。手のひらはぴったり合わせ、指は全部指に縋る。こうして甘えるあなたは起きている時のアヤベさんに言ったら恥ずかしがりそうなので、秘密にしていること。
ここから先は、もっと秘密にしなきゃいけないんだけど。
「……んんっ……ふぅ……」
「はいはい、こっちですよ、アヤベさん」
そんなふうに促したところで、寝ているあなたに聞こえているわけがないのだけど。それでも不思議なことに、毎晩こうやって私が声をかけてやると。
もぞ、もぞ。アヤベさんの身体がゆっくりと、私の方へ近づいてくる。パジャマと薄手の下着だけの、全然ふわふわなんかしてない私の身体に。そんなに柔らかくないだろう私の胸元に、ぎゅっと顔を埋めてきて。左手は私の右手と繋いだまま、右の方で私の背中にまで回してきて。尻尾なんかは根本までくるくるり、私の脚に巻きついてくる。
そんなふうに、抱き締められて。寝ている時にゼロ距離で甘えられてしまうのは、アヤベさんには秘密にしてやらなきゃいけないことだ。だってそんなこと教えたら、恥ずかしがって甘えてくれなくなるかもしれないし。だからこれはあなたのわがままでもあるけれど、私のわがままでもある。あなたに素直になってほしいのは、二人ぶんのわがままだ。
抱き締められて、優しく抱き締め返して。くるりと私の脚に巻きつけられる尻尾の感覚に、私の尻尾もぴくりと跳ねてしまうのだから。ついつい胸元にあるあなたの頭を撫でてしまうのだって、私がやりたいからやってしまうこと。びくりと反応してしまった尻尾だって、ちゃんと上からあなたの尻尾を撫で返してやる。それに反応してその顔がより深く擦り付けられるのは、やっぱりあなたのわがままかもしれないけど。もう、胸元のボタンまで外そうとするのは器用すぎる。まあ幸せだから、これでいいのだ。
包むことが愛することなら、きっと、今だって真実だ。
そうして、私はあなたを離さないまま。あなたも私を、離さないまま。私の身体も熱を持ち、やがて意識はすとんと落ちる。だから意識は、そこで落ちるのだけど。たとえ眠りが意識を奪おうと、そこにある幸せまでは奪えない。
朝が来るまで、二人でいよう。
幸せを分かつのが、ありふれた家族なのだから。
「んんっ……ふあ〜ぁ……」
「……んんっ……すう……」
「……おはようございます、アヤベさん」
返事はない。まだ寝ているみたい。朝の日差しを瞼に受けて、少しのあくびと共に目を覚ます。見開かれた視界に最初に入ってきたのは、当然のようにあなたの顔だった。少し下で蹲るように眠る、流石に胸元にいたままではないけれど、相変わらず甘えたままのあなたがいた。
(と、おやおや)
意識が覚醒して感覚が明瞭になってきて、そこで私は一つ気づく。寝ている間に変わっていた、私とあなたの姿勢の差。もちろん甘えたまま、だからこそ微笑ましくて可愛らしい。
ぎゅっと、私の尻尾を温かく握る手のひらがあった。流石にくすぐったいけれど、なかなか力をこめてしまっているみたい。あらら、これじゃ動けない。
……まあ、元からあなたが起きるまで動くつもりなんてないんだけどさ。
あなたの頭にまた右の手を添える。
尻尾を掴むあなたの拳の上に左手の指を重ねる。
起きた時に多少びっくりされるくらいは、甘えてもらったぶんで帳消しだ。
だから、あなたを包ませて。
ずっと。
朝が来ても。
またそれぞれの日常があっても。
夜、一つになっても。
あなたと、一緒がいい。
きっと、この未来はたまたまよりもっとか細い。ありえないはずの極小の可能性で、夢よりも夢に近いだろう。でも私たちが夢を掴むために生きるのなら、夢の中にいる今が一番幸せだ。夢でも現実でも、運命でも奇跡でもなくとも。
「……ん」
だから。
「……おはようございます、アヤベさん」
だから、今日も。
「うん。おはよう、スペ」
一日を始めよう。
私とあなたの、なんでもない一日を。
かけがえのない、一日を。
きっと、それが真実だ。
これにてアヤスペ完全完結ですありがとうございました
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