走り続ける彼女を見つめてからどのくらい時間が経っただろうか。数秒にも数分にも思える時が流れた。いつの間にか太陽は昇りきり、神秘的なまでに彼女をその光で捉えていた。しかしこのときの僕にとって重要なことは決して時間などではなく、完璧なまでに整えられたこの空間と、そこに溶け込む確かな存在であった。
その一つ一つに生命が宿っているかのように優雅に舞う髪や、純粋な太陽の光と水で育てられた若葉のような色をした瞳や、真に自由を象徴するように走る姿や、とにかくその全てが僕の心の奥底、全身の諸所に深く浸透し、伝播した。
ふいに彼女はちらりと僕の方に目をやった。まるでこの世界の楽しみの全てを理解し、そして司るように微笑んでいる。それは決して誰かを諭すような対人的なものではなく、清々しいまでに個人的で、多大な質量を持った実体の重力のような微笑みであった。とにかく僕は、その場から離れずに、ただ見つめることしかできなかった。
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僕が初めてウマ娘という存在を強く感じたのは、中学の終わりの頃、レース場で働いていた父を訪ねた日であった。今から十数年前の朧げな時代だが、僕がその場所にいたうちの数秒間の記憶は確かに残り続けている。
快く皐月に終わりを告げるような晴天の日で、東京のレース場には当時の僕が認識できる数を優に超えるほどの人間が一堂に会していた。つまり僕は、この日起こるであろうある種歴史的な出来事の佳境に入る前から、既に圧倒されていたのである。
そんな無識な若者を瞥見してから父はふと口を開き、「ウマ娘という存在の美しさは……」と言った。「その内面を味わうには、言葉という
僕は父の瞳を見据えた。父はそれ以上何も言わなかった。
その日のレースで、僕は華奢な儚さのようなものを感じた。それは十数年間の人生で初めて発現した感覚であった。僕には何故このような感覚で満たされたのか、不思議でたまらなかった。
ターフを駆ける彼女たちは、間違いなく優雅で、確固たる力強さを持っていた。そしてそれは完璧なように思えた。今にして思うと、それはあまりにも完璧すぎたのかもしれない。美しく確立された体系の奥に、脆く儚い彼女たちがいたのだ。彼女たちは僕の手の届かない場所にいながら、一見堅固に見える像を写しながら、この指で触れれば一瞬にして瓦解してしまいそうなくらい脆かった。その溝はあまりにも深く、それが僕にあのような感覚を起こさせているのかもしれないと思った。
その日から、僕の頭の片隅には常にウマ娘という存在がいた。端的に言うならば、僕はその超越的で非日常的な複雑さに為す術なく魅了されたのだ。その憧憬は時が経つほど強くなり、半ば神格化されるにまで至った。
そのようにして、ある種運命的な邂逅を果たした自分が選ぶべき道は確定された。決して衝撃だとか衝動といった苛烈なものではなく、僕の体内から蝕んでいった憧憬が、僕をそうさせたのである。
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彼女は一瞬にして僕の心境に多大な変化を与えた。いや、変化と呼ぶにはそれはあまりにも懐古的だった。新しい感情を会得したというより、僕を遥か昔に、まだ僕が生まれてないほど昔に、強く引き戻されたといった感じであった。
そこでは僕は一人の女性とひっそりと生きていた。その女性は僕の全てを知っていた。僕の好み、言い回し、思考まで、内面という内面を見透かしていた。僕はそこで永遠の生を受けることができた。無聊などあるはずもない。感じるのは安らかな喜びと哀しみだけであった。僕にとってその女性に見透かされることは、そこでは唯一の救いでもあったのである。
彼女は走るのを止め、煌びやかに流れる汗を拭いていた。僕は全身の力が抜けていくのを感じた。
彼女はここの学園の生徒なのだろうか。とふと思ったが、その疑問は僕にとって必然であった。学園のジャージを着ていたにも関わらず、その疑問が湧いたことに僕は微塵も驚きはしなかった。僕の心を一瞬にしてこんなにも強く揺さぶった者に、今まで出会ったことがなかったのである。
僕は一度頭の中を整理するために部屋へ戻った。部屋へ戻る道中も、着いた後も、幾度となく彼女の走りを回想した。記憶は狂った投影機のように何度も同じシーンを繰り返していた。
気がつくと、時刻は九時を回っていた。そのときになって漸く、空腹を感じていることに気づいた。
食堂へ向い、スクランブルエッグと数切れのパンを食し、ミルクを流し込んだ。食堂の担当者が、近くにある農場でとれた物だと言った。彼は少々訛りがあり、聞き取るのに少しばかり苦労した。
咀嚼している間にも、ふと無心になると早朝の光景が蘇ってきた。僕にはもうそれを止める術は無かった。むしろ止めようとは微塵も思わなかった。
その日はそんな茫然たる状態で、あっという間に過ぎていった。僕は確かにその日、トレセンの施設を見学していた。しかし思考は彼女に占領され、それ以外は何も思い返すことができなかったのである。
夕方、僕は再びロビーに赴き、レコードを選定した。僕の体は何らかの音楽を欲しているように感じたのだ。何でも良かった。ビートルズやらボブ・ディランやらが並んでいたが、結局、最近気に入っているからという単純な理由で、カーペンターズの『ア・ソング・フォー・ユー』を流した。しかし同時に、これは今の僕に最も合っていると感じた。きっと何を流してもそう感じただろう。
十曲目に差し掛かったとき(この頃には段々と意識が朦朧としてきたから、曲名までは思い出せなかった)、誰かがその曲を快く口ずさみながら近づいてきた。若い女性らしかったが、僕はそのとき目を瞑っていたから、その姿を確認するまで、一体誰が近づいてきているのか見当がつかなかった。そしてその女性は口を開き
「哀しい夜にはぴったりの曲ね」と言った。とてもはっきりとした、艶やかな声だった。
僕は一瞬目を疑った。眠りかけていたから、まだ夢と現実の区別がついていないのではないかと思った。しかしそれは間違いなく現実であった。
「君は……」と問いかけると、彼女は軽く微笑み、軽くポーズをとりながら右手をひらひらと動かした。その動作はまるで彼女のために作られたのではないかと思うほど自然な華やかさがあった。
「マルゼンスキーよ」と彼女は軽快に言った。