誰に何と言われようが、夜の外出はやめられそうにない。
見回りの兵が来ない時間帯を見計らって、柔らかい土の上を歩く。木の枝に隠れて月の光を避けるのも良いが、今日のような新月の夜は堂々と地面の上で寝転がりたい。中庭のしっとりとした芝生の上に身体を倒して、深く息を吸った。眼前に広がる星の海が、ひどく美しい。
そのまま目を閉じようとしたそのとき、無粋な気配を頭上に感じた。
「……足音も気配も隠せてないよ。そういうの向いてないんじゃない?」
「手厳しいわね」
その気配の主が一人であることに、少し驚く。別に四六時中行動を共にしているわけではないのはわかっているが、まさか従者もつれずに私に会いに来るとは。
「話すのは初めてだね。敬語は必要?」
「結構よ。こちらこそ、自己紹介は必要なさそうね?」
「この国にいて貴方を知らない人とかいるのかね」
アドラステア帝国の皇女であり皇位継承者でもある、エーデルガルト=フォン=フレスベルグ。その地位に相応しい風格で、彼女は私を見下ろしていた。
仕方なく身体を起こし、芝生の上に座り込んだまま彼女を見上げる。
「皇女さまが供も連れずに夜半の外出をするのはいかがなものかと思うけど」
「夜半の外出については人のことを言えないでしょう。しかも貴方、これが初めてじゃないくせに」
「まるで自分はこれが初めてとでも言いたげな口ぶりだね」
そちらもこそこそと出かけているくせに、と言外に言えば、エーデルガルトは動じることなく静かな視線を返した。カマをかけただけだが、どうやら当たっているらしい。まあ、私にとってはどうでもいいことだ。
「それで、私に何か?」
「……ナーヒード=ライラ。貴方はクロードに雇われているのよね」
「そうだよ」
「じゃあ、貴方はクロードの夢とやらも知っているのかしら」
クロードの、夢。そう言われて、そういえばクロードがそんな話をしたとか言っていたような、と彼の顔が脳裏に浮かぶ。おかげで先生の秘密について聞き出し損ねたとかぼやいていたが、なるほど邪魔をしたのは彼女だったか。
何と答えたものかと考えながら、髪に絡んだ草を指でつまんでその辺に捨てる。
「知らないって言ったら信じる?」
「信じないわね」
「だよね。でも本当に知らないんだ」
何となくクロードが思い描いている絵の輪郭だけは理解しているが、それだけだ。彼の口からそれについて聞いたことはないし、聞くつもりもなかった。私が聞かなくても、時が来ればちゃんと話してくれるだろうと思っている。あの策士、必要ないことはしないだけで、必要なことはちゃんとする人間なのだ。
私がそれ以上言うつもりがないことを察したのか、エーデルガルトはひとつ息を吐き、口を開いた。
「質問を変えるわ。貴方、何故クロードと契約を?」
「何故って……何で?」
「もし貴方に雇い主がクロードでなければならない理由がないのなら、私が貴方を雇うわ」
あまりにも当然のように、エーデルガルトは言う。それを言われることに驚きはなく、むしろ納得があった。彼女はやはりクロードほどひねくれた人間でもなく、そして私たちのことをよく知っているわけでもないらしい。
「契約については好きなように条件を出してくれてかまわないし、貴方の一族を帝国で受け入れる用意もあるわ。その際にはリーガン家以上の待遇も約束しましょう」
「随分と破格の対応だね」
「それだけの価値が《夜の民》にはある。そう確信しているからよ」
それはどうも、と軽く返す。
私たちにそれだけの価値を見出すということは、彼女は《夜の民》の本当の武器を理解しているようだ。そのうえで私たちに契約を持ち掛けてくるとは、とふと考える。その行動そのものがすでに私に情報を与えているということを、彼女は理解しているのだろうか。その辺の詰めの甘さを補うのに、あの狡猾そうな従者がいるのかもしれない。
なんにせよ、私の答えは決まっていた。
「過分な評価は光栄だけど、ライラは雇い主を裏切らない」
雇い主に裏切られることはあっても、裏切ったことはないのがライラだ。暗殺稼業で生きている人間が誇りだなんだと綺麗ごとを語るつもりはないけれど、それでも私たちなりのルールくらいは存在する。クロードの夢とエーデルガルトの夢が敵対する可能性がゼロでない限り、私がエーデルガルトに与することはありえない。
「貴方が全面的にクロードの味方になってくれるなら一考の余地はあるけど、違うんでしょ?」
「……ええ、そうね。利害が一致するなら協力はしてもいいけれど、全面的に味方とは言えないわ」
「じゃあ無理。残念だね」
「心にもないことを言うのね。……ところで、質問には正確に答えてくれるかしら」
貴方には、クロードでなければならない理由があるの?
繰り返し、そう尋ねられる。ごまかしを許さない、矢のようにまっすぐな視線だった。この皇女、やっぱり搦め手には向かない気質だと改めて認識して、ひとつ息をつく。仕方なしに言葉を選んだ。
「……クロードの夢の先に、私の夢があるから」
多分、とは言わなかった。どうやらそうらしいというだけだが、そこまで教えてやる義理もない。
エーデルガルトは少し黙ったあと、小さくそう、とだけ呟く。納得したかどうかはさておき、それ以上問いを重ねるつもりはないようだった。彼女もまたひとつ息を吐き、ゆるやかに視線を空に向ける。星の瞬きを受けて、その柔らかな紅玉に光が浮かんだ。
「……残念ね」
いっそ不思議なほどに、その言葉は切なさにあふれていた。ただ便利な手駒を得られなかった故の言葉と言うには、妙に感傷的に聞こえる。
そんなしおらしい人間ではないと思っていたが、と私が思うよりに先に、彼女はさっと視線を私に戻した。その瞳にはもう、切なさなど欠片も見えない。
「話は終わりよナーヒード、私はこれで。これは級長として言うけれど、貴方も早く部屋へ戻って休んだほうがいいわ」
誇り高い次代の皇帝は、いつもの調子で強気な声に言葉を乗せた。提案のように言いながら、異論など許さないというような声。命令をされるのは好まないが、この声には逆らわない方がいいんだろうと本能的に感じられた。
仕方なしに立ち上がり、服についた草をはらう。どちらにしろ、もうすぐ見回りの騎士が来る時間だ。捕まってしまう前に部屋に戻らなければならない。
私にとってはつかの間の憩いの時間だというのに、すっかり邪魔されてしまった。明日の鍛錬で誰かに八つ当たりでもするとしよう。
ナーヒード、とまた名を呼ぶ声が聞こえて、声の主に視線を向ける。挑むような瞳と、目が合った。
「貴方が私の邪魔をしないことを祈るわ。《夜の民》を滅ぼすのはさすがに骨が折れそうだもの」
「それは同感。アドラステア帝国の皇女の暗殺なんて面倒な仕事、出来れば避けたいよ」
必要なら、するけれど。そう、お互いの心の声がそろったような気がした。にこ、と心にもない笑顔を交わして、夜半の密会を終える。
クロードより性格良さそうだけどクロードより物騒だなと、そんなどうでもいい感想が浮かんだ。