彼女は何かを言うわけでもなく、ドアの前に立ったまま黒いクリップボードにはさんだ書類に目を通している。
彼女はまだ二十代の後半で、僕よりもひとつかふたつほど上であった。
長く綺麗に伸びた後ろ髪を大きな黄色いリボンで束ね、サイズの揃った事務服と帽子を見事に着こなしている。緑を基調としたその服は、まるで彼女のために作られたかのように思えるほど好く馴染んでいて、間違いなく彼女を実の歳よりも若く見せていた。
僕は彼女の言葉を待っていたが、やがて書類を見たまま「ミヤノさんは……」と言って髪を耳にかけ、そして僕の方に視線を移した。その仕草はとても自然で、僕はそんな彼女の姿を素直に素敵だと思った。そして
「パスポートはお持ちですか?」と続けて言った。
急な発言に僕はその内容を理解し、返答を考えるのに少しばかり時間を要したが、やがて「あぁ、えぇ、持ってますよ」と凡常な返事をした。「しかしこの歳で異動になるとは思いませんでしたね。今のうちにこの平和な国を堪能しないと」
「まさか。違いますよ」と言いながら彼女は口元を手で隠し、くすくすと笑った。
「わかってますよ」と僕も笑って言った。「研修ですか?」
「えぇ、実は、近日新人トレーナーさんの方々に向けて二週間ばかりアメリカへの研修を企画していたのですが、欠員が出てしまったんです。日にちもあまり無くて、このままだと予算とかいろいろと問題があるので、急遽パスポートを持っている方に同行してもらおうかと」
「なるほど、ということは僕は……」
「はい。もちろん今回ミヤノさんはあくまで同行ですので、最低限の予定さえおさえていただければ基本的には自由です」
「それはいい機会ですね。どうせここにいても毎日決まって同じような仕事をするだけですから」
「まぁ。そんなふうに思っているならどうしてスカウトされないのですか?」
「それは僕にも分からないんですよ。ただ僕にはそれが決められたことのように思うだけです。人生ゲームで一回休みをくらったみたいに。あなた、そこで一旦止まっていなさいって」
「はぁ」と彼女はいまいち了得していない様子で言った。そしてしばらく考える様子を見せてから「ならこれでお休みは終わりですね」と微笑みながら言った。
「そう期待してみます」と僕は返した。
こうして僕はアメリカへ渡ることが決まった。同僚にそのことを伝え、支度を始めた。とはいっても二週間ばかりの渡米であるから、別段用意するものはない。生活に必要なものだけを小さめのボストンバッグに詰め、パスポートの有効期限を確認し、初夏のアメリカに思いを巡らせた。
眼前に広大なターフを広げる。芝葉は夏の陽光を反射して光り輝いている。太陽と汗と地面の匂いが混じり合う。そこにウマ娘を走らせてみる。彼女たちは自由に、優雅に走る。僕はその光景をしばらく想像してみる。それはあまりにも美しく、僕の原点に火が灯るような気がした。
✴︎
アメリカのトレセンはその国柄に相応しく自由という言葉が似合っていた。それは決して怠惰であるとかそのような意味合いではなく、彼女たちは、あるいはそこに関わる人々は、自らの当為が明確にあるように感じたのだ。初日、僕はトレーニングコースを一望できるスタンドで陽光を浴びながら、ひたすらに彼女たちの走る姿を見ていた。
やがて日が暮れると、一行は来客用の簡易的な寮のような建物に戻っていった。僕も部屋に戻って荷物を整理し、食堂で簡単な夕飯を摂った。
その寮のロビーにはいくつかのソファーとレコードがあった。僕はその中からパーシー・フェイスのアルバムを取り出し、針を落とした。
彼の曲々は僕の心の中に入り込み、散らかったその空間を整理してくれるように、乱雑とした環境と心情をリセットするように、美しく響いた。
それらを聴き終えると僕は部屋に戻り、いつもより多めに日記を綴った。そして慣れない空気に包まれながら眠った。
環境が違ったせいか、通常よりだいぶ早めに目が覚めてしまった。しかしまだ日は顔を出していない時分であった。
特に疲れも溜まっていなかったし、僕はこのまま起きていることにした。窓の外から見えるまだ薄暗い木々は今日一日の活動の準備を始めているように見える。木々だけじゃない。ここから見えるあらゆる物、地面、この学園の建造物、全てが私たちの活気に耐える準備をしているのだ。太陽を合図として、順番にこの一日が始まっていくのだ。隙間風が僕の肌を優しく撫でた。僕はこの異国の地にいながら、なんだか安らかな心持でいるのを感じた。
そんな風に思いを巡らせながら外を眺め続け、それに飽きると僕は早朝のトレセンを満喫してみようと外に出た。陽の光が少しずつ現れてきていた。ちょうどトレーニングコースが見える場所まで来たときだった。
彼女に出会ったのは、そのときが初めてであった。
彼女はただ走っていた。朝の太陽を受け、長い茶髪を靡かせながら、ただ一人で走っていた。ただそれだけであったのに、僕は言葉を失っていた。後にも先にも、これより美しい光景を見ることは無いだろうと一瞬のうちに感じた。むしろ僕はその一瞬が永遠に引き伸ばされたように錯覚した。彼女の走りが、微笑みが、僕をとてつもなく強力な光で照らしていたのだ。