学校行事というのはとにもかくにも面倒くさいものだ。腕の中で身動ぎする彼女に静かに、と囁き、その気配が遠ざかるのを待つ。すぐ傍で我関せずという顔をした馬がもそもそと草を食んでいた。
「逃げ足が早いんですから、まったく!」
「おかしいなぁ、こっちだと思ったのに〜」
私を追いかけてきたリシテアと、私の腕の中にいる彼女を追いかけてきたらしいヒルダ。ふたりはきょろきょろと周囲を窺っていたが、やがて軽い足取りと共に立ち去って行った。
戻ってくる気配がないことを確認して、腕の力を弱める。
「いきなり悪かったね、マリアンヌ。大丈夫?」
「あ、……」
いまだ衝撃が抜けきっていないらしいマリアンヌは、揺れるように数歩足を動かし、こちらを振りむいた。一瞬だけ目が合って、すぐに逸らされる。別に不快には思わない。マリアンヌにとってそれが《通常》であることはさすがの私もわかっていた。
「マリアンヌも追われてたんだね。珍しい」
「、……その、舞踏会のことで、……ヒルダさんが、……気を、使ってくださったんですが……」
「ああ……それで化粧道具片手に追いかけ回されたのか……」
それは私も見つかりたくない、下手をすれば巻き込まれる。やはりもう少し隠れていよう、と地面に座り込むと、何か問いたげな視線を向けられた。何を言いたいのかを察して、ああ、と頷く。
「私も同じ、舞踏会関連だよ。踊れないって言ったら、リシテアが『じゃあわたしが教えてあげます!』ってさ」
妙に張り切り始めたリシテアは、別にいらないと何度言っても聞こうとしない。クロードが出席するのに護衛のあんたが欠席するわけにはいかないでしょうとか、男性にダンスを申し込まれたら余程のことがない限り受けるのがマナーですとか、ぺらぺらともっともらしい理屈を並べていたが、単純に私に偉そうな顔をしたいだけなのだと思う。
やれやれとため息をついてみせると、マリアンヌは少しだけ意外そうな顔をしていた。
「……踊れ、ないんですか……?」
「そりゃまあ、必要なかったからね」
そんなにおかしいことだろうか、と首をかしげると、はっと気づいたマリアンヌは慌てたように言い募る。
「あ、あの、……ち、違うんです、……ええと、」
「うん」
「!」
「聞くよ。何?」
なるべく穏やかにそう言うと、マリアンヌはまた少し驚いた顔で、二、三度深呼吸をする。きゅ、と唇を結んだ後、一生懸命言葉を選んで言った。
「……ナーヒードさん、は、……その、とても、すごいひとですから……何でも出来る、のかと、思っていて……ダンスが出来ないというのが、少し、意外で」
そんな風に見えていたのか、と少し驚いた。士官学校にいる以上、どうしても知識や戦闘に関わることばかりが目立ってしまう。そのあたりは私にとっては得意分野なので、そう見えてしまうのも無理はないのかもしれない。
「……うーん、今までの生活の中で必要なことは習得してきたけど、それ以外は結構何もできないよ。特に貴族にとって教養と呼ばれるようなことは結構疎いと思う」
たとえば芸術品の目利き、たとえば音楽、たとえばテーブルマナー。テーブルマナーについては多少リーガン家で教わったが、それまでは全く気にしたこともなかった。
そう言ってみると、マリアンヌは戸惑ったように頷く。
「そう、なんですか……」
その顔をそっと横目で窺う。
マリアンヌは敬虔なセイロス教徒だ。だからきっと、レアの言う《血と偽りによって生きてきた罪深い一族》を忌避するだろうと思っていた。けれど、今はそれが私の固定観念に過ぎないこともわかっている。何よりマリアンヌは鷲獅子戦の後の宴で自分から私に話しかけ、食事を勧めてくれた。もともと誰かと関わることを極端に避けている彼女にとって、それがどれだけ勇気のいる行動だったのか。
今も、戸惑いつつも逃げようとはしない彼女を見て、思う。もう少しだけ会話を続けてみてもいいだろうか、と。
「……マリアンヌは」
「、はい」
「ダンス、慣れてるの?」
私が質問したことに驚いたのか、マリアンヌは大きく目を見開き、それから視線をせわしく揺らした。ええと、と口ごもるのを見て私も弁解をしそうになるが、ぐっと堪えて次の言葉を待つ。
勝手に気遣ったつもりでマリアンヌに口を開かせないのは、きっと、何か、違う。
「……た、しなみとして、……少しは」
そうしてしばらくの沈黙の後にようやく絞り出されたか細い声。しかし、やはりマリアンヌはちゃんと質問に答えてくれた。どもりながらも逃げることなく会話をしてくれ、その顔には緊張は見えても嫌悪は見えない。
どうやらマリアンヌは私と会話をするのが嫌なわけではないらしい。よくわからない感情が胸の奥で渦を巻きはじめた。私も何とか相槌を返すが、妙に気恥ずかしくて上手く言葉が出てこない。
「……そっか。すごいね」
「す、すごいだなんて……貴族の生まれなら、皆そうです」
「貴族だろうと何だろうと、ちゃんと努力して身につけたんだろう。すごい」
「そんな、……」
次の言葉は紡がれないまま、潤んだ瞳は前髪の下に隠れてしまった。困らせてしまっただろうか。
すごいと思ったことに嘘はないが、褒められることが苦手なひともいるだろう。自分のことを話したくないひともいるだろう。じゃあ何を話せばいいのか、とぐるぐると頭のなかで思考が巡る。慣れなさすぎて変な汗かいてきた。何だこれまたクロードに笑われる。
ーー思考の空回りが加速しはじめた瞬間、背後で馬のいななきが空を裂いた。
たぶんふたりして一瞬浮いたと思う。飛び跳ねるように身体を揺らし、咄嗟に振り返る。いつのまにか顔をこちらに向けていた焦げ茶の馬が、まったく世話が焼けると言わんばかりに鼻を鳴らし、素知らぬ顔で水桶に鼻先をつけた。
数秒、妙な沈黙が流れた。ゆるゆると背後を向いていた身体が元に戻り、その過程で自然と視線が絡む。普段は伏し目がちな瞳が、今ばかりは大きく見開かれていた。
お互い、きっと間抜けな顔をしていたと思う。ふ、と息を漏らしたのはどちらが先だったか。笑うと言うほど大げさなものではない。ただ、張り詰めていた糸がたわむように、お互いの肩から力が抜けたのがわかった。
「……あの子は、ドルテというんです」
「あの馬?」
「はい、とても良い子です。賢くて……」
「そう、……確かに、賢いね」
いななきのタイミングがあまりに良すぎた。状況を完全に理解していたと考えるほかない。
必要以上に力が入りすぎていたことを自覚する。ふう、と息をついて頭の中を整理する。小難しく考える必要はない。ただ、いま思っていることをーーと、口を開いた瞬間。
次に背後で響いたのは、よく聞き慣れた弾んだ声。
「みーつけたっ」
「まったく、よくも逃げ回ってくれましたね!」
追いかけられていたの忘れてた。まさか私がふたりの気配に気付かないなんて。
にこにこ笑顔のヒルダと、こちらを見つけて得意満面のリシテア。すでにそれぞれの射程内にまで距離を詰められていた。反射的に走り出そうとしたが、この状況から再度逃げ切るのは難しい。マリアンヌも一歩二歩と後ずさったが、それ以上動く気配は見せなかった。
万事休すか。にこにこを通り過ぎてにまにまと笑い始めた悪魔たちが憎らしい。
「一緒にいる気がしてたんだよねー! せっかくだからナーヒードちゃんも舞踏会の準備しよ!」
「ええ、マリアンヌもナーヒードのレッスンを手伝ってください。相手役がいた方が練習になりますからね」
結局こうなるのか、という諦めの境地に至る。ただ、まあ、「巻き込まれた」感覚をわかちあえる存在がいるというのは、何となく悪くなかった。
ちらりと隣に目をやれば、困ったように視線を揺らす彼女と目が合った。戸惑いながら、困りながら、それでもほんの少し、ほんの少しだけ楽しそうな色が見えたのは、気のせいではなかったと思いたい。
ダンスは覚えたがレッスンで幾度となくマリアンヌの足を踏んでしまったので、私はきっと二度と彼女に逆らうことはできないと思う。
「本当にごめん……」
「き、気にしていません! 本当に、気にしていませんから……!」
風花雪月6周年おめでとう。
分岐があるとはいえ何周も何周も楽しんだゲームはこれが初めてです。