夜の闇は心地いい。
闇に溶け込むこの外見を、厭わしく思ったことなどない。これは私たちの誇り、私たちが受け継いできたもの。剣や弓の扱いも、身のこなしも。全てはどんな土地でも生き残れるよう、私たちの祖先が培ってきたものだ。
たとえそれが血と泥にまみれ、後ろ指を指されるようなものであったとしても、私たちには「それ」しかなかった。
「ナーヒード、いないのか?」
聞きなれた声に、ぱちりと目を開いた。せっかく闇に微睡んでいたというのに、余計なことをしてくれる。唯一闇色をしていないこの瞳を見つけて、声の主はあ、と声を上げた。
「やっぱりここにいたか」
「クロード、何の用?」
「相変わらず冷たいね。まったく、ちゃんと夜は部屋で休めっていつも言ってるだろ。こんな時間なのに部屋にいないってヒルダが騒いでたぞ」
その言葉にはあ、とひとつ息を吐く。ひとが寝付いた時間を見計らって出てきたというのに、ヒルダはどうして私の不在に気付いたのだろうか。おおかた課題でも見せてもらいにきたのだろう、怠惰は勝手だが時間は考えてほしいものだ。
身を寄せていた木の枝から身体を起こし、そのままバルコニーへと飛び降りる。着地した先の冷たい石の感覚は、どうにもこの身には馴染まなかった。
「ベッドに慣れないのは知ってるが、せめて部屋にはいるようにしてくれ。心配するだろ」
「心配? 私の?」
思わずはっと鼻で笑った。
夜の闇は私たちにとって何よりの味方だ。たとえこの身に危険が迫ろうと、この暗闇の中で後れを取ることは有り得ない。そう言い切れるだけの自負はあった。それを汲み取ったらしいクロードは困ったように笑い、いつものように芝居がかった調子で両手を開いてみせる。
「心配くらいさせてくれよ。われらが共犯者殿の身に何かあったら大変だろ?」
共犯者、と彼は私を称する。どちらかというと私にとって彼は雇い主であり、ともすれば飼い主とも言えたが、クロードはそういう言い方を好まなかった。
目指す方向が同じであり、そして対等な関係で協力するのだから、自分たちは《共犯者》なのだと。腹の内を完全に見せもしないくせによく言うとは思ったが、クロードの夢とやらがどんなものであろうと、私との約束を守るならそれでいい。
実際、彼のおかげで今も私の家族は無事に生きている。
「……部屋に戻るよ。ヒルダにも言っておくから」
「そうしてくれ。……ああ、ナーヒード」
「何?」
「次に抜け出すなら、バレないようにな?」
言外にお前は詰めが甘いんだよ、と悪戯っぽく笑われ、思わず隠し持ったナイフに手が伸びる。気付いたクロードに、おっと物騒なことはよしてくれと慌てて肩を叩かれた。舌打ちをひとつ残して背を向ける。
もとが流れ者の自分には、士官学校での規律正しい共同生活も、清潔なベッドのある小奇麗な個室にも未だに慣れない。出来ることならすぐにでも飛び出して、もとの気ままな旅の生活に戻りたかった。が、そうも言っていられない事情がある。この人好きのする仮面をかぶった主がそうしろというのなら、この窮屈な生活も仕方がない。
「ナーヒード」
「今度は何」
「……おやすみ。いい夢を」
時折この男は、ひどく優し気な声を私に投げかけることがある。
クロードが、どこか罪悪感に近いものを私に抱いているのは感じていた。私は私の意志で「約束」をしたのだと何度言っても変わらない。共犯者などと宣うくせに、その実まったく私の言葉を信用していないのだ。どうせこの男、私にとって自分は家族を人質にとって言うことを聞かせている極悪人とでも考えているのだろう。ひとを舐めているにも程がある。
「……おやすみ」
しかし、自らを「猜疑心の塊」と宣う彼のこと、何を言っても通じないことはわかっていた。私の言葉は、クロードには響かない。ならば、語るべき言葉など何もない。そのひとことだけを残して私はバルコニーを後にする。
こつりこつりと響く自分の足音を聞きながら、思う。クロードはきっと、いつか自分の見たい景色を見るだろう。そのために着実な努力を重ね、協力してくれる手駒も増やしてきている。野望を叶える努力を重ねているだけでなく、野望を「叶えられない」要因を丁寧に潰していくだけの周到さも持ち合わせている。そういう人間が得てして大望を果たすのだと、職業柄多くの英雄を見てきた祖父も言っていた。
ならば、と思う。その果ての景色を見たときくらいは、自分の言葉を信用してくれるだろうか、と。クロードが自身でどう思っていようと、彼が自分と自分の家族に手を差し伸べてくれたことに、私は感謝しかないのだと。
素直ではないこの口が本心を紡いだら、彼は信じてくれるだろうか。