ガルグ=マクの書庫には、貴重な文献が多数保管されている。もちろんセイロス聖教会の教えに抵触するものは注意深く取り除かれているのだが、それでもなかなかに興味深いものが多かった。書庫の利用を許可されて以降、なるべく人の少ない時間帯に利用するようにしている。どんな知識や情報も、得ておいて困ることはない。
今節の課題で出撃する西方の地理について記された文献を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。フォドラ内の地理や諸卿についての知識はおおよそ頭に入っているが、念には念を入れておきたかった。与えられた課題はただの反乱の後始末に過ぎないが、それでも戦闘がないとは言い切れない。騎士団が同行するとはいえ、生徒たちは戦闘経験が浅い者が大半だ。出来る限りの用心はしておくべきだろう。
文献に記された西方の地図を指でたどっていると、誰かが書庫に入ってくる気配を感じた。軽い足音に、狭い歩幅。迷いなくすたすたと歩くその足取りには、覚えがあった。
「……、」
近づいてきた足音が、私に気づいてぴたりと止まる。足音の主は視界に入らなくてもわかった。同じ
彼女とはほとんど話したことがない。接点がなかったというのもあるが、彼女が私に対して少しばかり恐怖を覚えているのは明らかだった。自分より年若い女の子を怖がらせて喜ぶ趣味はないので、なるべく近寄らないようにしていた。
どうやら彼女も私がいるこの棚付近の文献に用があるらしい。止まってしまった足音に、さてどうするかと小さく息をついた。彼女が日頃から必死になって努力を重ねているのは知っている。そんな彼女の邪魔をするのも、さすがに少し気が引ける。課題の出撃まではまだ時間があるし、今日のところはこのあたりで退散しよう。手に取っていた文献のタイトルをもう一度確認し、さっさと閉じて棚に戻す。そしてリシテアがいるのとは逆の方向に足を向けようとした、そのとき。
「……待ちなさい!」
どこかヤケクソのような声に驚いて、振り返る。怒りで僅かに頬を赤く染めたリシテアが、ずんずんとこちらに向かってくるのが見えた。
「わたしが来たからって読むのをやめなくてもいいでしょう! 馬鹿にしてるんですか?」
まさか、正面から突っかかってくるとは。彼女の握りしめた両手がかすかに震えているのは、怯えからか、怒りからか。どう答えたものかと悩みながら、慎重に言葉を選ぶ。
「……別に急ぎの調べものでもなかったから、後日にしようと思っただけなんだけど。リシテアこそ、何か文献を見に来たんでしょ? 私に構わず、調べ物したら」
「そういうところが馬鹿にしてるんですよ! べ、別に、貴方がいようがいまいが調べ物はしますし、いらないお節介だって言ってるんです!」
言いよどむくらいなら、素直に私がこわいと言えばいいと思うのだけど。口に出したらさらに火に油を注ぎそうな本音は喉の奥におさえこみ、ついでに出そうになったため息も奥深くに押し込んだ。そういえばこの子、相当にプライドが高いんだった。
「……じゃあ、そうさせてもらうよ」
せめてこの棚からは離れてやるかと、再び棚から本を抜く。そこらの椅子を借りて座って読むとしよう。これなら文句はあるまいとまたリシテアに背を向けると、また慌てたように待って、と引き留められる。今度は何だと首だけで振り返ると、必死そうな淡い紅の瞳と目が合った。何度か口を開いては閉じてを繰り返したあと、改めて覚悟を決めた表情で、リシテアは言った。
「……ごめんなさい」
数秒間、沈黙が流れる。あまりにももらい慣れてない言葉に驚き、考え、そして素直な感想が口をついて出た。
「……何が?」
途端にリシテアの目がまたつり上がるが、本当に心当たりがなかった。まともに会話したのもこれが初めてなのに、謝られる理由がわからない。もはや地団駄を踏みそうな気配のリシテアに、とりあえず落ち着かせなければと言葉を重ねる。
「いやだって、まともに話したのもこれが初めてだよね? 謝られるほどのことをされた覚えはないんだけど」
「今だってあんたはわたしのために読書を中断したでしょう! わたしがあんたを、その、避けているのをわかっていたから。……これまでも、いろいろとわたしに気を遣ってくれていたことはわかってます。失礼なことをしているのは、わたしのほうなのに」
懺悔をするように一瞬うつむいて、それでもリシテアは顔を上げて私の目をまっすぐに見た。
「しかも、それでもあんたはわたしを助けてさえくれたでしょう。前節の課題で盗賊を相手にしたとき、あんたはわたしをかばってくれた」
リシテアに言われて初めて、そういえばそんなこともあったかもしれない、とザナドでの戦闘を思い出す。戦闘に慣れていないクラスメイトのフォローにわりと必死だったので詳細は覚えていないが、魔法を放って無防備になったところを狙われたリシテアをかばったことがあったような、なかったような。しかし、戦闘時でのことを恩に着せるつもりはさらさらなかった。
「戦闘において仲間を守るのは当たり前のことなんだから気にすることはないよ。避けられるのも別に気にしないし」
「ああもう、あんたじゃなくてわたしが気にするって話なんですよ! こっちが頭を下げてるんだから素直に受け取ったらどうなんですか!?」
「いや頭は下げてないよね」
「ものの例えです揚げ足を取らない!」
きゃんきゃんとわめく様子はなかなかに面白いが、そういうところが子どもに見えてしまうのだと本人はわかっているのだろうか。とりあえず書庫に人がいないときでよかった。こんなところをトマシュに見られたら出禁にされかねない。とはいえ、これ以上騒がせるのは得策とはいえない、か。
「リシテア」
その名を呼ぶと、彼女はぴたりと動きを止めた。
「謝罪は受け取るから、もう気にしなくていい。避けられるのも、私は特に気にしない。けど、……そうだな、クラスメイトである以上どうしても接しなきゃいけない場合はあると思うから、そういうときは妥協してほしい。私はどうしても、この学校を辞めるわけにはいかないから」
「……妥協も何も、もう避けたりしませんから、あんたも気を遣わないでください」
「無理しなくていいけど」
「避けないって言ったら避けませんから!」
うーん、負けず嫌いに火をつけてしまったか。まあ、気を遣わなくていいというならその方が楽でいいのは確かだ。今後の接し方はリシテアの出方を見て考えるとしよう。
はいはいと頷くと、リシテアはふと気づいたように言った。
「……この学校を辞めるわけにはいかないって、何か事情でもあるんですか?」
「ん? 事情というか、話は知ってるでしょ。私はクロードに雇われてここにいる。身辺警護も契約のうちだし、傍を離れるわけにはいかなくてね」
「それは知ってますけど……いえ、契約のことを尋ねられても答えられませんよね。いいです、聞かなかったことにしてください」
「まあ詳細は話せないけど……クロードに何か気になることでも?」
そう尋ねてみれば、気になることというか、とリシテアはどこか不貞腐れたように言葉を続けた。
「クロードは何を考えているかわからない人ですから。ちょっと気になっただけです」
「ああ……まあ、私もよくわからないよ、あの腹黒策士。何考えてんだろうね」
「ナーヒードにもわからないんですか? というか、わからないのに契約したんですか?」
初めてリシテアに名前を呼ばれたな、とそんなことを頭の片隅で思いながら、小さく頷く。手に持った文献で、とん、と自分の肩を叩いた。
「契約さえ守ってくれるなら別に構わないよ。クロードは腹の内の読めないやつだが、性根が腐っているわけではきっとおそらく多分ない。それで十分」
「性根が腐っているわけではないってもう少しちゃんと言い切ってくれませんか」
「それができれば良かったんだけどね」
残念そうに首を振って見せれば、初めてリシテアはくす、と唇に笑みをのせた。私も、少しだけ頬の力を抜く。人と接するのが得意なわけではないが、別に嫌いなわけでもない。
「それはそうとリシテア、書庫に何を調べに来たの?」
「今節の課題で西に向かうでしょう。地理を確認しておきたかったんです」
「何だ、目的は同じか。だったらこの文献が良さそうだよ」
これ、と手に持っているものを示して見せれば、リシテアは長いまつ毛をひとつ揺らし、そうですかと頷いた。
「じゃあ、読み終わったら教えてください。調べたいことは他にもあるので、先にそっちを片付けます。急がなくていいので」
「わかった」
じゃあ、と一言断って私は近くの椅子を引いた。文献を開き、先程の続きから読み進める。リシテアもまた棚に向かい、文献の物色を始めたらしい。背の高い棚に苦労をしているようだったが、下手に手を出せば子供扱いするなと怒られそうだったのでやめた。書庫には踏み台もきちんと用意されている。自分で何とか出来ることに、わざわざ手を出すこともないだろう。
いくらかページをめくり終えた頃、数冊の文献を抱えたリシテアが近づいてきたのを感じた。近くで数秒立ち止まったあと、また改めて足音が近づいてくる。そして聞こえたのは、隣の椅子が床を削る音。
思わず視線を横に向ければ、すぐ隣にさらりと落ちたプラチナの滝。その間から覗く耳は、赤く染まっていた。