まるで、大樹のようなひとだと思った。
確かに生きてそこに在るのに、妙に音の薄い人。存在感がないかと言えばそういう意味でもなく、気配がないかと言われればそうでもない。感情の揺れ動きをあまり表には出さない人のようだから、そのせいなのだろうか。これほどまでに、生きている《音》に乏しい人は初めて見たかもしれない。
ぼうっとベンチに座るその人の前に立つと、その人は少し驚いたように顔を上げた。
「失礼。今、いい?」
敬語を使うべきなのか一瞬悩んで、やめた。何となく、そういうことを気にしない人のように思えた。
その人は気にした風もなくひとつ頷いて、ベンチの端に寄った。まさか、私に隣に座れと。少し驚いたが、すぐに終わるから、と首を振る。そういえばこの人、ずいぶん世情に疎いようだとクロードが言っていた。まさか、私の一族のことも知らないのだろうか。
どちらにしろ、言うことを言って早く離れた方がいい。
「ただ、お礼を言いたかっただけだから。…私の雇い主を守ってくれてありがとう」
雇い主、と繰り返されて、クロードのことだよ、と返した。返しながら、この人喋れるのか、と妙な感動を得る。何故だか人形を相手に喋っているようで落ち着かない。
「私は彼個人に雇われてこの学校に通ってる。……囮なら私がやるって言ったのに、暗闇の中のお前は目立たなすぎて囮にならないって却下されて。クロードに何かあったら報酬も何もなくなるところだった。だからありがとう」
そう、頭を下げる。クロードに何かあれば、それだけで契約は破綻し、家族が路頭に迷う羽目になる。その先に見据えていた私の夢も、消えるところだった。
クロードのあとをほかの級長が追いかけていったのを見ておそらく大丈夫だろうと高をくくっていたけれど、この人がいなければ危ない状況だったと聞いている。無茶をしたクロードの締め上げは後でやるとして、まずはお礼を伝えたかった。何の見返りもなく私の《共犯者》を助けてくれた、この人に。
「……ありがとう」
重ねてそう言って、頭を上げる。それじゃ、と背を向けると、呼び止められた。背後でその人が立ち上がる気配がする。振り返ると、その人の目線が私より少し高いことに気づく。
その人は自分の名前を名乗り、私の名を聞いた。
「……ナーヒード。ナーヒード=ライラ」
ナーヒード、と口の中で繰り返したその人は、よろしく、と手を差し出してきた。ライラ、と名乗っても何の反応もなかったところを見ると、本当に私たちのことを知らないらしい。知っていて握手を求めてくるならともかく、知らないで差し伸べられた手を握る気にはなれなかった。
「……ひょっとしなくても、知らないんだね。《夜の民》のこと」
夜の民、とその人は不思議そうに瞬きをした。ひとつ息を吐いて、この学校に知らない人間はいないと思うから、誰かに聞いたらいいよ、と言葉を返す。きっと眉をしかめながら教えてくれるだろう、血にまみれながら生きてきた私たちのことを、嫌悪をもって。
「私たちのことを知った後でも握手をしたいと思ってくれるなら、そのときに応える」
そして私は、手を差し伸べたままのその人を放ってその場を後にした。その数日後、教師となったその人が、改めて握手を求めに来ることも知らずに。