ギギネブラ討伐の依頼を無事に遂行した三人は帰路につき、数日をかけてユクモ村に帰還した。
しかし、凍土からユクモ村までの道中、三人の間――特にヴァイスとグレンの間には、何とも言い難い重苦しい空気が漂っていた。二人の間に会話が無かったことはもちろん、グレンに至っては一言も言葉を発することさえなかった。
そのグレンは、ユクモ村に到着するや否や、依頼報酬を受け取って足早に集会浴場から姿を消した。そんなグレンの様子を、ギルドマネージャーは渋い表情で何も言わずに見つめていた。
「こちらが、お二人の分の報酬になります」
「ありがとうございます」
ヴァイスの代わりに礼を述べたクレアが、受付嬢から麻袋に入った二人分の報酬を受け取った。
すると、受付嬢が遠慮がちに口を開いて言葉を続ける。
「あの……、グレンさんは一体どうされたんですか? 一人で集会浴場に戻って来て報酬を受け取ったら、そのまま一目散に出て行ってしまったんですが……」
グレンの様子を当然のように不審に思った受付嬢の問いかけに、しかしながらヴァイスとクレアは即答出来ない。ヴァイスはどう伝えるべきか、と迷いを見せているようにも思え、クレアは居心地が悪いのか受付嬢から視線を逸らしてしまった。
二人の反応を目の当たりにして、まずいことを訊いてしまったかと受付嬢が謝罪しようとした時だった。
「まぁ、今はそっとしておいてやろう。なに、アイツも取り乱してるだけだろうさ。そうだろう、チミ?」
珍しく朗々とした声で、ギルドマネージャーが口を挟んできた。この口ぶりから察するに、このパーティーの間に何があったか、ある程度は感付いているのだろう。
「……ええ。大方、そんなところです」
一方のヴァイスも、多くを語ろうとはしない。
ヴァイスの言葉に首肯し、ギルドマネージャーは真っ直ぐに彼の蒼眼を見据える。そこに見え隠れしているのは罪悪感とも言えるものだが、それでもその瞳に迷いの色は無い。
それだけで、ギルドマネージャーは理解した。満足気に高笑いして、ヴァイスの肩を思いっきり叩く。
「ひょっひょっ! チミの様子を見る限り、アイツはチミに任せておいて大丈夫そうだ。面倒事を押し付けて申し訳ないとは思っているが、チミなら大丈夫だ。自信を持つといい」
ギルドマネージャーの手厚い激励を受けて、ヴァイスも思わず苦笑する。それでも、内心ではギルドマネージャーの言葉に勇気づけられたことは確かだった。
「ありがとうございます。面倒事だとは思っていませんが、それでも俺に出来ることなら最善を尽くします」
「うむ。期待しているぜ」
最後にヴァイスの背中を押しやり、前を――集会浴場の出口へと身体を向かせる。
集会浴場を後にする直前にヴァイスは振り返り、そして無言で首肯する。ギルドマネージャーも、それに応えて頷き返した。
ギルドマネージャーの鞭撻を確かに受け止め、ヴァイスは集会浴場から一歩を踏み出す。そのヴァイスから少し遅れて、その背中にクレアも付いて来る。
集会浴場から続く石畳の階段を下りて行き、村の中腹辺りにある広場にまで出てきた。すると、後ろを無言で付いてきたクレアが不意にヴァイスを呼び止めた。
「師匠。グレンさん、大丈夫でしょうか……」
ヴァイスが振り返った時には、クレアは不安げな表情を浮かべながらそう口にしていた。
彼女が一体何を言いたいのか、そんな事は誰に言われなくとも理解している。クレアの言葉に、ヴァイスは深く首肯する。
「大丈夫さ。あいつなら、もう一度立ち直ることが出来る。俺はそう信じている」
迷いなくそう答えたヴァイスに対し、クレアは「でも……」と歯切れ悪い様子で返した。
「師匠が大丈夫だって言うなら、私も大丈夫だと信じたいです。でも、あれだと、グレンさんはおそらく師匠のことを……」
その先は言葉にするのが憚れるのだろう。クレアも、それ以上は口にしようとはしない。
だが、クレアが一体何を言おうとしたのか。ヴァイスにはそれが理解出来る。
最悪の場合、クレアの想像した事態が現実になってしまうのかもしれない。だが、それでもいい。グレンが自分の力で立ち直ることさえ出来れば、それでいいのだ。グレンにとって、自分は踏み台として利用してくれて構わない。所詮は、憎まれ役で構わない。
ヴァイスは、そうした決意を既に心に決めていた。そしてそれは、彼の弟子であるクレアにも伝わってしまったのだ。
「師匠は、どうしてそこまでして、グレンさんに手を差し伸べようとするんですか?」
それこそ最初は、当たり障りのない返答で誤魔化そうとした。だが、ヴァイスに向けられる彼女の瞳は、曇りの無い真っ直ぐとしたものだ。その双眸を目の当たりにして、ヴァイスも適当にごまかしてあしらうことなど不可能だった。
「……あいつのことを見ていると、まるで鏡を見ているような感覚に陥るんだ」
「鏡、ですか?」
唐突に繰り出された単語を反芻して、クレアがその意味するところを尋ねる。
クレアの言葉に静かに頷いたヴァイスは、どこか遠くを見遣るような視線で空を仰いだ。
「あいつは、昔の俺によく似ているように思うんだ」
囁くように口にしたヴァイスが、首を下ろして再び歩を進め出す。もちろん、クレアもヴァイスの背中を追う。
「一人で全て抱え込もうとして、だがそれに失敗して、空回りする。全てが悪循環で、負の連鎖を受け入れようとしている。そう、そんな愚かな昔の俺に、まるでそっくりだ」
自嘲気味な笑みを浮かべるヴァイスであったが、その様を目の当たりにしたクレアは言葉を失う。
師弟という関係になり、短い時間の中でありながらもヴァイスのことは理解していたつもりだった。常に落ち着き払った態度で振る舞いながらも、肝心な場面ではフォローをしてくれる。
言うなれば、頼れる兄のような存在。実生活においても、狩猟においても、そんな風に感じていた。
そう。理解したつもりだったのだ。
だが、たった今、目の前にいるヴァイスはどうであろうか。感情、特に負の感情を表に出すことなど一切なかったはずのヴァイスは、まるでこの世の全てに絶望し、諦観を受け入れたかのような虚耗な瞳をしている。
「同じ過ちを犯そうとしている奴を見逃せないのか。あるいは、あいつを助けることで、過去の罪滅ぼしをしようとしているのか。……いや、そのどちらもか」
相変わらず、どうしようもないな。今度こそ囁いたであろうその言葉と共に、ヴァイスが短く息を吐く。
「し、師匠……?」
この人は、一体誰だ?
ほんの一瞬でも、そう疑問に思ってしまった自分がいる。クレアは、はっと理解してしまった。
だが、そう思った時には、そこにいたはずの“誰か”は既に消えていた。クレアのよく知るその人が、「だからこそ……」と言葉を紡いだ。
「俺は、自分が正しいと思う方法であいつを助ける。あいつが鏡に映る昔の俺なら、俺はあいつの道を示すべきなんだ」
淡々と、しかしながら強い決意が込められた迷いない言葉を発するその人は、紛れもないヴァイスその人だった。
ならば、大丈夫だ。ヴァイス自身が「大丈夫だ」と言うのだ。ならば、今のクレアに出来ることと言えば──、
「私も信じてますよ、師匠のこと!」
誰よりも頼りになる、唯一の師匠。そんな彼を信じることだ。
グレンのことは依然として不安に思うが、それでもヴァイスなら何とかしてくれるはずだ。
クレアはそう確信して、変わらぬ足取りで歩いて行くヴァイスの背中を、クレアはいつもの調子で付いていく。
――周りの景色が、流れるように移り変わる。
辺りを彩るはずの美しい色彩は、しかしながら今は、自分の心を蠱惑する不気味な模様にも思える。
そんな世界を、ただひたすら走り抜ける。相変わらず周囲の景色は淡々とその姿を変え、まるで自分がこの世界から逃げているかのような錯覚に陥る。
だが、一時でも頭の中でそんなことを考えてしまえば、目の前の世界は歪み捻じれる。身体が酸素を求めるのとは別の働きで激しい動悸を覚え、途端に息苦しくなる。
「ち、違う……っ! そんな、お、俺は……!」
言葉にならない叫びを上げながらも、その足を止めることはない。それこそ、何か悍ましいものから逃れようと必死になって足を前に出し続ける。
やがて、最近になって村長から借りた借家が見えてきた。道行く人を掻き分け掻き分け、ようやくグレンは自身の借家へと飛び込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
いくらハンターとはいえ、集会浴場からここまでの道のりを全力で駆け下りて来れば、身体も大量の酸素を要求してくる。しばらくは玄関扉に背中を預け、呼吸が落ち着くのを待った。
ようやく呼吸が落ち着いてくると、武器や防具、ポーチなどをその辺りに放り投げ、覚束ない足取りでベッドまで歩き、そしてそのまま倒れ込んだ。
「ぐっ……!」
行き場のない怒りを、自らの拳に乗せベッドに叩きつける。勢いよく振り下ろされた拳とは反面、ベッドに叩きつけたその衝撃は大したことはなく、ボンッと虚しい音を立てて部屋に響く。
「畜生……」
何もかもが、自分を嘲笑うようだ。
そんな激しい虚無感に襲われ、グレンは力無く身体を仰向けにした。
ぼうっとした意識の中、天井を見上げてみる。何の変哲もない木製の天井のはずだが、日の影で薄暗くなったそれを見上げていると、あの時凍土で見た曇天の空が脳裏に過ってしまう。
「……」
その瞬間、怒りと同時に妙な冷静さが意識を支配した。
矛盾した意識の中で、グレンは空ろな瞳で天井を見上げていた。
「――採点の結果を、この場で伝えようか」
それは、ギギネブラの狩猟を終え、拠点に戻ってきてしばらくが経った後のことだった。グレンの元までやって来たヴァイスが唐突にそう切り出した。
採点。その言葉の重みを、グレンは誰よりも感じている。
ヴァイスに自分の狩猟を採点してもらう。それこそが、遥々ユクモ村に訪れ、ヴァイスと共に狩猟に赴いた理由だ。
重い空気がこの場を支配する中、グレンがそんなことを気に留めない様子で口を開く。
「随分と突然ですね。てっきり、ユクモ村に戻ってから伝えられるかと思っていましたよ」
含みのあるグレンの発言に、ヴァイスは「まあな」と淡泊に返す。
「それとも、ここで結果を聞くよりも、ユクモ村に帰るまで待った方がいいか?」
「いえ。そういうことなら、ここで構いません」
ヴァイスに負けず劣らず、淡々とした口調でグレンは首肯する。
その様子を見て、ヴァイスは短く溜め息に似た息を僅かに漏らす。
そんなヴァイスの心中をいざ知らず、グレンはじっと彼を見据える。さて、この優れた慧眼の持ち主は、自分をどのように見てきたのだろうか。グレンにとっては、それだけで頭が一杯になる。
その場を沈黙が支配する中、やがてヴァイスが重い口を開く。
「先に尋ねよう。――グレン、何がお前を突き動かす?」
「は――っ?」
余りに唐突な問いかけに、グレンは我にも無く素っ頓狂な声を上げてしまう。
しかし、例えグレンが、その問いかけに対し驚いた様子を見せながらも、ヴァイスはグレンを見据えるだけで、それ以上は語ろうとはしない。
「質問の意図が理解しかねますね。一体、どういう意味ですか?」
ヴァイスの言葉の真意が把握出来ないグレンは、我に返るや否や思ったことをありのまま言葉にして投げ掛ける。
一方、グレンの返答を聞いたヴァイスも、質問の仕方が悪かったとすぐに認め、謝罪した。だが、間髪を置かず、ヴァイスはもう一度口を開く。
「質問を変えよう。グレン。何故、そこまでして力に拘る?」
「なっ……!?」
外野からその会話を聞いていたクレアにしてみれば、相変わらずヴァイスの問いかけの意味するところは分からない。
だがグレンは、言葉を失うほどまでに面食らってしまった。
問いかけの内容があまりにも由無いものだからといった、そんな理由などではない。むしろ、ヴァイスの言葉はその逆だった。全ての本質を的確に突いた、グレンにしてみれば虫酸が走るほどの凌辱的な言葉であった。
「ははっ、ヴァイスさん。一体何を言っているんですか。俺が力に拘るなんて、そんな――」
「そんなことはない。そう断言出来るのか?」
虚勢を繕って振り絞った言葉も、ヴァイスの前では到底太刀打ち出来ない。
この人は、自分の全てを知っている……? いや、そんなことはない。あるはずがない。だが、かくも核心を衝いた発言は、一体何を意味するのか……。
目の前のヴァイスという存在を改めて考えさせられた時、グレンの頭は忽ち混乱した。
グレンが何も言葉を返せずにいると、これまで呆気に取られていたクレアが我に返り、遂にヴァイスに対して口を挟んだ。
「師匠。それは一体、どういう意味なんですか? グレンさんが力に拘るなんて……」
かく言うクレアも、状況が飲み込めずにいるようである。
しかし、クレアを一瞥したヴァイスは、ゆっくりと首を横に振った。
「クレア。お前には、何のことか分からないのも無理はないと思う。だが、俺には多少なりとも分かるんだ。今のグレンが、どう状況に置かれているのかということがな」
重々しくそう口にしたヴァイスを目の前にして、クレアも言葉を詰まらせてしまう。
これ以上、何も言う事は無いよな。視線だけでそう語ったヴァイスが、首をグレンの方へと改めた。
「グレン、俺には分かる。お前が、強欲なまでに力に拘ろうとしていることがな」
全てを見透かされているかのように、ヴァイスは淡泊に告げる。
ここまで言われてしまっては、グレンもこれ以上隠し通すことなど不可能だった。遣る瀬無い感情をどうにか押し殺し、震える口から言葉を振り絞る。
「俺は、どうしても強くなりたかった……。どうしても強くならなきゃいけなかった……! ええ、そうです。ヴァイスさん、あなたの言うとおり、俺は力が欲しい! 俺には力が無いから! でも、あなたに何が分かると言うんですか!? “強者”であるあなたには、“弱者”の気持ちなんて微塵も理解できないでしょう!!」
内に秘めていた感情が爆発し、気付けばグレンはありありと自分の心持ちを暴露していた。
しかし、一度我慢の壁が決壊してしまえば、もう抑えは利かなくなる。
全てを看破しているかのようなヴァイスに対し悪寒を覚えながらも、グレンは今にも食って掛かりそうな勢いで更にまくし立てた。
だが、そこまで言われても、ヴァイスは大した反応を見せない。グレンに対して何を言い返すわけでもなく、彼の口にした“強者”と“弱者”という言葉を反復し、その意味を噛み締めているようだった。
やがてヴァイスは、その重たい口をようやく開いた。
「そうだな。まず、グレンの言葉を借りてその疑問に答えるなら、俺も昔は弱者だったから、今のお前の気持ちを多少は理解できる」
そう言ったヴァイスに対し、グレンは反論を試みようとするが、それよりも先にヴァイスが言葉を続けた。
「だが、グレン。今のお前の考えは甘い」
「――っ!?」
その言葉を聞かされた時、グレンの視界がぐらりと揺らいだ。
“また、否定される”。頭の中でそう理解してしまうと、たちまち身体から力が抜け落ち、目の前の景色が絶望に染まる。
その時のヴァイスの言葉が、冷徹に、酸鼻なまでに頭の中を駆け巡る。
「過去に囚われ、歩みを止めた者は“弱者”だ。常に前に進み続け、決して諦観することのない者。それこそが“強者”だ」
現実を、突き付けられた。
諦めを受け入れ、現実から目を逸らしていた自分。それこそが弱き者の姿であると、自分でも理解していたはずなのに。それすらも見て見ぬふりをし、全ての事実を弁明し、ここまで逃げて来た。
ああ。だからこそ、自分は弱者なのであろう、と。
頭の中で妙に冷静な思考が、初めてその事実を受け入れていた。
「──採点の結果だが」
冷然とした声が、尚もグレンの思考を凍て付かせる。
「今はまだ、“保留”にしておこう。お前が渇望する力の意味。お前にとっての強者とは一体何者か。それが理解出来たときに、改めて判断させてもらう」
それだけを告げて、ヴァイスは身を翻す。
クレアはヴァイスの背中を一歩遅れて追いかけ始め、その場には、氷雪に撓垂れるグレンだけが取り残された。