クロードが何か手を回したのか、この
しかし、彼女だけは、何と言うか、呆れるほどに友好的だった。
「ナーヒードちゃん、一緒にお昼食べよー!」
花のような明るい髪色と、同じように明るい声。彼女はいつも笑顔を振りまき、決まって左腕に抱きついてくる。
以前は左右関係なく抱きついてきたものだが、利き腕に抱きつくのはやめるよう伝えてみれば必ず左に来るようになった。人に気を使っているのか使っていないのか、未だによくわからないのが彼女、ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルだ。
「昼はいいけど、ヒルダ、講義資料の片付け頼まれてなかった?」
確か、午前の講義で使った資料を書庫に戻しておくようにハンネマン先生に言われていたはず。するとヒルダはにっこりと笑って、誤魔化すように首を傾けた。視界の端に、その資料を小脇に抱えて教室を出る男子生徒の姿を捉える。
「……まあ、合意の上なら口は出さないけど」
「しっかりお礼は言ったから大丈夫!」
やれやれと首を振ると、ほら早く行こ、と腕を引かれる。
ヒルダは相手に守りたい、助けたいと思わせるのが非常に上手い。それが怠惰故に身についた戦略だったとしても、これだけ上手く使いこなしているのならいっそ感心すらさせられる。もっとも、講義で出された課題くらいは自分でやれと思うけれど。
「あ、あそこにいるの先生じゃない?」
食堂に向かう階段をのぼりながら、ヒルダは手すりの向こう側を指さした。少し離れた先には、確かに私たち
「……私の目には猫にたかられてるように見えるんだけど、あれは何をしてるんだろう」
「うーん、あたしの目にも猫にたかられてるように見えるかなー」
おそらくは魚の入った籠を頭上高くあげ、脚に絡みつく無数の猫たちから守ろうとしている、ように見える。猫たちを蹴散らすこともできないが魚をあげるわけにもいかず、とにかく困り果てていることだけは伝わってきた。が、表情の変化が乏しい人であるだけに、何と言うか、非常に不思議な光景だ。
「……先生って灰色の悪魔って言われるくらい凄腕の傭兵なんだよね?」
「灰色の悪魔も、猫には弱いってことじゃない?」
「随分お手軽な弱点だ」
「あははっ本当に!」
こうして見ると先生も可愛いね、なんてヒルダは笑う。そうかもね、と適当に相槌を打って、ぼんやりと先生を眺めた。
私の一族のことを知ってもなお、握手を求めてきた先生。ちゃんと話は聞いてきた、と先生は言った。最初はクロードに、その後はより客観的な意見を求めてエーデルガルトやディミトリにまで。それでも気持ちは変わらなかったから、と差し伸べられた手。
『これからよろしく』
何の含みもない、透明な言葉。建前や、利害や、おおよそ人間らしい醜さとは縁のない音だった。
その手を握って確かな体温を確認した今でさえも、本当に人間なのだろうかと疑っているのは否めない。
「……変な人」
思わずそう言葉を落とすと、耳ざといヒルダはあはっと軽く笑う。
「でも、悪い人じゃなさそうで良かったよね!」
とうとう腰元まで猫にのぼられている先生を指さしながら、ヒルダは遠慮なく笑った。あれでも猫を引き剥がさないんだから優しいよねぇと、愉快そうに。
「ナーヒードちゃんもそう思ったから、握手してあげたんでしょ?」
クロードくんに聞いたよ~とからかうように言うヒルダ。あの男、自分のことには貝よりも固く口を閉ざすくせに、人のことになるとべらべらと喋るのだからタチが悪い。思わず苦い顔をすると、怒んないでよーと頬をつつかれる。
「良かったじゃん。ね!」
そこで同意を求めるな、という言葉を飲み込んで、細く息を吐く。腰元の袋に手を入れて中を確かめ、ヒルダを見た。
「ヒルダ、私が猫を気を引くから、その隙に先生を救出して」
「えー? いいけど、気を引くってどうするの?」
「犬笛」
短く答えて、袋から取り出した小さな銀色の筒を見せた。魔獣や狼よけに持っていたものだが、猫にも十分に通用する。別に先生を助ける義理などないが、これから数ヶ月は師事することになるのだ、これくらいはしてあげてもいいだろう。
「ほら、猫が先生の肩まで到達した。急ごう」
「あらら。よーし、じゃあさっさと助けて先生にデザート奢ってもらおっか!」
「桃のシャーベットが食べたい」
「賛成!」
走り出した彼女の背を見ながら、犬笛を口元に近づける。
ヒルダの姿を捉えた先生が、助けを求めるように声を上げた。どうやら本当に心底困っていたらしい。ヒルダは爆笑しながらこちらを振り返り、ひとつ頷く。私も思わず少し口元を緩め、銀に息を吹き込んだ。
私たちの耳には聞こえない透明な音が、辺りに響いた。