彼は、私に対して侮蔑の言葉を投げたり、無視をしたりするようなことはなかった。必要最低限の会話はするし、無礼に振る舞われたこともない。ただ、いつもその目線は私を探っていた。おおかた、そのうち本性を出して自身や仲間に牙をむくとでも思われているのだろう。私にとってはそれはいつものことで、会話が成り立つならそれ以上を求めるつもりはなかった。が、何故か今、私は彼と真正面から向かい合っている。
彼は私の前に立ち、じっとこちらの顔を見つめていた。なんだこの状況、と思いながら、私もまた彼の顔を見返す。私たちの間には、グロンダース平原の地形図が広げられている。
秋も深まる今節の末、この学園最大の伝統行事である鷲獅子戦が開催される。わざわざグロンダースまで行って学級対抗戦などしなくてもいいだろうと正直思うが、クロードが行く以上私が欠席するわけにもいかず。まあこれまでの戦闘同様、あまり目立たないように皆のフォローに入ればいいと考えていたというのに、あの先生ときたら。
『鷲獅子戦では、ナーヒードに戦略の主軸になってもらおうと思う』
教室で鷲獅子戦の話になったとき、さらりと仕掛けられた火計に一瞬思考が停止した。不覚。
驚いた顔の私たちを見回して、最近は少しずつ笑うようになってきた先生は言葉を続ける。曰く、私たち
『というより、他二つの学級はそれがもともと得手だと言うべきかな。帝国や王国の出身者が多いという背景も影響しているのかもしれない。集団として布陣を敷き、命令に従って戦うということに慣れているんだと思う』
確かに、同盟領出身の者が多いこの学級は、どちらかというと自主性に重きを置いている生徒が多いように思う。たとえば級長の言葉があっても全員が従うことなどまずあり得ないし、一致団結して物事に当たるという印象は他学級より薄い。
『統率というのは、集団として戦って勝利するためにはとても重要な要素になる』
つまり、私たちは勝利の鉄則のひとつである基本的な部分で他学級に遅れをとっているのだと、先生は言う。苦い顔をしている生徒も数名いるようだが、誰も反論する様子はなかった。
ひとり楽しそうな顔をしたクロードは、なるほどなぁと軽く言った。
『わざわざ自分たちに不利な部分で戦う必要はないよな、先生?』
そこでようやく、私を主軸にすると言った意味がわかった。統率で劣る
クロードの言葉に頷いた先生は、言った。
『確実に先手を打って、敵の陣形を崩す。教本通りの戦略を潰して、乱戦に持ち込もう』
そのために私の力がいるのだと、そのまっすぐな目が私を見つめる。敵の陣形を崩すには奇襲を仕掛ける必要があり、奇襲を成功させるには個の戦闘力と俊敏性、何より実戦経験がものを言う。それらを一番兼ね備えているのは私だと、先生は言った。
理屈はわかるのだが、正直言ってやりたくはない。模擬戦の勝敗なんてどうでもいいし、いつ誰が敵になるかもわからないのに、手の内なんか晒したくはなかった。
私の嫌そうな顔を見てほんの僅か苦笑らしい表情を浮かべた先生は、宥めるように言葉を重ねる。
『もちろんナーヒードだけに負担をかけるつもりはない。補佐も付けるよ』
いくらナーヒードでも先手を打つには機動力が必要になるからと、それを補うために先生はもう一人の名前を挙げる。それがローレンツ=ヘルマン=グロスタール、私の目の前にいる彼だった。
「……あの、私の顔より地形図見たら?」
先生の話が終わった後、彼の方から私に声をかけてきた。鷲獅子戦に向けて、話をしておきたいから時間が欲しい、と。仕方なしに指定の時間に教室に来てみれば、彼はグロンダース平原の地形図を広げて私を待っていた。地理についての話でもするのかと彼の言葉を待っていたのだが、彼はじっと私を見つめるばかりでなかなか口を開こうとはしない。
耐え切れずにそう声をかけると、ローレンツは我に返ったように口を開いた。
「ああ、不躾に失礼。まず何の話からすべきかと考えていたんだ」
やはり、大前提の話からしなければならないだろう、と何か納得したようにローレンツは頷く。そしてやけに真剣な顔で、またこちらを見返した。
「率直に言おう。僕は、君を警戒している。何らかの企みを実行してくるのではないかと」
「……それが何か?」
あえて言葉にされなくてもとっくにわかっていたし、警戒されないことの方が稀なのだから私としてはどうでもいい。そう返すと、ローレンツは不快そうに眉をひそめた。
「話は最後まで聞きたまえ。僕は君を警戒しているが、君が考えている理由からではない。君が《夜の民》であることなど、僕にとっては些末なことだ」
「……え?」
やはりそう考えていたのかと、ローレンツは憮然とした顔で言った。彼は、このフォドラにいる以上、私もまた守るべき対象の一人なのだと言ってのける。
「貴族が貴族として尊ばれるのは、ひとえに平民を守護するが故にであり、そして貴族として相応しい品位と振る舞いを自ら示すが故にだ。生まれや育ちを理由に相手を貶め、謂われのない疑いをかけるなど貴族のすることではない」
君も、この国に住まう平民には変わりないのだから、と。あまりにも予想外で、思わず二、三度瞬きを繰り返す。彼は私の反応を見ながら、丁寧に言葉を選ぶ。
「そうでなくとも僕は、この学校に入学して以来ずっと君を監視してきたが、君がいたずらに人を傷つけたり嘘を言ったりするのを見たことがない。自身を避ける人間に対しては自ら近づかないように気遣い、戦闘になれば仲間を守り、嘘どころか人を傷つけるような言葉も使わないだろう。むしろ僕は、君を誠実な人間だと思っている」
言われ慣れてない言葉が多すぎて、何を言っているんだこいつ、と反射的に思った。しかし私が反論するより先に、ローレンツはだが、と拳を堅く握りしめる。眉間にくっきりと浮かんだしわが、彼の苦悩を示していた。
「君は、あのクロードに雇われているというじゃないか!」
たっぷり三秒、思考が止まった。ローレンツは拳を振りながら熱弁をする。
「リーガン公が突如孫の存在を明らかにしたというだけでも怪しいのに、何やらガルグ=マクを歩き回っては何かを調べているようだし、何を考えているのか全く得体が知れない! しかも貴族としての振る舞いを解さず、公衆の場で昼寝をしたり自室で胡散臭い薬を調合したり! まったく、レスター諸侯同盟の未来の盟主であるという自覚がなさすぎる!」
得体が知れない、胡散臭い、貴族らしくない、その他クロードの受け入れ難いところを次々と並べていくローレンツ。その舌はまあくるくるとよく動き、彼が満足するまでその舌は止まらなかった。
そういえば確かにローレンツは私のことを見てる以上にクロードのことを見てたなぁと、どこか頭の隅の冷静な部分で思う。なるほど、ローレンツは見えない背景と普段の振る舞いの両方を理由に、クロードを信用出来ない、と。
「僕には同盟領を守り導く義務がある。だから簡単にクロードという人間を認めるつもりはないし、義務として監視をしなけれなならない。だからそのクロードに雇われているという君のことも、同時に監視せざるを得なかったのだよ」
一通り未来の盟主の胡散臭さを語り終えたらしいローレンツは、そう言って言葉を締めくくる。
数々のクロードへの不信の言葉を咀嚼して飲み込み、一応雇い主だし何かフォロー出来ることは、と言葉を探したが、私は最終的に目元を両手で覆った。
「……一切の否定どころか擁護も出来ない……」
「もちろんそうだろうとも。何せあのクロードだ」
僕の言いたいことはわかってくれたと思う、と言われて頷かざるを得なかった。つまり彼は、私自身について否定的な感情はないが、背後にクロードがいるとわかっているだけに警戒せざるを得なかったと言いたいのだ。まあ突然現れた盟主の孫とか怪しいに決まっているし、そのくせ人を食ったような態度で自分の本心を読ませないようなやつだ。そんなやつに雇われてる人間とか、仮にどんなまともな人に見えたとしても警戒するに決まっている。当たり前だ。
まさかこんな弁明をする日がくるとは、と頭の痛い思いをしながら、私は一応口を開いた。
「あー……信用してもらえるかわかんないけど、ローレンツ、私は確かにクロードと契約しているけど、その契約内容に絶対服従は含まれていない。なるべくはクロードに従うけど、私基準で道理に合わないことはするつもりはないよ」
「そうか、ならば僕は君を必要以上に警戒するつもりはない。君が良識をもちあわせていることは、これまでの様子を見ていても明らかだからね。僕は君を、同じ
君も信頼をしていない人間に背中を預けるのは不安だろうと、ローレンツはさらりと告げた。自分も信頼するから、お前も自分を信頼しろと。安心して自分に補佐を任せろと、ともに勝利を目指そうと、彼は胸を張って言う。
その言葉には些かの含みも見えず。どうやら本当に心からの言葉を述べているらしい。
何て馬鹿正直なやつだと、誇り高い貴族を自称する彼を見つめた。こんな調子で、闇だらけの貴族社会を泳いでいけるのだろうか。しかし、それで己を曲げるくらいなら、彼は自ら破滅への道を選ぶのだろう。何故だかそう思えた。
どうやら私も、彼のことは信頼に値する人間だと判断しているらしい。
「……わかった、ローレンツ。鷲獅子戦では背後を気にせず戦うから、フォローをよろしく頼むよ」
「無論だとも。必ずや君を守ってみせよう」
迷いなく差し出された手に、応える。ローレンツは満足げに頷いて、それ以降は何事もなかったように地形図を指しながら鷲獅子戦の話を進めた。私も平静を装って聞いていたが、それでも内心の動揺を抑えるのにわりと必死だったことは否定できない。
私を守るなんて言葉を聞いたのは、二十年近く生きてきた中でこれが初めてだ。そしてきっと彼が最初で最後なのではないかと、そう思えてならなかった。