数日後に俺を呼び出した野良猫は、出会い頭に俺の顔面狙って蹴りを繰り出してる程度にはいつも通りだった。飼い猫になればちょっとは人の話を聞くようになるのではと期待していたのだが、なかなか猫の気性というものは変わらないらしい。
鞭のようにしなやかに繰り出される脚を何とか躱しきり、まあ少し落ち着けと顔面に缶ジュースを投げつける。寸でのところでキャッチしたイザナは完全なる不機嫌を隠そうともせず、俺を睨みつけたままオレンジジュースのプルタブをあけた。
雑務を片付けた帰りに近所の爺さんにもらったものなのだが、炭酸入りのジュースでなくて良かったと心から思う。
「どちらかというと俺は感謝されてもいい立場だと思うんだけど、いったい何を怒ってるの?」
「オマエ、真一郎に入れ知恵しただろ」
「ああ、そのこと」
別に口止めはしていなかったし、口止めしたところで
にこっと笑ったまま俺は両手を開いてみせる。
「俺は兄なら兄としてちゃんとしてくれって言っただけだよ。台詞を指定したわけでもあるまいし、入れ知恵なんて人聞きの悪い」
「………」
「何そのもの言いたげな顔。だいたいイザナ、俺は何度も
「……俺が真一郎を殺さねえってわかってたってことかよ」
歯噛みするような言葉に、イザナの屈辱が伺える。自分のことを見透かされていたようで面白くないのだろうが、それはちょっと俺のことを高く見積もりすぎというものだ。
どれだけ考えて用意を整えても、ひとの行動のすべてなんて読めるはずもない。
「七割くらい、かな」
「……あ?」
「イザナが真一郎くんと仲直りする確率。いや、実際会ってみたら真一郎くんて本当に天然もののひとたらしって感じだったし、八割くらい? でもさすがに絶対なんて確信はもってなかったよ。そっちを選んでくれて正直ほっとしてる」
「……じゃあ、」
「俺は約束を破るようなことはしない」
もし、イザナが佐野真一郎を殺していたら。
もし、イザナが佐野エマを手に掛けていたら。
自分の中の渦巻く狂気に従い、堅気に残していた「未練」を自分の心もろとも葬り去ったとしたら。
「そのときはちゃんとイザナの面倒を見るつもりだったよ。俺の人生計画が多大に狂うことになったとしてもね」
堅気の未練を切り捨て、他のどこにも行けない底辺まで堕ちてきたのなら、俺はそれを「覚悟」として受け入れなければならない。覚悟を見せられたならそれに応えるのは当然のこと。だが事実としてイザナはそちらを選ばなかった、ただそれだけだ。
いまだ不機嫌そうなイザナは、眉をひそめて俺の言葉を繰り返す。
「……オマエの人生計画?」
「俺には俺の目指すものがあるってこと」
まあそこはいいでしょ、と持っていた鞄を抱え直す。何か用があったんじゃないの、と珍しく休日に連絡を寄越してきた野良猫に視線を向けた。
すると珍しくちょっと気まずそうな顔をしたイザナは視線を逸らし、くぴりとジュースの缶に口を付ける。
「……真一郎が」
「真一郎くん?」
「……礼が言いてえから、オマエのこと連れてこいって」
「礼? 言われるようなことしたつもりはないけど」
「俺もそう言った」
まだ、イザナとの視線は合わない。
数秒間の沈黙のあと、まさか、とつい顔面に余計な力が入る。
「……ひょっとして真一郎くん、俺のことものすごくいいやつだとか思ってる? もしくはイザナといいトモダチなんだみたいな」
「俺が何言っても聞きゃしねーんだよオマエまじ何言いやがった!!」
どうやら佐野真一郎、想定以上の思い込みの激しいタイプの馬鹿だったらしい。また癇癪を起こし始めたイザナをどうどうと宥めすかし、仕方なくバイクの後ろに跨がる。
もう縁を切っても構わないはずなんだけどな~と遠い目をしながら、自分の口角が上がったままなことには気付かないふりをした。
*
そのあとバイク屋に連れられた俺は佐野真一郎にしっかり頭を下げて礼を言われ、イザナにもいいダチがいて嬉しいなんて言われてしまって、もはや何と言ったらいいのか。
視線だけで「ねえ何コレどういうこと」「オマエのせいだろ何とかしろ」「無理でしょ俺の話一切聞いてないよさっきから」「これが真一郎なんだよ余計なことしやがって」と会話が成り立つなんて俺とイザナも付き合いが長くなったものだなと。
にこにこと嬉しそうに笑いながらバイクをいじる伝説の暴走族の元総長、たぶん頭の中には脳みそが入っていないのだろう。
頭が痛くなってきたのでとりあえず「トモダチ」の話は一旦横に置き、イザナにこれからのことを尋ねた。イザナはあまり言いたくなさそうだったが、真一郎の視線を受けて仕方なさそうに重い口を開く。
「……黒龍は解散する」
「そう」
少しも驚く様子を見せない俺を苦々しく睨みつけながらも、ぽつぽつとイザナは言葉を落とした。佐野真一郎の前ならイザナは素直だ。
後ろ暗い商売ももうやめること、自分の目の届く範囲では二度と同じことをさせないこと、それから。
「俺は、俺のやりたいことを、……する」
兄の後を継ぐのでなく、兄の大事なものを壊すのでもなく。馬鹿のくせにその意味は正しく理解したらしい佐野真一郎は、歯を見せてにっかりと笑った。
「いーじゃん」
その一言がイザナにとってどれだけ大きいのかは理解していないようだけれど。
ぱっと顔を明るくしたイザナを横目で見つつ、まあそれなら大丈夫と内心で胸をなで下ろした。イザナの「やりたいこと」が何なのかは知らないが、佐野真一郎に言えないようなことはしないだろう。越えてはいけない一線さえ守ってくれるのなら、新しい
くわえて、今後は佐野真一郎の店を手伝うという話までまとまっているらしい。首輪をつけたどころか働く気にさせるなんて、つくづく「家族」というものは偉大だと思う。
「つってもバイト扱いだけどな。伊織もガッコ忙しいだろうけど、またイザナと遊んでやってくれよ」
「……えっと、……はは、まあ、……はあ」
「オイ諦めんな伊織」
「もう面倒くさくなってきた」
背中が痒くなるような「トモダチ」扱いだが、だって何を言っても「照れんなって!」で流されてしまうのだ。
どこをどう見れば俺やイザナが照れているように見えるのか、佐野真一郎ときたら脳がないどころか眼まで腐っているのかもしれない。もはや身体のどこなら正常に機能しているのだろう。馬鹿は度しがたいというが、なるほど確かに難しい。
しかし、と耳の奥で先日落とされた言葉が響く。
『……残り時間、楽しく過ごしなさい』
楽しく、楽しくか。
そう長くない時間を、俺が「楽しく」過ごすためには。
「……イザナ」
「ンだよ」
「トモダチいたことある?」
「はァ?」
まあ十中八九ないんだろうけど、と我が身を棚上げして肩が揺れる。
可愛い下僕たちこそたくさんいるのだろうが、世に言うトモダチというのはだいたい対等なものだ。上も下もなく、同じ目線で接することができる相手。
きっとイザナにはいないだろうし、俺だってそうだ。ということは、つまり。
「俺たち、お互いが初めてのトモダチなんて笑えるね」
そう言ったときの、イザナの顔と言ったら。
眼球がこぼれ落ちるんじゃないかと思うほど見開かれた目に、徐々に赤く染まっていく褐色の肌。お、と佐野真一郎の面白そうな声が落ちると同時に、眼前に迫る拳。
来ると思ったそれをギリギリで受け止め、続けて繰り出された逆の拳もまたすれすれで受け止める。照れ隠しにしてはかなり強烈というか、はははと口では軽く笑って見せるが少しでも力を抜いたら歯の一本くらいはイくことだろう。本当に堅気かコイツと思うくらいの鋭さだが、さすがの俺もプライドくらいあるので大人しく殴られてやるつもりはない。
ぎぎぎ、と音がしそうなほどの競り合い。なんだか妙に新鮮だった。
「照れ隠しが拳ってちょっと過激すぎない?」
「誰が照れてるっつーんだよコラ」
「お前ら喧嘩は外でやれよ~。てか伊織、オマエ実は見かけによらず強い?」
「これでも場数だけは踏んでまして」
「ハ、いつも躱すだけでろくに反撃もしてこねーヘタレのくせに」
「ははは、言ったねイザナ?」
俺は基本堅気に手をあげたりはしないのだが、まあ今回くらいは構わないだろう。何せイザナはちゃんと堅気に戻り、俺もまだ堅気だと念を押されている。そんな俺たちが喧嘩したところで何の問題もないはずだ。
とは言え、ちょっとはしゃぎすぎてしまったかなという自覚はある。俺の左腕にはヒビが入ったし、イザナの額はすっぱり切れてしまったし、佐野真一郎の店を血まみれの埃まみれにしてしまったしと、自分でも驚く程度には調子に乗って暴れた。が、一応弁解しておくと、バイクにだけは俺もイザナも指一本触れていない。
俺たちにくすり箱を投げて寄越した佐野真一郎は、床に飛び散るガラス片をほうきで集めながらさめざめと泣いていた。
「もーバイクが無事なら何でもいい……っ!」
「壊したものは弁償するので請求書くださいね」
「ンだよガーゼ足んねえんだけど。買ってこいよ伊織、血ィ止まんねえ」
「直接病院行った方が早いよ。俺も腕ヤバそうだし、車呼んだからイザナも乗ってきな」
「やっぱお前ら普通に仲良いだろ」
その言葉に「まさか」と、俺とイザナの声が綺麗に揃う。
こんなガキくさい小競り合いを楽しいーーーそう、「楽しい」と。自分がそんな感情を持ち合わせていたことに気づけたのは、確かにイザナのおかげだったのだと思う。
診療時間外のためにしんとしている病院の待合室で、伊織、と響いた小さな声。なに、と視線をやることもせずに答えると、右肩に遠慮のない重みがのしかかる。
「……真一郎とは話したけど」
「うん」
「まだ、エマには会ってない。……もうひとりも、」
これは、ひょっとして弱音でも吐かれているのだろうか。
不遜なイザナのあまりにもらしくない声色に、肩が揺れそうになるのを必死で堪える。こういうのはたぶん笑ってはいけない、せっかく野良猫が飼い猫になろうとしている最中なのだ、そう仕向けたのは俺なのだから邪魔をしてはいけない。
なるべく真面目な声を装って、そっか、と相槌を打つ。実際、佐野エマはまだしも佐野万次郎ーーーきっとイザナにとって憎らしくて羨ましくてたまらない存在と向き合うのは、相当な葛藤があることだろう。共感はできないが、理解はできる。
右肩に乗った頭のせいで腕の痛みはますます酷くなったが、俺はあまんじてその痛みを受け入れた。
「大丈夫だよ」
あまりに薄っぺらい言葉だ。だが、本当にそう思う。
佐野家のことは紙の上のデータでしか知らないが、何せ長男があの脳天気馬鹿だ。その兄と育ってきた弟が「新しい兄」を拒むとは思えなかった。実際、「マイキー」となって「新しい妹」を受け入れた実績もある。
佐野エマだって、たとえ血の繋がりがなくたって約束通り迎えに来てくれた「ニィ」を今さら否定するだろうか。
まして、そんな複雑な事情のある孫たちを平気で受け入れて育てている佐野万作氏の器の大きさを考えれば。
「……全部上手くいく」
そう、何も心配することはない。
これからお前は、陽の当たる世界で家族とともに生きていくのだ。
***
そして、俺の予想はやはり正しかった。
紆余曲折こそあったらしいが、イザナは無事佐野家に迎え入れられた。たまに「弟」と洒落にならない喧嘩をして家出をしたりもするが、それも「家族」だからこそと思えば可愛いものだろう。
鶴蝶くんを傍に据え、極悪の世代たちをまとめて取り込んだ「天竺」なんて
まあ「俺が勝ったらお前も
それからまたしばらく、兄たちの背を見て育った弟くんも「東京卍會」なんて
「だって伊織くんはウチの
「それは比較対象が酷すぎて複雑」
マイキーくんともたまに話す程度の関係は築いていて、彼を通して東京卍會の知り合いまでちゃくちゃくと増えていった。どうも彼の周囲にも危うい種が隠れているように見えたが、マイキーくんもまた相応の求心力でもって危うい種ごと仲間に引き込んでいるらしい。
確実に真一郎くんの志を受け継ごうとしている彼が中心にいるのなら、きっと「東京卍會」も大丈夫だろうと思えた。
「あ、伊織くんじゃん鯛焼き奢って」
「俺を見たら二言目には甘いモンたかるのやめようか」
ちなみに黒龍に拘っていたワンコがこっそりそこに紛れていたことにもちょっと笑った。必死にお金を稼いでいる友人との繋がりを保ちつつ、彼は彼で「初代黒龍」の面影をある人物に見いだしたらしい。どうもそれはマイキーくんでもイザナでもないらしいが、
「……ココが最近無理してる、気がする」
「了解、本人から話を聞くよ。必要なら
「わかった」
そんなこんなで佐野家を中心に、不安定ながらも娑婆は平和になっていった。
俺も俺で結局なんやかんや彼らと縁を切れないまま時間だけが過ぎていく。トレーニングと称してヤクザの事務所に飛び込んだ
イザナとも相変わらず、たまに会って話をして、海を見ながらぼんやりして。イザナが本格的に真一郎くんの店で働き始めた後は、たまに「S・S MOTORS」に呼び出されたりもした。そこでイザナにバイクを差し出されたことには驚いたけれど。
「……これ、俺に?」
「イザナが初めてパーツ集めて組み立てたンだよ。かっけえだろ?」
中古だけどイイやつなんだぜと自慢げに笑う真一郎くんの隣で、何となく気まずそうな顔をしたイザナが磨き上げられた赤いボディを撫でている。
俺はバイクに詳しくはないが、そんな俺でもわかる程度にはいいバイクであるように思えた。
「イザナ、もらっていいの?」
「……」
おっと、返事がない。
目を合わせようともしないネコチャンから視線を外し、しょうがないなと真一郎くんに目を向ける。
「ちなみに普通に買ったらいくらくらいするんですか? あ、新車の値段でいいですよ」
「オイコラ普通に払おうとすんな財布しまえ」
「素直じゃないお前が悪い……と言いたいところだけどね、イザナ。真面目な話、パーツ代だけでもいいから金は取るべきだと思うよ」
バイク自身の価値だけでなく、堅気の道を選んだイザナが生み出した初めての「商品」。それは、暴力やクスリでなく、真っ当に生きる「覚悟」の具現とも言える。
店内の灯りのもとできらりと光るそれは、確かになかなか格好いい。
「これは金を取る価値のあるものだ。買う権利だけでも十分、」
その続きを言う前に、首元を締め上げられる。
眼前で見開かれた紫の瞳は苛立ちに揺れ、言わなきゃわかんねえのかとでも言いたげの。
「
だから、と。
その三文字に込められたものを、俺はゆっくり飲み込んだ。
俺なんぞにそんな心を傾けるなんてと捻くれた声が頭の中で響くと同時に、胸に浮かんだ柔いもの。あまりにもらしくない自分にゾッとしつつも、そう言われては断る方が無粋だと財布を懐に戻した。同時に首元の手が緩む。
「……じゃあ、ありがたく頂くよ。大事にする」
「……当たり前だろ」
「とりあえず免許取らなきゃね」
「真面目か?」
「……えっひょっとして伊織バイク乗れねえの?」
暴走族と連んでるくせに、と信じられない眼でこちらを見る兄を軽くスルーし、イザナは上機嫌で俺とバイクを外に引きずり出した。仕方ねーから俺が教えてやるって、お前俺に偉そうな顔できるのが嬉しいだけだろうと。
エンジンはこうで、ブレーキはこうでと意気揚々と説明を始めたイザナに、俺はもう苦笑するしかない。まあイザナはイザナなので、途中で説明に飽きて「とりあえず乗ってみろ」と言い出すくらいは予想の範囲内なのだけれど。
「……よく初心者の後ろに乗ろうとか思えるよね……」
「俺の言うとおりに運転しろよ。転けたら殺す」
殺すどころか下手したらもろともに死ぬぞと思いながらエンジンを掛ける。
深く響く排気音と、真っ赤なボディ。慣れないながらも後ろにトモダチを乗せて走る道は、確かに爽快だったように思えた。
*
そんな日々は本当に愉快痛快で、確かに俺は「楽しく」過ごしていたと思う。
それが終わりを告げたのは、俺が大学を卒業したその日。ほかの奴らが祝ってやるよとか何とか言って茶化すなか、イザナは何も言わなかった。俺は別に何を匂わせていたつもりもなかったが、きっとイザナだけは察していたのだと思う。
俺はその日を最後に、皆の前から姿を消した。